第二十三章 lunar maria
ギルとクライドは随分と長い間、荒野を駆けていたが、数日経って王都ベスビアスに着いた。すると、二人は外套のフードを深くかぶり荒廃した街の中へ足を踏み入れた。
時刻は黄昏時であるからか、街を行き交う男達は慌てた様子でせっせと仕事に勤しんでいる。そんな男達の様子が明らかにおかしかった。
(昔にここへ訪れたときは、もっとよい布の服を着、笑顔と笑い声が絶えぬ街であったが)
ギルが考えながら街をぐるりと見回せば、男達の体はやせ細り頬もこけている。着ている服はコーラル国の兵にはぎ取られたりしたのだろうか。肌着のような薄い服でボロボロに汚れている。ずっと同じ服を着ているのだろう。それだけでコーラル国がこの国の民に何を行っているのか手に取るようにわかる。
(これは見つからないように進むのが利口だな)
そうだと思わざるを得ないほどに男達がボロボロで見ていられないほどだった。
いろいろな街を渡り歩いたギルであるが、ここまでこの国が荒廃しているのを見たのは初めてであった。そう考えると国王がどれほど優れ、よき王だったと実感せざるを得ない。
(だが、あの王ではこうなってしまうのは時間の問題だったかもしれぬ)
ソロモンの言っていたとおり、優しさだけでは政治を行うことなど出来ないのだ。オーガストは確かに良い王だったのかもしれない。けれど、それだけでは政治はつとまらぬ。それゆえ、民にすら囁かれていた。お人好しで莫迦(ばか)な王と。けれど、不思議と誰も王の悪口を言い立てる者はいなかった。それはそれで素晴らしいことなのかもしれない。
(だが、したたかな考え方も時には必要ではないだろうか)
ギルの中で完全にマリアこそが王にふさわしいと決めてかかっていた。『我らが王』――それだけではない魅力が彼女にはあるのだ。
強い意志と努力、その二つを欠かさない彼女をギルはレイヴァンほどでは無いにしても主として仰いでいる。
(俺自身は努力が嫌いだが、姫様を見ているとどうしようもなく俺もがんばってみたくなる)
なんてギルが思いながら歩いていると、ふと遠くからコーラル国の兵が歩いてこちらに向かってきていた。とっさに戦輪を取り出そうとするクライドの手を押さえ、体を引き寄せると二人揃って近くにあった建物に身を潜めた。
兵達の笑い声が去るとそこでギルがクライドを解放する。
「安易に武器を手に取るな」
「すまない」
クライドはひどく肩を落として自らの行いを悔いているらしかった。ギルはそこまで責めたつもりはないのだが本人がここまで反省しているのであればもう何も言うまい。そう決め込むとギルは、フードを深くかぶり直して「行こう」と呟いた。クライドも頷いて建物の影から出る。しばらく、そうして歩いているとせわしなかった男達の姿もいつしか見なくなり、あたりを暗い闇ばかりが覆い始めた。夜になったのである。
(やれやれ、この時間になると人の影すら見えぬ)
それもそのはず。この国の民は家の中へ入るし、コーラル国の兵はこの寒さに慣れておらぬから酒場に入るか城へ戻っているのか女遊びするかのどれかなので大抵は、外にはいないのだ。
「あまり人はいないようだが」
クライドが風にさらわれてしまいそうなほど小さな声で呟いた。ギルも小さな声で「ああ」と答える。それから、誰の耳にも聞こえないような小さな声で呟いた。
「大方、遊び呆けてでもいるのだろうな」
軽口で返しつつも表情はどこか険しい。今の現状に嘆いているのか、敵の巣窟に潜り込んでいるという緊張なのかは定かではない。
けれど、ふとどこからか気配がたった。その方向に神経をとぎすまし、ギルとクライドがその気配を辿っていると気配の主は、こちらには興味のない様子でコーラル国の動向を見張っているらしかった。じっと建物に身を潜めてコーラル国の兵達が入っていっていた酒場の様子を外からうがっている。
