第二十一章 拙劣な思考

 マリアはソロモンの知恵や案をひたすらに聞いていた。ひたすらに聞くと言ってもソロモンは、謎かけのようにマリアに問いを欠かさないため、マリアもまた必死に考えを絞り出していた。

 守人達もただ静かにじっとマリアの考えを聞いている表情をしている。側で控えているレイヴァンもまた神妙な面持ちであった。


「戦は拙速であるべきなのです。いくら勝利を収めたとしても、長期戦になっては軍は疲弊するし、その分、物資も必要となる。そのため、早期収束することがいいのです」


 マリアは小さく頷いた。ソロモンは、それを確認してから口を開いて「それから、もう一つ大切なことを」と切り出した。


「昨日、あなた様には個人ではなく全体を見ていただきたいと申しました。その上であなた様には経済学的思考も身につけていただきたいのです」


 マリアが小首を傾げればソロモンが例えば、と切り出した。


「たとえば、誰かがあなた様を裏切ったとします。そこであなたはどうにか皆が裏切らないようにし向ける方法を考える。その上で必要となってくる考え方です」


 この考え方をインセンティブという、とソロモンが告げてどんなものかを説明し始める。

 インセンティブとは経済学においての基礎であり、理論的思考である。飴とムチを用いて人を動かす考え方でまず事柄に関してメリットとデメリットを考えて導き出すのだという。


「といっても、わたくしは経済学者ではございませんのであしからず」


 ソロモンの言葉にマリアが小さく頷いてみせれば、ソロモンが小さく笑う。


「だが、ソロモン。この国の経済もお前のお陰で救われたと聞いたぞ」


 昔、ひどくこの国自体の経済が落ち込んだことがあった。そのとき、ソロモンがその知識を持ってして恐慌から救って見せたのである。しかし、レイヴァンの言葉にソロモンが「ああ」と呟いて、今の状況もいずれ無理になってくるだろうと答えた。


「レイヴァン、お前は少し俺を買いかぶりすぎだ。それに俺のやり方だといつまでもずっとというわけにもいかんよ」


 ソロモンの言葉にマリアは首を傾げた。ソロモンはマリアの方を向き直り、マリアに答える。


「わたくしは国がお金を使うことによって経済をうまく回るようにしたのですよ。支出(需要)と生産(供給)、所得はイコールでつなげることが出来ますから」


 つまり支出が増えれば生産も増えて所得も増えるということである。


「ま、今はマクロ経済の話ではなく経済学的思考の話です。インセンティブを王子には身につけていただきたいのです」


 話を切り替えてソロモンが、マリアに説明するように言葉を紡ぎ出す。


「インセンティブはまずその人の立場に立ってどのような選択があるのかを考えます。そのあとその選択のメリットとデメリットを考えるのです。そのあと、どうすれば改善するのかを考えます」


 マリアは考え込むように顎に手を当てる。


「どうやって改善させるかは良い方だと『こんないいことがありますよ』というのを提示する。逆に悪い方だと『こんな罰があなたに降りかかりますよ』ということを提示するのです」


