第二十章 確かな意志
ソロモンが、マリアに説き聞かせるように言葉を紡ぎ出す。
「王子、エイドス支城の準備も万全との伝書が届きました。シプリン支城もあなた様の力となってくれることを約束してくださいました。あとはあなた様次第でございます」
マリアが頷きつつ皆の顔を見回す。それから、言葉を紡ぎ出した。
「わたし達の国を取り戻す。そのために皆の力を貸して欲しい。よいだろうか」
マリアが問いかければ、皆が頷いてみせる。それを見てほんわりと微笑んでから、また“王子”の顔に戻った。すると、ソロモンがひとつ言っておくべき事がと言葉を発した。
「これからは我らは一つの軍となります。今までは個人を見てきたあなたですが、あなた様には我々を指揮するものとして全体を見ていただきたい」
マリアが同じことをつぶやく。静かにソロモンが頷いて見せた。
「個人個人の能力よりも集団としての力を発揮させることがこれからは必要になってきます」
マリアが険しい表情で頷いた。ソロモンは小さく微笑んで、「残り二つの支城の状況はエイドリアンに見ていただくことにします」と言えばエイドリアンが頷いて見せた。マリアがわたしも行きたいと言うと、ソロモンが我らの『道』であるあなたが城を開けてどうしますと問いかけた。その言葉に何も返せなくなりしぶしぶと頷いた。
それから、ソロモンは一番大切なことをと切り出して言葉を発した。
「王子、正騎士長のことはいかがなさいますか」
「それは会って話してから決める。彼が本当に裏切ったのか、それともただの嘘であったか」
「わかりました。それでは」
マリアが小さくけれど、力強く頷けばレイヴァン達もその目に闘志を宿してマリアを見つめる。マリアもそれに答えるように皆を見つめて力強く宣言した。
「取り戻そう、わたし達の国を」
言葉は確かに皆の心に闘志をみなぎらせる。それから、エイドリアンは馬を一頭と旅支度をすませると他の支城へと旅だった。それをマリア達が見送った後、ふとソロモンがバルナバスに問いかける。
「そういえば、バルナバス殿。国がこんな状態のときに狩りに行っていたそうですが」
バルナバスがソロモンの言葉に「ああ!」と声を上げて首を横にブンブンと振る。それから、訂正するために口跡をつむぐ。
「違うのだ、レイヴァン殿から伝書鳩を伝って手紙が来て。それでいてもたってもいられず王子様を捜しに出かけたのですが、コーラル国の兵達に捕まってしまって」
バルナバスの言葉にソロモンが納得したように頷いて「なるほど」と呟いた。それから、レイヴァンの方に視線を向ける。
「手紙を出していたのか」
ソロモンが問いかけるとレイヴァンが、頷いて「ああ」と答えた。
「シプリン支城はお前が離れる前に軍に統一性を持たせ経済も比較的に安定させていたであろう。お前の作った体制の下で動いているこの街ならばまだ安全だろうと思ってな」
小さく息を吐き出してソロモンは旧友にほめられるのがよほど嬉しいのか別の意味でくつくつと笑い出した。マリアも随分と見慣れたものだが、まだ慣れておらず思わずうっすらと汗を浮かべてしまう。けれど、レイヴァンは慣れているようで特に気にもとめなかった。
ひとしきり笑った後、ソロモンはレイヴァンに向かって
「そんなに褒め称えるとは愛い奴め」
「だれが褒め称えただと」
疲れたようにレイヴァンが言えば、ソロモンはやはり気にもとめていない様子で小さく微笑んでいた。それから、さむいと小さくぼやいてから元いた部屋に戻るとソロモンがマリアに告げた。
「しばらくはこの支城で過ごすとよろしい。エイドリアンが戻ってきたら、挙兵し国を取り戻しましょう」
ソロモンの言葉にマリアが、どこか渋い顔をする。そんな様子を見てソロモンが言葉を発した。
「そんな顔をなされるな。必ずや、わたくしめがあなた様のご希望に添えて見せますよ。そんなにわたくしめが信用できませんか」
「そんなことはない。ただ、わたしだけがこのように過ごしていてよいのだろうか」
マリアの言葉にソロモンが頷く。
