第二十九章 「正」
ソロモンは一度は
「そんな風にしていると変人に見られるぞ」
「失敬だな。策を練っておったのだ」
肩をすくめて見せて、そっと隣に立つ。
「何か思いついたのか」
「いいや、何も。というより、コーラル国は今頃守りを固めているだろうからおびき出さねばならないだろうな」
「ほう、どうやって誘い出す?」
「戦とはだましあい。遠ざかると見せかけて近づき、近づくと見せかけて遠ざかる。有利と思わせて誘い出し敵を崩す」
「始計の基本さ。お前もクリフォード殿から習っておったのだろう」
レイヴァンは何やら物思いに更け始める。けれども、すぐに打ち切って不敵に嗤うソロモンを見つめ返した。
「物事を考えるときはまず相手の立場になって選択肢を考える。より“利己的”にだ」
レイヴァンはまた何やら考えを巡らせ始める。すぐにあきらめたのか。ソロモンを見つめれば、小さく肩をすくめた。
「それで、レイヴァン。アレシア殿は何と言っている?」
「ああ、それがどうも本国に戻るらしい。ヘルメスの夢を応援しながら本国で待っていると言っていた」
「物わかりの良いお嬢様で良かった」
ソロモンが息を吐き出して、地面に何やら落書きを始めた。どうやら落ち着かないようだ。
「お嬢様は戦に出るべきではないしな」
「他国の上流階級の者に何かあったとなっては、我々も示しがつかぬ」
レイヴァンが応えると、小さく笑って渦を足で消した。二人にエリスが声をかけてきた。
「エリス、どうかしたのか」
エリスをよく見れば、うっすらと額に汗をかいている。
「いえ、少し夢を見まして」
するとソロモンとレイヴァンは二人して驚いたように目を瞬く。それから「何だ」と呟いた。
「昔の夢を見ました。まだ父と母が生きていた頃の」
レイヴァンはエリスを見つめて自分も最近、幼い頃の夢を見たから何だか不思議な感覚に襲われる。幼い日の自分に引き戻されそうになって首を振ると、ただ「そうか」とつむいだ。
「マリア様はどうだった?」
「ぐっすりと眠っております。毎日、移動ばかりですからね。疲れているんだと思います」
「そうか、ありがとう」
レイヴァンは静かにエリスにお礼を言うと
「エリス、お前ならどうする。向こうは守りを固め、こちらを警戒している。そして、向こうはこちらの戦力を知らず。また我々も向こうの戦力が分からない場合」
「間者を以て敵情を探ります」
エリスがすぐに答えを出したものだから、ソロモンは感心にも似た息を吐き出した。
「相手を知り、自軍を知れば策は立てられます」
「そうだな。まずは“諜報”だな。エリス、クライドと共に頼めるか」
「かしこまりました」
エリスは早速、
「姫様の補佐はいかがいたしますか」
「そうだな、レイヴァンでは補佐としては過剰すぎるだろうし。レジーとギルに頼もう」
ソロモンはエリスが伝えましょうかと問うたけれど、自らの頼みに行くと言い二人の
「ちょうど良かった。エリスとクライドが諜報活動をしている間、姫様の補佐についてもらいたい」
二人ともあっさりとそれを承諾し、何やら気合いを入れ始めた。といっても、武器を手入れする手に力がこもり始めただけであるが。それをどこか可笑しそうにソロモンは眺めた後、自らの
次の日、朝早くにエリスとクライドは旅立った。マリアもソロモンから話を聞き、二人を見送った後、アレシアも見送った。それから兵達が準備を終えるとマリア達も鞍に跨り、王都を目指すことにした。
マリアの側にはレジーとギルが控えている。ギルはどこか楽しげに笑みを浮かべ、レジーは相変わらずの飄々とした表情で何を考えているのか分からない顔である。
レイヴァンは少し後ろからどこか不満顔である。ソロモンは目ざとく見つけた。
「不満があるのは分かるが、お前では必要以上のことをしそうだからな。それにお前が側にいては“王子”がただの“女の子”になる」
刹那にレイヴァンが少しばかり頬を赤く染めれば、ソロモンはやれやれと息を吐き出した。“男”としては嬉しい事ではあるが“立場”としては悪いのを本人は理解しているのだろう。だからこそ、それ以上は不機嫌にもならずにマリアをまっすぐに見つめていた。
