第3話 提案
ベッドタウンの入口にあたるその街の駅前は、居酒屋のチェーンの看板とコンビニの入口が誘蛾灯のように煌々と明かりをともす以外は小さなスナックが居並ぶ程度の街並みだった。
「この奥に入ったとこに美味いおでん屋があるんで、よかったらそこに行きません?」
特にあてがあるわけでもなかった瞳子は、人懐こい男の笑顔に微かに頷き、ネオンの連なる小路をついて歩いた。
すると、男の言うとおり、「おでん」と書かれた赤ちょうちんのぶら下がる小さな店が見えてきた。
「へい。いらっしゃ……って、レイルじゃねえか」
男の頭がのれんで隠れた途端に、店の奥からしゃがれた威勢の良い声が届く。
「おっちゃん、席空いてる?」
「おう。今小上がり片付けるから入んな」
一度隠れた頭がひょっこりと暖簾の下から現れて、「入って」と笑顔で瞳子を促した。
こくりと頷き、男の背中に続いて暖簾をくぐる。
だしの良い匂いとアルコールの臭いが漂うこじんまりした店内。カウンターは常連客らしき老年の男達が占拠していて、小上がりに三つほど並ぶテーブルの空いたばかりの一つを女将さんがいそいそと片付けている。
「あらまあ、レイちゃんたら、今日はずいぶんな美人さんを連れてるじゃないの」
「へへっ。お似合いでしょ」
「まったく、ガキのくせに生意気言ってらあ」
気安く交わされる大将夫婦との会話から、アッシュグレージュの髪の似合う都会的な若者がこの店の常連であることが伺えて、瞳子は新鮮な驚きを感じた。
小上がりに座ると、男はそんな瞳子の心を読んだかのように悪戯っぽく微笑む。
「今は隣町に住んでるけど、ここは地元だからさ。この店のおっちゃん達にはガキの頃から世話になってるんだ」
「そうなんだ」
“ヤり逃げされたからって、そう気落ちしなさんな”
屈託のない笑顔でかけられた言葉を思い出す。
初対面の人間にずけずけと傷つくようなことを言う、デリカシーの欠片もない男だと思っていた。
けれど、いかにも下町らしいこの店でのやり取りを見ていると、彼に悪気はなく寧ろ自分を励ますつもりで言ったのかもしれないとも思える。
そういう心持ちで改めて彼を見つめると、端正な顔をくしゃりと崩した人懐こい笑顔が少年のままの愚直さを残しているように見えて、警戒で凝り固まっていた瞳子の心が少しだけ解れた。
「何飲みます?」
「じゃあ、中ジョッキで」
「おばちゃーん! 生中ふたつね!」
「はーい」
「おでんはとりあえず盛り合わせと、俺のおすすめのおつまみを最初に少し頼んでもいい? 嫌いなものとかありますか?」
「いえ、特には……」
女将が持ってきたジョッキと入れ替わりに慣れた様子で何品かを注文した後で、男は瞳子に向かってジョッキを軽く掲げた。
「とりま、かんぱーい」
「乾杯……」
失恋確定の日に乾杯もあったものではないけれど、と心の内で自嘲しながらジョッキを傾ける。
ほろ苦さと炭酸の刺激が苦味を抱えた胸の内に同調してじゅわっと沁み渡る。
嘘を吐いて飲みに来て却って良かったのかもしれない。
今日あのまま家に戻っていたら、自分はきっといつものように部屋でひとり落ち込んでいただろうから。
瞳子の口の端が僅かに緩んだのを見て、男がジョッキを置いた。
「そう言えばまだ名前聞いてなかったですね。俺は松本
「えと、
六歳も年下の男に主導権を握られているのが恥ずかしくて、瞳子は年齢を告げなかった。
突っ込まれるかと身構えたが、礼隆の興味は別のところに湧いたらしい。
「へえ。とうこさんって、どんな字を書くの?」
「瞳の子、で、とうこ、です」
「それで “とうこ” って読むんだあ。見た目だけじゃなくて名前もそそるんだね」
「そそる……?」
「うん。俺、瞳子さんにすげーそそられる」
若さゆえの直球。
容姿端麗な彼が情熱的な眼差しで相手を捉えて放つその言葉に心臓の跳ねない女はいないだろう。
