第2話 再会
[仕事が激務となり、恋愛に時間を割けなくなった。このままでは瞳子を悲しませることになるから、付き合いの浅いうちに別れてほしい]
瞳子の予期していた通り、純也は二週間ほど音信不通になった後にもっともらしいメッセージを送ってきた。
これを彼なりの優しさだと受け取れるほどさすがに自分も初心ではない。この手の別れ話はもう何度も経験しているのだから。
「わかった。仕事がんばってね」それだけ送り返すと、瞳子は携帯をショルダーバッグにしまい、通勤快速を待つホームの列の最後尾についた。
純也を失う辛さよりも、また駄目だったかという落胆の方が強い自分に気づき、知らず苦笑いが漏れる。
どうして人は見た目ばかりで私を判断するのだろう。
そんなことを誰かに愚痴ろうものなら、贅沢な悩みだという筋違いの嫉妬を買うだけなのは経験則で知っている。
やるせなさを吐き出す場所をどこにも見つけられないまま、瞳子は列の動くままに人いきれのする車内へと吸い込まれていった。
電車に座って乗るためいつもならホームの列の先頭に並ぶのだが、今日は純也との別れのメッセージをやり取りしていたために、いつもの電車の列につくのが遅くなった。
車内のあちこちで抜け落ちていた空席は先に並んでいた乗客たちによって埋められてしまい、瞳子が確保できる座席はなくなってしまった。
降りて次の電車を待とうと踵を返したが、目の前でプシュッとドアが閉まる。
仕方なく次の停車駅で空いている各停に乗り換えようとドアの脇に立った。
ガタンゴトン。ガタンゴトン。
夜闇を額に入れたような車窓のガラスに、大嫌いな自分が映る。
男好きのするプロポーションと、美人の部類に入る派手目の顔立ち。
何も知らない人達は恵まれていると言うけれど、瞳子にとっては災厄でしかない。
男性経験が豊富だと思い込まれ、初めて付き合った相手との初体験は半ばレイプのようだった。
同性からも男に媚びていると勘違いされ、言われなく敵視される。
地道な就職活動で何とか手に入れた大手通信会社の事務職は、上司のセクハラのために退職を余儀なくされた。
そしてたった今も、誠実で優しい印象だった純也でさえ結局は瞳子の体目当てだったのだという現実を突きつけられたばかりだ。
どうすれば、本当の私を受け入れてもらえるのだろう。
体ではなく、私の心に触れてくれる人はどこにもいないのだろうか――――
ぼんやりとそんなことを考えているうちに、次の停車駅に到着した列車は再び大きな口を開け、先ほどよりも大量の乗客を飲み込み始めた。
うっかり下車するタイミングを逃した瞳子は、乗り込んできた通勤客達に中へ中へと押し込められる。
この場所はまずい。
次の停車駅ではせめてドアの入り口付近、身を守れる位置に移動しなければ……!
焦る瞳子だが、無情にも予想通りのことが起こってしまった。
腰のあたりにごつごつとした手があたっている。
初めは電車の揺れに合わせるかのように。けれどもそれは次第に接触の頻度を上げ、固い拳の感触から手のひらの感触へ。
タイトスカートの上から瞳子の尻をまさぐり出したのだ。
ああ。やっぱり標的にされてしまった。
これだから、通勤電車では必ず座席に座るように気をつけていたのに……!
身動きの取れない車内でできる限り身をよじらせても、手のひらは執拗に瞳子の腰を追ってくる。
吐き気のするような手の動きに、叫び声が喉まで出かかった時だった。
「おっさん。何やってんの?」
唸るような低く鋭い声。
俯いた顔を上げて振り返ると、二人ほど隔てた向こうに、周囲より頭一つ飛び出たアッシュグレージュの柔らかな髪が見えた。
「俺の高さからだと、アンタが何してんのかばっちり見えんだけど」
電車の走行音だけが響いていた車内で突然発せられた声に、周囲の空気がざらりと揺れた。
「俺は……何も……」弱弱しい声が消え入ると同時に、瞳子の腰にあった不快きわまりない感触も消え去る。
痴漢を咎める空気と、無関心を装う空気が綯い交ぜとなったまま列車はひた走り、次の停車駅で膨れ上がったそれを吐き出した。
痴漢をはたらいたと思わしき男は、我先にと他の乗客を押しやって車外へと逃げていく。
「ちょっ、待てよ……っ!」
アッシュグレージュの髪の男がそれに続いて列車を下りる。
躊躇う瞳子だったが、下車する乗客の流れに任せて同じホームへと降り立った。
「くっそう……っ! 逃げられた」
背中を向けて悔しがる男へ歩み寄り、瞳子は頭を下げた。
「あの、ありがとうございました」
顔を上げて、息を飲んだ。
この顔――――
あの時のホテルの清掃員だ!
強張る瞳子の顔を見て、彼は心配そうに眉を寄せる。
「大丈夫? 辛かったでしょう」
彼は自分のことを覚えていないのだろうか。
「あ……はい……。でも、早めに声をかけていただけたので」
“ヤり逃げ” された女だと彼が思い出す前に立ち去りたいと思った瞳子は、なるべく顔を見られないようもう一度深くお辞儀をした。
「本当にありがとうございました。私はこの駅で降りますので、ここで失礼します」
顔を伏せたまま通り過ぎようとした彼女に、彼は明るく声をかけた。
「そうなんだ。俺もこの駅で降りるから、途中まで送っていきますよ」
「えっ!?」
しまった! 一刻も早く彼の前から立ち去りたくて吐いた嘘なのに。
本来ならばもう二つ先の駅で降りるはずの瞳子は焦った。
「あっ、あのっ、寄るところがあるから大丈夫です……!」
「どこに寄るの? コンビニくらいなら付き合いますよ?」
「あ、いえ、その……」
オフィス街と住宅街の境界線に位置するこの駅に、どんな店があるのかなんて見当もつかない。
口ごもる瞳子を見つめていた男が、ぷっと吹き出した。
「ごめんごめん。ちょっとからかいたくなっちゃった。本当はこの駅で降りるつもりじゃなかったんでしょ?」
「えっ……?」
「ホテルでもそうだったけど、おねえさん、すぐ顔に出るんだもん。素直でかわいいよね」
その言葉に、心臓が握りつぶされたかのように息が詰まる。
彼は自分を覚えていた。そしてすべて見透かされていた。
ぞわりと背筋が凍るのに、年下の男が発した「かわいい」という言葉に年甲斐もなく顔が熱くなる。
「からかわないでください……! 本当にこの駅で降りて、飲んで帰ろうと思ってたんですっ」
向きになってさらに嘘を重ねると、アッシュグレージュの髪を掻き上げながら、男がふふっと笑った。
「一人で飲みに行くつもりだったんですか? じゃあ俺も付き合いますよ。おねえさん」
今さらそれも嘘でした、なんて。これ以上彼の前で弱みを見せたくない。
「じゃ……じゃあ、勝手にすればっ!?」
やけくそ気味に叫んで歩き出す瞳子の背中を柔らかな眼差しで見つめた男は、ふふっともう一度笑みを零すと嬉しそうに彼女の後をついて行った。
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