第十七章 市場

 冷たい風がマリアの側を駆け抜けた。薄い金の髪をいじくり、ディアンドルのスカートを舞い上がらせてもてあそぶ。火でもかき消すようにスカートをぴしゃりと、手で押さえつけた。瞬刻、後ろから黒い影がさし、マリアの肩に上着がかけられた。黒い影の主は、レイヴァンであった。


「今夜も冷えますから」


 ありがとうと言ってマリアは、上着をぎゅと握り締める。


「どうかなさいましたか」


「ああ、少し。考えていた」


 何をとレイヴァンが問いかける前にマリアが、薄く紅の引いた艶めかしい唇を動かして答えた。


「これから、どうするべきなのか。国を取り戻すために何をすればいいのか」


 レイヴァンはただ静かにマリアの言葉を聞いていた。そんな二人の間をただ冷たい風が吹き抜けていく。つま先も見えぬほど暗い夜であった。確かに空には星々が輝いてはいるものの、小さな光を放つばかりでお互いの顔がようやく見える程度。その景色はマリアの心情をあらわしているかのようだった。そんなマリアにレイヴァンが微笑んでみせる。それから、不安を取り除くように薄い金の髪を撫でた。


「レイヴァン?」


「マリア様が望むのならば俺は何だっていたします。ですから、なさりたいようになさいませ」


 マリアがレイヴァンを見上げる。黒い瞳は切なげでもあり、また愛おしげでもあった。それから、ありがとうと答える。夜の風にさらわれてしまいそうなほど小さくて悲しげな声だった。

 そんなマリアに無意識にレイヴァンが手を伸ばして、腕の中へ閉じこめる。たちまち、驚いて青い瞳が瞬きを繰り返してしまう。

 レイヴァンが、ただ無言でマリアを抱きしめていると頬をほんのりと染めていた。それから、小さく騎士の名を呼ぶ。


「すみません、もう少しだけこうしていていいですか」


 マリアがそっとレイヴァンの背中に手を回す。少し驚いたもののレイヴァンは、何も言わず頬をほのかに赤く染めてじっとしていた。すると、マリアが誤魔化すようにレイヴァンに問いかけた。


「そういえば、崖から落ちたわたし達をどうやって見つけたの?」


 マリアの意図を気づきつつもレイヴァンが、「ああ」と呟いてソロモンの提案で崖へ降りる道から降りて探したこと。またマリアに危険が迫ったことによりレジーが、敏感に危険を察知して案内してくれたことを話した。それを聞いて「そうだったんだ」と呟く。そのあと、静寂が訪れてしまう。マリアは何か話そうと口を開くものの何を発せばいいのかわからなくてうんうん唸る。腕の中にいる少女を愛おしげに眺めて、レイヴァンが小さく名を呼んだ。

 どきりとしてマリアは、背に回していた手を離した。それから、ゆるやかに黒い騎士の体を突き放した。


「マリア様?」


 マリアが頬を真っ赤に染めてうつむいている。それから、絞り出すように言葉を発した。


「そんな風に接しないでくれ。勘違いしてしまいそうになる」


 レイヴァンが困った表情をした。もちろん、マリアはそれには気づかず言葉を紡ぐ。心の中でただの主従だと言い聞かせながら。


「レイヴァン、いつだったかわたしがお前を解放すると言ったことを覚えているか」


 ええとレイヴァンが答える。レイヴァンが、この主従関係を切りたがっていることを、声色で確信した。


「いつか国を取り戻すことが出来たら、わたしからお前を解放する。それまでに強くなって、わたしはお前をわたしという呪縛から解放する。これでは、だめか?」


 無意識に上目遣いでマリアが問いかければ、今度はレイヴァンが頬を染めて別の方向を向いて「はい」と答える。それから、マリアに視線を戻すと口を開く。


「国を取り戻すまでは、あなたの従者であります。それから、よき理解者でもいます」


 レイヴァンが恭しく頭を垂れた。その様子をマリアが切なげに眺める。国を取り戻したらレイヴァンは自分のもとを離れてしまうということを思いながら。


「たとえ、あなたが俺を鬱陶しく思われても側にいますから」


 レイヴァンの一言にマリアがたちまち吹き出して、「それは嫌だ」と呟いた。レイヴァンがマリアを見上げる体勢で見つめる。そのまま二人は柔らかく微笑み合った。端から見ればただの男女の逢瀬にしか見えない光景をソロモンが木の陰からじっと息を殺して眺めていた。

