第15話 高熱
「……そう、そう。だからさ……。……え? だって仕方ないだろ? 高熱で……放っておけないだろ。……うん。だから、今日の埋め合わせは来週……」
少し離れた場所から聞こえる礼隆の声に、瞳子は薄く目を開けた。
誰かと電話をしているようだ。親し気な口調。今日会えないことを弁明する内容。
ぼんやりと感じ取りながら、焦点を定める。
見覚えのある照明器具。視界の端に映る緑色のカーテン。
それは礼隆のベッドで彼に抱かれながらいつも見ていた風景だった。
廊下にいた礼隆が戻ってくる足音がする。
「瞳子さん、目が覚めた? 喉乾いてない?」
額を覆うひんやりした手の感触に、瞳子は再び目を閉じながら彼に問いかけた。
「礼隆君の部屋に……連れてきてくれたの?」
「うん。インフルエンザだと発熱から半日くらい経たないと検査できないし、病院よりまずは休ませた方がいいと思って。自分の部屋の方が看病しやすいし、瞳子さんちの住所もわかんなかったし」
「どこか出かける予定だったんじゃ……」
「大した用事じゃないから心配しなくていいよ。後で病院にも付き添うからさ」
礼隆が手にした体温計を瞳子の目の前に差し出す。
「39.2℃」という表示を見た途端、体にこもった熱と関節痛が自覚され、意識が遠のきそうになる。
悪寒を感じ、身震いしながら布団を引き上げようとゆるゆる腕を動かした時、自分の着ている服がこの部屋でいつも着ていた部屋着に変わっていることに気づいた。
「着替えも……?」
「ああ、うん。通勤服着たままじゃ苦しいだろうと思って。部屋着ならば汗をかいても気にしないですむでしょ」
「ありがと……」
礼隆には何度も裸を見られているのに、関係が終わった後に服を脱がされ下着姿を見られていたかと思うと妙に気まずい。
熱がある上にさらに顔が熱くなり、このままもう一度寝てしまおうかと目を瞑ろうとして、瞳子は大切なことを思い出した。
「あ…… 今、何時?」
「今? 十時五分」
「会社もう始まってる……! 電話しなくちゃ」
軋む体の痛みに耐えて起き上がり、眩暈のする中で礼隆が差し出したバッグの中を探る。
携帯を取り出して会社に電話をすると美月が電話口に出た。
通勤途中で発熱しタクシーで自宅に戻ったと伝えると、瞳子と連絡がついたことに安堵しながらも体調を心配する言葉をかけてくれた。
会社に連絡できたことでほっと胸を撫で下ろしたものの、越川への連絡もしなければならない。
今は仕事中だろうし、礼隆に彼との会話を聞かれるのも嫌なので、瞳子は今日のキャンセルをメッセージで伝えることにした。
「瞳子さん、スポーツ飲料飲みなよ。発熱の時は水分補給が大事だよ」
瞳子が携帯を枕元に置いたタイミングで、礼隆がストローを差したグラスを差し出した。
「ありがとう」
「首元の保冷剤も変えるね」
「うん……」
一人暮らしを始めてから約十年、体調不良の時に他人を頼った記憶がない瞳子は、甲斐甲斐しく看病してくれる礼隆が新鮮なような懐かしいような、そわそわとむず痒いようなほっと心が落ち着くような、なんとも複雑で形容し難い存在に感じた。
もう二度と訪れることはないと思っていた部屋。
もう二度と言葉を交わすことはないと思っていた男。
けれども静かに充満するこの部屋の空気は、瞳子を拒むことなく穏やかにただここにある。
そんなささやかな事実に気が緩んだのか、再び眠気が瞳子を包み込み夢の世界へと誘った。
***
実家の和室に敷かれた布団に瞳子は横になっている。
風邪を引いた時は自分の部屋で寝るのが心細くて、母の気配を感じることのできる一階の和室にいつも布団を敷いてもらっていた。
