第7話 情欲

 越川と高坂夫妻を交えての食事会は、二週間後の月曜日にセッティングされた。


 瞳子と美月の会社の休みを考慮してくれた上での設定だが、そのために礼隆のアパートに行くことになっている日とバッティングしてしまった。


「来週なんだけど……。予定が入ったからここには来られないわ」


 礼隆のアパートに着きトレンチコートをハンガーに掛けながら、伝え忘れないうちにと瞳子は彼にそう告げた。


 ハンガーを受け取りながら、礼隆は「そう」とだけ返し、それをカーテンレールにぶら下げると、いつもと変わらない笑顔で振り向いた。


「コートが冷たいね。ここまで来るのに冷えたでしょう。お風呂沸かしてあるから、まずは温まってきたら?」

「あ……。うん、そうするね。ありがとう」


 ひんやりした廊下に出て、狭い洗面所で服を脱ぐ。


 礼隆のアパートに通うようになってから、月曜日に会わないことになるのは今回が三度目のことだ。

 過去の二度は、瞳子の月のものが来たために取りやめた。

 会いたい時だけ会う、やめたくなったらいつでも打ち切る、そう取り決めた関係だったが、これまで礼隆の方からキャンセルの申し出がなされたことはなかった。


 理由を尋ねられるかと思ったが、彼は明らかに時期のずれたキャンセルを全く意に介する様子なく、さらりとそれを受け流した。


 やはりそこはセフレとして、踏み込んでも踏み込ませてもいけない部分なのだろう。

 瞳子はそう納得すると、熱いシャワーが冷えた肌をぴりぴりと刺す感覚に意識を集中させた。


 バスタブで体の芯まで温まり、心も体もすっかりほぐれたところで風呂を出る。

 脱衣所に置かれた籐のバスケットには、いつものように瞳子のために用意されたタオルと部屋着が入っている。

 夜毎寒さを増してくる季節。用意されていた部屋着は、これまでのトレーナーからフリース素材のルーズタートルネックセーターに変わっていた。


 湿った髪のまま頭から被ると、礼隆の愛用している柔軟剤の香りが鼻をくすぐる。

 けれども服の繊維に織り込まれているのは、いつも顔を埋める彼の胸の匂いとは違う、甘くて柔らかな匂い。


 自分のほかに、この部屋着に袖を通しているのはどんな女性達なのだろう。


 初めて着た部屋着のせいか、ふとそんなことを考えていることに気づき、瞳子はその思考を拭い取るように乱暴に髪を拭いた。


 部屋のドアを開けると、バラエティ番組をつけっぱなしたまま、礼隆はソファでうたた寝をしていた。

 腰を深く沈め、首を左に傾けて腕組みをしたまま穏やかな寝息を立てている。

 隣に座ってみたけれど起きる気配はなく、大きく開いた腿の上にそっと手を置いてみたが、何の反応もない。


 ゆっくりバスタブに浸かりすぎたせいで、待ちくたびれてしまったのだろうか。

 いつもならば、瞳子の肌は湯上りの火照りが冷めぬうちに礼隆の唇に触れられ、再び熱が灯される。

 けれども今日はすぐに触れてもらえないことに、胸の奥が疼き始める。


 理性を手放すことが怖く、相手の反応ばかりが気になって、セックスは好きでないはずだった。

 なのに今は早く肌を重ね合わせたくて、体の奥からじわりと勝手に熱が広がっていくのだ。


 声をかけて起こそうと礼隆に体を向け、息を吸い込みながら彼の顔を見つめる。


 柔らかく毛先が踊るアッシュグレージュの髪。

 影を落とす長い睫毛。

 すっきりと通る鼻梁。

 白く滑らかな頬。

 薄く形の良い唇。


 思えば彼の寝顔を見るのは初めてだった。

 人懐こくも隙のないいつもの笑顔とは違う、無防備で幼さを滲ませる表情。


 細やかな優しさを見せる一方で、踏み込むことを許さない。