(この地にもまだそんな人間がいるのだな)
ギルはその人物に興味を持ち、そっと背後から近寄った。すると、闇でわからなかった気配の主の姿を見て取れた。
すす汚れた町娘の服装に頭にベールのようなものをかぶっている。そのベールから零れた薄い茶髪。それを見てきれいだなとギルが感想を持つ。闇夜でも目立つその薄い茶髪は僅かな外灯の明かりに照らされて煌めいている。これは声をかけねばならぬと決め込むとギルは、女性に声をかけた。
「お嬢さん、このような場所でいかがなさいましたか」
人がいることに気づいていなかったのか女性は驚いたように振り向いてギルを見つめた。けれど、敵ではないと判断したのか緊張を少しだけ解いた。
「あなた方こそ、このような場所で何をなさっておいでなのですか」
ああ、とギルは呟くと少し考えるような素振りをしながら答えた。
「少し、王都がどうなっているのか気になりましてね。戻ってきた次第です。けれど、ここまで荒れているとは」
嘆かわしいとギルが言えば女性も賛同するように頷く。そんな女性は少し悲しげに顔をうつむかせながら「ええ」と呟いた。
「ずいぶんと変わってしまいましたわ。この国はどうなっていくのやら……」
女性の言葉にギルが無言で頷いた。ギルもこの国の現状を見て回ってきたのだ。どうも嘆かずにはいられない。けれど、それ以上にマリアに期待している自分がいるのだ。この国をどうにかしてくれる。そんな期待をギルはしてしまうのだ。
「ところでお嬢さんは兵達を見張っていたようだが?」
言葉に女性は体をびくつかせる。同郷の者と践んで警戒を少しは解いていたがあとでもつけられていたのかと思い、また警戒を始めた。
そんな女性にギルが呆れにも似た表情を浮かべて小さく息を吐き出した。
「俺たちも兵達の動向を見張っていてな。偶然にもあなたを見つけたというわけですよ」
女性は、言葉を完全に信じたわけではないようでほんの少しだけは警戒を解いてギルとクライドを見つめた。それから、凛々しい瞳をギルとクライドに向けた。
「この国を救いたいの人は、まだこの国にはたくさん残っていますから」
それを聞けばギルも小さく笑い、「ああ」と答えた。
「この国は、こうなってもなお希望を捨てぬ。それはこの国のいいところだ。それに主も――」
ギルの言葉に驚いたように女性が顔を上げる。それから、誰かに仕えているのかと問いかけた。ギルはやはり小さく笑い、「まあ」とだけ答える。すると、意外だったのか女性はぽかんとギルを見つめた。
「とてもじゃないですけど、人に仕えているようには見えませんねって、申し訳ございません! 見知らぬ方に対して失礼なことを」
勢いよく女性が頭を下げるとギルはなんてことないように言ってのける。
「仕方ないですよ。俺もまさか誰か一人に仕えるなんて思わなかったですから。それよりも、あなたはもしや城に勤めていたのではないですか?」
ずばり言い当てられ女性が体を強ばらせる。ギルは言葉がきれいだから、と言えば納得したようで女性は頷く。
「ええ、私は城で仕えておりました」
「それも誰か個人に?」
やはりずばりと言い当てるギルに女性は驚きを隠せず目をまるく見開いた。どうして、と問いかけるとギルがはにかむように笑って小さく息を吐き出す。
「たしかにきれいな言葉遣いであるがどこか小さな子にいうような言葉もじりを所々に感じる。おそらく王の子に仕えていたのだろうな」
この国の王と王妃の間に生まれた子供は一人だけ。つまりはマリアに仕えていたことがギルには容易くわかってしまう。
