第26話 一線
週末の夜を楽しむ人々に混じり、仕事帰りの瞳子はターミナル駅に到着する快速電車に乗り込んだ。
いつもどおり電車を二本やり過ごしたおかげで座席を確保でき、
車内はすぐに乗客で溢れかえり、斜め下に落としたままの瞳子の視界の中で無数の足が右往左往する。
目の前にロングブーツの足が固定されて間もなく、瞳子はふと視線を上げて「あっ」と小さく声を漏らした。
「どうも」
剣のある声音。冷ややかに落とされる視線。
その主は、以前礼隆の部屋に乗り込んできたリサという若い女だった。
「話があるんだけど、あの駅で降りてもらえる?」
“あの駅” というのは礼隆のアパートの最寄り駅のことだろう。
瞳子が返事を躊躇ううちに列車は出発し、二人の間の張りつめた空気が車両と共に揺れ出した。
「どうして私がこの電車に乗ってるって……」
突き刺さる視線を
「前にレイルが看病したインフルエンザ患者っていうのもあんたでしょ? だとしたらこの沿線に住んでいるのは間違いないと思って、ここ何日か駅で張ってたから」
そう言えば、通勤途中で高熱を出して礼隆に助けられ彼の部屋で目覚めたとき、彼は誰かに電話をしてその日の待ち合わせをキャンセルしているようだった。
あの時彼と約束をしていたのもリサだったのか。
先々週の金曜日、母親の自殺未遂で傷ついた礼隆と体を重ねた日にも彼女の逢瀬を自分が奪っているのだから、彼女が恨みに思うのも無理はない。
指定された駅に着く直前、電車のドアに向かうリサに続き、覚悟を決めた瞳子も黙って立ち上がった。
***
「レイルとよく来る店なの」
礼隆のアパートに向かう側とは反対の階段を降り、駅前通りにあるカフェバーの前で歩みを止めたリサがそう告げた。
礼隆は彼女と自宅でセックスする以外の時間を定常的に過ごしているということだろうか。
針で刺されたように小さな痛みが瞳子の胸を刺激する。
こじんまりしているが雰囲気の良い店内の最奥の座席に、リサと瞳子は向かい合って腰を下ろした。
すぐに店員を呼んだリサがブレンドコーヒーを注文し、瞳子も「同じものを」と言い添える。リサは店員が下がるといきなり本題を突きつけてきた。
「今さらレイルに踏み込んでどうするつもり?」
「…………」
「レイルのママのこと、知ってるんでしょ? セフレの立場を
「そういうわけじゃ──」
「たまたまレイルの片鱗を知ったくらいで、厚かましいんじゃないの? 他人に踏み込まれたって、彼の抱える痛みがどうにかなるものじゃないんだから」
リサの無遠慮な物言いに、戸惑い揺れる瞳子の心に小さな棘が浮き立つ。
“他人” という線引きを持ち出す彼女は、自分は “他人” ではないとでも言いたいのだろうか。
そう問いたい一方で、彼の過去を偶然知ることになった自分と違い、リサが礼隆の家庭環境を元々知っていたらしき事実に少なからず衝撃が走る。
“レイルの中で、あたしだけは特別だって思ってた”
礼隆の部屋に乗り込んできたリサは目に涙をためて彼を
今になってその座を脅かされたが故に自分を牽制しているのだろうと瞳子は察した。
「厚かましく彼に踏み込んでいるつもりはないわ。私達はただお互いが望むように一緒にいるだけよ」
たとえ終わりが定まっているとしても、今この時にお互いが求め合っていることは確かだ。
眼差しに滲み出そうな不安をその自負で押さえ込み、瞳子はリサを真っ直ぐに見つめてそう言い切った。
一瞬目を見開いたリサだったが、店員がコーヒーをテーブルに置く間に心持ちを立て直した様子で、カップをゆっくりと口に運んだ。
同じようにコーヒーを口に含んだ瞳子がカチャリとカップをソーサーに置いた音を合図に、再びリサが攻勢を仕掛ける。
「レイルのママ、彼のこと思い出したらしいね」
「え……っ」
「昨日レイルから聞いたのよ。お見舞いに来たおじいさんに、ママが “礼隆はどこ?” って尋ねたって」
