第23話 未練

「いらっしゃい。今ちょうどメシ作ってたとこ。入って」


 月曜日、仕事を終えてアパートに訪れた瞳子を、玄関ドアを開けた礼隆がにこやかに出迎える。


「お邪魔します……」


 強ばった笑みを貼り付けて、瞳子はドアを開けた礼隆の横をおずおずとすり抜けた。


 本来ならば、今日は越川との関係を解消した上で、礼隆の前では“狡い女” を精一杯はずだった。

 けれども、結局越川との交際を断ち切ることができないまま、彼と一夜を過ごすためにここへ来てしまった。




 こんなはずではなかったのに────




 戸惑う一方で、この極めて不誠実な状況が瞳子に覚悟を迫る。


 望む恋愛の形とは異なるとも、自分なりの誠実からは程遠くとも、今は “狡い女” であらねばならない。

 それこそが、二人の男が瞳子に望む姿であるのだから────


 ***


 かつて風俗で働く女達のヒモとして身の回りの世話をしていたという礼隆は、女性好みの料理を作るのが上手い。


 この日の夕食も魚と野菜をワインやオリーブオイルで煮たアクアパッツァがメインだった。

 男の手料理という趣きよりもずっと華やかな彩りと繊細な香りが、覚悟を決まられぬまま縮こまる瞳子の心をじんわりと解していく。


「俺の得意料理の一つなんだ。冷めないうちにどうぞ」


 小さなローテーブルを隔てて向かい合う礼隆の微笑みはかつてないほどに無防備で温かく、この部屋に流れる穏やかな時間が自分の居場所を作ってくれたような心持ちになる。


「おいしい。今日は寒さが厳しかったから、すごく体が温まるね」

「でしょ。大学の帰りにスーパーで買い物しながら、今日は体の温まるものが食べたいなって思ったんだ」

「あ、お皿はそのままでいいよ。洗い物は私がするから礼隆君はのんびりしてて」

「そう? じゃ、お願い。風呂の用意しとくけど、たまには一緒に入る?」

「え……っ!?」

「ははっ、冗談。瞳子さんの困った顔を見たかっただけだよ」

「困ってなんかいないよ。……恥ずかしいだけ」

「今さらかよ」


 小さな悪戯を仕掛けた子供のようにくすくすと笑を零しながら、礼隆は膝を進めて瞳子の隣へと座り直した。

 無邪気な空気が艶やかな静寂に塗り替えられ、響く鼓動が全身の感覚を研ぎ澄ます。


「瞳子さんにまた会えるようになって嬉しい」


 皿を片付けようとテーブルの上に置いた瞳子の手を握ると、礼隆はそう言いながら彼女の華奢な指に口づけた。


「礼隆君……。私もよ。また会えるようになって嬉しい……」


 彼の唇が指に触れるたびに、体の芯の熱が上がっていく。

 やがて彼の舌が指を弄びだすと、じわじわと浸み出てきた情欲に火をつけられ、瞳子は堪らず礼隆の肩に火照る額をのせた。


「礼隆君…………」

「……彼とは会う約束した?」

「……えっ?」

「ちゃんと会う約束してる? 怪しまれたりしてない?」


 瞳子の指をなおも弄びながら、礼隆は淡々と尋ねてきた。

 唐突な質問にたじろぐ瞳子が顔を上げるが、彼の表情から見て取れるのは幾許いくばくかの不安だけ。

 咄嗟のことに質問の意図を汲み取ることができず、瞳子は躊躇いつつも正直に答えた。


「明日の夜、会社帰りの彼とディナーの約束をしてるの。怪しまれたりはしてないわ……」




 一昨日の夜、礼隆の存在を知ってなお交際を続けたいと懇願する越川を、瞳子は拒絶することができなかった。


 ずるずると別れを先延ばしにせず、期待を断ち切ることこそ彼のためだ。

 自分がもう少し若ければ、優しさの形をそう決めつけて彼を拒んだかもしれない。


 けれども、苦い失恋を幾度も繰り返してきた瞳子の目には、越川の懸命な不器用さが必死で藻掻く自分の姿と重なって映った。

 過去の失敗を悔い、簡単に諦めるわけにはいかないと縋る彼の決意を、無益なことだと断ずることができなかった。