「なるほど」


 そうマリアが呟いた後、ソロモンは小さく微笑んでそれから、と言葉を紡いだ。


「この考え方をする上で我々はまず“人を信用しません”。まず人は裏切る者として考えます」


 何か言いたそうなマリアにソロモンが考え方ですからと言えばマリアも納得して何も言わなかった。ソロモンもそれを感じ取って小さく笑う。


「そのため、経済学者というのは大きなミスを犯したことも多々あるのですよ」


 マリアが顔を上げればソロモンが経済学者は“道徳心”というものは無いものとして考えますから、と呟いて笑った。


「インセンティブは一つの考え方であり、人を動かすにはもってこいの考え方です。インセンティブで人は容易く動かされますから」


 そうなのか、とマリアが呟いて少し顔をうつむかせる。それから、ソロモンが「今日はこのへんで」と切り上げればマリアも椅子から立ち上がりレイヴァンを見つめる。


「今日から稽古を付けてくれるのだったな」


「そうですね。あなた様の為ならば何でもいたしましょうと言ったのは俺ですし」


 マリアがほんわりと微笑む。それから、レイヴァンと共に上着を着ると外へ出て空を見上げた。遠い空には分厚い雲が浮かんでいた。今夜も降るのだろうかとマリアはふと思う。

 それから、弓の練習場へ赴くとマリアがスッと弓をかまえた。それから、矢を放てば矢は空を切り霞的を少し外れて突き刺さった。


「おしいですね」


「まだまだだ。わたしはもっと強くならなくてはならない」


 凛とした瞳で的を見つめれば、その視線だけで射抜いてしまいそうだと隣でレイヴァンが思ってしまう。それほどまでも勇ましく凛々しく見えたのだった。


***


 グレンとラースは王都へ戻っていた。この国の王子を崖へ追い詰めて落としたことをバルドルにこっぴどく叱られ、グレンもまたバルドルに「お主がついていながら」とぼやかれたぐらいで特に何も言われなかった。

 バルドルの部屋を出てからのラースの癇癪までグレンは受け持つのだろうと思っていたが、ラースは相当参っているようで亡骸のようになっていた。

 ふらふらと歩きながら自らの部屋へ戻ったのをグレンは確認するとグレンの従者がいるであろう医務室へ向かった。

 医務室には案の定、ジョードとクリシュナがいる。二人を見てグレンは尊敬とも似ているまなざしで二人を眺めていれば二人がこちらの視線に気づいて振り向いた。


「これは、客将殿。こんなところでいかがなされた」


 クリシュナがグレンに問いかければ、グレンは二人に近寄る。


「ああ、お前達はラース王子の従者であったよな」


「ええ、まあ」


 ジョードがそう答えるとグレンは、しみじみと二人を眺めてすごいなと呟いた。


「え?」


 目を丸くするジョードにグレンが答えるように言葉を紡ぎ出す。


「あんな王子によく仕えたな、と思ってな。まあ、それはいい。実はな、この国の王子をラースが追い詰めて崖から落とすようなことをしてしまってな。それから、ラース王子の様子がおかしい」


 ジョードとクリシュナは顔を見合わせて目をぱちくりとさせてから思わず叫びかけた。が、その前に二人して口を噤む。


「お前達なら、対処法がわかると思ったんだが。無理みたいだな。すまん」


 そういってグレンが医務室をあとにする。


(あの王子はまだ使えると思っていたが、当てが外れたな)


 そんなことをグレンが思っていると医務室からジョードが飛び出した。


「あの、ラース王子のこと詳しく教えてくださいませんか」


 足を止めてグレンはジョードにラースのことを告げれば、いてもたってもいられない様子でラースのいるであろう部屋へ向かう。その背を眺めて「臣下とはつらいものだな」と呟いた。すると、それを聞いていたらしいクリシュナが医務室から出てきてグレンを見つめた。


「臣下だからじゃないさ。人間とは知っている身近な人に何かあればどんなに最低な人間でも心配してしまう者なんだよ」


 といっても誰も彼もと言うわけではないがな、と付け足して苦笑いを浮かべてみせる。すると、グレンは「そうなのか」とだけ呟いて立ち去ってゆく。そんな背にクリシュナが声をかけた。


「あんたにはいないのかい? 側にいる人間というものは」


「わからぬ。俺は少し人より欠落している」


 言い残してグレンはその場を去っていった。

 クリシュナは、その背を眺めて「何を考えているのか」と口の中だけで呟いた。もちろん、グレンに呟きは届かない。

 しばらくクリシュナが、そのままいるとジョードが戻ってきた。


「ラース王子は?」


 クリシュナの問いかけにジョードが首を横に振る。それから、国王から聞いたという話をクリシュナに告げた。


「ラース王子がこの国の王子を崖で追い詰めて落としてしまったらしい。ラース王子はそれで心を痛めているらしくて」


 クリシュナが驚いて目を見開く。けれど、ジョードはそれだけでは無いのではないか、とクリシュナに言った。


「なぜ、そう思う?」


「ラース王子の部屋へ行くとラース王子がまるで死霊にでもとりつかれたかのように何事かを呟いていたんだ。『なぜ、あんな者のために』みたいなことを言っていた」


 つまりは、ラース王子は結果的にベスビアナイト国の王子を崖から落とした形になったが、誰かをかばって崖から落ちたのではないだろうかとジョードはクリシュナに自らの考えを言う。すると、クリシュナはうむと呟いて「そうかもしれないな」と答えた。