台所からトントンと包丁の音が聞こえ、鰹節と醤油の良い匂いが漂ってくる。
懐かしくて温かくて安心する────
***
ふと意識のスイッチが切り替わり、瞳子は目を開けた。
頭がぼうっとして、一瞬ここがどこかわからなくなる。
コトリという音で顔を横に向けると、礼隆が湯気の立つ器をテーブルに置いたところだった。
「ちょうどいい時に目が覚めたね。お粥食べれそう?」
「うん……。少しなら」
体をゆっくりと起こし、トレイを膝に乗せてもらう。
スプーンで粥をすくい、息を吹きかけてから口に入れる。
「ん、美味しい……」
「そう? 食べられそうならよかった」
二口、三口、とゆっくりスプーンを口に運びながら、瞳子がぽつりと呟いた。
「礼隆君てマメだよね……」
「え?」
「前々から思ってたけど……、よく気が利くし、家事もきっちりこなすし、いいお嫁さんになれそう」
「ははっ。いいお嫁さんか。結婚するつもりないし、自分で身の回りのことはできなきゃ困るからね」
「どうして、結婚するつもりがないの……?」
熱に浮かされた頭で特別な意図のある質問をしたつもりはなかったが、礼隆はそれに答えずに瞳子に尋ね返してきた。
「……俺がこれほど甲斐甲斐しく世話ができるのはどうしてだと思う?」
「……?」
「女に飼われていたからだよ」
自嘲を最大限に込めて吐き出された言葉に、ぼやけていた思考が一瞬にして固くなる。
「飼われてた……って……」
「俺さ、高校の時に半年くらい家出したことあるんだ。友達頼ったらすぐに足がつくし、未成年じゃ自活するのは難しくてさ。風俗の女のヒモになって、何人かのとこを渡り歩いてた」
何と言葉を返せばいいのだろう。
瞳子の高校時代とはおよそかけ離れた生活は到底想像がつかないし、簡単に飲み込むこともできなくて息苦しくなる。
「あいつらは感情の浮き沈みが激しくてさ。常にご機嫌取ってないとすぐにお払い箱になって追い出される。男の欲望の捌け口になってる反動で、お姫様のように大切にされることを望んでるんだ。おかげで身の回りの世話からセックスまで、あいつらの望むとおりのことができるようになったよ。最後に関わった女が俺を警察に突き出したせいで、結局実家に連れ戻されたけど」
口元の笑みを絶やすことなく淡々と過去を語る礼隆の表情が、心の内を初めて吐露した先日の彼と重なった。
身が竦むような冷ややかさ。それでいて乾きに喘ぎ苦しんで、虚空に向かってひたすら手を伸ばしているような必死さ。
熱に浮かされた瞳子の頭では、目の前の彼にかける言葉がまるで浮かんでこなかった。
どうして彼が堕ちたのか、どうすれば彼が救われるのかなんて考えることなどできなかった。
気がついたらベッドから降りて、彼を抱き締めていた。
「
瞬間身を固くした礼隆の体から力が抜け、瞳子の背中にゆるゆると手が回される。
「瞳子さん……。やっぱりさ、狡い女になってよ」
回された腕が緩められ、礼隆の体がそっと離れる。
「馬鹿な女か狡い女にならなけりゃ、瞳子さんも壊れちゃうよ。だから、また月曜日に……」
目の奥にこもる熱がそう見せるのだろうか。
礼隆の瞳もこれまで見たことのないような熱っぽさで潤んでいるように見える。
瞳子をじっと見つめたまま、礼隆が自身のマスクを取った。
人差し指で瞳子の髪をそっと掬い耳にかけると、そのままマスクの紐に指を掛けた。
まるで全身が心臓になってしまったかのように、突き上がる鼓動が瞳子の体じゅうに響き渡る。
理性も思考も感情も全てが停止したその時、ベッドに置かれた携帯の着信音が控えめな音量で鳴った。
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