今週の月曜日、礼隆から沖縄で母を見舞った時の話は聞いていた。
意識が戻ったといっても目は虚ろでぼんやりしていて、手を握る彼をはっきり我が子だとは認識できていない様子だったらしいが、少しずつ快方に向かっているようだ。
「そうなんだ。よかった……!」
「へえ……。やっぱりあんたの方には連絡行ってなかったんだ?」
「…………っ」
言葉を詰まらせた瞳子を見て、リサはグロスの光る唇をにやりと引き伸ばした。
動揺する瞳子の眼差しを勝ち誇った視線で捉えると、きつい口調で決然と言い渡す。
「中途半端に事情を知ったくらいで、あのレイルが深く踏み込ませるわけないものね。彼の痛みを本当にわかってあげられるのは、同じ傷をもつあたししかいない。これ以上こちら側に踏み込んでこないで!」
リサは礼隆の存在を自分の側に強引に引き寄せると、瞳子との間に見えざる線をきっぱりと引いた。
「同じ傷ってどういうこと?」
「あんたには関係ない。知ったところであんたがあたし達の痛みを理解することなんてできるわけない」
「……あなたが私に礼隆君の心に踏み込ませたくないと思っているのはよくわかったわ。あなたの言う “同じ傷” が何を指すのかはわからないけれど、私には彼が好きだっていう気持ちだけで十分。全部を知っているわけじゃなくても彼の心の痛みをやわらげることはできるはずだし、これからもそうしていきたいと思ってる」
飲み込めるはずのない相手の主張を
間近に迫る別れのその後を見通したくて闇の森を彷徨っていたが、自分の思いを宣言したことで足元が明るく照らされていく。
今はこの光を頼りに進んでいけば、リサの言葉に立ち止まり
「よく知りもしないくせに心の痛みをやわらげるなんて、聖母にでもなったつもり?」
リサはそう
ブランドもののハンドバッグから長財布を取り出し、千円札を一枚テーブルの上に置く。
「まあ、どうせレイルが沖縄に行くまでの間なんだろうから、せいぜい癒してあげればいいじゃない。男好きしそうなその体で」
唾を吐きかけるように言葉を残し、リサはロングブーツのピンヒールをカツカツと鳴らして店を出ていった。
年若い女が向けてきた稚拙な敵意に怖気付くつもりはない。
“私には彼が好きだっていう気持ちだけで十分”
自らが言葉にした礼隆への思いが、歩き出す足元を照らしてくれる。
けれども──
リサが自分との間に何度も引こうとした一線の存在が、瞳子の心に焦燥を芽生えさせた。
彼女はセックス以外の時間も礼隆と共に過ごしているのだろうか。
彼女は礼隆と同じ痛みを抱えて、互いに傷を癒しあっているのだろうか。
彼女は礼隆の沖縄行きによって関係を断ち切られたりはしないのだろうか。
礼隆にとって、彼女は本当に自分とは一線を画した存在なのだろうか──
会計を済ませ店を出た瞳子は駅の階段を上った。
改札口を通り過ぎ、反対側の階段を下りて礼隆のアパートへ向かう通りと足が向く。
何かに追い立てられるように、歩調がどんどんと速くなる。
曲がり角まで来たところで、我に返った瞳子はぴたりと足を止めた。
自分より先に店を出たリサが礼隆のアパートに向かっている可能性に思い至ったからだった。
訪ねてきた彼女を礼隆が部屋に迎え入れていたら──
彼女を受け入れる礼隆を目の当たりにしてしまったら──
見えないはずの一線が姿を現すことを瞳子は恐れた。
せっかく照らされた足元が再び暗闇に沈むことを恐れた。
踵を返し、来た道を戻り、駅の階段を上る。
改札を通り、瞳子は自宅へ向かうのとは反対側のホームへと下りた。
程なくして滑り込んできた各駅停車の車両に乗り込むと、二つ手前の駅まで戻る形で下車をした。
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