「ええ、よいのです。あなたは胸を張っていればよろしい。何があっても決して動じなくてよいのです」
マリアには、そこに意図したものがわからなくて「わかった」とだけ答えると自分の部屋へと向かった。どこか悲しげな後ろ姿をレイヴァンが、眺めていればソロモンが口跡を紡いだ。
「お前がそんな不安そうな顔をするな。いたずらに王子の不安を煽るものではないぞ」
「だが、クリス様の背中が泣き出しそうに見えてな」
ソロモンは頷いて、窓際へと歩み寄った。それから、空を見上げると空には暗雲が立ちこめており今にも降り出しそうである。
ソロモンはエリスを呼んでマリアの側にいるように言いつければ、「はい」と答えて部屋を出て行った。すると、その後を追うように守人達や、カミラも出て行った。バルナバスも少し遅れて部屋を出て行く。皆が出て行ったのを確認してから、ソロモンが口を開く。
「レイヴァン、今夜も寒そうだ。今夜は一杯、付き合ってはくれないか」
ソロモンが言えば、レイヴァンは「ああ」と頷いて少しだけ頬を綻ばせた。
*
一方そのころ、マリアは部屋へ戻り天蓋付きのベッドの中に潜り込んでいた。決して眠たいわけではない。ただ疲れを感じて横になったのだ。すると、扉をノックする音が聞こえて来た。少し気だるそうにマリアは体を起こして扉を開くとそこにはエリスがいた。
「申し訳ございません、おやすみでしたか」
「いや、何もすることが無くてぼんやりとしていただけだ。それよりも、エリスはわたしに用があったのではないか」
「はい、お食事がまだだと思いまして」
ふとエリスの手元を見るとパンと牛乳、ミネストローネ、サラダといった軽めの食事がお盆にのっていた。ミネストローネからは湯気が立っている。その香りがマリアの食欲をかき立てられて思わずマリアのお腹が鳴った。
「わあ、いいにおい」
そう呟いてエリスに部屋にある机まで食事を運んでもらうと食事を口にした。おいしい、と言いながらマリアはすっかり食べきってしまうとエリスが小さく微笑んで見せた。
「よかった」
「え?」
「いえ、先ほど元気が無いように見えまして」
顔を伏せてマリアが、悲しげな声色で言葉を紡ぎ出した。
「無力で何も出来ない自分がつらくて」
風にでもさらわれてしまいそうなほどか弱くて小さな呟きであった。そばにいたエリスですら、うっかり聞き逃してしまいそうなほどである。
エリスが跪けば、マリアがぎょっとして目を見開いた。
「あなた様が笑顔でいないと我々も悲しいです。ですから、胸を張っていてください。あなたはもっとあなた自身を誇るべきです」
エリスの言葉が意外でマリアの心に驚きとうれしさが混ざり合う。
「ありがとう、エリス。少し元気が出た。それにわたしがしなくてはならないことも」
マリアの言葉に驚き、エリスが顔を上げればマリアが見たこと無いほどに柔らかく微笑んでいた。それから、マリアがこの城にいる間も武器の稽古を続けたいと言えばエリスが困った表情を浮かべる。
「それはなさらない方がよろしいかと」
「どうして?」
「王子はお命を狙われております。外へ出るなど、もってのほかです」
エリスの言葉にマリアがしぶしぶと頷いた。それから、エリスは食器を片付けると言ってお盆を持って部屋を出て行けばマリアも少し経ってから扉をそろりと開ける。それから、誰もいないかキョロキョロと辺りを見回してそっと足音も立てないように部屋を出た。背には矢籠を背負っている。
マリアは先ほど外へ出たときに見た弓の練習場へと足を向けて城の室内から外へ出ようとした、そのとき、「王子」と声をかけられてマリアが、文字通り飛び上がって振り向けばカミラがいた。どくどくとなっている心臓に気づかないふりをしてマリアは笑いかける。
「カミラさん、どうしたんですか」
「さんはいらないから、カミラって呼んで。それよりも、どこへいくの?」
「ちょっと、弓を射ろうと」
マリアが言えばカミラは、
「ずいぶんと使い古された弓だな」
「ああ、これはレジーから貰った物で」