 あんな約束をしていたとは、驚きだとでも言いたげな表情をしている。もちろん、二人はソロモンに気づいていないのでただ今の時間を大切にするように見つめ合っていた。やがて、マリアはまだ考えたいことがあると言ってその場に残り、あまり遅くならないようにとレイヴァンが釘を刺してマリアの元を離れた。そして、ソロモンの側を通り過ぎた刹那。


「なぜ、あんな約束をした」


 ソロモンがマリアには聞こえないようにレイヴァンに問いかけた。レイヴァンはソロモンの存在に気づいていたようで特に驚くこともなく目をすうと細めた。


「マリア様と結ばれることは許されない。なら、側にいてもつらいだけだ。だったら、マリア様に俺のこの感情を知られる前に去った方が良い」


 本気でこの男は言っているのだろう。目が真剣だ。けれど、それで本当にいいのだろうか。いや、そこまできっとこの男は考えていない。そのあと、マリアがどうなるかなんて全く考えてはいないんだ。壊れるか狂うか。はたまた引きこもってしまうか。真っ直ぐで誠実な人間ほどそうなってしまう。だが、この男もまたしかり、同じようになってしまいそうだ。


「まあ、お前がそういうのなら止めはしない。だが、レイヴァン。お前は他の男に抱かれる姫様を見てもそう言えるのか」


 レイヴァンが僅かに息を飲んで「ああ」と答える。その答えを聞いて心の中で嘆息を漏らした。そういうことまで考えが及んではいなかったのだろう。だが、レイヴァンがあきらめると言うことはそういうことだ。マリアが他の男を選び、他の男との子を授かる。しかし、ソロモンもまたマリアがレイヴァン以外の男との間に子どもを授かるようには思えなかった。けれど未来なんてものは到底、わかりはしない。それゆえ、人は予言だの呪いなどを頼ってしまうことだろう。そんなものに頼って身を破滅した人間しかソロモンは見たことがないが。少なくとも、未来が見える人間なんていたら恐ろしい。誰もが未来を知りたがるが、それはとても恐ろしいことなのだ。

 いつだったか、かつての参謀が言っていた。


『未来なんてわからないからこそ、面白い。また人間もしかり。その人がどう行動するのかわからぬ。それゆえ、面白い』


 また戦略もしかり。確かにあの参謀ならこのような考え方をするであろうと予測を立ててもそれがことごとく打ち砕かれることがある。その裏をかくことこそ、参謀にとっては必要なことであるとも言っていた。

 話がそれてしまったが、レイヴァンではない他の男をマリアが選ぶ可能性をレイヴァン自らが望んでしまっている。これでは、もし一緒になれる未来があったかもしれないのに自らその未来を断ち切ってしまっているのだ。これでは、やはり旧友としては放ってはおけないだろう。


「お前がどうしようと勝手だが、姫様を泣かせることだけはするなよ」


 釘だけ刺しておいた。やはり、レイヴァンは眉根を寄せた。せっかくのいい顔立ちを自ら歪めてどうする、と思わず言いたくなったが口を噤んでいた。それから、まっすぐ前を向く。

 辺りはやはり墨をぶちまけたように真っ黒に塗りつぶされている。氷のような風が吹けば髪と外套をもてあそんだ。

 今夜はまだまだ寒そうだと口の中で呟いた。


***


 王都ベスビアスの城下町でバルビナは、男の服を着て外へ出ると情報収集のため街の中を進んでいく。そこでふと声が聞こえてきた。コーラル国の兵かと身を隠しながらすすんでいくと、どうやらベスビアナイト国の住民の話し声だった。