すると、女性は感心するかのように感嘆にも似た溜息を吐き出した。それから、はっとした表情になり酒場の方へ視線を移すと、兵達が飲んだくれて団子のように転がっていた。
思わずあきれ顔の女性にギルがそっと問いかける。
「ところで、お嬢さんはなぜ兵達を見張っているんだ?」
「王妃様のご命令で今は動いております」
ギルとクライドが揃って目を見開いた。それから、王妃と一緒にいるのかとギルが問いかける。すると、女性は頷く。そのことに二人は驚きを隠せない。
「王妃様に会わせてくれることはできないか」
ギルの言葉に女性が困ったように顔を少し伏せる。無理もない。見ず知らずの男二人を王妃を会わせろと言うのだ。大切な主君をそんな簡単に会わせるわけにはいかないのだろう。
「申し訳ござませんが……」
ああ、とギルが落胆の色を見せ「仕方ないか」と思ったときだった。酔っぱらいの兵がこちらによたよたとやってくる。それから、女性に絡んできた。
「きみ、こんなところでどうしたの~。ひっく。おにいさん、さみしいんだあ~。ねえ、今夜つきあってよ」
兵はギルとクライドには気づいていないようである。
面倒なやつだ、とギルが心の中で呟いた。女性は額に皺を寄せて不快感を隠さない。思っている以上に気丈な娘だとギルは思った。刹那に、女性が短剣を緩やかな動きで兵の心臓に突き立てた。
それは実に一瞬でそばにいたギルとクライドですら動きがわからなかったほどである。
兵は悲鳴を上げることもなく一瞬で血を流して地面の上に倒れた。そんな兵を一瞥すると女性は騒ぎになる前にとさっさと退散しようとする。けれど、その女性をギルが呼び止めた。
「おい、あまり血をながすのは得策とは言えないねえ」
すると暗い路地から気配が立ち姿を現した。
「そうよ、バルビナ。命は簡単に絶ててしまうけれど簡単に絶ってはいけないわ」
路地から現れた姿を見て女性ことバルビナは驚いたように目を見開く。
「あなた様が何故!」
「なぜって、家に閉じこもってばかりでは面白くないもの。それであなた達は?」
女性はギルとクライドに目を向ける。ギルは女性を見て「もしや」と思い、小さく笑った。
「しがない旅人ですよ」
そうギルが答えたときだった。倒れて動かない兵に気づいて人が集まり始めた。女性が「こっちに」と言ってギル、クライド、バルビナを連れて少し離れたところの民家に入った。
「申すのが遅れてごめんなさい。私はアイリーン、元王妃よ」
するとギルは特に驚いた様子もなく、にやりと笑った。予想が当たったことをほくそ笑んでいる。
「元だなんて! 王妃様は王妃様です」
バルビナが思わず声を荒げて言うとアイリーンが苦笑いを浮かべた。
「バルビナ、あなたも名乗りなさい。それが礼儀というものですよ。それとも、あなたは礼儀知らずな無礼者なの?」
息をつまらせてバルビナは簡単に名を名乗る。それを聞いてギルは口を開いた。
「これはこれは、王妃様にバルビナ殿。俺はしがない旅人、ギルと申します」
「やつがれはクライドと申す」
二人が名乗ると老婆が、ギルとクライドにお茶を出した。クライドが「かたじけない」といってコップを受け取り、茶をすすった。
すると、アイリーンは小さく微笑む。
「ごめんね、うちの子はまだ考えが浅はかなの。元々は暗殺者であったから」
「暗殺者を姫様の護衛に?」
素朴な疑問をギルがぶつけた。すると、アイリーンが「あら」と零して問いかけてきた。
「マリアに会ったの?」
「会ったというか、一緒に旅をしているんです。今はシプリン支城に身を寄せています」
なるほど、とアイリーンは呟いてギルとクライドを見つめた。
「それで偵察に来たのね」
「ええ。ですが、思っていた以上にひどい有様ですね」