マリアが答えたときだった。城内全体に響き渡ってしまうのではないかと思うほど、大きな叫び声が響いた。視線を走らせると、そこにはソロモンにレイヴァン、それから叫んだ張本人であるエリスがいた。
「エリス、なんで」
「それはこちらの台詞です。勝手に出歩かないでください。何かあったらどうするんですか。それに、その弓。あなたって方は」
わなわなとエリスが肩を振るわせて、ずいずいと近寄ってきた。それから、いかにもという表情で怒っていてマリアは言い訳をすることも出来なくて素直に「ごめんなさい」と謝れば、エリスも押し黙ってしまう。そんなエリスの後ろからソロモンとレイヴァンも来れば、実に真剣なまなざしでマリアを見つめていた。
しゅん、と肩を落としたマリアにレイヴァンが「送ります」と言えば、青い瞳が黒い騎士を見上げた。
「大丈夫だよ。一人で戻れる」
「あなた様を一人にするわけにはいけませんから」
ソロモンにレイヴァンが視線を送ればソロモンは頷いてエリスをそっとマリアから離した。あとはレイヴァンに任せるという意味なのだろう。
レイヴァンは強引にマリアの手を引くとマリアの部屋の方向へ足を向けた。
歩いている間、ずっと無言のままのレイヴァンをマリアが見上げる。明らかに様子のおかしいレイヴァンにマリアが困惑の表情を浮かべた。
「レイヴァン、怒ってる?」
問いかけても返事も何もないレイヴァンにマリアが、やはり焦燥と困惑の表情を浮かべた。本気で怒っているようにしか見えない。
何も反応のないレイヴァンにマリアも声をかけづらくて押し黙れば、二人の間に沈黙ばかりが訪れる。そんな風に歩いているとマリアの部屋の扉が見えてマリアがせめて沈黙から解放されるだろうかと考えているとレイヴァンが扉を開けてマリアを部屋の中へ入れて自分も部屋の中へ入り扉を閉めた。
「ありがとう。レイヴァン、送ってくれて」
怖々とマリアが言うけれど、レイヴァンは何も返さない。マリアがもう一度、名を呼べばレイヴァンの手がマリアの肩を掴んでそのまま扉に押しつけ、逃がさないように腕を掴むと空いている方の手は扉に付けた。
驚くマリアの目は見開かれ、心臓がとんでもないほどに高鳴っている。
「……レイヴァン」
怯えるような声で名を呼ばれればレイヴァンがそっとマリアの肩に顔を寄せる。その温もりにどこか安心していつものレイヴァンだと思うと震えはおさまっていた。
「どうしたらあなたは、大人しくじっとしていてくれるのですか。ただ守られるだけのお姫様になってくれるのですか」
重々しく響いた声が、マリアの心に深く根を下ろす。それは、きっとレイヴァンの本心なのだろう。もともと、マリアが武器を持つことに賛成していない彼なのだ。なんら、おかしなことはない。だが、未だに彼が納得してくれないのは自分の力不足であるとマリアは早々に結論づけるとレイヴァンにハッキリとした意志を込めて答えた。
「レイヴァン、わたしはお前のような騎士を持てて嬉しいよ。けれど、お主に守られてばかりではいかないんだ」
すると、レイヴァンの手に力が込められた。レイヴァンの握る力にマリアは顔をしかめかけたが、それでも自らの意志を伝えるためにレイヴァンを見据える。
「だから、お願い。レイヴァン、わたしに稽古を付けてほしい」
マリアの一言にレイヴァンがわずかに目を伏せた。そんなレイヴァンの気配を感じ取りつつマリアは意志が揺るがないことをレイヴァンに伝えるために口を開いて言葉を紡ぐ。
「わたしはもっと強くなりたい。この手でみんなを守れるようになりたいの」
声がすでに少女のそれであったが、確かに自分の思いをレイヴァンにぶつけて見せた。レイヴァンは、やはり黙ったままでマリアにはレイヴァンが何を考えているのかすらもわからない。
それがマリアの中にある不安をかき立てていたが、気丈にして自分の騎士を見つめていた。
「どうして、そこまで皆を守ろうなどと思うのですか」
レイヴァンの静かな声色がいつもと違って聞こえて、不安げに騎士を見てしまう。視線を受けつつ黒い騎士が、ゆるりと言葉を紡ぎ出した。
「時折、あなたを縛り付けておきたくなる。そばにいるはずのあなたが、俺の手から離れていきそうで」