「おい、国王がコーラル国にとらえられたらしいぞ」


「処刑されたんじゃなかったのか」


「いやいや、酒場で酔っぱらったコーラル国の兵が言っていた。なんでも、城を乗っ取った日に国王もそのまま捕らえられて城の地下牢に閉じこめられてるらしい」


「そうか、生きてらしたのか。あの良き王がこんなことになってしまうとはな」


 バルビナが男二人に近寄り、より詳しく話を聞こうと話し掛けた。男が言うには国王と共に正騎士長も地下牢に閉じこめられているとのことだった。だが、それ以上の情報は得られずコーラル国の兵達に怪しまれない程度にその場を退散して王妃のいる家へもどった。それから、王妃に男から聞いた話をそのまま伝えると王妃は悩むように顔を少しうつむかせる。


「どうかなさいましたか」


 バルビナが遠慮がちに問いかければ王妃が険しい顔をバルビナに向ける。わずかだが額に汗をうかべていた。


「オーガストが捕まっているとなるとマリアはオーガストを優先するんじゃあないかしら」


 バルビナは、ハッとする。もしマリアの耳にこの情報が入れば、国を取り戻すことよりも国王を優先するだろう。そんなことになれば、レイヴァンがいるとはいえ危険だ。


「では、このことは伏せますか」


 静かに問いかけるバルビナに王妃が頷く。それを確認すればバルビナはマリアの元へ行く支度を解いていた。王都での情報が入り次第、マリアの元へ向かう算段だったのだ。しかし、国王が捕まっていることをマリアに知らせるわけにはいかない。正騎士長がつかまっていることを知らせたい気もするがもし正騎士長を救うことを優先などすれば、またしかり。マリアに知らせるべきだとも言えるが、知らせないべきだとも言える。遠いどこかにいる主にバルビナは思いを馳せる。


(マリア様、どうか)


 思いは形になることもなく深淵に消えた。


***


 マリア達一行は、小さな町へ着いた。そこは、まだ人が豊かに暮らしており市場が開かれている。まるでお祭り騒ぎのようなその様にマリアが嬉しそうに微笑んでいた。


「すごい!」


 マリアはずいぶんと着慣れたディアンドルのスカートをひるがえして、町の市場を眺めていた。


「マリア様」


 思わずレイヴァンがあとを追いかけて、そう呼べばマリアが拗ねたように桜色の唇を尖らせる。すると、レイヴァンが思い出したように「ああ」と息を漏らしてから“マリア”と言い直した。

 女性の服を着ているときはマリアと呼んで欲しいと皆に言ったのだ。ソロモンも“王子”が本当に死んだと想わせるまでの間は女性の姿でいること、それから“様”をつけることによって勘の良い兵ならば察してしまうかもしれないのでただマリアと呼んだ方が良いと結論づけてマリアに賛同したのだった。


「あまり遠くには行かないでください」


「どうして?」


 マリアがすねたように言った。正直言って、この光景だけでも恋人同士にしか見えない。ソロモンたちは我関せずで、二人の間には入らないように少し離れたところから様子を見守っていた。


「あなたは可愛いですから、もし悪い男に連れ込まれたりしたら危険です」


 過保護だなとギルが口の中で呟いた。すると、となりにいたクレアが小首を傾げて問いかける。なんでもないとギルは答えてクレアが眺めている店を眺めた。

 女の子らしい可愛い小物がいっぱいだ。少し古いその小物達は、安い値段で出品されている。


「何か欲しい?」


「うーん、今はいいかなあ。眺めるだけでも十分、楽しいもの」


 どこか遠くを眺めるクレアを盗み見てからマリアに視線を戻した。やはり、何やら言い合っている。それを半ば呆れたように見ていると、何かを見ていたエリスが良い物を見つけたらしく目を輝かせている。その手に持っている物は、少し大きめの鍋だ。そういえば、前に小屋から持ってきた鍋だと少し小さいとぼやいていた。欲しい物が見つかり、とても嬉しそうである。しかし、年頃の男の子の欲する物が鍋とは呆れてしまう。けれど、それがエリスらしくもあった。