 彼の普段のそんな態度は、弱い自分を晒さないための虚勢なのではないだろうか。


 そう思うと、眠ることでようやくその虚勢を脱いだ礼隆を安らかなまま休ませてやりたい気がする。


 体の芯に灯った熱を細く長い息と共に吐き出すと、瞳子は立ち上がり、ベッドから毛布を持ち出した。

 彼の横に跪き、そっとそれを掛ける。

 礼隆が起きる気配はない。


「今日は帰ることにするね」

 小さな声で囁いてみる。

 やはり反応はない。


 眠り続ける彼を前に、境界を超えるまいと胸に仕舞い込んでいた言葉がするすると喉を這い上がってくる。


「実は来週、ある男性と会う予定なの。結婚を前提とした真剣な交際を希望している人なんだって。会ってみて良い人だったら、付き合うことになるかもしれない。……礼隆君には関係ないことだろうけれど、一応報告しとくね」


 何の反応も戻ってこないことを確かめて、ほっと安堵の息を吐く。

 テレビを消し、借りた部屋着から通勤着に着替え直そうと服を脱ぎかけた時だった。


「瞳子さん……?」


 掠れた声に振り向くと、瞼を半分開けた礼隆が背もたれに沈んでいた背中を少し浮かせて瞳子を見つめていた。


「あ、起こしちゃったかな? 疲れてるみたいだし、今日は帰るね」


 脱いだルーズネックタートルを洗濯に出そうと手早く畳み、ハンガーに掛けたセーターに手を伸ばそうとして、いつの間にか立ち上がっていた礼隆に後ろから抱きしめられた。


「……タイミング悪すぎでしょ」


 不機嫌そうな寝起きの声にたじろぐ。


「えっ……」

「下着姿見せられて帰るねって言われて、帰せるわけがないでしょ」

「別に、わざと見せたわけじゃ……」

「わかってる。だからタイミング悪いって言ったの」


 セーターに向かって伸ばした腕を、礼隆の手が優しく掴んで引き寄せた。


「瞳子さんは、今日はもうシたくない……?」


 引き寄せた指に口づけながら、礼隆が瞳子に尋ねる。

 たったそれだけで消したはずの熱を簡単に灯された瞳子が首を縦に振れるわけがない。


「俺は、瞳子さんとシたい……」

 尋ねたくせに瞳子の答えは求めていないと言った様子で、礼隆が無遠慮に攻め立て始める。


「ごめんね。体冷やしちゃったね。布団に潜ろうか」


 体の力が抜け始め、立っていられなくなりそうな頃合いを見計らって礼隆が囁いた。

 大人の目の届かない場所で悪戯をしようと誘うような笑顔に、瞳子の口元も思わず緩む。


 羽毛布団の中で、二人の火照りが混じり溶け合う。

 視覚情報が閉ざされた分、礼隆がどこをどのように触れてくるのかわからなくて、緩急織り交ぜた刺激が稲妻のような熾烈さで脳に駆け上がってくる。

 快楽の深い沼に全身を引きずり込まれ、瞳子は初めて “溺れる” という感覚の中で意識を手放した。


 揺蕩たゆたう意識の中、瞳子は揺れ動く礼隆の背中に腕を回し、彼に縋りついていた。


「瞳子さん……」


 礼隆が熱い吐息混じりに瞳子の耳元で囁く。


「俺に執着を見せないで……。終わりにしなきゃいけなくなるから……」


 切れ切れの息に混じらせるせいで、その言葉はとても切なげに聞こえた。


 溺れる瞳子をいつも以上に慈しみながらも、絡まる舌は乱暴に情欲をぶつけてくる。


 ずるい────


 なじる言葉が浮かびつつも、彼の背中に回した腕はますますきつく絡みつき、欲情のうねりが瞳子の体を震わせる。


 息苦しいほどの快楽に溺れたまま、瞳子は残っていた思考の欠片すらも自らで沈め、もう何も考えるまいと礼隆の唇に吸いついた。

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