第27話 線路

「へい、らっしゃい」


“おでん” と書かれた赤提灯の横に下がる暖簾をくぐると、カウンターの中で黙々と仕事をこなす親父さんが遠慮がちに店内を覗く瞳子をちらりと見た。


 地元客の話し声が賑やかな店内は、カウンターが一席と小上りが一卓空いている。

 一人客ならばカウンターに座るべきなのだろうが、「こちらでもいいですか?」と瞳子が小上りを指さすと、女将さんが「どうぞ」と愛想よく通してくれた。


「焼酎のお湯割りと、おでんの盛り合わせをください」

 おしぼりを持ってきた女将さんに注文すると、瞳子の顔をちらと見ながら彼女が尋ねてくる。


「あなた、確か前にレイちゃんと店に来てくれたことあるわよね?」

「覚えていてくださったんですか?」

「ええ、そりゃあ我が子みたいなレイちゃんが連れてきたひとだもの。今日はおひとり?」

「はい。あの……実は、礼隆君のことで、ちょっとお聞きしたいことがあって」


 瞳子がそう切り出すと、女将さんは僅かに身構えたような表情で彼女を見た。


「……そう。じゃあおでん食べながら待っていてちょうだいね。もう少ししたら店も落ち着くと思うから」

「お忙しいのにすみません」


 頭を下げると、女将さんは「いいのよ」と笑顔で応えてカウンターの中へと入っていった。

 ほどなくしてアルバイトの男の子が運んできたお湯割りを口に含み、緊張で強ばる喉にごくりと通す。


 リサと別れたその足で瞳子がこの店を訪れたのは、リサに引かれた “一線” の正体を知りたかったからだった。


 それは目に見えるものでなければ、本当に存在するものなのかもわからない。

 けれども、礼隆が心に傷を抱えながらずっと足掻いてきたこと、そんな彼と “同じ傷” を持っているのをリサ自身が心の拠り所としていることは確かだ。


 礼隆がもつ “傷” の正体を知らないことは、彼への思いを頼りに前進しようとする瞳子の不安を無闇に駆り立てた。


 礼隆に直接確かめたかったが、心の内をなかなか見せない彼が全てを瞳子に話してくれるかはわからない。


 踏み込もうとして拒まれたら──

 一方のリサが本当に彼に受け入れられているとしたら──


 心に拡がる闇の森を彷徨う自分は絶望の谷底へと落ちてしまうに違いない。


 焦燥に追い立てられて礼隆のアパートへ向かったものの、先に店を出たリサが彼を訪ねているかもしれないと思い至ったとき、その恐ろしさに足が竦んだ。

 そんな瞳子の頭をよぎったのは、礼隆が幼い頃から馴染みだったというこのおでん屋の存在だった。

 ここの店主や女将さんならば、礼隆が抱える傷というものに心当たりがあるかもしれないと考えた。


 彼の痛みを深く知りたい。

 同じ痛みを抱えることはできなくても、彼の心にもっと寄り添いたい。

 ほんのひとときのことだとしても、互いの心が繋がったことの意味を見出したい──


 そんなことを思いながら少しずつ杯を飲み進めていると、客あしらいの一段落した女将さんが瞳子の待つ小上がりへと戻ってきた。


「お待たせしてごめんなさいね。……それで、レイちゃんのことで聞きたいことって?」

「突然なんですが、礼隆君が抱えている “傷” のことを教えていただきたくて……。このお店に来れば、彼のことをもっと深く知ることができるんじゃないかと思ったんです」

「……もしかして、レイちゃんに何かあったの?」


 心配する女将さんに、瞳子は沖縄に住む彼の母親が自殺未遂をしたこと、そのきっかけを自分が作ったのだと礼隆が自身を責めて傷ついていたことを伝えた。


「そう……。恭子ちゃんが、そんな大変なことに……」


 女将さんは涙を滲ませ言葉を詰まらせたが、しばし後に居住まいを正して瞳子を見つめた。


他所様よそさまの家庭のことをぺらぺら喋るもんじゃないのはわかってるけれど、これでも商売柄ひとを見る目だけはあってね。あなたが真剣にレイちゃんのことを思ってここに来たのはわかるの。だから、私の知ってる限りのことでよければ話すわね」


 ちょっと待って、と女将さんは席を立ち、自分の湯呑みを持ってきた。いできた日本酒を口に含むと、何から話そうかしらねえとくうを見つめた。


「瞳子さんは、あの子の名前の由来を聞いたことある?」

「いえ……」

礼隆れいるってのは、あの子のお母さん……恭子ちゃんがつけた名前なのよ。あの子が生まれたとき、親子三人は幸福の絶頂だった。だから、この幸せが線路のように、ずっとずっと先まで真っ直ぐ続いていきますようにって──」


 女将さんから聞いた礼隆の幼少時代は、彼の名前に込められた願いのとおり、温かく幸せなものだったようだ。


 学生時代からの恋人であった母親の恭子と父親の浩一は、浩一が研修医として大学の附属病院に勤めている時に結婚した。

 その後すぐに礼隆を授かったが、浩一は激務の上に月給も少ない頃で、恭子は家計を助けるために勤務先で取得した育休もそこそこに切り上げ、礼隆を保育園に預けながら働き続けたようだ。

 ここの店主が地元の少年野球チームのコーチをしていて浩一も教え子であったという縁があり、親子三人は外食というとこの店によく来ていたと言う。


「元々恭子ちゃんは大学卒業後は沖縄に戻るつもりだったらしいけど、浩一さんが熱烈なプロポーズをして引き留めたって話でね。南国育ちでおっとりした人だったけれど、仕事と育児の両立を必死で頑張っていた。何年暮らしても東京には馴染めないって言ってたけど、家族でここに来る時にはリラックスして幸せそうな顔してたわねえ。忙しい中でも両親はレイちゃんにたくさんの愛情を注いでいて、素直でいい子に育ってたわ。内向的な恭子ちゃんも私達には心を開いてくれて、浩一さんが夜勤でいない時でもよくレイちゃんと二人でこの店に晩ご飯を食べに来ていたのよ」

「そうなんですか」


 懐かしそうに口元を緩ませていた女将さんの瞳が不意に翳る。


「それが、浩一さんのお父さんが急逝したのがきっかけで、家族の幸せがだんだんと壊れていったのよね……」


 浩一が臨床研修を終え、大学附属病院の内科医師として勤務し数年が経った頃、地元で小さな診療所を開いていた浩一の両親が相次いで亡くなり、浩一は大学病院を辞めて一時閉鎖した診療所を急遽引き継ぐことになった。

 その時、亡くなった父の旧友で地元の資産家である杉山という男性が人脈や経営的な面で様々な支援をしてくれたそうだ。

 病院経営のことなど全くわからない恭子は診療所の運営が軌道にのるまで外で働き続けることになり、診療所には長く勤める中年の看護師のほか、杉山の娘が受付事務として入ることになった。


「そしてこれは私の憶測なんだけどね……。社会的地位が高くて穏やかな性格の浩一さんを、杉山さんは初めから自分の婿にしたかったんじゃないかしら」


 女将さんの呟きに、黙って話を聞いていた瞳子が顔を上げた。


「それってどういうことですか……?」


「デキちゃったのよ、浩一さんと杉山さんの娘がさ。恭子ちゃんがレイちゃんを学童保育に預けて外で働いてる間にね」

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