第十五章 崖

 しばらく歩いたところに緩やかな丘が見えてきた。そこには、冬に咲く花が咲いており別名、『ブルーメンの丘』と呼ばれている。そこでいったん、マリア達は休憩することとなった。この時には、雪もすっかり止んでいた。ただ、風は冷たく凍えるようであった。とりあえず、マリアは弓の練習をするべく少し丘から離れて木が覆い茂っている場所で弓を射る。凛と煌めく視線が勇ましくエリスは、その様子を眺めて言葉を失っていた。しばらく、ぼんやりとしていたエリスであったが背後からギルに耳元で息を吹き掛けられ、文字通り飛び上がっておどろく。


「な、なにを……」


「いやぁ~、別に。出逢って間もないのにもう姫様におとされたのかと思って」


 頬を真っ赤に染めてエリスが反論したが、ギルはもう聞いておらずどこかへ行ってしまった。そんなギルが消えた方向を恨めしげに眺めていたがため息を吐き出すとその場を離れた。それから、レイヴァンが捕ってきた食材をレジーと共に調理する。レジーは、一人でも出来ると言ったがレジーの料理はあまり手を加えておらず肉ならばぶつ切りにしてそのまま焼いたような調理ばかりなのだ。これでは、料理しているとはエリスには思えなった。ゆえにエリスも調理に参加することにしてソロモンがくれた本に書いてあるきちんとした料理を作っていた。エリスの料理は、とにかく手が凝っている料理であった。

 そのできあがった料理を見て皆が感嘆にも似た声を漏らす。


「やはり、エリスの腕は確かだな。俺の下で修行したかいがあったな」


「お前は料理なんてちっとも出来ないだろう」


 自慢顔で偉そうに言うソロモンに、レイヴァンが突っ込んだ。それから、マリアの元へ向かい食事の準備が出来たことを告げた。すると、マリアの口元がほころんで微笑みを浮かべた。マリアを連れて皆の元へ向かうと皆は、そわそわと食事を眺めている。

 みっともない、とマリアの隣でレイヴァンが呟いた。そんなレイヴァンに笑いかけて「食べよう」と声をかけて座るとエリスが食器に食事を皆に分けた。それは、まるでケーキのような形をしている料理であった。


「エリス、これは何という料理なのだ?」


「これはツヴィーベルクーヘンです。玉葱をたっぷりと使っております」


 マリアがエリスの話を聞きながら、ツヴィーベルクーヘンを頬張った。美味しかったのか頬を紅潮させて「おいしい」と呟く。そんなマリアを嬉しそうにエリスは眺めた。すると、そんなエリスを見てギルはニヤニヤと笑っていた。気づいてエリスが咳払いをして、そっとマリアの元を離れると自分も食事を始めた。そこで、ソロモンが口を開く。


「うん、実に良い食べっぷり。姫様も随分と食欲が出て参りましたね」


「ああ、皆のお陰だ」


 にっこり、と微笑んでマリアが言えばソロモンが「さて」と本題を切り出して陛下がなぜ姫様を王子として育てられたかご存じですか、と問いかけた。当然のごとくマリアは知らないから「わからない」と答えればソロモンが苦笑いを浮かべた。


「それは俺も知らぬ。ソロモン、何か知っているなら教えてくれないか」


 レイヴァンがソロモンにそう言った。すると、ソロモンが呆れたようにレイヴァンを見た。それからため息を吐き出して肩を落とす。


「なんだ、レイヴァンも知らぬのか。やれやれ、陛下はレイヴァンにすら話しておらぬとは」


 レイヴァンが眉を潜めてもったいぶるな、と言えばソロモンがくいっと水を飲み干す。それから、口を開いて長くなるが、と紡いだ。その一言にレイヴァンがおとぎ話を始める気なのかと問いかける。疑い深いレイヴァンにまさか、と言って首を横に振った。


「そもそも、姫君を溺愛している陛下がなぜわざわざ可愛い娘を男装などとさせる? それをするくらいなら、真綿にくるめてさらに甘やかに育てるはずだろう。まあ、その場合でも専属護衛はついただろうが」