「あの王子がそこまで疲弊していて、しかもその呟き。その考えはあたっているんだろうな」


「だが、ラース王子がここまで病むなんてよっぽどだ。それに、崖から落ちたと言うことはベスビアナイト国の王子はもう――」


「そういえば、兵達が話していたな。ベスビアナイト国の王子はもう亡くなっていると」


 そうか、と呟いてジョードが悲しげに目を伏せる。


「あの王子、きっと立派な人になっていただろうに。なんだか、やりきれない」


 敵ながらもジョードとクリシュナは、ベスビアナイト国の王子のことを人として敵でなければ仕えたいと思わせる人であった。産まれる国がここであれば、きっと自分は喜んで彼女に仕えていたであろう。


「とにかくラース王子がそこまで疲弊しているのなら、考えを改める良い機会になるかもしれない」


 クリシュナがそういえばジョードも賛同するように小さく頷いた。そのとき、二人の元へアンドレアスが姿を現した。

 どうやら、ついさっき戻ってきたようである。


「ベスビアナイト国をコーラル国にこのまま好き勝手させるわけにはいかない。お主達の意見を聞きたいのだが――」


 切り出してアンドレアスは、マリア達にしたように二人に自らの考えを告げる。すると、二人は驚いたように目を見開いた。


「アンドレアス様、なぜそのようなことを」


「考えてもみよ。この国から略奪行為を繰り返しても得られるのは不信感のみ。このままではいけない」


 アンドレアスの言葉に、ジョードとクリシュナが顔を合わせる。それから、クリシュナが「ですが」と言葉を紡ぎ出した。


「陛下はそれをよしとなさらないのではないですか」


「ああ、それはわたしもそう思う。だが、このままでもいけないことは確かなんだ」


 確かな意志を胸に秘めてアンドレアスがそう言うが二人はどこか腑に落ちない表情である。


「しかし、アンドレアス様。わざわざこの国を乗っ取った意味が無くなるのではないですか」


「確かに、そうだが」


 呟いてアンドレアスが言いよどむ。そんな彼を見て二人は、“拙劣だな”と思った。確かに彼の考えていることは間違ってはいないのかもしれない。けれど、彼の考えは間違っていないようでいて少しずれている。稚拙で拙劣だと思わざるを得ないほどに。

 確かに賢い王子であるがまだ子どもだと実感する。彼は自分の考えに一途であるが、逆に愚かともとれる思考回路である。


「アンドレアス様、今は何もなさらない方がよろしいですよ。陛下はあなた様の考えを聞けば、あなた様をお許しにはならないでしょう」


 言われればアンドレアスが、肩を落として二人に「すまない」とだけ答えて去ってゆく。臣下の耳にもよく傾けるよい王子で良かったとジョードとクリシュナは思う。今はそうでもないが、ラースであれば頑固を通していただろう。そもそも、ラースがそんなことを気にとめるはずもないだろうが。アンドレアスのような思考を、ラースも持っていれば良かったのにと二人は思ってしまうのだった。


***


 弓の練習もそこそこにマリアは、支城にある中でいちばん軽い練習用の剣をもらい、中庭へ出て初めてレイヴァンに剣の持ち方を教えてもらった。剣の扱い方の説明も受けていざ、本物の剣を持てばマリアは一度は握ったことがあるもののうまくかまえられず、持つだけで精一杯のようであった。

 必死の形相でマリアが剣を構えようとするとレイヴァンが「やめますか」と問いかける。甘い言葉には乗らないとばかりにマリアが首を横に振った。けれど、やはり重いようでかまえるのもやっとの状態だ。

