第19話 嗚咽
こちらを見つめた礼隆の瞳が険しく翳るのを見て、瞳子は心臓が吐き出されそうになるのを堪え、竦む足を無理やり前に出して声を絞り出した。
「ごめ……、も、帰────」
「なんだよ!! なんでいるんだよ……っ!!」
剥き出された感情が牙となって瞳子の心に突き刺さる。
その牙に引き裂かれるのを本能的に恐れた瞳子は、彼の横をすり抜けようと思わず駆け出した。
「いや……っ!!」
すれ違うのがやっとの外廊下をずかずかと進んできた礼隆が瞳子の腕を乱暴に掴んだ。
振り払おうと身をよじるが、容赦のない力で引かれ、彼の自室へと連れ込まれる。
なおもドアの外へ逃れようとする瞳子は背中を強く押され、玄関の上がり框に倒れ込んだ。
ガチャと施錠の音が響き、無言のまま礼隆が覆いかぶさってきた。
酒の強い臭い。
泥酔しているのか。
瞳子のコートのボタンを外す手を払い除けると、マスクを剥がされ無理矢理唇を奪われた。
強引に舌を入れられ、渾身の力を込めて押し返す。
「やめて────!!」
居室から漏れる光が瞳子の真上にある礼隆の顔を淡く照らした。
くしゃくしゃに歪んだ顔からぽたりと落ちてきた雫が瞳子の頬をつたう。
「礼隆君……?」
ずたずたに心を引き裂かれているのは彼の方だ。
一体何があったのか────
彼の胸板を押す腕の力が弱まった途端、彼は再び瞳子に唇を押し当ててきた。
こじ開けられた口の中に強いアルコールの香りが広がり、この人を忘れようと固めていた意思を溶かしていく。
躊躇いながら礼隆の舌に触れると、必死に縋りつくように絡められる。
コートのボタンが外され、セーターをたくし上げた礼隆が瞳子の胸に顔を埋めた。
激しい息遣いは嗚咽のようにも聞こえて、瞳子は慈しむようにアッシュグレージュの柔らかな髪に指を入れた。
フローリングの冷たい床の上で、お互い靴も脱がずに抱きしめ合う。
快楽を味わう余裕のないまま礼隆が入ってきた時、瞳子の心も体もこれまでに感じたことのないほどの喜びに打ち震えた。
あの日解かれた指先が再び絡められ、求めるままにお互いを与え合う。
これまでの苦しみや葛藤のすべては、この幸福を得るためにあったのだと思えるほど、彼と繋がるこの時が愛おしく感じる。
携帯の着信音が聞こえた。
けれども無機質なその音は、喜悦に耽る瞳子にも必死で心をぶつけてくる礼隆にも制止の意味を持たせることができず、ただ淡々と明るいメロディを奏でている。
もう二度と求めるまいと誓っていた心と体が繋がると、もう二度と離れたくないという思いが強くなる。
礼隆もそう感じているのだろうか。
一度体を離した後も、靴を脱ぎ、服を脱ぎ、彼はただひたすらに瞳子を求め続けたのだった。
***
「終電逃しちゃったね……」
掻き抱くように瞳子を胸にのせた礼隆が酔いの醒めた声で呟いた。
「今日はこのまま泊まってく?」
彼の体が横を向き、零れた瞳子の頭は上腕に抱き止められる。
さらに強く抱きしめられて、頷く以外の返事などできなくなる。
「うん……。けど、明日も出勤なの。服とかメイクとかどうしよう」
「じゃあ始発で一度マンションに戻る? 俺も一緒に行くからさ」
「うん。そうする」
これまでの礼隆との逢瀬は電車が動いている間しか許されていなかった。
セックスがどんなに盛り上がっても、時間が迫れば礼隆は必ず服を着て、駅まで送るよと瞳子の帰宅を促したのだ。
そんな彼が今夜はねだるように朝まで一緒にいようと言う。
甘えられるのが嬉しくて、瞳子は礼隆の胸に埋めていた顔を上げた。
泣いていたせいで、彼の瞼はまだ少し腫れぼったい。
その顔が愛おしくて、体を伸び上がらせて彼の瞼にそっと口づけた。
「……今日さ」
唇を離すと、礼隆が躊躇いがちに口を開いた。
「……うん?」
「電話があったんだ。沖縄のじいちゃんから」
「そう……」
礼隆の祖父は沖縄にいるのか。
そういえば彼の就職先は沖縄のホテルだと言っていたっけ。
父親か母親の実家が沖縄にあるということだろうか。
幸せに浸りながらゆるゆると思考を巡らせ、瞳子が相槌を打つ。
たわいないその一つ一つを待って、礼隆は次の言葉を繋げた。
「母さんが…………自殺未遂したって」
淡々と告げられたその言葉に、甘く蕩けていた瞳子の意識が急速に凍りついた。
「……えっ?」
「父さんがさ……、沖縄にいる母さんに電話したらしいんだ。それで取り乱した母さんは薬を大量に飲んじゃって緊急搬送されたらしい。一命は取り留めたけど、まだ意識が戻ってないって」
「そんな……」
礼隆の実家の病院で、彼が父親に投げつけた言葉が瞳子の記憶に甦った。
彼の母親を案ずる父に、彼は “知りたきゃ自分で連絡しろ!” と怒鳴りつけた。
まさかそれがきっかけで、そんな悲劇か起こったのだろうか。
「母さんは、あいつのせいで心を壊して沖縄に戻ってたんだ。それなのに、新しい家族を持って母さんのことを放ってるあいつが許せなくてあんなこと言って……。それってやっぱり俺のせいだよね……?」
礼隆が腫れた瞼を閉じると、溜められていた涙が雫となって流れ落ちた。
心に落ちたそのひとしずくがあまりに痛くて、瞳子は堪らず指先で彼の頬を拭う。
「礼隆君のせいじゃないよ。誰のせいなんかでもない……」
「大学卒業したら、母さんの傍で暮らすつもりだったんだ。それなのに、もしも母さんがこのまま戻らなかったりしたら……」
再び瞳子を強く抱きしめた礼隆の喉元から、声にならない声が絞り出される。
嗚咽を漏らす彼の背中を瞳子がさすり続けるうちに、いつしか二人は眠りに落ちた。
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