第22話 後悔

「…………」


 口を半開きにして呆然とする越川に向かって、瞳子は礼隆とのこれまでの経緯を正直に語った。


 過去の失恋の一因となっていた心の鎧を脱ぎ捨て、自らの望む恋愛を手に入れるために礼隆と体だけの関係を結んだこと。

 越川と交際を始めたときに、彼との関係を一度は解消したこと。

 けれども偶然の重なりによって彼の心に触れ、自分の感情を抑えきれなくなってしまったこと。


 常に誠実に接してくれた越川に、自分もまた嘘偽りなく向き合うべきだと考えた。

 取り繕う言葉は一切差し挟むべきではなくて、不都合な部分まですべてさらけ出した上で詫びなければならないと思っていた。


「私は圭介さんに大切にしていただく資格のない最低な女なんです。だから遠慮なく罵って怒りをぶつけてください。そうして少しでも気が済んだなら、どうか今度こそ圭介さんに相応しい人と幸せに……」


「あなたが本当に最低な人だったら、僕ももっと楽だったかもしれません……。けれど、あなたはとても誠実だ」


 正座をし、カーペットに髪の毛先が触れるくらいに頭を下げていた瞳子の言葉を越川の震える声が遮った。


 自分のどこが誠実だと言うのだろう。

 瞳子は思わず顔を挙げて越川の顔を窺った。

 視界に溜まる涙越しに見える彼は、寂しげな笑みを薄くたたえている。


「瞳子さんはとても誠実な人です。……残酷なほどに誠実だ」

「圭介さん……」

「僕はね、今回のことは最後まで騙されたままでいようと思っていたんですよ」

「え……っ?」


 淡く綻んでいた越川の口元がより明瞭な笑みを形づくる。


「こないだタクシーで戻ってきた二人を見て、ただならぬ雰囲気を感じたんです。瞳子さん、明らかに様子がおかしかったし、自宅から救急センターに向かったって割にはかっちりした服着ててちょっと不自然だったし」

「…………」

「直感で前カレかな? 今までずっと一緒にいたのかな? って思ったんです。でもそれをあの場で問いただしたら、あなたが何もかも認めてしまいそうで怖かった……。何も気づかない振りをして帰宅したあの晩は、僕も悶々としました。一週間の出張で瞳子さんと離れている間も、自分がどうするべきかずっと悩んでました。けれど、僕は決めたんです。瞳子さんが僕に嘘をついてくれるのなら、僕は騙されていようって」


 細められた越川の瞳が潤んだ。

 それでも彼は微笑を崩すことなく瞳子に向け続ける。


「誠実でなくていい、狡くてもいいから、僕と彼を天秤にかけ続けてほしかった」


 越川の言葉がこれまでにない重みをもって瞳子の心にぶつかり揺さぶった。

 純真無垢で潔癖なはずの越川もまた瞳子に “狡さ” を求めていたのだ。

 彼は頬をつたう涙を拭うこともせず、瞳を大きく揺らす彼女をじっと見据えて言葉を続けた。


「でもね、瞳子さんが狡い女になんてなれるわけがないのもわかっていたんです。見た目よりもずっと臆病で不器用で、それでも自分や相手に誠実に向き合おうとするあなただからこそ、僕は好きになった。だから、そう簡単にあなたを諦めたくはない。同じ過ちを繰り返したくはない……」

「同じ過ち……?」


 テーブルの上に置かれたティシュを抜き取り、濡れた顔をようやく拭った越川が居住まいを正した。


「二年前になりますか……。僕は三年間お付き合いしていた女性と別れました。彼女から別れを切り出されたんです。『他に好きな人ができた』と」


 越川の独白が瞳子の心を抉る。

 自分はたった今、彼が過去に受けた心の傷をむごたらしく切りつけてしまった。

 彼の痛みの深さを知り、瞳子の顔が苦悶で歪む。

 そんな彼女を前にして、越川は鮮血ほとばしる傷を淡々と曝け続けた。


「当時、僕は初めてリーダーとして任されたプロジェクトに手一杯で、彼女のことを十分にケアしなかった。信頼関係を築いた彼女ならば、僕の現状を理解してくれると甘えていたんです。けれども、男と女とでは時間の流れ方や将来の見通しが違う。同い年だった彼女は、三十歳を目前にして僕に見切りをつけたんです。僕にも結婚の意思があったことを慌てて伝えましたが、もう遅いと言われました。僕は彼女に辛い思いをさせた代償として別れを受け入れました」


 自分への細やかな心遣い、そして常に真っ直ぐに気持ちを伝えてくる越川の誠意は、過去の過ちを繰り返すまいとする彼なりの努力の体現であったことに瞳子は初めて思い至った。


 越川もまた過去の恋で痛手を負い、自らを変えようとしていたのだ。

 瞳子と同じように────


「半年後、共通の友人から彼女が結婚したと聞きました。別れてからも未練を燻らせていた僕は、それを聞いてようやく諦めがついたんです。彼女が幸せになったんなら、自分の苦渋の決断は間違っていなかったのだと。……ところが、さらに半年が経った頃、彼女から一通のメールが来ました。『今さらながら自分の選択を後悔している』と」


「え……っ!?」


「離婚調停中だという彼女のメールには正直激しく揺さぶられました。『結婚を焦ったことを後悔している。圭介を最後まで信じ抜くことができなかった自分が愚かだった』と、悔やむ言葉ばかりが並べられていましたから……。僕は彼女を支えるべきか悩みました。けれども、自分なりに気持ちの整理がついた後に彼女の手を再び取ることがどうしてもできなかったんです。薄情な自分に嫌気が差しましたが、それ以上に僕の心をさいなんだのは激しい後悔でした。なぜ簡単に彼女を諦めてしまったのだろう、あの時僕がもっと粘っていれば、僕も彼女もここまで苦しむことはなかったんじゃないかと考えたんです」


「圭介さんは……私もまた彼女のようにこの選択を後悔することになるだろうと思っているんですか?」


 越川の独白を聞いていた瞳子は思わず彼にそう問うた。


 礼隆とたとえ心が繋がったとしても、彼に自分を幸せにするつもりがないことは十分にわかっている。


「圭介さんの後悔はすごく共感できますし、私の選択が賢明でないことも、この選択の結果が幸福につながらないこともわかっているつもりです。でも――」


「違います。僕が言いたいのはそういうことじゃない」


 悲壮な決意を口に出そうとした瞳子に、越川はゆっくりとかぶりを振る。


「瞳子さんが悩んだ末に覚悟を決めて僕に告白したことはわかっています。あなたのことだから、先がどんなに苦しくても自分の選択に弱音を吐くことはしないでしょう。でも僕は違います。今この選択を受け入れたら、僕はきっとまた後悔する。本気で好きになった人を簡単に諦めてしまう自分に、物わかりの良い人間を気取って肝心なところで踏ん張れない自分に……」


 言葉を切った越川が、強い決意を込めた眼差しで瞳子を捉えた。


「自分本位なことを言っているのは百も承知です。瞳子さん、僕にもう少し頑張らせてはもらえないでしょうか。僕はここで諦めるわけにいかないんです。あなたへの気持ちを中途半端に投げ出したくはないんです」


 過去の自分を脱ぎ捨て、新しい自分になって今度こそ幸せな恋を手に入れたい。

 心で繋がれる人と笑顔と安心に満ちた人生を共に歩みたい。


 つい先日まで同じ思いで越川と向き合っていた瞳子にとって、彼の思いは苦しいほど理解できるものだった。


 越川の懇願を無下に振り払うことができず、躊躇う瞳子は黙って顔を俯けた。

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