第20話 最低





 ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン────





 ヒステリックに鳴り続けるインターホンの呼び出し音に、深い眠りに落ちていた瞳子は突然意識を引き上げられた。


「えっ……? な、なに……?」


 照明をつけっぱなしだった部屋を見回すと、壁掛け時計の針は午前一時を過ぎている。

 嗚咽を漏らす礼隆を宥めながら二人で眠ってしまったのだろう。しかし、寝入ってからまだそれほど時間は経っていないようだ。


「こんな時間に誰だろう……?」

 瞳子は瞼をこすりながら礼隆を見上げた。

 顰められた彼の表情から察するに、インターホンを押し続ける人物にどうやら心当たりがあるらしい。


「瞳子さんは部屋から出なくていい。けど、とりあえず服は着といて」


 ベッドから下りた礼隆が散乱する服を拾い上げた。

 服を手渡され、瞳子は戸惑いながらも慌てて下着を身につけセーターを被る。

 礼隆も手早く服を着ると、呼出音がなおも鳴り続ける玄関へと歩いていった。


 ガチャリ、とドアを開ける音がした途端インターホンが鳴り止んだ。

 入れ替わりに、苛立った女の声がリビングのドアを貫くように聞こえてくる。


「待ち合わせに来ない上に電話もシカトってどういうこと!? その靴は何? あたしとの約束をすっぽかして女を連れ込んでたの!?」

「すっぽかしたのは悪かったけど、事情は明日説明するから今日はもう帰ってくれ。こんな深夜に押しかけてきて、近所迷惑にも程がある」

「携帯に何度もかけたのに、出ないレイルが悪いんじゃない! 人が心配して来てやったのに、自分のやってること棚に上げるつもり!?」

「大声出すなよ。とにかく落ち着けって」


 金切り声でわめく女とうんざりした様子の礼隆とのやり取りを聞きながら、ベッドに腰掛けた瞳子は慌てて手ぐしで髪を整えた。

 インターホンで飛び起きてから激しく打ち続けている鼓動が胸を圧迫し、呼吸を浅くさせる。

 乱れた足音と押し問答する声がこちらへ近づいてきた瞬間、息苦しさとせり上がる緊張は最高潮に達した。


 ガチャッとドアの開く音に肩が大きく跳ねる。

 身を竦めつつ顔を上げると、居室の入口に立って眉を吊り上げている若い女と目が合った。


「あ……」


 この娘────


 瞳子の脳裏に電車内の風景がフラッシュバックする。

 越川と初めて会った日の帰り、月曜日限定のセフレであった自分の代わりに礼隆の隣にいた女だ。

 あの日礼隆の腕に絡みつきはしゃいでいた彼女が、今は憤怒の形相で瞳子を睨みつけている。


「あんた、レイルのセフレでしょ?」

「え……っ、あの……」

「どうしてルールを破ったの!? 金曜日にレイルと会うのはあたしのはずなのに!!」


「彼女は俺が留守の間にタクシー代を返しに来ただけだ」


 狼狽える瞳子を庇うように礼隆が口を挟むと、猫のようにきつい眼差しが彼へと向けられる。


「じゃあなんで部屋に上がり込んでるのよ!? あたしのコール無視して、さっきまで夢中でヤッてたんでしょうが」

「リサ! 俺の話を聞けって!」


 激昴する彼女を宥めようと、礼隆が彼女の手首を掴んだ。

 バシッと頬を叩く音に、瞳子の肩が再び跳ねる。


「レイルの中で、あたしは……、あたしだけは、特別だって思ってた……。なのに、やっぱり女なら誰でもよかったの……?」


 礼隆の頬を叩いた手でダウンジャケットの裾をぎゅっと掴み、リサと呼ばれた女が俯いた。

 やれやれと頬を押さえる礼隆が、涙声になった彼女に向かって大きなため息を吐く。


「リサの言うとおりだよ……。俺は女なら誰でもいい。嫌なことがあって、お前との約束をすっぽかして飲みに行った帰りに偶然彼女を見つけて、俺が無理矢理引っ張りこんだ。ほんとに誰でもよかったんだ」


