第25話 彷徨

 暖かく和やかな空気に満たされた店を出ると、冷えた夜風が瞳子の頬を撫で、彼女にかかる魔法を解いた。


 楽しいひとときだった。

 心地よい空気だった。

 だからこそ、この安らぎに甘えることはやはり許されないとも思う。


 昼間感じられた春の気配は夜にはなりを潜め、冷気にあてられた心が再び固く強ばっていく。


「マジシャンズバー、思ってた以上に楽しかったですね!」

「ええ……」

「あんな間近で見ていても、タネがちっともわからないんだもんなあ」

「……圭介さん」

「会社の忘年会までに特訓して、僕も余興でマジックを披露しようかな。そうだ! 今度マジックグッズのお店を二人で覗いてみませんか?」

「圭介さん……っ」


 魔法の効力を何とか引き延ばそうとする越川を瞳子が遮った。

 はっとした越川の眼差しが頼りなげに揺れる。


「あ……。す、すみません。あまりに楽しかったので、つい調子にのっちゃって」

「いえ……。私も今日は本当に楽しかったですし、圭介さんの心遣いには感謝しかありません。だからこそ、やっぱりこのままじゃ駄目だと思うんです」

「瞳子さん……。駄目って……」

「圭介さんは優しすぎます。このままじゃ私、あなたを都合良く繋ぎ止めてしまう」


 礼隆との別れが決定的な状況で越川から与えられる安らぎを手放し難く思うのは、ただの弱さだ。

 彼の愛情や努力に応えたが故の選択でないのならば、いわゆる「二股」の現状を厚かましく利用しているに過ぎない。

“狡い女” の中にある一欠片の純情すらも手放してしまいそうで、瞳子はその安らぎにこれ以上触れてはならないと律することに必死だった。


「……どんな形でもあなたが繋ぎ止めてくれるなら、僕は本望ですよ」

「でも今のままじゃ、圭介さんの気持ちに応えたことには……」

「恋という感情は永遠に同じ形に留まるものじゃないと思うんです」


 図らずも礼隆と同じ恋愛観を口にした越川に、瞳子は驚いて顔を上げた。

 しかし、瞳子を突き放すように決然と言い放った礼隆とは対照的に、越川の口調には彼女を包み込むような温かさがあった。


「たとえ燃えるような恋を実らせたとしても、その感情は永遠に続くわけじゃない。長い人生を歩む上で最終的に必要なのは、相手のことを大切に思う気持ちと相手を信頼する気持ちなんじゃないかなって」


 社会に出て自立し、そろそろ人生のパートナーを見つけたいと考える局面フェイズにある男女だからこそ共感できる価値観。


 礼隆のように若ければ、後先を考えず激情に身を任せ、その鮮烈な恋の記憶を胸に焼き付けるだけで満足できたのかもしれない。

 けれど瞳子が求めていたのは、お互いを深く理解して信頼できる、永らく心が繋がっていられるパートナーだったはずだ。


「もし “彼” と瞳子さんの絆が永遠のものになるならば、僕はあなたを諦めます。けれど瞳子さんの様子からして、それは望めないんじゃないですか?」


「……そ、それは──」


 礼隆への思いと自分が求めていた未来の形との歪みに足を取られたままの瞳子に、越川は手を差し伸べる。


「瞳子さん。どうか一人で苦しみを抱え込まないでください。僕と彼を天秤にかけてほしいと頼んだのは僕なんですから、都合良く利用してくれていいんです。もし僕といることで少しでも心が軽くなるならば、どんな形でも僕はあなたの傍にいますから」


 惜しむことなく注がれる越川の優しさに、瞳子はついに嗚咽を押さえられなくなった。

 人目を憚る余裕もなく路上で泣き出した瞳子を、越川もまた人目を憚ることもなく宥めて抱きしめる。


「安心させるつもりが泣かせちゃいましたね。お詫びに家まで送りますね」


 胸に触れる瞳子の頷きを感じ取った越川が体を離し、彼女の肩に手を回してゆっくりと歩き出した。

 街灯の頼りない明かりが涙で滲み視界を白く遮る中、瞳子は越川の歩みに導かれやっとのことで駅へと向かった。




 震える肩を抱く手は、焦がれる相手のものではない。

 けれども、優しく触れるこの大きな手に赦されることが今はありがたい。




 弱い自分を、不誠実な自分を、越川はそのまま受け止めてくれる。

 激しく求め合う鮮烈な恋ではなくとも、安らぎに満ちた空気を与えてくれる。


 そのことに確信が持てるのならば、いつか越川と歩む未来を選べる日がくるのだろうか。

 礼隆に強く魅かれていても、それはいつか思い出となって、地に足のついた人生を見据えることができるようになるのだろうか。




 電車を乗り換え、自宅の玄関前に着く頃には瞳子の涙も乾き、越川を見上げる眼差しも落ち着きを取り戻していた。


「結局送っていただいてすみません。せめてものお礼に上がってお茶でも……」

「いえ、瞳子さんもだいぶ落ち着いたみたいだし、今日はこのまま帰りますよ。お礼をと言ってくれるなら、また来週ご飯にでも付き合ってください」

「……はい」

「それじゃ、おやすみなさい」

「ありがとうございました。おやすみなさい」


 部屋の明かりをつけ、メイクを落としてバスタブに湯を張る。

 出掛ける前には鉛のように重かった体が、今はだいぶ動かせるようになっている。


 温かい湯に浸かりながら越川の言葉を反芻すると、冷たく強ばっていた心や体が少しずつ弛緩していった。


“どうか苦しみを一人で抱え込まないでください”

“もし僕といることで少しでも心が軽くなるならば、どんな形でも僕はあなたの傍にいますから”


 相手や自分に誠実であるためには、感情に忠実に行動するべきだと思っていた。

 礼隆に強く魅かれているならば、越川との繋がりを断つことこそ取るべき選択なのだと。


 そんな道徳観に縛られて越川と会うことを重荷に感じていたのは、ただの独り善がりだったのかもしれない。


 夜の森を彷徨うごとく向かうべき方向が見えなくても、時は無情に流れていくのだ。

 今はとにかく歩き出してみるほかはない。


 バスタブに張った湯に、瞳子はばしゃりと顔を浸けた。

 湯の中で思いきり息を吐き、吐ききったところで顔を上げた。

 ふうっと深呼吸して息を整え、「よし」と小さく声に出してみる。

 湯から上がった時には、心も体もさらに軽くなったような気がした。


 ***


 翌月曜日の夜も礼隆と体を重ね、喜びと虚しさを抱えながら帰宅する。

 火曜日の夜に越川と会食し、穏やかな時間を過ごすことで心の均衡を取り戻す。


 あと二、三回繰り返せば、こんな不安定な日々は終わる。


 礼隆との繋がりが断たれたとき、自分はどうなるのだろう。

 心の行き先が見つからないまま、闇に支配される森を歩き続ける。




 そんな風に彷徨う瞳子を追い立てる “彼女” が現れたのは、土曜日の夜のことだった。







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