ギルがそういえばアイリーンが凛とした瞳で頷いた。それを見てギルが思わずマリアと同じ瞳だと思ってしまった。なるほど、確かにマリアはこの王妃の子で間違いない。それほどまでも同じ瞳であったのだ。その瞳には無邪気さがまだ残っていた。
「じゃあ、お願いできるかしら」
アイリーンは奧へ引っ込んだかと思えば金の鎖が付いた丸い何かを手に握っていた。何かと思い身構えていると、差し出されたのは羅針盤である。
「これは」
ギルが問いかけるとアイリーンがほんわりと微笑む。その笑みさえもマリアの面影があり、思わずギルがどきりとした。それを知ってか知らずかアイリーンは口元に笑みを浮かべる。
「ギル、あなたはきっとマリアにとって大切な仲間。あなたを信頼してこれを託すわ。この羅針盤があの子の行く道を明るく照らしてくれる」
アイリーンからギルは羅針盤を受け取るとカバンの中に詰め込んだ。それから、アイリーンの瞳をまっすぐに見据えた。
「ひとつ、聞かせてはくれないでしょうか」
「あら、なあに」
「なぜ姫様を王子として育てることにしたのですか」
問いかけるギルの瞳をアイリーンは真っ直ぐに見つめ返した。それから、「そうね」と呟いて窓にそっと近寄る。その窓には木の板を杭で打ち付けられているため外の様子を伺うことは出来ない。夜であるため、隙間から光が漏れているわけでもないが、アイリーンはどこか遠くを見つめていた。
「それを知ってどうするの」
静かにアイリーンがギルに問いかける。すると、隣にいたクライドが口を開いた。
「我々はもう姫様の仲間。姫様のことを知る権利もあるはずです」
「ああ、それに……このまま知らないままなのも正直言って胸くそ悪い」
するとアイリーンが二人の方を振り返って悲しげに笑った。
「マリアは仲間に恵まれているのね。よかった、マリアが希望を捨てなくて」
「あの」
アイリーンの言葉にとまどいを見せてクライドが呟いた。すると、「ごめんね」と言ってアイリーンは口を開いた。
「確かに話すべきだわ。マリアはね、今までほとんど監禁にも近いような境遇を受けてきたのよ」
二人は狼狽する。それに気づかないふりしてアイリーンは言葉を紡いでいく。
「マリアはそんな感じがしなかっただろうけれど、レイヴァンとバルビナがマリアを見張り、ほとんど部屋からは出さずにたまに家庭教師が来るぐらい。あとは誰にも会わせないようにしていたのよ」
各国で行われる舞踏会などもマリアを出席させることは無かったという。それも、国王からの要望だという。
「なぜ、そのようなことを」
呆然とクライドが呟けば、アイリーンが悲しげに目を伏せた。それから二人の方を見つめて口を開けばギルとクライドは思わず息を飲み込む。
「知っていると思うけれど、マリアが生まれた翌晩、何者かに誘拐された。そのときは、衛兵がすぐに気づいたからマリアは助かったけれど、オーガストはやはり娘を溺愛していたから自分の手の届くところに置いておきたかったんでしょうね」
それからオーガストがマリアを城に閉じこめるかのように、舞踏会などもマリアは出席させなかったという。どうしてもマリアと一緒に出席しなければならないときは、マリアの身代わりを立てて舞踏会に出たという。
「そんな中、マリアがまだ六歳の時、コーラル国の王子がマリアと結婚したいと言ってきたのよ。舞踏会で出会った姫と結婚したいと。けれど、その舞踏会の出席したのだって身代わりの子。マリアじゃないわ。だから、断ったの。だけど」
大国であるコーラル国の第一王子の申し出を断ったとコーラル国の王に反感をかってしまい、いつからか対立してしまった。それを聞いてラースの言っていた言葉にギルが納得する。つまりはラース王子はマリアの身代わりの少女に惚れていたのか、と。
「それでオーガストがマリアを穢れた男に渡すわけにはいかないと男として育てることにしたのよ」
