第28話 脱線
これは診療所で働いていた中年看護師から聞いた話なんだけど、と前置きして女将さんが語り出す。
亡き父の友人であり診療所の支援者でもある杉山は、浩一をよく自宅に招いたり酒を飲みに連れ出したりしていたらしい。
世話になっている人の誘いということで浩一も断れずに出かけていたが、その際には必ずといっていいほど診療所の受付をしている杉山の娘が同席していたようだ。
看護師から見ても娘が浩一に好意を抱いているのは明らかで、浩一も次第にその親子との距離を縮めていった。
そして、とうとう浩一が間違いを起こしてしまったということだった。
「彼も家庭を壊すつもりはなかったみたいだけれど、浩一さんも恭子ちゃんも日々の仕事と生活に追われていく中で、お互いへの関心が少し薄らいでしまっていたのかもしれないわね。その隙を杉山親子に漬け込まれたんじゃないかしら。休日を家族水入らずで過ごしていたところに杉山親子が乗り込んできて、既婚者の身であっても大事な娘に手をつけたのだから責任を取ってくれって、離婚して娘と再婚することを迫ったそうよ」
「そんな……!」
人脈や金銭面で散々世話になっている杉山に、浩一は逆らうことができなかった。
病院のことは自分が口出しするまいと内情を全く知ることのなかった恭子は、気が狂わんばかりに取り乱した。
「それでも、恭子ちゃんにはレイちゃんがいたから……。あの子と二人で沖縄に戻って人生をやり直そうと考えたみたいね。けれども、浩一さんも杉山さんも、レイちゃんを東京に残すように恭子ちゃんに迫ったの」
浩一にとって礼隆は可愛い一人息子であると同時に、先々代から地元民に信頼される松本診療所の後継者でもあった。
杉山も、浩一と娘が結婚しても子供が生まれるとは限らないから、保険で礼隆を手元に残すよう浩一に進言した。
その要求だけは受け入れられない、慰謝料を放棄しても礼隆を引き取る方を選ぶと恭子は抵抗したけれど、資産家の杉山は彼女にあることを提案した。
それは跡継ぎとなる礼隆のために、診療所を全面的に改装し、最新設備を整えて病院を立派にするというものだった。
「なんて身勝手な話なんでしょう……。礼隆君にとっては、お父さんの新しい家族と過ごすより、お母さんと沖縄で暮らした方が幸せだったかもしれないのに……」
両親の離婚は幼い礼隆の心をどれだけ傷つけたことだろう。
子どもにとって、最愛の母親と離れ離れになることはどれだけ辛いことだろう。
涙ぐむ瞳子を前に、女将さんは口につけた湯呑みを離して長いため息を吐いた。
「そうね。どうするのがレイちゃんにとって幸せかなんて、誰も考えていなかった。……ううん、恭子ちゃんは自分なりに考えて悩んだのよね。そして彼女はこう結論づけたの。レイちゃんにとっては、沖縄の母子家庭で育つよりも、東京で病院の跡取り息子として恵まれた環境でしっかりした教育を受けた方がいいんじゃないかって。レイちゃんをまっすぐ続く人生のレールから脱線させないために、彼女は苦しみながら身を引いたのよ」
恭子が一人で沖縄に戻る前日、恭子と礼隆は二人での最後の夕食をとるためにこの店を訪れた。
母親が翌日発つことを知らされていなかった礼隆は、大好きなおでんを好きなだけ食べていいと言われていつも以上にはしゃいでいた。
ひとしきり食べ終わると、「お母さんは明日もお仕事でしょ? そろそろ家に帰ろうよ」と、短期間で急激に痩せこけた母親の体調を気遣っていたと言う。
「朝起きたら大好きなお母さんがいなくなっていて、相当なショックだったでしょうね……。しかも、後妻として入ってきた杉山さんの娘はレイちゃんの面倒を十分にみなかったみたい。そりゃそうよね、彼女にとっては前妻との間の息子なんて邪魔でしかないんだから。それでも、浩一さんがレイちゃんを愛していたのは救いだった。奥さんの目を盗んで、レトルト食品ばかり食べさせられてるレイちゃんをこの店にこっそり連れてくることもあったのよ。『この子に美味くてあったかいもの食べさせてやってほしい』ってね」
女将さんの話を聞きながら、瞳子はインフルエンザにかかった時のことを思い返していた。