しばらく行くと水のあるところで休憩することになり、また兵達に馬を預ければ馬に水を飲ませる。それを見届けてからマリアはレイヴァンに声をかけた。
「稽古をしてはくれないか」
「わかりました」
レイヴァンは僅かに息を詰めてからかえした。乗り気ではないらしい。おそらくはマリアの体を気遣っているのだろうが、かえってそれが心配事のひとつにしかならなかった。
このまま自分を甘やかし続けたら、レイヴァンの好きな人が自分に対して嫉妬するのではないだろうか。よく妻が旦那に対して口にする「仕事と私、どっちが大事?」というやつである。この場合では「主と私、どっちが大事?」と聞かれるのだろうか。
想像してマリアはくすりと笑う。レイヴァンは不思議そうな表情を浮かべた。
「どうかなさいましたか」
「いや、将来レイヴァンに奥さんが出来たら奥さんに『主と私、どっちが大事?』と聞かれることになりそうだなと思って」
レイヴァンは少々、面食らったのか目を丸くする。それから口元に笑みを浮かべると半ば冗談で答えた。
「その時は『主』とお答えしますよ」
「そんなことしたら奥さんの立場が無いではないか」
マリアもまた笑いながら返せばレイヴァンが小さく笑った後、稽古をするためにマリアを広い場所へと促す。マリアはそれに従って歩いた。
「俺のことをちゃんと理解できる女性でなければ結婚なんて出来ませんよ」
「そっか、それもそうだな」
「ですが、ヘルメスとアレシアを見ているとあこがれる気持ちも分かります。好きな人と一緒になりたいという気持ちはきっと誰もが持っている感情だと思いますから」
「そうだよね」
マリアは黒い騎士が誰かのものになるのを恐れているところがある。それゆえにレイヴァンの口から飛び出た言葉に、うつむいてしまう。彼に対して“誰のものにもならないで”なんてわがままを言えるマリアでもなかった。
「王子?」
気がつけばレイヴァンが自分の顔を覗き込んでいる。驚いたマリアは、うっすらと汗をうかべた。
「どうかした?」
「いえ、クリス様がどこか落ち込んでいるように見えたので」
どきりとマリアの鼓動が音を立てた。彼にずばり言い当てられて、心の奥まで見透かされているような感覚に襲われてしまう。
(レイヴァンにはわかってしまうのだろうか)
そんなことを考えて思わずうつむいてしまう。すると、やはりレイヴァンはマリアが気になるようで立ち止まった。気づかなかったマリアは、そのままレイヴァンにぶつかって少し後ろによろめく。
「ごめんなさい」
マリアの唇から、か弱い少女の声が零れた。それを聞けばたちまちレイヴァンの中の庇護欲がそそられる。思わずレイヴァンはマリアに手を伸ばした。けれどその手はマリアに触れることなく何かを耐えるようにじっと拳を作るだけに終わった。
「謝らなくても結構ですよ。それよりもあなたが転ばなくて良かった」
マリアが顔を上げてレイヴァンを見てから拗ねたようにそっぽを向いた。子ども扱いされていると感じたのであろう。幼い子どものようなその仕草にレイヴァンは困ったようなそれでいて照れているような表情であった。
「あのクリス様?」
遠慮がちにレイヴァンが声をかければ、頬をほんのりと赤く染めたマリアがレイヴァンを見上げて見つめ返した。赤い唇が何かを発しようと開かれたけれど、言霊となる前に閉ざされてしまう。そのことにレイヴァンは困惑の表情を浮かべるが、マリアは言葉を飲み込んで案内するよう促した。レイヴァンは改めて聞くことも出来ず、結局は口を閉ざす。そんなレイヴァンの後ろでマリアは、頬を染めたまま渦巻く感情を押し殺せば心が痛む音がした。
(子ども扱いがこんなに苦しいなんて思いもしなかった。今までだって、何一つレイヴァンは変わらないのに、自分が嫌いになってしまいそう)
そんなことを考えていると広い場所に出た。そこで稽古をすることになり、マリアも帯剣している剣をレイヴァンに習って引き抜いた。
マリアは剣の基礎動作から始まり、少しの応用した剣術で剣を操っていた。けれどレイヴァンには軽々しく剣で受け止められてしまう。
やがてその剣はレイヴァンによって叩かれて、地面へ突き刺さる。ザクリ、と音を立てて突き立てられた剣を見てマリアは思わず溜息にも似た息を吐き出してしまう。苦笑いを浮かべるレイヴァンが、剣をおさめてマリアの頭を撫でてやれば、不機嫌になってしまうのだった。