レイヴァンの声がマリアの中で響いた。思わず息を飲んだマリアであったが、すぐに取り繕って柔らかく微笑んで告げた。
「わたしがいては、お前は自由になれないだろう。だから、わたしは一人でも戦えるように武器を持とうと決めたんだ。確かに、誰一人として失いたくはない。それに、レイヴァンには幸せになって欲しいんだ」
簡単に言ってのけるマリアがうらやましくてレイヴァンは、そっと頬に口づけを落とした。それから、心の奥底にいる欲望を押しとどめると、体を離して騎士らしく膝を折り跪いた。
「一介の臣下に過ぎぬ“わたくし”にはあなた様から幸せを願われるなど、これ以上の喜びはございませぬ。マリア様、叶うならば今日だけは稽古をお休みにしてもう少しご自身をいたわってはいかがでしょう」
「だが、わたしはまだ弱いのに」
「根を詰めて得られるものではございませんゆえ。今日ぐらいは羽を伸ばしてはどうですか。どこかへ行きたいのでしたら、お供いたします」
レイヴァンの優しい言葉がマリアの心の中に染みこんでいく。その優しさにまた助けられたのだと思うと自分の未熟さを思い知るけれど、彼が跪いてまで自分をなだめようとしている。これ以上、彼を困らせるようなことを言ってはただの我が儘になってしまう。それはいけない。
「そうだな、今日だけは羽を伸ばすことにしよう」
マリアの言葉にレイヴァンが、
「久しぶりに本でもゆっくり読もうかな」
「はい、かしこまりました」
マリアが言えば、レイヴァンがかしこまってそう答えて立ち上がり、マリアをエスコートするようにマリアの手を取る。もしかすると、目を離した隙に姿を消すのではないかと念頭に置いているのかもしれない。もちろん、“今は”そんなことをするつもりが無いから無意味ではあるが。けれど、それを警戒するほどに彼は実に良くできた臣下であった。
(ああ、警戒されてる)
心の中でそんなに信頼されていないだろうか、と心の中だけで独りごちる。もちろん、レイヴァンには聞こえるはずもない。
そんなレイヴァンはマリアの手を逃がさないようにつないだまま部屋を出て王立図書館へ向かった。
この王立図書館は支城のある街には必ずある図書館でこの国の歴史の他にも古い書物や古文書の他に小説も収蔵されている。誰でも自由に出入りすることを王が認めており、貧しい者も豊かな者も入れることにはなっている。しかし、かつての奴隷や労働者階級の人は、未だに文字を読むことの出来ない者が多いため、上流階級か中流階級の者が多い。
もちろん、国王は皆が学べるよう学舎は小さな町にも大きな街にも作られているが奴隷や労働者階級は働くことに懸念を置いている。それに、彼らは学ぶことよりも誰かに縛られ従属することをなんらおかしな事ではないと思っているきらいがある。ゆえに未だに識字率は低い。
そのことにも国王はよく嘆いていたのをレイヴァンは知っていた。
レイヴァンは確かに文字の読み書きも出来る。しかし、本来ならば彼の身分では学ぶことは許されなかった。
今は玉座にいない国王が、人は皆知識を欲する生き物だと唱え、奴隷や労働者階級の人間も学べる学舎を作ったのだ。それにより、レイヴァンは学ぶ機会を与えられ読み書きも出来るし何より、好きなことを学ぶことが出来たのであった。
誰の子ともしれないレイヴァンは、クリフォードに拾われた後、クリフォードが信頼していた労働階級の家に預けられた。クリフォードの言葉もあり、労働階級の子の出来なかった夫婦はレイヴァンをうんと甘やかして学舎へ行きたいと言えば、そのたった一言で通わせることにした。しかし、夫婦の生活はままならずレイヴァンに学舎へ通わせるほどのお金がついには尽きてしまった。すると、クリフォードは夫婦に今までのお金を渡し、レイヴァンを引き取れば山奥でひっそりと育てることとした。
クリフォードは、もっと堂々とレイヴァンを育てることも出来るはずであったが、何かを懸念してか山奥に小屋を建てレイヴァンを育てていた。彼が欲しいと言ったものは何でも与えた。もちろん、レイヴァンが欲しがるのは知識ばかりでクリフォードが困るようなものを欲しがらなかったというのもある。
