第9話 躊躇

 乗り入れ先の地下鉄から私鉄のホームへと滑り込んできた車両は、瞳子がいつも利用する通勤快速よりも空いていた。

 車両に乗り込み、反対側のドアの脇に立つ。この程度の混み具合ならば痴漢に遭うこともなさそうだと安心したところで列車が動き出した。


 ドアに嵌め込まれたガラスに自分の顔が映っている。

 アルコールと楽しい会話の余韻で頬はまだ熱をもっているはずなのに、夜闇に透けた表情は色を失くして寂しげに映る。


 自分は寂しいのだろうか。


 月曜日の夜に礼隆に会えず、寂しいのだろうか──


 会食の初めに礼隆の存在を意識の表層に引き上げられてしまってから、いくら沈めようとしてもふと気を緩めるとそれはすぐに浮き上がり、瞳子の心を波立たせる。


 浮かび上がったままでは、考えずにはいられなくなる。

 礼隆とのこれからを。


 再び彼の存在を沈めるために、瞳子はハンドバッグから携帯を取り出し、新着メッセージを確認した。


「今日は瞳子さんにお会いできて、とても楽しく幸せな時間を過ごせました。ありがとうございました」


 案の定、別れて間もない時刻に越川からのメッセージが届いていた。

 心躍るような飾り立てた言葉も、射抜かれるような情熱的な言葉もない。

 こういう素朴で実直な相手を自分は望んでいたはずだ。彼とならば、今までの恋人とは成し得なかった心の繋がりを築いていけるような気がする。


 返信しようと文字入力画面を表示させた時、列車が次の駅に到着した。

 ぱらぱらと乗り込んでくる人々。

 視界の端にアッシュグレージュの頭が映り、瞳子は思わず顔を上げた。


 向こうも瞳子に気づいて目が合う。


「れ…………」


 名を呼ぶ声が喉の奥に詰まった。


 彼は女を連れていた。


 礼隆の腕に絡みつき、若い女性が幸せそうに顔を綻ばせている。


 礼隆の反応を見る前に、瞳子は思わず目を逸らして俯いた。

 顔を上げることができないまま、携帯の画面をじっと見つめる。

 先ほど頭に浮かんでいた越川への返信の言葉は頭の中を必死で探してももはやどこにも見つからなくて、空っぽになった頭には嫌な速さの鼓動だけがどくんどくんと響いている。


 それでも瞳子は携帯を見つめ続ける。


 視点を縫いつけておく物がなければ、反対側のドアの傍に立つ二人に視線を奪われてしまいそうだった。

 越川からのメッセージが浮かぶ画面に意識を集中させていなければ、時折聞こえてくる女の笑い声に耳をそばだててしまいそうだった。


 やがて礼隆のアパートの最寄り駅に到着し、乗客が減ったことで車内の淀んだ空気が薄らいだ。

 扉の閉まる音。

 揺れを合図に列車が走り出して、瞳子は携帯に縫い止めていた視線を恐る恐るほどいた。

 先程の場所にすでに二人の姿はなく、安堵とも失望とも分からない息をほうっと吐く。

 この十分ほどの間に胸に充満していた泥のようにねっとりと重い空気を吐ききると、瞳子の唇から零れたのは乾いた笑みだった。


 縛らない、踏み込まない、二人の関係。

 月曜日の夜だって、自分に与えられた特別な時間というわけではない。

 枠が空けば、そこに別の誰かが入り込むだけのこと。

 彼にとって、月曜日の夜は都合のつく誰かと会ってセックスをする、ただそれだけの時間なのだ。


 礼隆の人生の列車は、自分が途中下車をしたって入れ替わりで誰かが乗り込むことで、滞るなく進んでいく。

 そう考えると降りるタイミングを悩んでいた自分がなんだか馬鹿らしくなってきて、瞳子はもう一度深く息を吐いた。


「今日は美味しいご飯をご馳走様でした。こちらこそ、とても楽しい時間を過ごせました。またお会いできたら嬉しいです」


 開きっぱなしの文字入力画面に、ありきたりな言葉を入力して送信する。

 ほどなくして既読がつき、越川からは次の約束を近々に決めましょうとの返信が届いた。


 ***


「瞳子さんにお願い! 牛乳を切らしちゃったから、今日来る時に買ってきてもらってもいいかな」


 先週から礼隆とは一度も連絡を取り合っていなかった。

 彼から連絡が来ないのは、月曜日の夜の枠を埋めるセフレが他に見つかったからなのだろうと思っていた。

 このまま何一つ言葉を交わさないまま終わるのだと思っていた。それなのに。


 翌週の月曜日、定時に会社を上がりオフィスビルのエレベーターに乗っている間に礼隆からのメッセージが届いた。


 無邪気なメッセージが、瞳子の心を激しく波立たせる。


 すし詰めのエレベーターから吐き出されると、瞳子はエントランスホールの隅に立ち、躊躇いながら返信メッセージを入力し始めた。


「今日は行くのやめとくね」

 一旦入力したメッセージは、送信せずに消した。


「今日は私が行ってもいいの?」

 そう入力したメッセージも送ることはできなかった。


 空白に戻したメッセージ入力欄をしばらく見つめる。


「了解。コンビニで買っていくね」


 そう返信して、ビルを出た。


 ***


「いらっしゃい」


 呼び鈴を押すと、程なくして礼隆がアパートのドアを開けた。


「ついでにプリン買ってきちゃった」


 戸惑う気持ちを隠すよう、瞳子が顔の前にコンビニの袋を掲げて見せると、礼隆は無邪気に笑った。


「俺、プリン大好物なんだ。ありがとう! でもまずはお風呂であったまるでしょ? プリンは冷蔵庫に入れておくね」


 ドアを片手で押さえながら袋を受け取り、瞳子が入るのを待ってドアを閉める。


「忘れないうちにお金払うよ。いくらだった?」

 プリンと牛乳を冷蔵庫にしまいながらそう尋ねる礼隆に、「プリンが食べたくなってコンビニ寄ったようなものだし、気にしなくていいよ」と返す。


 そんな何気ないやり取りの間に戸惑う気持ちは呆気なく溶け去り、瞳子は胸が高鳴るのを自覚する。


 失いかけた礼隆との月曜日を取り戻せた喜び。

 プリンが大好物だという一点を発見できた喜び。


 石のつぶてが湖面に波紋をつくるように胸の内に喜びが広がるも、思い出したように投げ入れられた別の礫によって新たな波紋が広がり出す。


 一週間前に電車で見かけた女は自分と同じセフレなのだろうか。

 電車で鉢合わせたことは礼隆もわかっているのに、そこに触れるのはやはりルール違反になるのだろうか。

 自分の空けた穴を一欠片の罪悪感もなく別の女で埋める彼と、いつまで関係を続けるのだろうか────


 ***


 その晩、瞳子はいつもより高く声を上げた。

 いつもより強く礼隆にしがみついた。

 いつもより深く繋がろうとした。


「……お願い……もっと……」

「どうしたの? 今日はすごくエロいね……。最高」

「最高? うれし………」


 溢れ出てきそうな感情を、礼隆の唇で塞ぐ。

 求めたくて伸ばした手を、礼隆の背中に回す。


 頭から爪先、そして心まで、全てを快楽の深いところまで沈めていなければならなかった。


 そうしていなければ、せめぎ合ういくつもの波紋が胸の内でどんどん増幅し、瞳子の心はぐちゃぐちゃに荒れてしまいそうだった。

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