純情と激情

侘助ヒマリ

第1話 落胆

瞳子とうこって案外初心うぶなんだな。もっと色々楽しめるかと思ってた」


 三回目のデートで純也と初めて体を重ねた夜。ベッドサイドの常夜灯を消した彼がぽつりと漏らした。

 落胆の色がはっきりと塗られたその言葉に、彼の体に添わせた瞳子の体から急速に熱が退いていく。


 ああ、今回も変な期待をされていたんだ――――


 甘やかなピロートークの代わりに耳元に届くのは、いびき混じりの彼の寝息。


 案の定、翌朝ホテルの客室を出るまで純也が愛の言葉を囁くことはなかった。


「次はいつ会えるかな……?」


 いろいろな言葉を飲み込んで、勇気を出して尋ねてみても。


「最近仕事が立て込んでるんだ。また連絡するよ」


 他の男たちと全く同じ言葉でお茶を濁して、恐らく今日で会うのは最後となるだろう今カレは一人タクシーに乗り込んでいった。


 それを見送り、瞳子は大きなため息を吐いて俯いた。

 耳元でシャラリと音を立てるはずのピアスがないことにふと気づく。

 そう言えば、昨晩シャワーを浴びる前に外したまま洗面台に忘れてきた気がする。


 チェックアウトした客室に戻るのは躊躇われたけれど、清掃員が見つけたピアスをフロントに預けるのはもっと後の時間になるだろう。

 嫌な思い出を残したホテルに改めて出向くのは気が進まないし、かと言って捨て置くのも嫌だ。華奢なチェーンに繋がれたパールがゴールドの小さなチャームと共にシャラリと揺れる、勝負デートに着けていくほどお気に入りのピアスだったのだから。


 戻ろう。今ならまだ清掃作業に入る前かもしれない。


 瞳子はもう一度大きなため息を吐き、チェックアウトの行列を後目にエレベーターホールへと引き返した。


 十二階でエレベーターを降りた途端、客室がオートロックであったことを思い出す。

 フロントで事情を説明してもう一度カードキーを借りれば客室の中に入れるだろう。

 けれど、フロントと話をするためにはあのチェックアウトの列に並ばなければならず、それを思うと少し面倒な気がしてきた。


 目の前に続く一本道の廊下を見やると、すでに清掃用のワゴンが置かれている。

 清掃員に話をしてマスターキーで開けてもらう方が手っ取り早い。

 その結論に行き着き、彼女は長い廊下を奥へと進んだ。


 角を曲がると一二二三号室の奥の客室ドアが開いている。順番的には次が瞳子達の使っていた客室の清掃になるようだ。

「すみません」

 ドアの開いた客室をおどおどと覗き込むと、焦げ茶色の制服を着た男がベッドメイキングの手を止めてこちらを向いた。


 若い。ホテルの清掃員を男性がやっているのも珍しい気がするが、学生のバイトだろうか。


「お客様、お忘れ物ですか?」

「はい、あの、隣の一二二三号室なんですが、ちょっと入らせていただいてもいいですか?」

「では鍵を開けますのでお待ちください」


 爽やかで人懐こい笑顔をつくり、男は瞳子の前を通り廊下へ出た。

 女性にしては背が高い方の瞳子よりもアタマひとつ分さらに高い。

 人懐こい笑顔は柔らかに揺れるアッシュグレージュの髪がよく似合っていて、きっとモテるんだろうな、という感想を素直に抱いた。


「どうぞ」

 先ほどまで純也と過ごした部屋のドアが開けられる。

 中に入ると、澱んだ空気は自分達の動物的な匂いをまだ残しているような気がして、瞳子は清掃員の入室を制するように客室の手前で「ありがとうございます。出る時はまた声をかけますから」と伝えた。


 パウダールームに入り、洗面台の隅に純也が無造作に置いたハンドタオルの下からピアスを見つけた。

 着けて帰ろうと、目の前の大きな鏡を見つめた。

 自分の上半身が鏡の中に映っている。


 百六十八センチという高身長。

 思春期からコンプレックスだった張り出た腰。

 相対効果か、ウエストは随分くびれて見える。

 強調したいわけではないのに存在を主張してくる胸。


 まるで娼婦のような自分の体型に改めて嫌気がさしてくる。


 ビューラーいらずと女友達には羨ましがられる睫毛も。

 二十五を過ぎて明瞭さを増した二重の稜線も。

 ぽってりと厚みのある唇も。


 どれもこれも望んで手に入れたものではないのに、どうして本当に欲しいものは手に入らないのだろう──


 自分の顔を眺めていると、黒ずんだ涙が一粒頬をつたった。

 慌ててティッシュを取り、マスカラの軌跡をぬぐい取る。

 土曜日のよく晴れた午前中。週末限定の解放的な煌めきをまとう街中を歩かなければならないのだ。沈んだ表情をしていてはかえって浮いて目立ってしまう。


 ピアスを着け、もう一度鏡の中の自分を見つめた。

 両手でぺちぺちと頬を叩き、口角にぐっと力を込めて引き上げる。

「よし」と自分を鼓舞して、瞳子はパウダールームのドアを開けた。


 隣の客室での作業を終えたのか、さっきの若い清掃員が瞳子達の使ったベッドシーツを取り払っていた。

「見つかりました。お世話様でした」

 気恥しさで顔が熱くなるのを感じながら足早にその場を去ろうとしたその時。


「ヤり逃げされたからって、そう気落ちしなさんな」


 気安く掛けられた明るい声にぎょっとして振り向くと、にこにこと屈託のない笑顔で清掃員が瞳子を見つめている。


「あ……あなたには関係ないでしょうっ」


 それだけ言い返すのが精一杯で、瞳子は廊下へ飛び出すとエレベーターに向かって走った。


 ようやく着いた一機に乗り込み息を吐いたとき、二度と会うこともない清掃員に “ヤり逃げ” を認めるような返答をしてしまったことを思い返し、激しく後悔した。


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