「礼隆君のお父さんにもお会いしたことはありますが、彼のことを気にかけている様子が窺えました。なのになぜ、礼隆君は医者の道に進まずに、お父さんとも距離を置いてしまったんですか?」
瞳子の問いに、女将さんは再び長いため息を吐いた。
その様子を見て、これから礼隆の心の傷のさらなる深部に触れていくのだという緊張が瞳子の背筋に走る。
「あの子が高校生になったばかりの頃だったかしらねえ……。浩一さんと再婚相手の間に男の子が生まれたのよ。杉山さんとその娘にとっては、待望の男の子が」
「え……っ。ということは──」
「そう。杉山親子の中では、その子が松本クリニックの後継者に代わったのよね。有名進学校に入学して医学部を目指していたにもかかわらず、保険の役目を終えたレイちゃんは正真正銘の邪魔者でしかなくなった。浩一さんは変わらずレイちゃんに跡を継がせたかったみたいだけれど、改装費用の大部分を負担した杉山さんには逆らえない。大人の都合に板挟みになったレイちゃんは、とうとう家を飛び出して半年間消息不明になったのよ」
ああそれで──と瞳子は合点がいった。
以前礼隆自身の口から、高校時代に家出をし風俗嬢のヒモとして住処を転々としていたと聞いたことがある。
高校生でなぜそこまで堕ちた生活をしていたのか、その時は想像も及ばなかったが、自分の居場所も存在意義もなくなった彼が自暴自棄になっていたのが今の話から理解できた。
「本当はね、医者を目指しながらも、レイちゃんは恭子ちゃんと暮らしたいってずっと思っていたみたい。夫に裏切られ、家庭を奪われ、最愛の息子を残してきた心労から彼女は心身共に壊してしまったから、自分が寄り添うことで母親を助けたい気持ちもあったんでしょうね。けれども、恭子ちゃんのお父さん……つまりおじいさんが、レイちゃんには東京に踏みとどまって医者になるように励ましていたらしいのよ。それが母親の望む将来であると聞かされて頑張ってきたのに、その努力も水の泡になったあの子がどれほど傷ついたかと思うと胸が痛むわ。頑固なおじいさんも、家出の一件でようやくあの子の苦しみを知ったみたい。警察に保護されたレイちゃんは、家を出て一人暮らしをさせてもらうことと医学部以外へ進路変更することを要求して、大人達はそれを受け入れたの。大学卒業後に沖縄で恭子ちゃんと暮らすことも、今では誰も反対していないみたいよ」
きりきりと胸を締め続ける痛みに、瞳子の口から小さな呻き声が漏れた。
“この街には嫌な思い出も多いし、戻ってくるつもりはないよ”
そう苦笑した礼隆の寂しげな横顔を思い出す。
自分が生きていくための場所も意味もなくなったこの街に、礼隆が戻りたいと思わないのは当然のことだ。
“輝きを失って色褪せて、やがてみすぼらしく朽ちていく感情なんて俺はいらない”
そう言い放った礼隆の冷ややかな決意に満ちた眼差しを思い出す。
大人達の都合を前に愛情が脆く壊れていくのをただ見ていることしかできなかった彼が、人の気持ちを信じ続けることができないのも頷ける。
でも。
それでも──
瞳子のことを未練と言った彼の孤独な心に、温もりと安らぎを求める気持ちがわずかにでも残っているのなら──
「女将さん。色々教えてくれてありがとうございます。私……」
「へい、らっしゃい」
決意を込めた瞳子の声を、威勢のよい店主の声が遮った。
暖簾をくぐって入ってきた数人のグループ客を見やり、女将さんも「いらっしゃい」と笑顔を浮かべる。
「長くなっちゃったけど、まあそんな感じよ。結局レイちゃんはまっすぐに続くはずの線路から脱線させられてしまったの。これからのあの子に必要なのは、幸せに向かって伸びる線路を新しく自分で作っていくことなんだと思うわ」
そこまで言うと、女将さんは自分の湯呑みを持って立ち上がり、慌ただしく草履を履いた。
「あの子が前に進んでいけるのを、私も心から祈っているの。瞳子さん、どうぞよろしくお願いしますね」
先ほど口に出さなかった思いを女将さんはちゃんと汲んでくれた様子で、瞳子の肩をぽんと軽く叩いてカウンターへと戻っていく。
その後ろ姿を見届けてから、鼻の奥をつんと刺激する涙を併せ飲むように焼酎をあおり、瞳子は勘定を済ませて店を出た。
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