 ソロモンは懐から財布を取り出して、2ペニヒ銅貨(補助通貨)を渡していた。すると、エリスはよっぽど嬉しいのかソロモンに何度もお礼を言っている。すると、ソロモンは得意顔だ。レイヴァンが少し遠くから呆れた顔でそれを見ている。


「今までエリスに何かを買ってやったこともないのか」


 呟いたレイヴァンをマリアが上目遣いに見てソロモンと交互に見つめる。それから、小さく微笑んでレイヴァンの腕を引っ張った。


「やっぱり、みんなで一緒にまわろ!」


 皆のいる方へマリアが足を向ければ、レイヴァンも僅かに笑みを浮かべてマリアの少し後ろを行く。それから、皆で市場を回っているとやはりマリアとクレアが可愛い小物の店をじっくりと見てしまう。男性陣は、それをほほえましそうに眺めながら、少し退屈していた。


「やれやれ、女の子ってのはどうして可愛い物が好きかねえ」


 マリア達に聞こえないようにギルが呟けば、ソロモンが「ふふ」と息を漏らした。


「可愛い娘は、可愛い物に引き寄せられるのだろう。ああやって、眺めている光景もまた可愛らしくて良いではないか。なあ、先ほどからニヤニヤしているレイヴァン」


 どきり、としつつレイヴァンがソロモンの方を向いてなんてことない表情を浮かべてみせる。


「な、なんのことだ」


「いやぁ、眼福だな~。あんな可愛い子は手元に置いておきたいよなぁ」


 たどたどしいレイヴァンにソロモンがいたずらに言えば、レイヴァンは気づかずに「そうだな」と言葉を漏らしてしまう。


「側を離れないように縛り付けておきたくなる」


 言ってから、レイヴァンがハッとする。それから、皆の方を向けばソロモンはくつくつと笑い、エリスは鍋がよっぽど嬉しかったのか鍋を三百六十度なで回し、レジーは相変わらずの飄々とした表情。ヘルメスはどこかで手に入れた材料を手の中で何かこねくり回していた。珍しいことにギルが驚いて氷付けにされているみたいに固まっているではないか。

 レイヴァンが激しく頭を抱えてしまう。あの何でも面白がるギルがここまで固まっているのだ。それほどまでも、レイヴァンの口から出た言葉が珍しいのだろう。

 すると、何も知らない女性二人は皆の様子を――特にギルとソロモンの様子を見て首をかしげた。


「どうかしたの?」


「いえ、なんでもございません」


 レイヴァンは、そうマリアに答えるのが精一杯だった。そんなレイヴァンを横目で見つつ、ソロモンはと笑っている。


「お前な」


「いやー、すまん。実にいいものを見せてもらった。狼狽するレイヴァンほど面白い物はない」


 たちまち、レイヴァンが不機嫌になってしまう。けれど、息をひとつ吐き出せばあきらめたように特に何も言うことはなかった。

 さて、とソロモンがマリアに話を振った。


「マリア、この国を取り戻したらレイヴァンを専属護衛から解放するというのは事実か」


 ソロモンの問いかけにマリアとレイヴァン以外の皆がはじかれたように二人を眺めた。それほどまでも意外であったのだろう。けれど、マリアから言い出したことなので特に驚くこともなく凛とした姿勢で頷いて見せた。


「では、マリアはどのように考えてそのようなことを言い出したのですか」


「わたしという存在はレイヴァンにとって足枷になるだけ。ならば、わたし自身が強くなって守ってもらわなくても生きていけるようになって解放する。それがいいことだと考えた」