 それをエリスがと見つめる。その隣ではクライドはいたって飄々とした表情であった。

 レイヴァンに言われた基本の構えを何とか出来ると今度は、レイヴァンが剣の基本動作を教えてもらえばそれをしようとするものの手が震えており、動かせないことがわかる。

 レイヴァンが短剣を一応、腰に帯剣していたが「まだ稽古をするのは早いだろうか」と心の中だけで思ってしまう。

 毎日、弓の稽古をしているからかマリアの腕にも確かに筋肉は付いてきている。けれど、剣となると話はまた別だ。

 何とかマリアが基本動作を行うけれど、レイヴァンは抜刀することなく、ひらりと剣をかわした。余裕の彼にマリアが思わず苦々しい表情を浮かべる。


「そんな顔をなさらなくても。十分、出来ておりますよ」


「その顔で言われても、まったく実感できない」


 レイヴァンは思わず苦笑いを浮かべる。マリアの言葉に返せずにいると、マリアは拗ねたような顔になってまた剣を握り直して基本動作を始める。けれど、やはり基本動作もままならずレイヴァンにはかわされてしまう。ついには、レイヴァンに剣をはたき落とされる。


「……っ!」


「もう今日は十分でしょう。初めから何もかも出来るわけがないのですから」


 レイヴァンの言葉を納得しつつも、マリアが腑に落ちずにいるとエリスが駆け寄り、ベルベッティーン織の上着をかけた。


「クリス様、あまりご無理はなさらないでください。あなた様がいなくては国を取り戻すこともできない」


 エリスがそう言えばマリアも何も言えず、小さく頷いて何も答えずそのままエリスとクライドに連れられて部屋へ戻った。

 その後ろ姿をレイヴァンが見つめていると、レジーが背に声をかける。


「レイヴァン」


 レイヴァンが振り返ればレジーがそっとレイヴァンに近寄る。


「どうかしたのか」


「これから毎日、マリアの稽古をするのかと思って……今だって、マリアが武器を持つことを賛成しているわけではないんだろう」


「ああ。だが、武器を持ち戦おうとするマリア様を支えたいとも思ってしまう。皆を守るために戦おうとする姿もすべて愛おしいと思ってしまう。そんな俺はおかしいんだろうな」


 告げてレイヴァンが小さく笑えば、レジーは首を横に振る。そんなレジーの髪を柔らかい風が撫でた。思わずレジーはどこまでも青い空を見上げる。


「いや、オレも見てみたい。マリアが一体、どんな選択をしてどんな思いをあの小さな体に抱えているのか」


 レジーは随分と長い間、マリアとレイヴァンを見つめてきた感覚に襲われながらそんな答えを返した。

 まだまだマリアは幼く考え方も稚拙で拙劣だ。けれど、ひとつの信念を持っているのは確かだ。その信念を持ってして主がどのような結末を迎えるのか。レジー自身がそれを見届けたいという思いを抱えていたのだ。


「そうだな、俺も見てみたい。どうかマリア様の進む道が安寧ではなくとも、綱渡りのような道であっても、その道を美しく照らしていたい」


 レイヴァンの言葉は祈りでもあるのだろう。

 神はマリアにあまりに大きな試練を与えすぎているのではないだろうかとレイヴァンは思っているのだ。

 十三歳の誕生日に城を追われ、その上にマリアの周りには〈眷属〉の守人達が集まってきている。これだけでも、十分すぎるほど大きな運命の下にいるのだろうと思わざるを得ない。


(それでも、側にいたいと思う俺も大概か)


 そんなことを思ってレイヴァンが苦笑する。すると、レジーがレイヴァンを不思議そうに眺める。


「どうかした?」


「いや、何でもない。ただ、誰よりも近くにいたいと思うのは臣下だからだけじゃないんだろうな、と」


 レイヴァンはどこか嬉しそうに答えた。それを眺めてレジーも小さく頷く。それから、レジーは木の上へ昇り、レイヴァンは部屋へ戻った。



 部屋へ戻ったマリアはまだまだ駄目だと思い、レイヴァンに教えてもらったことを復習していた。その後、錬金術の本を開いてヘルメスに教えてもらったことの復習をする。

 しかし、なかなかうまく行かないものである。

 マリアは勉強が嫌いというわけではない。自分が好きなことに関しては、とことんまで打ち込むのだけれど好きになれない学問は、どうしても退屈で学ぶことが嫌になってしまうのだ。


(だけど、学ぶということがこれほど楽しいと感じたのは旅に出てからだ)


 マリアにとって城を追われたのは、確かに最悪な出来事と言っても過言ではないほどの出来事だ。けれど、国を追われたからこそ学ぶ意味を見いだす事が出来て今まで知らなかったことを知ることが出来たのだ。これは良いことだ。