そんなこんなでクリフォードが騎士として働いている姿を見てレイヴァンも騎士を目指し、こうして晴れて正騎士として認められたわけである。その裏には愛情たっぷりで育てられたのと自由に育てたのとが重なって、この国の片手ほどの指に入る騎士となったのである。
いつだったか、クリフォードと王から聞いた話をマリアが思い出しているうちに図書館に着いた。
マリアは、図書館に入るとざっと本棚を眺めて自分の読みたい本を見つけるとそれを取ろうと必死に手を伸ばした。けれど、届いてはいなかったのでレイヴァンは苦笑いを浮かべてマリアが取ろうとしている本に手を伸ばし、すっと本棚から出してマリアに渡した。
「届かないのであれば、素直に仰ってください。俺が取りますから」
「なんでも、自分でしたいのに」
「こればかりは、仕方がないでしょう? もう少し、俺を頼ってください」
マリアが頬をほんのりと染めてそっぽをぷいと向いて小さな声で「ありがとう」と呟いた。それだけで満たされるような感覚に襲われながらレイヴァンは、小さく微笑んで自分も読みたい本を手に取ればマリアと一緒に席に座って本を読み始める。
ちらりと隣にいるマリアの読んでいる本を見れば、「アーベル王の冒険」と記されていた。それはかつて自分がマリアにプレゼントしたものだ。
まだマリアに仕えて間もない頃、クリフォードからもらってお気に入りだった本をマリアが見て読みたい!と目をきらきらさせてこちらを見てきた。そんなマリアが愛らしくて思わず本をマリアに差し出せばマリアは喜んでその本を読んで結果、気に入っていた。城を追われたあの日も、この本の最新刊だけを持って外へ出たというのだから、それほど気に入ってくれたのであろう。そこまで気に入られるとこちらとしても嬉しい。
何度も読み返した本であるはずなのに宝箱を開ける子どものように目を輝かせるマリアがまた可愛くてレイヴァンの頬も緩んでしまう。
せっかく、開いた剣術の本を読むことを忘れてマリアをじっと眺めていた。
やがて、自分の本に目を落とした。けれど、本の内容なんてちっとも頭に入ってこなかった。
夕刻になってレイヴァンはマリアにそろそろ戻るよう促せばマリアがハッとした顔になって本を閉じて本棚に戻す。レイヴァンはすでに本棚に戻しているらしく手には何も持ってはいなかった。
レイヴァンはマリアの手を取って図書館を後にして支城へ戻ればすでに夕食は出来ているとのことだった。それから、二人は食事を終えるとマリアはクライドが部屋へ送っていくと言った。それを見送った後レイヴァンはソロモンの部屋へ向かった。ノックすると中からソロモンの声が聞こえてくる。それを確認してから部屋へ入るとソファの上で座ってグラスを傾けているソロモンとソロモンにお酌をするエリスがいた。
「お前はエリスにお酌をさせていたのか」
「エリスは何でも器用だからな。それに見ず知らずの女にお酌をされるよりも落ち着く」
それを聞いてレイヴァンは僅かに頭を抱えた。
「別に誰かに注いでもらう必要はないだろう。手酌でいいではないか。それにエリスだって夜は休みたいだろう」
「むむ……。まあ、仕方あるまい。エリス、もう良いぞ。今からはレイヴァンにお酌をさせるからな」
誰がするか、とレイヴァンが呟いたがそれは見事に無視されてエリスは二人に会釈をすると部屋を出て自分の部屋へ戻った。
レイヴァンはそっとソロモンの向かい側のソファに座る。
「どうであった姫君のご様子は」
「稽古を付けてくれと頼まれた。それから、強くなりたいとも」
ソロモンは顎に手を当てて、考える仕草をしたあと小さく笑った。
「姫君らしいな」
「ああ。だが、俺としては武器など持って欲しくはない。俺に大人しく守られていて欲しいのだが」
素直な言葉をソロモンに吐けば、それで本当に良いのだろうかとレイヴァンに問いかけた。
「それは、どういう意味だ」
