第14話 安堵

 緊張しすぎているのだろうか。


 恋人を自分の部屋に呼んだことがなかったわけではないのに、目が覚めた時から今朝はどうも調子がおかしい。


 これまでの恋人達と違い、越川は瞳子の心をとても大切にしてくれる。

 体が繋がることで心もより深く繋がることができるのならば、そしてそれを確信できているのならば、越川と迎える初めての夜を恐れることなど何もない。


 何となく体がぎくしゃくするのは、今日の夕食の下ごしらえを昨晩遅くまで張り切ったせいで疲れが残っているからかもしれない。


 食欲がわかず、買い置きの食パンに手をつけないまま瞳子は自宅マンションを出て会社に向かった。


 ***


 瞳子がこの街に住むと決めたのは、この駅が始発となる快速電車が一時間に二本ほどあるからだ。

 会社までは少々距離があるが、家賃相場が安いし、何より始発電車を選べば満員電車でも座席を確保できる。

 痴漢のターゲットになりやすい瞳子としては少しでもリスクを減らすために、朝の通勤には必ず始発電車を使うことにしていた。

 朝食を摂らなかったためにいつもより早く駅に着いたけれど、ホームのベンチに座って数本をやり過ごす間に、越川に連絡を入れた。


 昨晩の彼との電話では、越川も出張前の仕事の調整で今日は休日出勤するため、仕事上がりにターミナル駅で待ち合わせて電車に乗り、瞳子の最寄り駅にあるスーパーで一緒に買い出しをしてからマンションへ向かうことになっていた。


 その予定に変更はないけれど、越川と文字だけでもやり取りができれば、忙しない鼓動を少しでも抑えられるかもしれない。


「おはようございます。手料理上手くできるかドキドキしてますが楽しみにしてますね! もしお仕事で遅くなるようなら連絡ください」


 送信ボタンを押してしばらくすると、いつもの始発電車がホームに到着した。

 車両に乗り込み座席を確保したところで越川からの返信が届く。


「おはようございます。僕こそ楽しみにしています。緊急対応が発生しようとも必ず瞳子さんの手料理を食べに行きます!(笑)」


 越川の笑顔が脳裏に浮かび、瞳子の口元が淡く緩む。

 携帯のカバーを閉じ、バッグにしまうと瞳子はそっと目を閉じた。


 ***


 うつらうつらとしていたらしく、乗客が押し寄せてきた気配にふと瞼を開けた。


 ドアの上の電光掲示には出発して一つ目の停車駅が表示されている。

 しばらく微睡んでいたように思えたが、五分も経っていなかったようだ。

 少し眠っていたせいか、体がやけにだるく感じる。

 感染症予防で冬場の通勤には欠かせないマスクがなんだかとても息苦しい。

 深く息を吐き、ふと視線を前に向けると、自分の目の前に同年代の女性が立っていた。


 瞳子の目線の高さにあるハンドバッグのチャームに視線が止まる。

 ハートマークを背景に、女性と赤ちゃんが描かれたイラスト。

 妊娠中であることを周囲に知らせるチャームだった。


 なぜ優先席の方に行ってくれなかったのだろう。

 いつもはそんな恨み言など頭に浮かばないのに、体調が優れない今日ばかりは思わず車両の端へと目を走らせる。

 おじさんや若者が優先席を占領しているが、揃いも揃って下を向き、本来その座席に座る資格をもつ乗客を気に留める者は誰もいないようだ。

 まして、彼女のようにまだお腹も目立たないような妊婦の場合、このチャームに気づかなければなかなか席を譲ってもらえはしないだろう。

 地元にいる三つ年上の姉はお腹が目立ってくるより前の時期に悪阻に苦しんでいたから、もしかしたら彼女もちょうど悪阻の時期かもしれない。


「どうぞ……」

 瞳子は腰を浮かせながら、目の前に立つ女性に声をかけた。

「あっ、ありがとうございます!」

 妊婦は頭を下げて恐縮しながらも、瞳子の好意を素直に受け取る姿勢を見せる。

 立ち上がって彼女に席を譲り、車内のスペースにまだ余裕のあるうちにとドアの付近へと移動した。


 電車が動き出すと同時に瞳子は眩暈を覚え始めた。

 無意識のうちに浅く早くなった呼吸は、吐く息が熱く感じられる。

 体がひどくだるい。頭がぼうっとする。


 体調不良は、疲れや緊張から来るものではなく、風邪の症状だったようだ。


 この分では発熱をしているようにも思われるが、会社を休むにしても次の駅までは降りることができない。

 とりあえずこの区間を何とか耐えて、次の駅で一旦降りよう。


 越川には申し訳ないが、今日の約束は延期した方がよさそうだ。降りたらその連絡もしなくては。


 ドアの脇にある手すりでふらつく体を何とか支えながら、瞳子は次の停車駅までの五分を耐えた。


 都心部とベッドタウンとの境界にある下町の駅で降りる客はごく僅かだ。

 停車駅で新たな乗客が流れ込む前に外に出ようと、瞳子は必死でもがいた。


 何とかホームに出たものの、著しく体力を消耗したのか、塀の際に置かれたベンチに座り込んだきり動けなくなった。


 ここからどうしよう……


 自宅に戻るか、この駅に近いクリニックを受診するか。

 いずれにしても、駅の階段を上り下りしてタクシー乗り場まで辿り着かなければならないが、今の体調ではそれもきつい。


 細く長く熱い吐息をふううと吐き出したときだった。


「瞳子さん…………?」


 その声に弾かれて顔を上げる。

 熱で滲む視界に映るのは、アッシュグレージュの色の髪。


「れ、いる……君……」


ここが礼隆の使う駅なのだと意識している時には会わなかったのに、身構える余裕のない時に限って現れるのがなんとも彼らしい。


「そんなとこでどうしたの? ……気分でも悪い?」


 瞳子の様子が普段とあまりに違っていたからだろう。

 あんな別れ方をしたことなどまるでなかったかのように、眉をひそめた礼隆は心配そうに歩み寄り、瞳子の隣にすとんと座る。


「ちょっとごめんね……。うわっ、かなりの高熱じゃん! こんなんで会社に行こうとしたの?」

「家を出たときは……まだ……」


 額にあてられたままの大きな手がひんやりと冷たくて、あまりの心地良さに言葉をつなげる気力が溶け落ちる。


「一気に熱が上がったってことなら、この時期だしインフルエンザかも。歩ける?」

「ん……。ちょっと、休んでからなら……」

「じゃあ歩かなくていいから、俺の背中におぶさって」


 ポケットからマスクを取り出して顔にあてた礼隆が、ベンチの前で瞳子に背中を向けてしゃがんだ。


 二度と会わないと告げた彼に甘えるべきではない。

 理性が厳然とそう告げるけれど、体が弱っている時は心だって強くはいられないものだ。


 躊躇いはほんの一瞬で、瞳子は沈みこんだベンチからゆるゆると体を起こし、礼隆の背中へと体を預けた。


 よろめくことなく立ち上がり、しっかりした足取りで階段を上る礼隆の背中は真冬の空気を纏ったままで、先ほどの手のひらのように冷たく心地良かった。

 瞳子を支えるために回された腕はよく知った硬さがあるが、この腕の中で乾きに喘いでいた日々が嘘のように今は安堵が胸に広がる。


 少なくとも今この時に自分が欲している全てのものがここにある気がする。


 瞳子は心も体も礼隆の背中に溶け込んでいくような安らぎを感じながら、遠のく意識を追うこともせず目を閉じた。

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