第16話 運命

「あ……」


 携帯の着信音に、瞳子が反射的に声を漏らした。

 その声で彼女のマスクの紐に掛けられていた礼隆の指の動きが止まる。


 催眠術が解かれたかのように互いの体をゆるゆると離すと、瞳子はベッドに置かれていた携帯を手に取った。


【越川 圭介】


 画面に表示されたその名前を見て、体の熱で溶けかかっていた心が一瞬にして冷えて固くなる。


 息苦しさが増す中で瞳子は画面をタップし、携帯を恐る恐る耳にあてた。


「もしもし……」

『ああ、瞳子さんっ! 昼休憩に入って今メッセージを見たんです。高熱が出てるの? 起こしちゃったかな』

「目は覚めてたから大丈夫です。それよりごめんなさい。今日のこと……」


 越川とのやり取りはあまり礼隆に聞かれたくない。

 瞳子がちらと礼隆の方を見ると、彼はすくと立ち上がり、部屋を出て行った。

 ぱたりと静かに閉まるドアの音が瞳子の心に響く。


『今日のことは気にしないで。僕が出張から戻ってから仕切り直しましょう。それより体調はどうですか? 病院には行った?』

「ううん。もしインフルエンザなら時間が経たないと検査できないみたいだから、とりあえず今は休んでるところです」

『そう……。なんなら仕事早く切り上げて病院に付き添うけど』

「えっ……、ううん、そんな……! 出張を控えた圭介さんに感染したら大変だし、病院へはタクシーに乗って一人でも行けるから」


 越川の純粋な優しさや気遣いを心から嬉しいとは思えない自分がいる。

 繋がっているはずの心の絆がギシギシと不自然な音を立てて耳に障る。


『そう……。逆に僕に気を遣わせて申し訳ない。でも、どうしても辛かったらいつでも電話くださいね。すぐに飛んで行くようにするから』

「ありがとう、ございます……」

『それじゃ、くれぐれもお大事に』

「うん。それじゃ……」


 通話終了ボタンを押す。

 会話中は滲み出させるまいと堰き止めていた罪悪感がどっと心に雪崩込み、胸の内にじっとりと重く積もる。


 このタイミングでの越川からの電話は、警告だったのかもしれない。

 もう二度と引き返せなくなる直前に、運命の力は瞳子と礼隆を引き止めた。

 この力に従わねば、きっとこの後押し寄せるであろう激情の濁流に翻弄され、流れ着く先を見失うのだ。


 自分も、礼隆も────





 食べかけの粥をのせたトレイを片手に抱え部屋のドアをそっと開けると、礼隆は廊下に備えられた小さなキッチンで自分の昼食を用意していた。


「ご馳走様。全部食べられなくてごめんなさい」

「ちょっと多かった? 気にしなくていいよ」

「やっぱり病院へは一人で行くね……。着替えたら出て行くから」

「…………」


 礼隆は無言でコンロの火を止めると、ドアを開けて部屋へと戻った。

 瞳子が後を追って部屋へ入ると、テーブルの隅に置かれた小さな箱を開けて銀色のアルミシートを彼女に差し出した。


「ならせめて熱が少しでも下がってからにしなよ。この薬なら、もしインフルエンザだったとしても合併症を引き起こす危険はないから安心して」

「……ありがとう」


 隙のない優しい笑顔に、呻き声が漏れてしまいそうなほど胸が締めつけられる。


 でも、これでいいのだ。

 これで、いい────




 錠剤を飲んでしばらく横になる。

 眠れなかったが、礼隆が話しかけてくることもなく、瞳子から話しかけることもなかった。

 小一時間ほど経つ頃には関節痛も若干和らぎ、頭が少しすっきりしてきた。


「三十八度二分……。これなら一人でも病院へ行けそうよ」

「そう。土曜の午後はどこのクリニックも閉まってるから、救急医療センターに行かなきゃだね」

「うん。一度受診したことあるし、場所はわかるから大丈夫」

「じゃあ、着替える間にタクシー呼んでおこうか」

「ありがとう。よろしくお願いします」


 礼隆が自分の携帯を手に部屋を出た。

 その間に瞳子はベッドから起き上がり、ハンガーに掛けられていた通勤着に着替え直す。


 今度こそ、この部屋は最後になるだろう。


 ぐるりと見渡した後、瞳子は静かに部屋を出た。


 ***


「じゃあ、気をつけて」

「うん……」


 アパートの前に横付けされたタクシーの後部席ドアが開くと、礼隆がいつものように微笑んだ。


「今日は本当に助かりました。どうもありがとう。このお礼ができないのは心苦しいけれど……」


 言外に決意を込めてそう伝える。

 礼隆の表情が一瞬強ばったように見えたが、「そんなの気にしなくていいから」と瞳子の肩に手を置いて座席に座るよう促した。


「それじゃ、行くね」

「うん。お大事にね」


 瞳子は顔を前に向けた。

「救急医療センターまでお願いします」


 タクシーのドアが閉まる。




 ガチャッ!




 ドアを開く音がすぐ横で聞こえた。


 驚いて顔を横に向ける。




「礼隆く…………」


「神咲二丁目の松本クリニックまでお願いします」


 瞳子の隣に乗り込んだ礼隆が、運転手に行き先を訂正した。


「え……っ? 松本クリニックでいいんですか? 土曜の午後は休診じゃ……」

「大丈夫です。行ってください」


 運転手の戸惑う声にかぶせるように、礼隆がきっぱりと告げる。


 ゆるゆると走り出したタクシーの中に緊張が張り詰める。


「どうして…………」

「救急医療センターはきっと急患でごった返してる。体調悪いんだから、早く診てもらえた方がいいでしょ」


 前を向いたまま答える礼隆だが、いつものような笑顔はない。

 無表情な横顔はかえって苦しげに見えて、瞳子の疑問と不安はさらに募っていく。


 混雑していようが、待たされようが、自分は一人になるべきだった。


 なのになぜ?

 なぜ────





 ***


 タクシーは十分も走らないうちにアイボリー色の建物の前で停まった。

 今どきの病院らしくモダンで立派な建物で、大きな看板に【松本内科クリニック】と書かれている。

 それを見た時、瞳子はようやく礼隆の苗字が松本であったことを思い出した。


「運転手さん、ちょっとだけ待っててもらえますか。瞳子さん、少しこのまま待ってて」


 礼隆は瞳子を座席に残してタクシーを降りた。

 小綺麗なアプローチの先の自動ドアにはロールスクリーンが下ろされ、「本日の診療は終了しました」のカードが吊るされている。

 礼隆はそのドアの脇にあるインターホンを押し、二言三言何かを話すとタクシーに戻ってきた。


「大丈夫。診てくれるって。運転手さん、ここで降ります」


 礼隆は助手席側の窓越しに運転手に料金を渡し、開いた後部席のドアから瞳子を覗いて手を差し出した。


 呆然としながらも瞳子はその手を取り、タクシーを降りる。


 礼隆の後に続いて自動ドアに向かうと、ロールスクリーンが上げられて、白衣を着た中年男性がドアを手で押し開けた。


 背が高く、少し癖のある柔らかな髪。

 多少骨ばった輪郭ではあるが、整ったその顔立ちは礼隆によく似ていた。

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