「考えてもみよ、武器を扱えぬ“王子”が主ではしめしがつかぬというのもある。それにいつまでもお前に守られてばかりでもいけないんだろうよ。たとえ、お前が望もうとも主がそういうのならば稽古を付けてやればよい。さすれば、兵の士気もあがるであろう」
「だが――」
「兵と主君を一心同体にすることがまず何よりも初めに大切だ。それを怠っては兵はバラバラになるばかりで、お前一人が強くとも戦力は劣るだろうよ」
ソロモンの言葉に何も言えなくなり、レイヴァンが黙り込んだ。それからグラスに酒を注いで、一気に飲み干した。
「おいおい、そんなやけ酒のように呑むな。せっかくの良い酒を」
「やけ酒でもしなければやってられるか。ああ、もう! なんだって、マリア様は俺の言うとおりにしてくれない!」
半ばやけくそに言えば、ソロモンが呆れてため息を吐き出してから酒を一口飲んだ。それから、そっとレイヴァンに告げる。
「そのことなんだがな」
「え?」
☆
夜がすっかりふけて皆が寝静まった頃。マリアは、のそりと起き出してベッドから這い出ると服を着替え、矢籠(しこ)を背負って部屋をのそりと抜け出した。それから、一気に駆け下りて扉の前までくると警戒するように辺りを見回す。誰もいないと確信してから扉を開けて外へ出た。
すると、冷たい風がマリアの頬をかすめる。マリアが思わず自らの体を抱きしめて凍える指先にムチを打って足を進めていく。やがて、弓の練習場が見えてくればそこに入り、霞的の位置を確認する。
それから、弓をかまえた。
(ごめんなさい、レイヴァン。だけど、わたしはやはり皆を守りたい。そのためにも武器を取る)
矢を放てば、矢は冷たい風によって阻まれて的に当たることなく地面に落ちてしまった。それを見てマリアが肩を落とす。
(わたしはこのまま、レイヴァンに守られるだけの王子なんだろうか)
そんな考えを打ち払うようにまた矢をつがえる。けれど、矢はやはり的に当たることなく落ちてしまう。落胆の色を見せた、その時。
マリアの後ろから黒い影が現れて、影が背後から柔く白い手に無骨な手を重ね合わせた。驚いてマリアが振り返ると、眠っているはずのレイヴァンがおり、青い瞳が見開かれる。
「どうして」
「まったく、あなたという方は。こんな時間に出歩いてそんなに俺を怒らせたいのですか」
「ち、違う! わたしはただ……」
泣きそうになっているマリアに、レイヴァンがそっと呟いた。
「弓の練習、するのでしょう?」
マリアが顔を上げれば、悲しげに微笑むレイヴァンがいた。そんなレイヴァンに申し訳なく思ってしまったが「ああ!」と答える。
レイヴァンは弓の基本姿勢を教えるかのように、マリアの手越しに弓を引いて手を離した。すると、するどい音が闇夜に響き渡る。
「すごいな、真ん中だ」
「俺は騎士ですから」
「いや、レイヴァンはすごいよ。ずっと側にいて気づかなかったことが城を離れていろいろなことを気づかされた。お前という存在が当たり前ではないということも」
「俺は側にいますよ、ずっと」
「ああ、いてくれた。お前は本当にわたしの騎士だ」
寂しげにマリアがうつむきがちで呟けば、レイヴァンもやはり少し寂しそうに“あるじ”を見つめる。
「レイヴァン、どうか幸せになって欲しい。お前の大切な人と一緒になってよい家庭を築いて欲しい。それはわたしの願いであり、思いなのだから」
マリア自身、言っていてズキリと胸が痛んだ。けれど、それには目をそらしてなんてこと無いように言ってのける。
レイヴァンが他の女性と結ばれて幸せな家庭を築くことに何の不満があるのだろう。それは望んでいたはずだったのに。レイヴァンが他の女性のものになることがとてつもなくつらくなる。それは我が儘だ。これは隠し通さなくてならない。自らの強欲さに苛立ちを覚えるけれど、今はそう自分に言い聞かせるようにレイヴァンに言えた。
けれど、やはりレイヴァンはそれをよしとはしておらずマリアにそっと呟いた。
「俺はあなたに幸せを願われるほど出来た人間ではございませんよ」
「何言ってるんだ。お前がいたから、気丈に振る舞うことが出来た。お前がいなければ、わたしは今頃ずっと泣いていただろうから」