 越川は黙り込む瞳子から半ば強引に火曜の会食の約束を取り付け帰宅した。

 礼隆とのことはそれ以上詮索するつもりがないらしく、今後会う予定があるかということを尋ねてくることもなかった。


 けれども、きっと彼はわかっている。


 自分の預かり知らぬところで、こうして二人が逢瀬を重ねていることを。

 怪しむなどという生ぬるい疑念ではなく、残酷なまでの確信としてそれを受け入れる覚悟を彼は持っているのだ。


「そっか。それなら安心だね」


 安堵の色を浮かべて微笑む礼隆が、瞳子をそっと抱き寄せた。


「実は俺、明後日から三日間、沖縄に行くことになったんだ」

「沖縄……? お母さんのところ?」

「うん。母さんが昨日意識取り戻したってじいちゃんから連絡きてさ」

「本当!? よかった……」

「でもまだ意識は混濁してるから、じいちゃんやばあちゃんのこともわかったりわからなかったりみたい。俺のことも認識できるかわからないんだけれど、やっぱり居ても立ってもいられなくて」

「そっか……。顔を見てお互い安心できるといいね。お母さんなら自分の大切な息子のこと、きっとわかると思うよ」

「ありがとう。そう言ってもらえると気持ちが軽くなるよ。……で、ついでだから、来月引っ越すための準備も向こうでしてこようと思って」


 瞳子の髪を優しく撫でる礼隆がこともなげに告げた予定に、溶けかかっていた彼女の心が一瞬で凍りついた。


「来月……?」

「うん。大学の卒業式が済んだら、三月の下旬には沖縄に移る予定だよ。まあ、当面はじいちゃんちに住まわせてもらうし、向こうでの準備ったって大したことはないけどね」

「礼隆君、もうすぐ沖縄に行っちゃうんだね……」


 わかっていたはずだ。

 大学卒業後は沖縄のホテルに就職し、実家で療養する母親の傍で暮らすのだと礼隆は言っていた。

 けれどもそれはセフレであった頃には心に留め置くべきでない未来の話であったし、彼と心が繋がってからは二度と離れたくない思いから目を逸らしていた未来であった。


 しかし今、礼隆の口から改めて告げられた途端、朧気だった未来は明瞭な予定にすり変わり、瞳子の心を鋭く抉った。


 瞳子の掠れた呻きに、髪の上を滑る礼隆の手が止まる。


「うん……。瞳子さんもわかってたでしょ? 俺が大学卒業したら沖縄行くの」

「わかってたけど……、こっちへは時々戻ってきたりするの?」


 微かな期待を手繰り寄せようとすると、動きを止めていた礼隆の指先が瞳子の柔らかな髪の中へゆっくりと潜り込んだ。


「この街には嫌な思い出も多いし、戻ってくるつもりはないよ」

「そうなの……?」

「離れる間際になって、瞳子さんっていう未練はできちゃったけどね」

「…………っ」


 深く抉られた心にいきなりするりと入り込まれ、瞳子は息を詰まらせた。


 未練と言われる嬉しさと迫り来る別れの切なさと。

 混乱に戦慄わななく瞳子の唇が礼隆によって塞がれた。


「行かないで」の一言が彼の舌に絡め取られ、息苦しくて目の奥が熱くなる。


 瞳子の顎に触れる手に零れた涙が落ちてくると、礼隆はゆっくりと唇を離し寂しげに微笑んだ。


「俺はもう二度とこの街に戻らない。未練もちゃんと沖縄へ持っていくつもりだから、瞳子さんは彼氏と幸せになってよね……」




 その夜の礼隆は、繊細なガラス細工に触れるかのごとくに瞳子を抱いた。

 瞳子の幸せを壊さないように、瞳子の未来に触れないように、細心の注意を払っているようだった。


 理性を残す彼の指先に虚しさを感じながらも、のしかかる愛おしい重みをすべてこの身に受け止めようと、瞳子は彼を精一杯抱きしめた。

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