 わざわざ最後の一言を足すあたり彼らしい。もしマリアが、お姫様として育てられる場合でもレイヴァンはきっとマリアの専属護衛になっているだろう、と暗に言って彼を安心させようとしている。

 とにかくだ、と言ってソロモンがおどけたように笑う。


「だが、もし姫君がお姫様として育てられていたら、きっとこんな風に過ごしてはいないだろうな」


 マリアが驚いてソロモンを見つめる。横目で見てソロモンが、聞きたいですかと問いかけた。マリアが少しだけうつむいてから顔をばっと上げる。


「知りたい。わたしはわたし自身のこともよくわかっていなかったのだから」


 マリアの覚悟を真っ直ぐに受け止めてソロモンが頷く。そして、物語口調で語り出した。



 十数年前、この国はひどい嵐に見舞われた。 作物は育たず人々は皆、困り果てていた。そんな中、ベスビアナイト国の王城で一人の赤子が産声を上げた。後に聖母の名前で呼ばれる赤子が産声を上げるとなんと、嵐が去って空が晴れ渡り新しい作物が実り始めたのだ。

 そのことに人々は喜び、また王や王妃も我が子が特別な力を持っているということを実感せざるをえなかった。すると、その夜。道に迷った老婆が現れた。


『道もわからず、今夜泊まる宿もない。どうか、一晩だけでもここへ置いてはくれないか』


 老婆のことを不憫に思い、優しい王と王妃は老婆を城へ招き入れて食事を振る舞い温かい寝床も用意してやった。夜が明けて翌日になると、老婆は助けてくれた礼だと言って王と王妃にお告げを告げた。


『お前さん達の間にいる子ども、男ならば何ら問題はないが女ならば用心した方が良い。その子はとてつもない力を持っている。その子の力を狙う輩も現れる。またその子はいずれこの国を滅ぼすだろう』


 そう告げて去っていた老婆を見送っていた王と王妃は、とても狼狽した。せっかく授かった子どもが国を滅ぼすと言われたのだ。臣下たちもまた狼狽えた。王妃はすでに子を産めぬ体になっていたのを知っていたからだった。

 王と王妃は、たいへん悩んだ。その結果、子どもに聖人の名前を付けることにした。さすれば、きっとこの子を守ってくれるだろうと信じて。

 その夜、妙な男達が現れた。男達は財宝などには目もくれずただ赤子だけを連れ去ろうとしていた。すぐに衛兵が気づき赤子は連れ去られずに済んだが、あの老婆が言ったとおりのことが起こってしまった。

 ならば、と国王はこの子を娘ではなく息子として育てることとしたのだ。



 ソロモンが話を終えたとき、レイヴァンの持っている皿の中身はすっかりからになっていた。そんな皿の中にあったフォークをもてあそびつつ、レイヴァンが半ば呆れたような顔をして口を開く。

 

「お前、さすがにファンタジーすぎるぞ」


「あ、やっぱり?」


 あっけらかんとしてソロモンが答えれば、レイヴァンが肩を振るわせて「結局、作り話だったのか」と声を荒げる。ソロモンは赤い舌をちろりとだして笑って見せた。


「なかなかよく出来た話だろう」


「お前、作家にでもなる気か」


 二人の会話を聞きつつマリアが呆然としている。すると、そのことに気づいたギルがマリアにいかがなさいましたか、と問いかけた。


「え、えーと、つまり今のはソロモンの作り話だったってこと?」


 にこやかにソロモンがマリアの方を向いて「はい」と答えた。ますますマリアはぽかんとして固まってしまう。それを見たレイヴァンは、マリアに声をかけた。


「マリア様、大丈夫ですか」


「へ!? あ、ああ……つ、作り話。今のは作り話……」


 何やらマリアがぼそぼそと呟き始める。それから、はっとした表情になればソロモンに問いかけた。


「ソロモン、事実はどうなのだ」


 すると、ソロモンがにっこりと微笑んで肩をすくめて見せてから「どうなんでしょうね」と言った。その言葉にマリアは混乱してまた固まってしまう。


「ソロモン、お前は陛下から伺っているのではないのか」


「さて、どうだろうな」


 レイヴァンが眉を潜める。そんなレイヴァンをソロモンは、眺めて「だが」と紡いだ。


「姫様がお生まれになった翌晩、姫様を狙って妙な男が城へ侵入してきたのは確かな事実だ」


 その言葉にマリアは言葉を失ってしまう。レイヴァンもこくりと頷いて「ああ」と答えた。思わずマリアがレイヴァンの漆黒のマントを握り締めればレイヴァンがマリアの方を向いた。