 真っ直ぐにソロモンを見つめ、言い切ったマリアにソロモンが脱帽する。それほどまでも、迷いもなく言い切ったのだ。その凛々しさや戦場を駆け抜ける戦士が如く。

隣で目を見開いているレイヴァンのさといったら無い。

ソロモンが小さく笑ってなるほどと呟いた。


「マリアが『王』だという守人達の言葉がよくわかった気がします。あなたは我らの大義名分です」


 マリアがソロモンの言葉に目を見開いた。

 すなわち、レイヴァンやソロモン、守人達にとっての『道』だとソロモンが言い切ったのだ。『道』とは大義名分であり、臣下として守るべき道義や節度などのあり方。また行動のよりどころとなる正当な理由であるとソロモンは言ったのだ。

 それは主として認められたのだといっているも同義だ。そんなことを言われて嬉しくないはずがない。


「ありがとう、ソロモン」


 笑顔で言ったマリアにレイヴァンもまた笑みを浮かべていた。すると、ソロモンがレイヴァンの様子を横目で眺めつつ、マリアに手を取り恭しく跪いた。そして、手の甲へ口づけを落とす。刹那にレイヴァンの眉がぴくりと動いた。

 この行動ですら嫉妬するのかとソロモンが思わず心の中で呟いた。他意がないことがわかっているからか片眉をぴくつかせるだけでとどめている。

 こんな調子では、もしマリアに言い寄ってきた男が現れでもしたら剣で切り捨てるのではないだろうか。それどころか、マリアに他に好きな人が出来たとき嫉妬で狂うんじゃないのか。

 ソロモンがそんなことを考えているとマリアは小首を傾げた。


「ソロモン?」


「いいえ、なんでもございません。マリア、あなたはどうか後悔のない選択をしてください」


 マリアが柔らかく微笑んで「ああ」と答えた。それを眺めつつレイヴァンが少し悲しげにうつむいたことにソロモン以外は気づかなかった。



 その夜、マリア達はその町の小さな古びた宿に泊まっていた。ギルは寝付く事が出来ず厚い外套を着込んで外へ出た。すると案の定、するどく刺すように冷たい風と共に雪が運ばれてきた。

 もうそんな季節か、とギルが思わず呟けばどこからか声が聞こえてきた。


『かつて我々は争った

 いにしえの神に従う者と 神に反旗を翻した我らが王

 我々は王に付いた

 世界はもみくちゃにされ地形が大きく歪んでしまった

 それを見て心を痛めた我らが王は自ら地上へ降り

 我々が反対するも その力を以て人々を救った

 そして新たなる世界を生み出した

 すると いにしえの神は王を憎み恨み世界を捨てた』


 またしても悲しい話だな、とギルが冷たい夜空に向かって呟いた。 すると、後ろから声が聞こえてきた。


「それは水の声か?」


 振り返ればそこにはマリアがいる。どうやら、眠れなかったようで厚い服を着込んでいた。そんなマリアがギルの隣に着てはあ、と息を吐き出せば、たちまち息が凍ったかのように白く濁る。


「はい。水の声は昔のことを語りかけてくるのですが、いつも悲しい話ばかりなのです。マリアに聞かせたあの唄も水から聞こえてくる唄なのです。それも、ほぼずっと唄っています」


「そうだったのか。ギルは悲しくないか」


 マリアの問いかけにギルが小さく笑い、慣れてますからと答えた。マリアは、「そうか」と呟いて黒い空を見上げる。


「明日にはここを旅立つのでしたね」


「ああ。もう少しここにいてもいいが、あまりわたしがとどまり続けるのも良くはないだろう」


 ギルはマリアの髪を撫でる。それから、悲しげに呟いた。


「ま、これからは少しは旅に自由が利くでしょう」


「そうだな。なんだか、ギルと話していると心が落ち着く。なんでかな」


 なんでかな、か……ギルが心の中で呟いた。それは守人にとっても悩ましい問題であった。守人の血は主の側を離れたくはないと想ってしまうのか離れるとまるで警笛のように血があつくなる。それは自分の意志とは関係なしだ。それはやはりやっかいで面倒だ。けれど、裏を返せばマリアの側にいると安らぐ。それは守人ゆえんなのだろう。