“だから瞳子さんは悪くない”


 礼隆がそう言って自分を庇っているようで、瞳子はいたたまれなくなった。


 自分さえ今日ここに来なければ、リサという娘がこんな風に傷つくことはなかったのだ。


 瞳子の中に自責の念が湧き上がる。

“ごめんなさい” と立ち上がって帰ろうとした瞬間、その罪悪感を飲み込むように、焦りと安堵が混濁して彼女の胸の内になだれ込んできた。


 確かに礼隆と出くわしたのは想定外のことだった。

 けれども、今晩自分がここを訪ねていなければ、母親のことで苦しむ礼隆を慰めていたのはリサの方だったかもしれない。


 必死に藻掻く彼が激情をぶつけて抱いたのは、彼女の方だったのかもしれない────


「最低…………っ!」


 座り込んだままの瞳子を尻目にリサはそう吐き捨てると、もう一度礼隆の頬を叩いて彼の部屋を出ていった。


 バンッと玄関のドアが乱暴に開けられる音がし、彼女が走り去る足音を閉まるドアがゆっくりと遮断した。


 嵐の後の静寂は重苦しいものだった。

 暫くして、礼隆がその空気を押し出すようにくつくつと忍び笑いを漏らし始めた。


「……俺ってほんと最低だよね」


 己をあざけ笑う声に瞳子が顔を上げると、彼は立ったまま叩かれた頬をさすっていた。


「あいつを傷つけたばかりか、俺に会わずに帰ろうとしてた瞳子さんを引きずり込んで、こんな気まずい思いまでさせて」


「ううん……。最低なのは私だよ。心のどこかでずっと礼隆君を求めていながら、二度と会わないと言ったり、そのくせあなたに甘えたり……」


 そう。自分は最低だ。

 傷ついたリサに申し訳ないと思う以上に、自分が彼女に取って代わって礼隆の傍にいることに、今とてつもない安堵と喜びを覚えている。


 “最低” という罵りの言葉は、自分が受けて然るべきものなのだ。

 そして今の自分には、その罵りを甘んじて受ける覚悟ができている。


 瞳子はゆるゆるとベッドから立ち上がると、立ち尽くす礼隆を後ろからそっと抱きしめた。


「礼隆君が誰でもいいのなら……。こんな私でもいいのなら、傍にいさせてくれる……?」


 彼の着込んだフリースのセーターをそっとたくし上げ、瞳子はその背中へと口づけを繰り返した。


「……俺、こんなだからさ。まともに付き合ったら瞳子さんが壊れちゃうよ。母さんが壊れたみたいに……」

「うん……」

「だからさ……、やっぱり狡い女になってよ。瞳子さんをきちんと愛せる奴と幸せになって、それで俺とも会ってくれる?」

「うん……。礼隆君がそう望むなら、そうするよ。私は狡い女になる……」


 彼の胸に回していた手が、大きな手でそっと包まれた。

 許された喜びに、瞳子は彼の背中に強く吸いついた。

 口づけの痕を愛おしむように舌先で舐めると、扇情する瞳子に応えるべく体勢を変えた礼隆が彼女を掻き抱く。


「狡くて最低だなんて、瞳子さんヤバいくらいに女だね……」




 誰かを抱くことで、彼が苦しみや寂しさを一時でも忘れられるなら──


 自分が抱かれることで、暗闇で彷徨う彼の心を仄かにでも照らすことができるなら──





 礼隆の望むとおりの女を演じよう。


 瞳子はそう心に決めた。




 その晩彼女は礼隆の望むまま、自分が傷つけた誰のことも顧みず彼とのセックスに没頭する最低な女を演じ続けた。

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