 ふとマリアは本から顔を上げて窓を開けてバルコニーへ出る。薄闇に沈む太陽が辺りをまばゆく照らし出していた。そんな折、冷たい風が吹き抜ける。


「さむい」


 寒いとわかっていてバルコニーへ出たのだが、思わずマリアはそう零した。空を見上げれば青かった空に分厚い雲が運ばれていた。もうすぐ降り出しそうである。かと思えば白い雪がちらちらと降ってきた。

 その白い雪に手を伸ばす。冷たい感覚を手に残して雪が溶けた。


(知らなかった。この雪の冷たさ、こんな簡単に消えてしまうこと、それに、武器の重さも。レイヴァンの剣はわたしが今日、持った剣よりももっと大きかった。あれをいとも容易く扱っているから気づかなかったけれど、あれはあんなに重たいんだ)


 武器を持つということは人を傷つけるということも、とマリアが呟く。何も知らなければ良かったなんて思わないけれど、それでもレイヴァンが背負ってきた重みを少しでもわかった気がしたのだ。

 冷たい風が吹いてマリアのベルベッティーンの上着をはためかせる。それを飛ばないようにぎゅと握り締めれば風によって雪がさらに空から降りてくる。

 目を開けていられなくてマリアは思わず目を閉じた。風がおさまり、目を開くとそこには見知らぬ女性がいた。


「あ、の……」


 女性は柔らかな笑みを携えてマリアを見つめる。その目は優しい。そんな女性は青い瞳に金の髪をしていた。マリアを大人にしたらこんな感じだろうかと思うような容姿である。


「いつかまた逢える」


 女性が言うと強い風が吹いた。マリアは、「待って」と声を張り上げて手を伸ばしたけれど視界が闇に塗りつぶされて意識が闇の中へと落ちていった。



 マリアは、エリスに体を揺られて目を覚ました。


「大丈夫ですか、ずいぶんとうなされてましたが」


 言われて辺りを見回す。すると、マリアは錬金術の本を開いたまま机の上に突っ伏す形で眠っていた。思わずマリアは目をさせる。


「あれ、わたし……」


「勉強をなさっていて眠ってしまわれたんですよ。がんばるのもいいですが、ほどほどになさいませ」


 マリアは女性のことを思い出す。あれは夢だったのだろうか、と呟けばエリスがマリアに問いかける。マリアは女性のことをエリスに話したけれど、「夢でしょう」と言われてしまった。


(夢にしてはあまりに現実味を帯びているような)


 腑に落ちない様子のマリアにエリスが「ご飯ですよ」と言えばマリアは頷いてエリスに案内されるままに食卓に案内される。そこでは、すでに皆が集まっていた。軽く皆に謝れば、皆はマリアに合わせて食事を始める。


(夢、なんだよね?)


 ひとまずは夢と言うことにしておいてマリアは食事を進める。そんな様子のマリアをレイヴァンが心配そうに見ていたことには、マリアは気づかない。

 そんなマリアは小さく息を吐き出した。手も止まってしまっている。


「いかがなさいましたか」


 声をかけられてマリアは、レイヴァンを見る。そこで初めて顔を上げて皆がマリアを心配そうに見ていたことに気づいた。


「あ、いや、なんでもない」


 答えてもう一度、フォークを持ち直しカルトッフェルズッペ(じゃがいものスープ)に突き立てた。もちろん、スープなので中の具に突き立てることは出来てもスープ自体に突き立てることは出来ない。それに、フォークなのでスプーンのようにすくうことも出来ない。

 しかしマリアが突き立てたフォークには、具すらも突き立てる事が出来ず、空気を叩くようなことをしていた。

 そんな様子を見ておかしいと思わない方がおかしいぐらいだ。

 皆は絶句して、一秒後にマリアに勢いよく詰め寄った。


「一体、いかがなされたのですか!?」


「どうしたのですか!」


 先に問うたのはレイヴァンで、後者がエリスだ。エリスもレイヴァン並みにマリアに対して過保護っぷりを披露している。そんな二人から問われればマリアとて阿呆ではないから心配かけまいと「大丈夫」と答えた。けれど、今回ばかりは明らかに様子のおかしいマリアにソロモンがエリスに命じて部屋まで運ばせた。それから、エリスはマリアの為に手で食べられるデナー・ケバーブを部屋へ運ぶ。

