第10話 承諾
越川と二人きりで会う初めての食事は、繁華街に多くの人が溢れる金曜日の夜となった。
火曜日定休の瞳子に合わせ、越川からは来週月曜日の夜にどうかと提案があったのだが、今度はそちらの休みに合わせたいと告げて前倒しての金曜日を指定したのだ。
瞳子の通勤ルート上にあるターミナル駅で待ち合わせ越川の案内で入った店は、メインストリートの一本裏通りでレトロモダンなネオンを煌々と煌めかせるアメリカンダイナーだった。
オールディーズが流れる小洒落た店内に入ると、革張りのソファに腰掛けながら瞳子は店の内装を見渡した。
「越川さん、こういうお店知ってらっしゃるんですね。なんだか意外」
「そうですか? 実は僕、洋楽のレコード鑑賞が趣味なんですよ。……とか言いつつ、実はこの店はネットで探したんで初めて来たんです。あっ、オールディーズが好きなのは本当ですけど、普段はもっぱら自宅で聴いているので……」
ネットで探したなんてことをわざわざばらさず、流れる音楽の蘊蓄を並べ立てていれば、きっと瞳子は越川がこの小洒落た店の馴染み客だと信じて疑わなかっただろう。
気恥しそうにはにかんでからドリンクメニューに視線を落とす越川の前で、瞳子はくすぐったいような笑い声を漏らした。
「ふふっ。越川さんて、すごく正直な方なんですね」
その声に視線を上げた越川は、瞳子が自分に向ける眼差しを真っ正面に受けると、少年のように頬を染めた。
「あっ、余計なこと言いましたよね、僕。いい歳してスマートなリードができずお恥ずかしい限りです」
「いいえ、そんなこと。オールディーズがお好きだってことは、今かかってるこの曲もご存知なんですか?」
「ええ、この曲は僕もレコードを持ってるんですけど……って、語り出すと長くなってしまうんで、まずは飲み物を選びませんか?」
自分も彼の前で取り繕うのはやめよう。
瞳子はカクテルのページを閉じ、迷わずビールをジョッキで注文した。
互いにジョッキを合わせて乾杯してからは、フライドポテトやカットステーキを頬張りながら越川のレコード談義に耳を傾けた。
越川の口ぶりは決して知識をひけらかすようなものではなく、時折ジョークを交えながらわかりやすく説明してくれるため、瞳子も飽きることなく楽しく聞くことができた。
饒舌ではない越川は瞳子との会話を何とか弾ませようと、自身の趣味の話ができるこうした店を瞳子の出向きやすいエリアに限定して探したに違いない。
初めて会った店よりも大衆的で開放的な雰囲気の中、飾らない彼の人となりや趣味の音楽を語る時の楽しそうな笑顔に触れることを瞳子は心地よく感じていた。
乾いて固く縮こまった
越川への信頼感と安心感が確かな質量をもって瞳子の中に積もっていると感じた頃。
「そろそろお開きにしましょうか。瞳子さんは明日もお仕事ですし、楽しいからと言ってあまり引き留めるのも申し訳ないですしね。次はそちらのお休みに合わせて、もっとゆっくりとお話できたら嬉しいです」
照れながらも真っ直ぐに向けられた越川の微笑みが、柔らかくなっていた瞳子の心に鈍く食い込んだ。
瞳子の休みに合わせるということは、次に会うのは月曜日の夜を考えているのだろう。
「あ……えっと……。今度は昼に会いませんか? 実は来週の日曜日がシフトの休みになるんです。食事だけじゃなくって、映画とかショッピングとか楽しめたらいいなって思って……」
気まずさと罪悪感で歪む口元を見られないよう顔を俯けると、弾む越川の声が耳に入ってきた。
「えっ!? 貴重な週末のお休みに僕との予定を入れてくれるんですか? それならばもっとゆっくりとお会いできますね! いやあ、嬉しいなあ。楽しみだなあ……!」
清らかなもので満たされていたはずの心が、あっという間に濁っていく。
羽が生えたように上機嫌な越川を前に、泥で胸を塞がれたように息苦しくなっていく。
その苦しさを受け入れてでも、月曜日の夜は空けておきたい。
愚かしいと嘲笑う声も、誠実であれと叱咤する声も、どちらも自分の内から聞こえてくるものだった。
耳を塞ぐ代わりに、瞳子はジョッキに残っていたビールを息も継がずに飲み干した。
***
久しぶりの週末休みに繰り出した街は、もうすっかりクリスマスムードに満ち溢れていた。
手を繋ぎ腕を絡める何組もの恋人達とすれ違いながら、映画館を目指し越川と並んで歩いていく。
「映画、どれにしましょうか。上映時間まで間があるようなら、先にお茶にしてもいいですし」
当日の気分で観るものを決めたいと言う瞳子の希望を快諾してくれた越川が、チケット売り場の電光表示を指さしながら笑顔を向ける。
クリスマスや正月が近いため選ぶのに迷うほど多くの映画が上映されていたが、瞳子はその中で上映時間がちょうど良く大人でも十分楽しめると前評判の高いディズニー映画を選んだ。
家族連れも目立つシアターで上映された映画は、壮大なストーリーではなかったものの、最後にはじんわりと心に染み入るものがあった。
「やっぱりディズニー映画は心に訴えてくる美しさがありますね」
そう感想を述べながら明るい廊下に出た越川の目は少し赤く潤んでいて、映画の余韻が残る瞳子の心にさらに温かなものが積もっていく。
冬至が近い午後の日差しは映画館を出る頃には既にオレンジ色を含み始めていた。
お茶をして夕食にちょうど良い時間になるまでの間を、イルミネーションが灯り始めた街路を歩きながら気の向いた店に入りウィンドウショッピングを楽しむ。
デートらしいデートをするのは久しぶりだったが、瞳子はこの時間を穏やかな気分で過ごしていた。
相手に聞こえてしまうんじゃないかと気にするほど胸が高鳴ることもない代わりに、こうあらなければならないと
他人の見る目を気にしすぎて脱ぐことのなかった瞳子の鎧を外したのは礼隆だった。
その事実を思うと針を深く刺し込まれたような痛みが胸に走ったけれど、今はその痛みを甘んじて受けよう。
彼と結んだ関係は、重く歪んだ自分の鎧を脱ぎ捨てて次の恋愛に持ち込まないために必要なものだったのだから。
***
瞳子はすでに決意していた。
四日前の月曜日、礼隆に抱かれてようやく思い至ったのだ。
礼隆の腕の中で快楽の海に溺れるほど、心はからからに乾いていく。
息もできないほどの愛撫に浸されているのに、彼の心は一雫たりとて瞳子の心に染みてくることはない。
募る乾きは、息が喉にへばりつき胸を掻き毟りたくなるほどに苦しいものへとなりつつある。
けれども、腕を伸ばして求めても──いや、腕を伸ばして求めた瞬間に、オアシスの淡い幻影は霧散して砂漠の只中に放り出される末路が見えている。
求めるべきではないことなど、初めからわかっていたはずなのだ。
だから────
「僕は瞳子さんとクリスマスを恋人として過ごしたい。……僕と正式にお付き合いしていただけないでしょうか」
越川からそう告げられた時、瞳子は躊躇うことなく「よろしくお願いします」と深く頭を下げた。
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