「……子ども扱い」
「え?」
「いや、何でもない」
ぼそりと呟いたマリアの言葉は幸いと言うべきなのか、レイヴァンの耳には届かなかった。ただ影から二人の様子を見ていたレジーには聞こえているようで、わずかに眉がピクリと動いた。
「どうかしたのか」
レジーと同じく影から見ていたギルが、問いかければレジーは「何でもない」と答えて青い空を見上げる。そんなレジーに疑問を抱きつつもギルはマリア達の方へ視線を戻した。
そこではまた剣のぶつかる音が木霊していた。それから、しばらく経った後、二人は稽古を終えて水を飲んでいた。
「王子、お時間よろしいですか」
二人の元へソロモンが来てそう話しかけた。マリアは頷いて天幕(テント)の方へ移動しようとするがソロモンがそのままで良いと言ったのでその状態で話を進めることとした。
「兵の極みたる形は“無形”であるといったことは以前に申しましたよね?」
マリアはこくりと頷き返す。ソロモンは満足げにそれを見た後、真剣な眼差しへと変わる。
「そうすれば敵が探りを入れても“無形”であれば、何も探り出すことは出来ないからではなかったか」
ソロモンは柔らかく微笑んで頷いてから、どうやって自軍を絶対不敗におくかと問いかければマリアは真剣に悩んで口を開いた。
「『奇正』を上手に使うのではないか。『正』つまりは正攻法を以て相手と対峙し、『奇』を以て敵を破る」
『正攻法』は正面から堂々と相手を迎え撃つ方法。『奇』は奇襲作戦。いわば相手の思いもよらぬしかたで迎え撃つ方法。この二つを上手に使えば自軍を絶対不敗にすることが出来るという。
「そうですね。それを以て作戦を考えるといたしましょう」
マリアに感心したようにそう言ってからソロモンは「実」を避けて「虚」を打つことも忘れずにと告げればマリアもまた小さく頷く。
「“守らざる所”を攻めるのであったな?」
尋ねるように言葉を紡ぐマリアに、ソロモンは頷いて安心させてやると今度はレイヴァンを見た。
「レイヴァン、部下には細かい作戦までは告げるなよ。部下は“必死”にさせなければ意味がない」
レイヴァンは心得ているようで頷いた。ソロモンは、部下は必死にさせて自分は必死になってはならないとマリアの方を見つめた。
「あなた様はずいぶんと兵達に情をかけておられるようですが、思いやりが強すぎるとその世話で苦労させられます。そのことを忘れぬよう」
「うん、わかってるけど」
マリア自身、一人の人間に対しての情が厚いとまではいかないにしても情があるのは確かだ。けれど、一人一人を気にかけていては疲れるとソロモンは言っているのだ。わかってはいるけれど、難しいとマリアはつい思ってしまう。それすらもソロモンは見透かしているようで、マリアに告げた。
「そんなのでは“将”としては未熟ですぞ」
ソロモンはそのまま去って行ってしまった。レイヴァンは、少し困った表情を浮かべたままマリアを見つめていたが、次の瞬間には、ふんわりと笑みを浮かべてマリアの方を向き直る。
「けれど、情をもたぬ人間などおりませぬ。ゆっくりでいいのですよ、マリア様」
レイヴァンの言葉にマリアが、ぱっと顔を上げて泣き笑いを浮かべると「ありがとう」と呟いて自ら涙を拭いさる。
「だけど、レイヴァン。しばらくは、“その名前”では呼ばないでくれ。甘えてしまいそうだから」
言いながらも何度レイヴァンに救われただろうとマリアは考えていた。レイヴァンはマリアを見つめながら申し訳程度に謝った。休憩を終えてまた馬に跨ると王都へ向けて進み出す。
レイヴァンは、凛と前を向くマリアを眩しそうに見つめていた。
*
エリスとクライドは、三日ほどで王都ベスビアスについた。けれど、城門は堅く閉ざされており門番に中へ入りたいと告げても難しい顔をするばかりで顔を縦に振らない。これでは埒があかないと悟ればエリスは、ソロモンから聞いたもう一つの入り口を目指す。その門は、戦が始まった後も開かれている門で小さいが行商人が通れるだけの大きさはある。なんでも食料が無くなっては困るので行商人専用の通路のようなものらしい。一般には開放されていないため、民ですらその存在を知らないようだ。
