第17話 卑怯
「どうぞ中へ」
瞳子と礼隆を院内に招き入れた医師は、スイッチの切られた自動ドアを手で閉め、ロールカーテンを下ろすと診察室へと瞳子を
「礼隆は待合室で待っていなさい」
マスクを顔に当てながらいかにも父親らしい物言いをする医師に、礼隆はあからさまに不機嫌そうな表情を浮かべた。
「俺が看てたんだし、病状は俺が説明する」
「診察室に同行できるのは家族だけだ」
「……わかったよ。俺はどうせ家族じゃないしね」
「……それはどういう意味だ」
「別に……」
医師は軽いため息を吐きながら瞳子だけに向かって「どうぞ」と診察室のドアを開けた。
瞳子は戸惑いながらも「よろしくお願いします」と一礼し、中に入り椅子に腰掛けた。
「息子がお世話になっております」
医師は対面に座ると、まずはそう言って頭を下げた。
先ほど二人の間に流れていた空気からは親子仲が良い印象は受けなかったが、やはり息子の知人には挨拶の一つもせねばという父親としての責任からなのだろう。
しかし、彼は息子より明らかに年上の女をどう見ているのだろうか。
マスクで覆われてしまった表情からそれは窺えず、瞳子は曖昧に頭を下げる。
自分と礼隆の本当の関係を知ったら彼は一体どう思うのだろうと身を固くしながら。
*
財布に携帯していた保険証を提示しつつ今朝からの病状を告げると、礼隆の父親がパソコン上のカルテに内容を入力していく。
「やはりインフルエンザを疑った方が良さそうですね。この時間では検査するにはまだ少し早いけれど、それだけ高熱が出ていれば反応が出る可能性が高そうだからね」
検査を受け、待合室で礼隆と待つこと数分。
瞳子だけが再び診察室に呼ばれ、礼隆の父親からはインフルエンザA型の陽性反応が出たと結果を提示された。
会計処理が終わるまで待合室にいるように告げられ、瞳子は診察室を出た。
携帯を弄っていた礼隆が顔を上げる。
「やっぱりインフルエンザA型だって」
「やっぱり? そうじゃないかと思ってた」
「駅前の薬局なら、土曜のこの時間でも処方箋受け付けてくれるって」
「そう。じゃ、タクシーでそこに寄ってから瞳子さんちのマンションに向かおう」
「でもね、今さらかもしれないけど、やっぱり礼隆君に感染したら申し訳ないし……」
“だから、ここからは一人で帰るね”
その一言を繋げようとした途端、声にならなくなる。
動悸が早まり、喉に何かが詰まったように息苦しい。
瞳子が口を噤んでしまうと、身構えていたように彼女を見つめていた礼隆がふっと笑みを零した。
「……それ、マジで今さらだから」
決別を告げる一言をどうして言い出せなくなってしまったのだろう───
礼隆がタクシーを呼び出す間、瞳子はコントロールのきかない自分の心を持て余したまま黙って隣に座っていた。
*
会計も済み、ロールカーテン越しにタクシーのハザードが点滅するのが見えた。
「さ。行こう」
立ち上がる礼隆に、受付カウンターの中にいた父親が声を掛ける。
「礼隆、今日は父さんを頼ってくれて嬉しかった。また家へも顔を出しなさい」
「…………」
「それから……。母さんは、元気にしてるのか……?」
父親からのその問いかけに、無言のままドアを開けて出ようとしていた礼隆の手が止まった。
見開かれた礼隆の瞳が一瞬にして激情に染まる。
「……なんでそんなことを俺に聞くんだよ!? 知りたきゃ自分で連絡しろ!! 」
猛る炎をほんの一瞬上げた後、燻るような掠れ声で「瞳子さん、行こう」と呟くと、礼隆はそのまま建物の外へと出てしまった。
目を瞑って立ち尽くす父親に「ありがとうございました」と一礼し、瞳子もそそくさと礼隆に続く。
「駅前の薬局にまず寄って、それから
礼隆が行き先を告げたタクシーがハザードからウインカーに切り替え、ゆっくりと動き出した。
病院への行きよりもさらに重苦しさを増した車内の空気が瞳子の胸を押し潰す。
礼隆は顔を背けて車窓の外を眺めるだけで、僅かな表情すら窺うことができない。
薬局で薬を受け取りタクシーが再び動き出したところで、瞳子はねっとりした空気を大きく吸い込むと礼隆に向かって話しかけた。
「私のために、お父さんに診療をお願いしてくれてありがとう。……でも、そのために礼隆君には嫌な思いをさせちゃったのかな」
「…………」
空気がさらに重さを増した。
再び沈黙が降りてくるが、タクシーが広い街道へと出て速度を上げた辺りで顔を背けたままの礼隆が小さく呟いた。
「無防備に踏み込んでくるなよ……」
「え……っ?」
「もう会うこともないと思ってたのに、突然そんな弱った姿で俺の前に現れて……。最後に飲んだ時もそうだけどさ、いつもの瞳子さんじゃない無防備な時に限って俺に踏み込んでくるじゃない。そんなの卑怯だよ」
二ヶ月前、瞳子は酔いに任せて最後に自分を抱かなかった理由を礼隆に尋ねた。
そして今日、自分は熱に浮かされたまま結婚したくない理由を尋ね、彼を抱き締めた。
無防備に踏み込んだというのは、それらを指して言っているのだろう。
けれど、それを言うならば──
「礼隆君だって卑怯だよ……。深く傷ついている心をずっと隠していたくせに……」
“やっぱり狡い女になってよ”
そう言って瞳子のマスクを剥がそうとした、あの時の礼隆の縋りつくような眼差しを思い出し、胸がちりちりと熱くなる。
「礼隆君が隠し通したいのなら、私のことなんか放っておけばよかったのよ……。少なくとも、私をお父さんのところになんて連れて行くべきじゃなかった」
「瞳子さん、かなりの高熱を出していて辛そうだったじゃない。そこを強がったって仕方ないだろ」
「でも、私は礼隆君のことをこんなに深く知るべきじゃなかった」
「この程度で俺のことを深く知っただなんて思い違いもいいとこだよ」
言葉では互いに詰りながらも、どちらからともなく求めた指先が静かに絡められる。
互いの心を寄せ合うかのように、触れた手のひらを重ね合わせる。
踏み込みたい心を誤魔化して、“これが最後” という言葉で己を傷つけまいとする自分は確かに卑怯だ。
けれども、偶然や優しさを盾にして、瞳子に踏み込ませたことを認めない礼隆もやはり卑怯だと思う。
踏み込んで傷つくことを恐れるのならば、
踏み込まれて傷つくことを恐れるのならば、
離れればいい、ただそれだけのことだ。
なのにどうして自分達は今手を繋いでいるのだろう。
どうしてこの瞬間がこれほどまでに愛おしいのだろう────
*
繋いだ手は解かれることのないまま、やがてタクシーは速度を落として瞳子の住むマンションに近づいた。
エントランスの植栽を囲むタイルの縁に腰掛ける人影が見える。
真冬の夕方、凍てつく薄闇に溶け込むことなく佇むその姿は、瞳子の帰りを待つ越川圭介のものだった。
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