マリアの言葉にレイヴァンが少しだけ頬を染めていた。けれど、マリアはそれには気づかない。
マリアが何かの感情を打ち消すように笑顔を浮かべて空を見上げた。空は墨を流したように暗く、何も輝いてはおらず二人を覆うようにただ静寂だけを守っていた。
「レイヴァンがいなければわたしは」
レイヴァンが感極まったようにマリアを後ろから抱きしめた。
「そんな可愛いことを言われたら、堪らなくなる」
マリアが僅かに息を飲んだ。すると、見計らったようにソロモンが姿を現した。
「おいおい、レイヴァン。酔っぱらっているからと姫君に妙なことをするなよ?」
「ソロモン!? いつからそこに」
「ずっとです。初めから見てました」
ソロモンの答えにマリアが思わず恥ずかしさで頬を一気に赤らめると、レイヴァンがそっと耳を舐める。艶めかしい声が唇から流れた。そのことに騎士は機嫌を良くしたのか、にやりと不敵な笑みを浮かべる。よく見ればレイヴァンの頬は赤くお酒の匂いも僅かにする。
「酔ってるの?」
「ええ、酔ってますよ。あなたに」
絶対違うとマリアが、心の中で突っ込んだ。すると、ソロモンが小さく息を吐き出した。たちまち、息が白く濁る。
「さて、姫君。獣の餌食とならぬよう祈っておりますよ」
告げてソロモンが去っていく。その背に手を伸ばして必死に呼びかけたけれど見事に無視されて、そのまま闇に消えた。マリアが肩を落とすと共に体の力を抜いた瞬間に、レイヴァンが強引にぐいと自らの顔を近づけた。
すぐそこで息を感じる距離にマリアは、体がほてるような感覚に襲われる。
「マリア様、あなたが欲しい」
マリアが息を飲んでレイヴァンをとろんとした目で見つめる。
(酔っているんだよね? そういえば、母上が前にお酒を飲むと人って自制心が弱まって本音を言ってしまうと言っていた)
いつだったかオーガストが酔っぱらってまだ幼かったマリアに抱きついたことがあった。そのとき、アイリーンが言っていたのだ。
『人は酔うと自制心を失って何でも本音で話してくれるのよ。だから、お父さんの本音を知りたいときはうんと酒を呑ませて酔わせるの。ふふ、お父さんには内緒ね』
小悪魔な笑みを浮かべて言う母親の記憶がよみがえる。だから、マリアは思わずレイヴァンに期待してしまった。
「あなたが欲しい。それは、好意を寄せていると、とって良いのだろうか」
と、聞きたい。けれど、聞きたくない。マリアの中で相反する感情が何度も爆ぜる。けれど、やがてその心も落ち着き、マリアは冷静に考えはじめる。
(ううん、きっとレイヴァンは酔っているからそんなことを言うんだ。酔うと好きでなくとも魅力的に見えるとも母上が言っていたもの)
自分は十もレイヴァンより年が下なのだ。レイヴァンからすればただの子どもであろう。思わず幸せなことを考えてしまった自分を嘲笑する。ありえない、と心の中で呟いておいてやっぱり、本当なのだろうかなんて幸せなことを考えてしまう。
ふと考え込んでいるマリアにレイヴァンがさらに顔を近づける。お互いの息がかかる距離に息を飲んだ時、唇をふさがれる。
「んっ」
一瞬、何が起こったのかわからず呆然としていたマリアであったがすぐにふっとんでいた理性を取り戻すと今の現状に頬を赤らめ、鼓動が早まるのを感じる。
(どうして? 他に好きな人がいるんじゃないの。男の人って、好きでなくとも女性と接吻(キス)できるの? それとも)
幸せなことを考えてしまって、その考えを自ら消し去る。そんなことはありえない、と心の中で唱えた。
ただ今ある現状は事実で、それは揺るぎがなかった。
(ああ。でも、今だけはこうしていていいだろうか)
レイヴァンの唇から伝うのは、お酒を飲んでいたであろうお酒を呑んだ人独特の体温。熱いようなそれでいて、どこか冷たいような感覚。鼻孔をくすぐるのは、彼が先ほどまで呑んでいたであろう酒の香り。
どこか大人っぽい彼の匂いにマリアは、夢でも見ているかのような感覚に襲われていた。
