第13話 変化
「瞳子ちゃん、お正月休みは越川さんとデートできたの? 初詣行ったりした?」
仕事始めの日のランチで席に着くなり身を乗り出した美月に、瞳子は苦笑混じりに答えた。
「越川さんも私も帰省してたんで、その前後には会いましたよ。初詣はお互い地元で済ませちゃいましたけど、昨日一緒に参拝してきました」
「そうなんだ! 順調そうで何よりね。そう言えば、越川さんの実家はA県だって言ってたわよね。瞳子ちゃんの実家の隣県なんだから、お正月にお互いの両親のところへ挨拶に行っちゃえばよかったのに」
「隣県って言ったってそこそこ離れてるし、付き合って半月でご両親に挨拶なんて早すぎますよ」
「まあ、確かにそうね。そうなると実家への挨拶は夏あたりがいいかしらね」
「もう、美月さんっ! そういうことは彼と話して決めていきますから、私達はとりあえずランチ注文しましょうよ」
近所の世話焼きおばさんのように目を輝かせる美月を宥めながらも、瞳子の心はこの日の陽射しのように穏やかで暖かい。
越川と改めての初詣をした昨日も、風のない穏やかな陽気の下、楽しかったと素直に言える一日を過ごした。
越川とのデート回数はすでに片手の指を越えているが、今どきの中学生よりも清い交際を続けている。
昨日もずっと手を繋いでいたけれど、夕食を共にして駅で別れるまで、越川がそれ以上のスキンシップを求めてくることはなかった。
帰りの電車に揺られながら、瞳子は礼隆の言葉を思い出した。
体で繋がるよりも先に心で繋がりたいと言った瞳子を礼隆は否定した。
セックスをするまでの男の優しさを女は純愛と勘違いしているだけなのだと。
けれども、越川とのデートを重ねるほどに、彼は自分に純愛を捧げてくれているのだと実感することができる。
礼隆と体で繋がりながら心が乾いて藻掻いていたのが嘘のように、瞳子の心は今清らかに潤い満たされているのだ。
礼隆は今も人知れず心の乾きに苦しんでいるのかもしれないと思うと胸が締め付けられるが、彼の心を潤す誰かがいつか現れることを願うしかない。
礼隆のアパートの最寄り駅に電車が停車した。
ドアが開くとついホームにアッシュグレージュの髪の人影を探してしまうけれど、時間が流れていく中で確かに自分の思いも形を変えている。
その変化をもたらしてくれたのは、やはり越川との心の繋がりなのだ。
この駅に電車が停まることも、きっとそのうち気にならなくなるだろう。
電車が動き出すと同時に携帯を取り出し、さっき別れたばかりの越川にたわいないメッセージを送る瞳子であった。
***
「圭介さん、 炊飯器コーナーはあっちみたいですよ」
木曜日の会社帰り、越川が自宅の炊飯器を買い換えるのに付き合うことになった瞳子は、キョロキョロと辺りを見回す越川に家電量販店の白物家電エリアから手招きした。
「うわぁ。こんなにいっぱいあるのかぁ」
「メーカーも機種も、値段も様々ですよね」
「うーん。壊れたのは学生時代に買った単身者用の小さくて安いやつだったからなあ。それに比べたら、どれもグレードアップになるんだけど」
「圭介さん、パンよりご飯派じゃないですか。だったらこの際、美味しさにとことんこだわってもいいかもしれませんよ」
それぞれの機種の特徴を把握しようと、展示品の回りに飾り立てられたPOPを瞳子が食い入るように見つめていると、傍にいた店員が声を掛けてきた。
「炊飯器は豊富な炊飯メニューのほか、圧力の高さやかけ方、内釜の素材などで各メーカーが特色を出してます。こちらはこのメーカーの最新機種になりますが、圧力の高さと内釜の厚みでお米の美味しさを最大限に引き出しますよ」
店員の説明に頷きながら商品の仕様表を見つめていた越川が、隣に立つ瞳子を見遣った。
「瞳子さんは? この機種どう思います?」
「え、私? いいと思いますよ! ふっくらした美味しいご飯が炊き上がりそう」
「5.5号炊きと一升炊きがあるみたいだけど、とりあえず今回は5.5号炊きでも大丈夫なのかなあ」
瞳子に意見を伺いつつ呟く越川に、店員がにこやかに話しかける。
「そうですね。新婚さんで買い替えを検討されているんですか? もしこの先お子さんがお生まれになっても食べ盛りを迎えるのは当分先でしょうから、毎日炊くのであれば5.5合炊きで十分かと」
店員の言葉に瞳子の心臓が硬直した。
そして、越川が今日の買い物の同伴を瞳子に頼んだ理由をようやく察した。