なるほど、とギルは納得していたが少し腑に落ちなくてアイリーンに問いかける。
「本当にそれだけが理由で姫様を王子として育てることにしたのか?」
ええ、とアイリーンは表情をそのままに答えた。納得していないようであったが、納得したことにしてギルは「そろそろ姫様の元へ戻る」と言って部屋を出て行った。クライドも慌てて背を追って外へ出ると、部屋に静寂ばかりが満ちた。
「ずいぶんと頭の良い仲間を見つけわね、マリア。けれど、あなたの秘密は墓場まで持って行くつもりなのよ」
バルビナはアイリーンを見つめる。アイリーンはくすりと笑って、マリアの従者を見つめ返した。
「嘘はいっていないもの」
「肝心なことは私にも仰ってはくださいませんよね」
「ええ、言わないわ。たとえ、神に言えと言われても言わない。マリアは確かに私とオーガストの娘だもの」
切なげに紡いだアイリーンの言葉はどこか悲しい響きを持っていた。
ギルとクライドは早馬を走らせていた。一刻も早くマリアの元へ戻るために。
「ギル、王妃様が仰っていたことは」
「ああ、本当だろう。嘘をついているならば、王妃様の体の中にある“水”が何かしら反応があるからな。だが、何か隠してる」
人がなにか秘密を抱えているときにもギルには手に取るようにわかる。それは“水”の反応であったり、相手の仕草などから読み取れる。
(姫様の秘密。それも、性別を偽るほどの)
考えていたけれど、ギルには何も思いつかなかった。
***
朝になってマリアはぐっと背伸びをした。ベッドはとてもふかふかで気持ちが良い。思わずベッドの上でごろごろしたくなる誘惑を払いのけて胸にさらしを巻き付けると男物の衣服を手に取り、着替えた。もうシプリン支城での生活も慣れていた。
部屋を出て朝食を食べに向かい、その後ソロモンの知恵を教えてもらい昼からは昼食を終えるとレイヴァンの稽古を受ける。
マリアの剣筋がよくなり、レイヴァンも短剣ではなく剣を帯剣して稽古をしていた。それほどまでもマリアの上達は早かった。
「マリア様、ずいぶんと上達がお早いですね」
「レイヴァンに言われても説得力無いよ」
「いえいえ、謙遜ではなく本当のことですよ」
苦笑いを浮かべつつマリアはレイヴァンにはじき飛ばされていた剣を拾い上げる。すると、木の上に上っていたレジーが降りてきた。
「レジー、どうかしたの?」
「いえ、最近、風が騒がしいのですが今日はまた一段と騒がしくて」
レジーの言葉にレイヴァンが辺りを警戒するようにビリッと空気を張り詰めた。そんなレイヴァンにマリアが苦笑いを浮かべて呟く。
「そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。この前だって何もなかったのだし」
「ですが――」
「平気だよ、レイヴァンは心配しすぎなんだから」
マリアは言ってその場を去っていく。レイヴァンもまたを追おうとしたが兵達がわんさかと集まって行く手を阻まれてしまった。
レジーは慌ててマリアを追いかけていく。その背をレイヴァンは見つめていた。
(レジー、マリア様を頼んだ)
マリアとレジーが中庭へ向かうとラルスが一人で鍛錬に勤しんでいた。こうして会いに来るのもすでに日課になってしまっていた。
ラルスもマリアに心を許しているのか少しづつであるが表情が出るようになっている。
「お前も毎日、毎日、飽きないなあ」
ラルスが苦笑いを浮かべてマリアに言った。すると、マリアは微笑んで「そっちも」と返せばラルスは何も言わずただ柔らかく微笑んでいた。