 ソロモンにまで心配されるとなると、さすがのマリアもそこまで心配させただろうかと思ってしまう。

 エリスから受け取ったデナー・ケバーブを頬張りつつマリアは、そう思いながらも嬉しそうに微笑んだ。その間もずっとエリスはマリアのそばに控えていた。マリアがこんな調子なのだ。心配なのも相まってそばを離れることが出来ないのだ。


「何かあれば何でもおっしゃってくださいね」


「お前はわたしに尽くしすぎではないか」


 マリアが何気なく言えば、エリスはスッと跪く。


「いいえ、そんなことはございません。あなたは僕の主ですから」


「ありがとう、エリス」


 言われるだけでマリアは満たされる感覚に襲われる。けれど、エリスとて人間だ。主だと認めた相手以外には仕えたくはないだろう。いつまでも、人の厚意に甘えるわけにはいかない。

 自分は愚かで考え方もまだまだ劣るが、人の情というものは持ち合わせているつもりだ。

 今は仕えているこの“守人”たちもいつ自分に愛想が尽きるかわからない。主として仕えてくれているうちは、自分もふさわしくあろうと思うのだった。



 食事を終えてレイヴァンはソロモンの部屋に招かれていた。ソロモンの机の上には大量の資料とエリスが用意したであろうカリーヴルスト(焼いたソーセージの上にケチャップとカレー粉をまぶしたもの)が置いてあった。フライドポテトも同じ皿の上に乗っている。それを時折、ソロモンがつまんでいた。


「お前、食べ過ぎじゃないか」


「何を言うか。食べ物は粗末にしてはならんぞ」


「いや、そういう意味ではなくだな。まあいい。それよりも、俺を呼んだ理由をおしえてくれ」


 ソロモンはフライドポテトを口にくわえて美味しそうに顔を綻ばせると「お前も喰うか」と問いかければレイヴァンは「あとでな」と答えて先を促す。


「姫君のことなんだが、おそらく長旅の疲れがたまっているのだろうと思う。数日休めば元に戻ると思うのだが」


 レイヴァンもこくりと頷く。それから、明日は稽古も休ませようとは思うと告げればソロモンが小さく笑った。


「あの姫君が承諾するとは思えないがな」


「俺もそう思うが、このままではマリア様の体がもたぬ。なんとしてでも阻止せねば」


 ああ、と頷いてソロモンが何かの資料に目を通す。それは何だ、とレイヴァンが問いかければ「税収だ」と告げた。


「あまり、このところは経済がうまく回っていないようでな。国を取り戻すにも金はいるのだし、どうしたものかと」


「たしかにそれは困るな。王都へまでいくのに食料もいるのだし」


 と言いながら、レイヴァンがフライドポテトをつまんだ。塩味がレイヴァンの舌に広がる。うまいな、とレイヴァンが呟けばソロモンは小さく笑い資料と片付けるとワインボトルを取りだした。それはピノ・ノワールという品種の葡萄トラウベから作られる葡萄酒である。高級な酒でこの国では珍しい赤ワインである。


