第8話 誠実

 越川圭介は、美月から見せられた写真の印象どおりの人物だった。


「初めまして。越川圭介と申します。本日はお時間を割いていただけて光栄です」


 頬を染め堅苦しい挨拶をする越川から滲み出る緊張が、逆に瞳子の緊張を和らげた。

 朴訥として誠実な人柄であることが窺い知れて、ハンドバッグの持ち手を握りしめていた手から余計な力が抜けていく。


「初めまして。梓川瞳子です。こちらこそ、週明けのお忙しい日にこちらの都合に合わせてくださりありがとうございます」


 越川に合わせて丁寧に頭を下げると、苦笑気味の高坂夫妻が「堅苦しい挨拶はそこまでにして楽しく食事しましょうよ」と二人に椅子を勧めてくれた。


 高層ビル群の中にあるホテルのレストランフロアは、月曜日の夜にもかかわらずそこそこの人で賑わっていた。

 その中でも夜景が綺麗に見えると評判の高いカジュアルフレンチダイニングの窓際の予約席に、男女二組が向かい合って座る。


「こんなに夜景が綺麗に見える席、半月前でよく予約取れたわね!」

 美月が正面に座る夫の博之に身を乗り出して話しかけると、ワインリストを広げた博之が得意気に微笑んだ。

「俺の直属の上司がこの店のオーナーと知り合いだって聞いて相談したんだ。越川さんのお見合いなら俺もひと肌脱ぐって上司も言ってくれてさ。マグノリアトーキョーの最上階ラウンジと迷ったんだけど、こちらにして正解だったな」


 博之の口から何気なく出されたホテル名に瞳子の心臓が跳ねた。

 マグノリアトーキョーは、瞳子が礼隆に初めて会った場所だ。

 純也との苦い思い出が残る場所という印象よりも礼隆のバイト先であるという事実が瞳子の体を強ばらせ、そこを避けられて良かったという安堵の息が漏れる。

 それと同時に、今日はなるべく押し込めておくつもりだったのに、不意に垂らされた言葉の釣り針によっていとも簡単に彼の存在が引き上げられたことに、疼きのような困惑が胸の内に広がっていく。


 波立つ心を落ち着かせようと、目の前のグラスに注がれるワインの赤色をじっと見つめた。


「では、今日の出会いに乾杯!」


 高坂夫妻の音頭でグラスを傾けた後は、穏やかで落ち着いた会話がテーブルの空気をほぐしていく。


 ワインでいくらか滑らかになった越川の口調はやはり大人の男性のそれで、こうした場所での会食もそこそこ場慣れしているように見えるのは、三十二歳という年齢相応だろうと好ましく感じられる。


 そういう意味では、やはり礼隆は年の割にこなれ過ぎていて可愛げがない。

 学生には分不相応な場所でもスマートに馴染む彼の姿が容易に想像でき思わず苦笑した瞳子だったが、不意に名前を呼ばれて慌ててフォークを取り落としてしまった。


「あっ、ごめんなさい……!」

「いえ、僕が急に名前を呼んだから驚かせてしまいましたね」

 越川は穏やかな笑顔でそう言うと、店員を呼び止めフォークを取り替えてもらえるように丁寧な物腰で頼んでくれた。


「いきなり “瞳子さん” なんて下の名前でお呼びするのは図々しいですよね」

 申し訳なさそうに眉根を寄せる越川を見て、瞳子は初めて彼が礼隆と同じ呼び方で自分の名を呼んだことに気がついた。


“瞳子さん……”


 掠れる礼隆の声が再生され、鼓膜に甦る吐息の熱が瞳子の意識を支配しそうになる。




 いけない。

 特別になっては、いけない。




「いえ。呼んでください……。その呼び方、嬉しいです」


 その言葉をくさびとして、瞳子は意識をこの場に繋ぎ留めた。

 越川が安堵の微笑みを浮かべたことに応え、瞳子も彼に笑みを贈る。


 越川の声で、鼓膜の熱が冷めればいい。

 そんな淡い期待を込めつつかき上げた髪を耳に掛けると、瞳子は心地よく流れる四人の会話に耳と心を傾けた。


 食後のコーヒーが出されたのを合図に越川と連絡先を交換し、和やかな空気のまま会食は締められた。


 今日の会食のお礼を伝え合い、いくつかのたわいない会話を挟んだ後は、二人きりの食事の約束を交わすことになるだろう。

 二人の時間を重ねていくことで信頼関係を築き、満を持してなされるプロポーズを素直に受け、その後は両家に挨拶に行って、式場探しや結納の準備に忙しくなって……。


 結婚に向かって敷かれたレールは、どちらかが途中下車しない限り、このまま至極順当なルートを辿りながら終着駅まで二人を運んでいくはずだ。

 この先越川に誠実さを欠く言動がない限り、瞳子の側から途中下車を申し出る可能性は少ないように思われる。

 そして今日、越川が瞳子を見つめる眼差しからは、彼の方も同じ行き先の列車に乗り込むことにやぶさかではない印象を受ける。


 このまま進み始めたら、自分はどこで礼隆に導かれたレールを降りればいいのだろうか────


「瞳子さん。今日はとても楽しかったです。ありがとうございました」


 越川の声で我に返り、瞳子は慌てて頭を下げた。


「こちらこそ、結局ご馳走になってしまいすみません。今日のお礼はまた改めて連絡します」

「お気になさらないで下さい。高坂さんから見せていただいた写真以上に素敵な方にお会いできただけで嬉しいので」


 気恥しそうに、けれども真っ直ぐに向けられた言葉が社交辞令には受け取れなくて、瞳子は恐縮して顔を俯けた。

 そんな彼女の横に立つ美月が、瞳子の肩を抱きながら冗談めかして越川を囃し立てる。


「そうですよぉ。瞳子ちゃん、見た目は派手目の美人さんだけど、中身はとっても真面目で控え目な良い子なんです。大切に扱ってくれなかったら、越川さんを恨みますからね!」

「はい、もちろん。今日お話してみて、内面も素敵な方だというのがわかりました。大切にお付き合いさせていただきます……って、その、お付き合いっていうのはまだそういう意味じゃなくてですね……」


 急に慌て始めた越川に、高坂夫妻が声を出して笑っている。

 けれども、瞳子は俯けた顔を上げることができずに口角だけを僅かに引き上げてみせた。


 真面目な女がセフレなんかを作るだろうか。

 控え目な女が快感に溺れるだけのセックスを欲するだろうか。


 越川が自分に誠実に向き合おうとしてくれているのに、今のままの自分では越川に真っ直ぐ向き合うことは許されないような気がする。


 向かう方角も、終着の駅の名もわからない礼隆との関係は、今すぐにでも降りるべきなのかもしれない。


 頭に浮かんだその選択を即座に受け入れようとして、喉につかえるような息苦しさを覚えた。


 越川と笑顔で別れ、高坂夫妻ともターミナル駅で別れると、瞳子は月曜の夜の降車駅を久しぶりに自宅の最寄り駅に定めて通勤快速に乗り込んだ。

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