レイヴァンもマリアがラルスに毎日、会いに行っているのは知っている。何も言わないのはマリアをあまり束縛したくはないからだろう。城の外に出ているわけではないのだ。特に危ないこともない。しかし、レイヴァンはそれを良しとはしてはいない。マリアが他の男に触れるだけで嫉妬してしまうような男だ。ラルスを良くは思っていないだろう。それでも、黙認しているのはマリアの気持ちを踏みにじりたくないからか別の所に理由があるかどうかは定かではない。
「ねえ、ラルスは正騎士になりたいのか?」
マリアが何気なくラルスに問いかける。ラルスはどこか遠くを見つめて小さく笑うと「いや」と呟いてから言葉を紡ぎ出した。
「誰か大切な人を守れる騎士になりたいなんて、夢見がちだろうか」
意外な彼の言葉にマリアは瞳を輝かせてラルスを見つめた。
「ううん、かっこいい。わたしも大切な人を守りたい。そのために武器を持つことを決めたから」
「お前は武器を使えるのか」
「まだまだ、だけどね。だけど」
そのとき、兵から解放されたレイヴァンが中庭へ来ていた。レジーはレイヴァンの気配に気づいてレイヴァンにそっと近寄る。
「守られてばかりのわたしだけど、いつか強くなって皆を守れるようになりたい。わたしの目指す先が暗闇であっても皆がわたしを信頼してくれるのなら後悔なんてしないと思うから」
「随分と信頼しているんだな」
「もちろん! わたしの最高の仲間達だもの」
笑顔で答えたマリアの言葉にレイヴァンとレジーが目を見開いて立ちつくす。その様子をラルスが見つめてマリアはラルスの様子に驚いて後ろを振り向いた。その視線の先にいるレイヴァンとレジーにマリアは驚きを隠せない。
「ふ、ふたりとも!? いたの」
レジーにいたっては初めからいたのにマリアは気づいていなかったようだ。狼狽しているマリアにレイヴァンが近寄って恭しく跪く。
「そんなあなただから、お側にいるのですよ」
「ありがとう」
ふんわりとマリアが微笑んでそう呟いた。そのとき、エリスが慌てた様子で中庭へ来た。その焦燥した様子に皆が驚いてエリスを見つめる。
「エリス、どうかしたのか」
「いえ、先ほどから木が騒がしくて何かあったのではないかと」
「いや、何も」
そうマリアが答えている間にもクレアまでも中庭へ出てきていた。それから、エリスと同様に焦燥したようでマリアに同じ質問を繰り返す。
「一体、何なんだ?」
レイヴァンが思わず呟いた。ラルスは、何が何だかわからないのか困ったような表情を浮かべていた。
「なあ、あんたって何者なんだ?」
ラルスが何気なくマリアに問いかける。けれど、マリアの正体をここで話すわけにも行かず皆が言いよどむ。
「皆が心配性なだけだよ」
マリアがそう何とか答えたけれどラルスは腑に落ちない表情をしていた。
その日の夜。
マリアは夕飯を食べ終えてベッドの中へ入ったけれど寝付くことが出来ず、夜風にあたりたくなってベルベッティーンの上着を羽織ると中庭へ出た。昼間と違い誰もおらず、静かな中庭には青い月が昇っていた。
(そういえば、わたしが産まれた時も青い月が昇ったんだっけ)
マリアがそんな風に思っていると背後から土を踏む音が聞こえてきた。レイヴァンか守人かと思い、後ろを振り返るとそこには、その誰とも似付かない男が立っていた。魔法使いのような長いローブの服を着、フードを深く被っている。
どこの誰、なんて疑問が真っ先に浮かんだがそれ以上に男が確かな殺気をこちらに向けて近寄ってきているのがすぐに感じ取れた。
(逃げなきゃ!)
どうやってここへ入ってきた……そんな疑問が頭に浮かんだが、問える余裕もなく命の危機にさらされていることが手に取るようにわかった。
確かな殺気はマリア個人に向けられており、尋常じゃない命の危険を感じる。
マリアは後ずさり、急いで城の中へと駆け込んだ。けれど、その後ろから男は追いかけてくる。
(いや、こわい!)