「そんなもの、一体いつ」


「バルナバス殿からいただいた物だ。遠慮せずに呑んで良いぞ」


 一体、どうやって手に入れたのやら。なんてレイヴァンが思っているとソロモンは二人分のワイングラスを出してレイヴァンに注いだ。

 レイヴァンは呑んだことがないのか警戒するように一口飲んだ。すると、頬を少しだけ綻ばせる。


「うまいか」


「ああ、こんな味はじめてだ。だが、あまり呑むわけにもいかぬ。マリア様があんな調子であるし」


「まあ、そうだな。レイヴァンと酒を呑むのもいいのだが今日はこの一杯だけにしよう」


 そういうとソロモンも自分のグラスに酒を注ぐとワインボトルを元の場所へ戻した。それから椅子に座るとワインを味わうように飲む。そこでソロモンが口を開いた。


「姫君は正直言って、がんばりすぎだ。がんばるのは良いことだが、姫君が異常だ。焦っているようにも見える」


「焦っているのだろうな。マリア様はよい主であろうとしている。自分についてきてくれた我々に報いようとしているのだろうが」


「ああ。いくら何でも、がんばりすぎは良くない。レイヴァン、お前から何か言ってやれば少しは違うのではないか」


 いいや、とレイヴァンは首を横に振る。


「『お前は優しすぎる』と前にマリア様に言われた。きっと、夜遅くに抜け出してでも練習しようとなさるだろう」


 ソロモンは考えるように顎に手を当てた。レイヴァンは少しだけ悲しそうに眉を動かす。


「もっと我々を頼っていただければよいのだが」


「まあ、しばらくは様子を見よう。姫君のことは姫君にしかわからぬ」


 そういうとソロモンはぐいっとワインを飲み干した。



 マリアはエリスに話し相手をしてもらいながら温かくぬくめられたホットミルクを飲んでいた。


牛乳ミルヒはカルシウムがたくさん含まれています。しかも吸収しやすくする物も含まれているので、骨が強くなるんですよ」


 しかも、夜にカルシウムが吸収されやすくなるのでミルクを飲むのは夜がいいとも付け足してエリスが言った。


「ずいぶんと詳しいな」


「まあ、これでも栄養学をソロモンの元で学びましたから」


 そこでふとマリアは問いかける。


「そういえば、エリスとソロモンはどこで出会ったんだ」


 エリスは「はい」と言って答えてくれた。エリスが言うには、一年ほど前のことらしい。エリスが産まれた村では“守人”を“忌み人”と呼んで迫害してきた。そんな村でエリスは人里離れたところでひっそりと母親と共に過ごしていた。そのとき、母がやまいにかかった。もちろん、村の人は助けてはくれない。

 そんなとき、偶然にもソロモンが村を訪れ母の病態を真摯になって見てくれた。しかし母は命を落としてしまう。

 行く当てもない身よりもない自分はソロモンにせがみ、連れて行って欲しいと頼んだ。ソロモンは小さく微笑むとエリスに手を差し伸べてくれた。


「それから僕はソロモンの元で様々なことを学び、世界の広さを知りました」


 嬉しそうに語るエリスにマリアもまたうれしさがこみ上げて笑みを浮かべる。すると視線を受けたエリスが頬を赤らめてマリアの向き直った。


「そういうことがありまして、それからずっとそばにいるのです」


 そうか、とだけマリアは返してホットミルクに口を付ける。すると、ノックする音が聞こえてきた。マリアは「はい」と返せばエリスが扉を開く。すると、そこにはレイヴァンがいた。それを確認するとエリスは中へレイヴァンを通す。


「マリア様、体調はいかがですか。どこか苦しかったり体が重かったりいたしませんか」


「大丈夫だよ。レイヴァンは心配が過ぎるよ。わたしなら、平気だから」


「なら、いいのですが。どうか、ご無理はなさいませんように。それから、大事をとって明日の稽古はお休みにいたしませんか」


「しかし」


 困った表情をするマリアにレイヴァンが恭しく跪いた。


「もう少しご自身を労ってくださいませ」


「わかった」


 エリスの目もあってか素直にマリアは頷いた。それを聞いてレイヴァンはぱっと顔を綻ばせる。相当、心配されているようだ。けれど、マリアからすればレイヴァンはやはり心配しすぎだと思ってしまうのだが。


(剣をはやく扱えるようになりたいけれど。こうなったら、レイヴァンはきっとしてはくれないだろう。こういうときのレイヴァンは頑固だもの)


 明日は休んでその次の日から稽古をしようとマリアもあきらめてそう決めると、レイヴァンもマリアの考えていることがわかるかのように心の底からほっと息を吐き出した。


(なんだか、心を見透かされている気がして嬉しくない)


 思わずマリアがそんなことを考えていると扉を叩く音が聞こえてきた。

 今日は来客が多いな、とマリアが思いながらも「はい」と答えればエリスが扉を開ける。すると、ひとりの兵士が慌てたように口を開いた。


「ご報告いたします。ここより北方の支城、クラシス要塞がすでに落とされたとの伝令が届きました」


 その場にいたマリアとレイヴァン、エリスが固まって沈黙が流れた。

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