けれど、瞳子にとってそれはほんの一瞬の刺激に過ぎない。直後に胸を覆うのは決まって失望と虚しさだ。
「私、その手の口説き文句は嫌いなの」
「俺は率直な感想を言っただけだよ」
「悪意のない感想が人を不快にすることだってあるわ。こないだだって──」
勢いで都合の悪いことを蒸し返してしまい、瞳子は慌てて口をつぐんだ。
「こないだのは、半分は素直な激励で、もう半分は賭けかな」
「……賭け?」
「そう。賭け。俺、瞳子さんとはきっとまた会えると思ってた。だから、俺の印象を瞳子さんに刻みつけとこうと思って、わざとあなたが腹を立てるようなことを言ったんだよ」
「礼隆君を私に印象づけてどうするつもりだったの? 次に会える保証なんてどこにもないし、おかげで第一印象は最悪だったのに」
「保証はないけど、俺の中で確信はあったんだ。それに、第一印象は悪くても構わない。俺を覚えてくれてれば、こうやって次に話すきっかけになる。第一印象なんて後でいくらでも覆せる」
瞳子は呆れを通り越して可愛らしさを覚えた。そういう自信過剰なところはやはり自分より六つも下のお子様だ。
しかし、礼隆の言うとおり、初対面の印象が最悪だった分、今日の彼の印象はそれよりだいぶマシになってきている。
女将さんが熱々のおでんや揚げ物、蒸し物などの一品料理を運んできてくれて、二人とも中ジョッキをお代わりする。
料理に舌鼓を打ち、酔いが回りながらの二人の会話は軽快に弾んでいく。
「こんな年上を口説いてくれるのは嬉しいけれど、礼隆君だって、私の見た目にそそられるから耳触りの良いことを言ってるだけでしょう。私も二十八だし、もうそういう言葉に騙されてる場合じゃないのよね」
「自分から年齢バラしちゃってるし……。まあ、瞳子さんの見た目ならそりゃあ男は口説きたくなるさ。甘い水に群がってくる蛍みたいなものだよ」
「見た目に誘われて寄ってきても、実際に飲んだら味が違うって飛び去られるのよ。勝手に先入観を持たれるこっちはたまったもんじゃないわ」
「瞳子さんの場合、ギャップが悪い方へ出ちゃってるんだろうね。“ギャップ萌え” じゃなくて “ギャップ萎え” みたいな」
「ふふっ。上手いこと言うー……って、全然面白くないしっ」
今日限りの相手だからだろうか。
礼隆にはどんな印象を持たれようが気にならない。
男に媚びているわけではないとか、見た目と違って中身は純朴なんだとか、素の自分を理解してもらおうと頑張る必要性を微塵も感じない。
熱いおでんと冷たいビールを交互に喉に通しつつ、言いたいことを気にせずぶちまける何でもありの開放感。
瞳子は今までアルコールを飲んだ中で今日が一番心地よく酔えていると感じていた。
「でさー、俺思うんだけど。瞳子さんの場合、ギャップ萎えなんだから、ギャップを埋めないと次のステップに進めなくない?」
「ギャップを埋める? 遊んでる女になれってこと? そんなの無理!」
「遊んでる女ってゆーか、男の性欲を満たせる女? 男側の瞳子さんへの期待値が高すぎるわけだから、まずはそこを埋めていかないと」
「勝手に期待値上げられてるのに、そっちに合わせなきゃいけないのっておかしくない? いっそずっと体を許さなければ、本当の私を好きになってもらえるのかなあ」
「アラサーでそれはないでしょ。心の繋がりだけじゃなくて、体の繋がりも重要でしょ」
「年下がわかったようなこと言うー」
「少なくとも瞳子さんよりはわかってるよ。……瞳子さんのギャップの埋め方も」
礼隆の言葉に心臓をさらりと撫でられた気がして、瞳子の肩が小さく跳ねた。
そんな反応を見逃すことなく、礼隆の挑戦的な眼差しが瞳子を捕捉する。
「瞳子さん、俺とセックスしようよ。 恋人同士じゃなく、セフレとして」
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