時折、躓きそうになりながらも何とか廊下を駆けていると危機を察したエリスが現れた。
「姫様、お下がりください」
エリスはマリアを背に庇うと短剣を引き抜いた。すると、男の引き抜いた刀身が短剣をすり抜けてエリスの腕を切り裂く。
マリアの青い瞳に、赤い鮮血が飛び散るのがうつりこむ。それは床に飛び散って
「エリス!」
エリスの短剣も血に混じって床に落ち、エリスの腕はつながってはいるものの深い傷を負ってしまったのかだらりと垂れている。
目に涙をためてエリスに駆け寄るマリアにエリスが微笑んで見せた。
「これくらいのケガなんてことございません」
「でも……」
座り込んだエリスをマリアは庇うように立つ。それから男を真っ直ぐに見据えて問いかけた。
「お前は一体」
「やっと、見つけたんだ、マリア。お前だろう、お前なんだろう? バートがアイリーンに渡したデータは」
「何の話だ」
額に汗をうかべながら、マリアは問いかける。
「まさか、知らないわけではないだろう。バートの研究データだ。さらったお前の片割れは外れであったし」
(データ? 片割れ? どういうこと)
マリアが困惑しているとレジーとクレアも駆けつけてきた。クレアはマリアとエリスに駆け寄り、レジーはマリアを庇うように立ち、短剣を構える。
それから、騒ぎを聞きつけたレイヴァンとソロモンも現れた。
「何事だ!」
ソロモンはそう問いかけつつも男を睨み詰める。レイヴァンは剣を引き抜き、男に斬りかかる。男はその剣をすらりと交わすと口元に笑みを浮かべた。
「バートめ、死んでもなお邪魔をするとはな。アイリーンも、オーガストも邪魔ばかりをしやがる」
皆が目を見開いた。
「陛下と王妃を呼び捨てにするなど!」
レイヴァンが男をにらみ付けて言った。けれど男は不気味な笑みを浮かべて大声で笑い始めた。
「何がおかしい」
殺気のこもった声でレイヴァンが問いかけた。そのとき、ヘルメスまでも起き出して男を見つめて呆然と立ちつくした。
「ブラッドリー」
「おお、ヘルメスか。そんなに大きくなったか」
「なぜだ。なぜ、お前がここにいる! お前はあの日、死んだはず」
ヘルメスが珍しく狼狽し焦燥をあらわにしている。そのことに皆が驚いたが、それ以上に男ことブラッドリーがすでに亡くなっているはずといわれ、驚きを隠せない。
「ああ、あれは影武者だ。あんな
ヘルメスが驚いたように目を見開いた。
「あの研究は人の身には余るものとして研究は打ち切ったはずだ。なぜ、今更」
「おれはバートの研究を探していたんだ。ようやくアイリーンに託され、自らの子どもに研究データを隠していたことがわかった。けど、“誘拐した片割れ”の方には無かった。つまり、もう一人の片割れである娘に託したと思っていたのだが。誰も彼もが国王には娘はおらぬという」
ブラッドリーはマリアをちらりと見る。マリアが思わず体をびくつかせて、ブラッドリーを怯えた瞳で見つめた。
「それから、調べてわかったんだよ。国王はおれに娘を見つからないようにするために娘を男として育てることにしたということがな!」
マリアが呆然とブラッドリーを見つめた。それから、ソロモンの方を見る。すると、ソロモンは苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべていた。つまりは事実なのだろう。
ブラッドリーはマリアを見つめ、にやりと口角を上げた。
「お前の中にある、データ渡してもらう!」
ブラッドリーがマリアに襲いかかる。すかさず、レイヴァンがブラッドリーの剣を受け止めて弾いた。チッと舌打ちするとブラッドリーが足早に去っていった。レイヴァンが背を追いかけると、その場に沈黙ばかりが降りた。
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