「色はホワイトとシルバーがあるみたい。瞳子さんはどっちが好みですか?」
「あ、えと……。ホワイト、かな」
「了解。じゃ、この機種の5.5合炊きのホワイトをください」
「ありがとうございます! 在庫を確認してきますので少々お待ちください」
店員がその場を去り、残された二人の間に甘酸っぱい沈黙が漂った。
「瞳子さんに買い物付き合ってもらえてよかった。炊飯器なんて何を選べばいいのかわからなかったから」
照れくさそうに頬を染める越川を見て、瞳子の心がじんわりと潤う。
「店員さん勧め上手でしたよね。なんだかすごく美味しいご飯が炊けそうな気がしちゃいましたもの」
「炊きたてのご飯をイメージしたらお腹が空いてきたな。買い物を済ませたら何か食べて帰りましょう」
「そうですね」
交わす会話にぎこちなさを感じつつ、このこそばゆさこそが自分の求めていた幸福の感触なのだと考える。
程なくして戻ってきた店員の案内で購入と配送の手続きを済ませ、瞳子と越川は店を出た。
「瞳子さん、僕白いご飯が食べたくなっちゃったから、今日は和食でもいいですか?」
「ふふっ。ちょうど私も和食がいいなって思ってたところなんです」
どちらからともなく手を繋いで歩き出した二人の吐く息が、連なる店の照明に照らされて白く仄かに浮かび上がる。
「わあ、お正月が終わったと思ったら、もうバレンタインかぁ……」
通りかかったパティスリーのウインドウを覗いた瞳子が呟くと、越川が「あ」と小さく声をあげた。
「そう言えば、バレンタインデーの週ですけど、僕大阪に一週間出張になったんですよ」
「えっ、そうなんですか……。じゃあ、その前の週に圭介さんに何かプレゼントを渡せたらいいな」
瞳子がそう提案すると、繋がれた手が僅かに強く握られた。
「あの……。じゃあ、僕からバレンタインデーのリクエストをしてもいいですか?」
「はい、何でしょう?」
「瞳子さん、お料理が好きだって言ってたじゃないですか。……だから、瞳子さんの手料理をリクエストしたいです」
過分なお願いをしていないだろうかと微かな不安が揺らぐ笑顔に、瞳子の心が再びこそばゆくなる。
「私の手料理でよければ、喜んで」
そう応えると、越川の表情に安堵の色が広がった。
「わ! やった!! めちゃくちゃ楽しみです!!」
「その週、ちょうどシフト休みが日曜日なんですよ。圭介さんとお休みが合わせられるタイミングでよかった」
「そっか。じゃあ、日曜日スーパーへの買い物も一緒にしましょうか」
休日のスーパーに二人で買い物に出かけるなんてまるで夫婦のようだと思うものの、実際このまま順調にいけばそう遠くない未来にそれが日常となるのだろう。
今日買った炊飯器だってそのうち自分がメインで使うようになり、越川のために白いご飯に合うおかずの献立を考えたりするのだろう。
“この人ときちんと向き合おう”
クリスマス・イブから胸の内に少しずつ積もっていた意思が、瞳子の口からその週末の別プランを申し出させた。
「あ、あの……。ご飯作るの、土曜日の夜でもいいですか? 私の会社が終わってからになっちゃいますけど」
「えっ? それだと忙しくて大変じゃないですか」
「でも、土曜日からうちに来てもらえれば……日曜日もゆっくり二人で過ごせるし……」
口ごもり震える声が最後は消え入りそうになったけれど、越川の耳にはしっかりと聞こえていたようだ。
歩みを止めて瞳子を見つめる越川の頬がみるみる紅潮していく。
「え……っ。それって……」
「……はい。“そういう” 意味のつもり……です」
「ありがとう……」
小さくそう言った越川の手が緩められた。
瞳子の手のひらとの隙間に冷たい空気が入り込んだのも束の間、瞳子の指と指の間に骨ばった指が差し込まれ、ぎゅっと力が込められる。
大胆な誘いをしてしまったことで、瞳子の心臓が早鐘のように打ち続ける。
“お幸せに”
そう告げて背中を向けた礼隆の寂しげな笑顔が頭をよぎる。
けれども、自分の発言に後悔や不安はない。
越川との未来に向けて、自分も前へ進んでいかなければ──
瞳子が越川の手をきゅっと握り返すと、越川もまたぎゅっと握り返す。
お互い気恥しくてしばらく言葉を交わすことができなかったが、絡めた指先の温もりは心の繋がりを確かに感じさせ、礼隆のひとしずくが心に残した小さな染みがさらに小さくなったように感じられた。
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