レイヴァンのマリアを抱きしめる手が、強められてマリアが思わず艶めかしく声を上げた。その声に反応するようにレイヴァンの体が小さく震える。すると、レイヴァンがマリアの唇に舌をいれようとしたが、その前にマリアの理性が戻り、レイヴァンの体を突き飛ばした。
普段のレイヴァンであれば、それくらいなんてこと無いようにしていたであろう。だが、この時ばかりはレイヴァンは油断して僅かに後ろに仰け反った。唇も離れる。
「だめだよ、レイヴァン。いくら酔ってるからって好きでもない人とキスしちゃ。レイヴァンの好きな人が傷つくよ」
ズキリと痛む心を押し殺してマリアがレイヴァンに笑顔を浮かべてそう言えば、レイヴァンがたちまち不機嫌になってしまう。それから、マリアの肩を掴んで逃がさないようにすると、今度はむさぼるように唇を重ね合わせた。
思わずマリアの目に涙が浮かんで口からは喘ぎ声にも似た声が漏れていた。それを聞きながらもレイヴァンがどこか怒っているようで切なそうな表情を浮かべていた。
それから、少し経ってレイヴァンが唇を離すとマリアが咳き込む。そんなマリアにレイヴァンが告げた。
「あなたが欲しいといっているではないですか」
「レイヴァン、それは酔っているからだろう? お願いだから、わたしにこんなことはしないで。勘違いしてしまいそうになる」
「勘違いでは無いといったら」
レイヴァンの言葉にマリアが目を見開いたけれど、すぐにいつものようにほんわりと笑みを浮かべて見せた。
「レイヴァン、わたしは確かにレイヴァンのことが大好きで大切だ。でもね、大切にしなくちゃいけないことがあると思うんだ」
切なげに呟いたマリアの言葉はレイヴァンの心に深い影を落とした。
「それは、俺が勘違いをしているとでも?」
「レイヴァンの言葉は嬉しいよ。けどね、酔いに任せて発せられる言葉は嘘かホントかわからない。レイヴァンが大切だからこそ言うんだよ。大切だから、レイヴァンが好きな人と幸せになって欲しい。今のレイヴァンはただ欲望に任せているだけだ」
マリアの言葉にレイヴァンが目を見開いてマリアを見つめる。
「違います、俺は」
「違わない。レイヴァン、明日からもわたしの騎士でいてほしい」
マリアは温かくレイヴァンにそう言えばレイヴァンは何も言えなくなり、恭しく跪いた。
「どうか、コーラル国を追い出した後もあなた様のお側にいさせてはくれませんか」
「でも」
「“わたくし”自身がそう望んでいるのです」
言われればマリアも目に僅かだが涙を浮かべて「ありがとう」と答えた。
*
ソロモンが、じっと影から二人の様子を眺めていた。
(やれやれ、誰かがお膳立てやらぬと言えぬとは全く駄目な男だ)
ソロモンはレイヴァンと酌を酌み交わしているとき、ソロモンはレイヴァンにマリアが何もせずじっとしているとは考えにくいことを告げた。それから、マリアがこの支城に弓の練習場があるのをめざとく見つけていることを告げればレイヴァンは酒など最初に呑んだ一杯だけで部屋を後にするとマリアの様子をじっと伺い、出て行くタイミングを見計らっていたのであった。
そのため、レイヴァンはまったく酔ってはいなかったのだが酒の匂いに敏感なマリアの鼻ではレイヴァンは酔っていると見事に思わせることが出来、レイヴァンが酔っぱらって口づけをして嘘ともホントともとれないことを言っているのだと思わせることが出来る。
ソロモンはそれを狙っていた。案の定、マリアは勘違いをしてすっかりレイヴァンにだまされていた。
マリアに知られたら怒って「大人はずるい」と言われてしまいそうであるが。
(そうでもしないと素直に思いも告げられぬのですよ、大人っていうものはずるいですから)
かつてソロモンもよくカミラに「ずるい」と言われていた。けれど、そう言われるのも何だか楽しかったのを覚えている。
(ああ、今夜はレイヴァンの熱だけで氷のような大気がとけてしまいそうだ)
そんなことを思いながら、まばゆいばかりの星が輝く空を見上げた。
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