「どうやら、ここはあいているようだな」
エリスが独り言のように事実だけを述べれば、クライドはこれからどうやって入るのか問いかける。するとちょうどその時、大きな荷台の馬車で行商人が二人の前を通り過ぎていく。エリスはそれを見て、クライドと頷き会うと屋根が布で覆われている荷台に静かに潜り込んだ。中は
やがて馬車が止まると、門のところにいる門番と行商人の話が聞こえてきた。
「遠方からご苦労であった」
「いやいや、今回はあまり食材も手に入らなくてねえ。王都へ来るのが遅くなってしまった」
「かまわんさ。通ってくれ」
どうやら門番と行商人は、親しい仲であるようだ。荷台の布を少しだけ開いて外を眺めれば、馬車が動き出して門を通過しているのが見えた。そして少しだけ経ってそろそろ降りようとエリスが声をかけると、クライドも頷いて行商人にばれないようにそっと荷台から降りる。あたりのようすがやっとわかるようになって、エリスは思わず溜息をつきかけた。
「どうかしたのか」
「いや、王都が荒れているのは聞いていたけれどここまでとはな」
悲しげに呟いたエリスの言葉は、氷のように凍てついた。クライドも改めて王都を眺める。
ベスビアスは夜であるということもあって、人通りは少ない。それだけでなく、人が住んでいるであろう家々のあかりが細々と灯っており、どこかさみしい。それに王都の民達は町に比べて、裕福で笑いの絶えない家が多いとエリスは聞いていた。それがどうだろう。家からは小さな明かりが零れるばかりで声ひとつ聞こえやしない。ときどき、すれ違ってもすす汚れた服と体。やせこけた頬ばかりが目についた。それに道ばたには乾ききっていない赤い液体も時々ではあるが、見かけて鉄の匂いがつんと鼻に刺さる。
(姫様には見せられない)
ただでさえ悲しそうな表情をする、マリアには見せられない景色だとエリスは思う。クライドもまた同じ感想を持ったようでどこか苦い表情を作っていた。エリスがついに溜息を吐き出したとき。笑い声が耳について、鼓動が嫌な音を立てて責め立てる。
(どこだ)
エリスが目だけを動かして辺りの様子を伺っていると、クライドが何かを感じたのであろう。腕を掴んで路地裏へ入れば、すぐ近くで笑い声が聞こえてきた。酒を呑んで顔を真っ赤にしたコーラル国の兵二人が笑いながら歩いていたのだ。おぼつかない足取りの彼らにエリスが嘆息しかける。
(あんなやつらに国を乗っ取られたと思うと、情けない)
そんな風に思っているエリスにクライドはただじっと視線を向けていた。やがて、二人はフードを深く被って酒場に上がり込んだ。
酒場はコーラル国の兵達で溢れかえっており、喧騒やら笑い声ばかりが響いていた。
酒場の主人に、ヴルストと水を頼むとカウンター席に座った。
(“裏”の情報を探るなら酒場がいいとソロモンが言っていたけれど、情報なんてどうやって聞き出せば)
刹那、コーラル国の兵が大声で大切であるはずの情報を教えてくれた。
「我ら、誇り高き我が騎士団は5万の兵力でベスビアナイト国の兵達を蹂躙させてみせようぞ!」
にやりと思わずエリスがしてしまった。コーラル国の喧騒に紛れて、クライド以外誰も気づきはしなかった。
「明後日、守りを固め向こうが攻めてくれば疲れが見えてきたところを一気にたたきのめす!」
聞いても居ないのにポロポロと情報が流れてくる。こんな面白いことがあるのかと、エリスは運ばれてきたヴルストを口にいれた。水を飲み干すと代金を置き、酒場をあとにした。
クライドもエリスのあとを追って酒場をでる。
「エリス、だいたいの情報は聞き出せたけれど、まだ何か調べたい?」
「すまない、もう少しこの王都を見て回りたい良いだろうか」
すると、クライドは無言でうなづく。エリスは少しだけ微笑んで「ありがとう」と呟くと、夜の町へ足を踏みこむ。
「コーラル国の実際の戦力はどれくらいだと思う?」
「ベスビアナイト国へ攻め入ったときの戦力が合計で約10万であるから、その二倍。おそらく20万くらいだろうか」
「僕もそう思う。本国から多くの兵士が来ているとソロモンは言っていた。その半数以下がビタミン不足や寒さによる体調不良らしい。それを考慮してどれくらいの戦力があると思う?」