「さて、マリア。そろそろ戻りましょう。こんな夜に出歩いたりしたらレイヴァンに怒られますよ」


 マリアが苦笑いを浮かべて「ああ」と答えた。それから、宿へ戻るとギルはマリアの部屋までついてきた。


「あの、ギル。どうして、部屋に入ってくるの?」


「いいえ~、姫様が眠るまでご一緒しようかと想いましてね」


「いや、大丈夫」


 いやいや、とギルも食い下がる。苦笑いをマリアは浮かべていた。困っている様子である。


「冗談――」


「だったら眠るまで、わたしが添い寝しようか」


「え?」


 ギルが言葉を最後まで発する前に、マリアが言葉を紡いだ。ギルは自分の耳を疑って思わず何度もマリアに聞き返した。けれど、やはり聞き間違いなどではなく確かにそう言ったのだ。

 ギルが眠るまでご一緒しましょうと言ったのは、もちろん冗談だ。けれど、マリアは半分は真に受けてギルが眠るまでギルの部屋で話し相手にでもなろうかと考えてそう言ったのだ。

 もちろん、ギルはそんなつもりすらなかったのだから驚いたのは無理もない。そこでふとギルが真顔になった。


「姫様、男にそんな言葉いってはいけませんよ」


 マリアが「え」と言葉を漏らした刹那。ギルの手がマリアの肩を掴みベッドの上へ倒した。そのままギルの体がマリアの上へ覆い被さる。マリアが僅かに息を飲みギルの瞳を見つめる。ギルは氷のように冷ややかな目でマリアを見下ろしていた。


「あなたはもう少し男に対して警戒心を持った方が良い」


 ギルの赤い舌が悪魔のように舌なめずりした。マリアがびくんと体を震わせて手を動かそうとしたが、ギルが手を動かないように押さえていて動かせない。


「ぎ、ギルっ」


 名を呼んだマリアの声は、自分が思っているよりも遙かに震えていた。そんなマリアをやはりギルは冷たい瞳で見下ろしている。


「あなたはなぜ、あんなことを言ったんですか」


「だって、ギルが戻ってくれそうにないから」


 ふうとギルが小さく息を吐き出した。それだけでもマリアが体をびくつかせる。ギルの目が獣じみていて恐いのだ。ただ目の前の獲物を見る獣のような瞳。それだけでマリアの動きは十分に封じ込められた。抵抗する力も、もはや遠い彼方に消えていた。


「マリア、男っていうのはどんなに優しそうに見えたって裏があるものです。下心さえあれば、どんな感情も取り繕い女性に優しくできるものなんですよ。だから、簡単に信用なんてするもんじゃないですよ」


「でも、ギルは仲間だろう?」


 少し落ち着きを取り戻したのか、声のふるえが少しになっている。けれど、やはり震えていた。


「俺はあなたに顔向けが出来るほど、出来た人間じゃない。本来ならば触れることさえ、ためらわれる」


 寂しそうなギルの声が、マリアの中で響いた。


「そんなことない、ギルはもうすでに立派な仲間だ」


 言い切ったマリアにうれしさがこみ上げるけれど、ここはぐっとこらえる。このどこまでも純粋な少女に“男”というものを教えるにはどうしたものか。傷つけない程度に教えるべきだろう。


「ですがマリア。仲間の前に俺は男です。もう少し警戒したらどうですか」


「わたしはギルのこと信じてるから」


 ギルが心の中で嘆息する。それほどまでも、マリアが本当に純粋な目でこちらを見つめてくるのだ。こちらのほうが莫迦ばからしくなってくる。けれど、ここで止めないのがギルらしい。

 ギルはマリアの首元に顔を寄せれば、マリアが息を飲むのをすぐ近くで感じた。ふと首元に“アザ”を見つける。レイヴァンが付けた跡だ。


(こんな跡で縛っておいて、側を離れようなんてずるい男だ)