「少なくとも5万の戦力はありそうだ。向こうはこちらがそんなに戦力がないのを知っているからの5万。つまりもっと戦力があるのだろう」
エリスは同意する。するとフラフラとコーラル国の兵の一人がぶつかってきた。悪態をついたのち、ぎゃあぎゃあと何やら喚きちらした。だがクライドがごく自然な仕草で兵に近づき、口を手で塞げば兵は息を飲んで押し黙った。
「少し聞きたいことがあるのだが、よいだろうか」
こくりとうなづく。すなおなクライドであるから、口を解放した。兵は剣を抜き、二人に襲いかかった。
「なんて、教えるわけがないだろう!」
撃をクライドとエリスは軽々とかわした。武器を取らずに兵士の手をねじ上げた。
「いだだだだ」
「聞きたいことがあるのだがよいだろうか」
再度クライドが問いかければ、兵は大きく頷いた。するとエリスが腰に下げていた縄で、兵を縛りあげた。
「国王はどこにおられる?」
「地下牢にいると聞いた!」
エリスが短剣をちらつかせると、兵はびくっと肩を振るわせて嘘じゃないと大声で叫ぶ。おそらく、本当なのだろう。
それ以上の情報を聞き出せそうでもないので、エリスとクライドは気絶させてから樽に放り込んで立ち去った。すると、静寂ばかりが満ちていた闇夜に男の声が響いた。
「何やら嫌な予感がするから来てみれば、兵でも王都の民でもない者がこそこそ嗅ぎ回っているようだねえ」
声のする方へ視線を向ければ、小高い建物の上に若い男が立っていた。 その男は髪も目もきれいな漆黒でベスビアナイト国では見ない色をしている。顔立ちは明らかにこの国のように高い鼻ではなく低く、顔の輪郭もどことなく丸い印象を受けた。
「貴様、何者だ」
エリスが問いかければ、男は高い場所から降りてきて鞘から“刀”を抜いた。その刀は月光を浴びてきらりと妖しくも美しく輝く。
「我は玻璃国の将軍、ヒデ。お主こそ名乗るのが礼儀ではないか」
「失礼した。『主』に仕えるエリス」
ヒデと名乗った男はクライドの方を向いたが、名乗るほどの名はないと告げた。
「ふん、卑怯者」
クライドにヒデは呟いて刀で斬撃するが、ひらりと身軽な体でかわされてしまう。クライドも戦輪を懐から取りだしてヒデに向かって放つ。けれど、その輪はヒデによってかわされて壁に突き刺さる。
ヒデはエリスに向かって刀を振り下ろすが、エリスが短剣を抜き何とか受け止める。
「へえ、さっきも思ったけどなかなかやるねえ。男娼のようにかわいらしいのに」
暗に女のようだと侮辱しているのだ。けれどもエリスはぐっと歯を食いしばるだけにとどめ、小さく笑い飛ばした。
「玻璃国の将軍とやらは随分と安い挑発をするのですね」
「いやいや、褒めてるんだぜ?」
エリスが眉間に皺を寄せた。刹那、クライドが樽を止めていた縄を切りヒデに向かって転がした。たちまちヒデは重たい樽に当たって転がされ、壁に当たり意識を失ってしまう。慌ててエリスはクライドと共に立ち去った。
少し経ってから意識を失っているヒデに近寄る影があった。グレン、その人である。どうやら、騒ぎを聞きつけて様子を伺いに来たようだった。
「おい、大丈夫か」
グレンに頬を叩かれてヒデは何とか意識を取り戻すと、口元ににやりと人の悪い笑みを浮かべてみせる。
「ちと、しくじったかな」
「何があった」
「どうやらこちらの情報を欲しているやつがいるみたいでね。その間者と思われる奴らと交戦したんだが」
やられた、とヒデは笑って見せたがグレンは真剣な表情でひとまずヒデを医務室へ運んだ。それから自分の部屋へ戻ると何やら難しい顔で考え込んだ。
エリスとクライドは真夜中であったが、急いでマリア達の元へ戻るべく馬を走らせていた。
「玻璃国からの客将が二人もいたとは。しかも、片方は男色」
呟いてエリスは思わずぞくりと何かが背中を這う。クライドはちらりと眺めてから、そうとも限らないと言った。
「挑発するために言っただけであって本当にそうとは限らない」
それもそうか。今はそれよりも得た情報を伝えるのが先決だと、エリスは手綱を握りなおした。
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