 ギルがそんな風にレイヴァンに対して感想を持っていると、マリアが小首を傾げる。


「ギル?」


「いいえ、何でもございません」


 告げると興がそがれたようにマリアの上から退いて部屋を出て行った。ひとり取り残された形になったマリアは、呆然と天井を見上げていた。



 次の日、女性らしく着飾っているマリアであったが、ギルのことが気になって寝付くことが出来なかったものだから、目が開けていられず瞬きを繰り返していた。そんなマリアを見たレイヴァンがたちまち驚いてしまい、何度も理由を問いかけたが「何でもない」の一点張りで答えは返ってこなかった。ギルは当事者でもあるので、ここまで悩ませてしまったかと思わず冷や汗を浮かべる。そんなギルに気づいてレイヴァンが詰め寄ったのは言うまでもない。けれど、ギルもまた口を閉ざすので結局のところ何も聞くことが出来なかった。

 小さな町を出て山を登っていると行商人の姿が見えた。行商人は立ち止まり、少年と話をしていた。


「ワゴンを見て良いか」


 レイヴァンが問いかけて行商人が、頷いたのを確認してからワゴンをのぞき込んだ。すると、行商人と少年の会話が聞こえてきた。


「あんたの探してるこの国の王子は、コーラル国の兵に追い詰められ崖から落ちたと聞いた」


 思わず体を強ばらせたマリアをレイヴァンが背に隠す。皆はなんてこと無い顔をしてワゴンの中をのぞいたり、話したりしている。


(こんなところでもわたしは皆に救われている)


 思わず肩を落としたマリアにエリスがほほえみかける。その優しさにじんとしてエリスに笑顔を向けて「ありがとう」と呟いた。

 肩を落とした少年は、残念そうに顔を陰らせて行商人にお礼を言う。それから行商人に背を向けて歩き出した。それを見てマリアがほっと息を吐き出せば、少年はふと振り返る。そこでマリアの姿を見るなり、つかつかと歩み寄って腕をつかんだ。


「君は……」


 どきりとしながらマリアが少年を振りかえる。すると、少年は目を見開いた。頬のほんのりと赤い。それから口の中だけで「かわいい」と呟く。その言葉にレイヴァンが眉根を寄せてマリアと少年の間に割って入った。


「その手を離せ」


 静かに低い声でレイヴァンが言えば、少年はハッとした表情になって手を離すと恭しく頭を下げた。


「先ほどのご無礼、お許しいただきたい」


「ええ」


 マリアが戸惑っていると少年が顔を上げた。そのときマリアは少年の顔をちゃんとみた。少年は薄い灰色の瞳に深い青の髪をしていた。けれど少年の右の目は光を宿していない。どうやら、義眼のようだ。

 少年は、マリアの手を握り締めて顔を近づけた。


「あなたが好きです。どうか、我が妃となってください」


 瞬間、レジーとクライドそれから面白がっているソロモン以外の皆が声を上げて驚いた。そして、レイヴァンが少年の手をはたき落とし締め上げる。


「貴様ぁ」


「止めて!」


 マリアの一言にレイヴァンが、険しい表情のまま少年を解放した。少年はやはり大きく咳き込んだ。そんな少年にソロモンが問いかける。


「君、今妃と言ったな。つまり王族なのか」


 呼吸が整ってから少年はソロモンを見つめて答えた。


「はい、わたしはコーラル国の第二王子アンドレアスと申します。あなた方からすれば敵になるでしょうがわたしはベスビアナイト国の王子に会いに来たのです。彼ならばわたしに手を貸してくれるのではないかと」


 レイヴァンが思わず「お前なんぞに手を貸すわけがないだろう」と叫びたくなるのをソロモンを抑える。マリアはそれを横目で見つつ少年に問いかけた。


「どうして、王子を探していたの?」


「わたしには成すべき事があります。それを成し遂げるためです」


「成すべきこと?」


 マリアが問いかければ少年は確かな意志をその目に宿して答えた。


「我が国を、コーラル国の悪政を正そうと考えています」


 ソロモンは感心したようで、「ほう」と息を漏らした。

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