「わたし、一体なんなのかな」


 弱々しくマリアが言えばレイヴァンが柔らかく微笑んでそっと手を握り締める。それから、「あなたはあなたですよ」と答えた。優しい響きがマリアの耳に心地よく感じてしまう。


「ありがとう、レイヴァン」


 答えながらもマリアは、どこか腑に落ちない表情をする。ソロモンはマリアの顔を眺めて「知りたいのですか」と問いかけた。こくり、とマリアが頷けばソロモンは少しばかりうつむいて確かに、と紡ぐ。


「あなた様には知る権利があります。けれど、わたくしの口からは告げられません」


 マリアがと頷いた。

 ソロモンは確かに何やら秘密を知っているようだ。それもとても大切なことを。だが、国王が話していない内容をソロモンから聞き出すわけにはいかない。

 マリアの様子を見てソロモンは小さく微笑む。そして、「もしあなたが真実を知るときどうなさるのかわたくしめは楽しみです」と紡いだ。そういったソロモンを見つめてマリアが苦笑いを浮かべると「趣味悪いな」と呟く。ソロモンは「知ってます」と呟いて笑う。言われ慣れているようだ。その隣でレイヴァンは小さく笑っている。どうやら、いつもレイヴァンが言っているらしかった。

 そのとき、ふとレジーがどこか遠くを見つめる。そのことに気づきマリアがレジーに声をかけた。


「レジー、どうかしたの?」


「風が震えている」


 レジーがうっすらと汗をうかべて立ち上がった。静まって、とレジーが風に語りかけるがどうやらおさまらないらしく苦悶の表情を浮かべる。


「う……ぐ、お願いだから」


 そのままレジーの体が傾き、地面へ倒れ込んだ。慌ててヘルメスがその体を支えて脈を取る。脈が激しく波打っていた。ヘルメスはそっと地面の上へレジーを寝かせると額に水で濡らした布を当てる。

 マリアはそっとレジーに近づき焦燥した表情で見つめた。すると、レジーがうっすらと目を開けたと思ったら震える手を必死にマリアの方へ伸ばす。それから、言葉を発した。


『我らが王、どうかその御心を見失わぬよう。どうか、“誓い”を忘れぬよう 遠い国にて我らは祈る』


 言葉を発すると、レジーの体から力が抜けてだらりと垂れる。マリアが焦って名を呼べばヘルメスが「寝ているだけです」と答えた。そのことに胸をなで下ろしつつレジーの手を握り締める。白い手からは、確かにと力強い命の音を感じた。


***


 王都ベスビアスにある王城の廊下を、ジョードは通っていた。そして、なかなか傷の癒えぬクリシュナの元へ向かう。つい先日も安静にしなくてはならないと医務官に言われたのに剣を握って外へ出ようとしていた。そのとき、ちょうどジョードが居合わせたのでベッドへ縛り付けたが、また抜け出そうとしているかもしれない。そんなことを考えつつ医務室へ向かうと、クリシュナがロープで手足を縛り付けられていた。どうやら、また逃げようとしていたらしい。そんな彼にジョードはため息を零した。


「また逃げだそうとしたのか」


「ひどい仕打ちだと思わないか。これでは、ジョードをからかえないではないか」


「からかうな」


 ジョードはそう言いつつ、クリシュナの看病を始めた。あのとき、レイヴァンから受けた傷がいたましく体に残っている。否、彼が暴れ回るからすぐに傷口がと開いてしまうの間違いだった。


「で、ジョード。陛下はなんて?」


 唐突にクリシュナはジョードに問いかける。だが、彼の言っている意味が第一王子であるラースが自分たちを辞めさせようとしているがバルドルはなんといっているんだ、と問いかけているのだとわかっていた。


「ラースの我が儘には困ったものだ、とぼやいてらした。それから、まだお主達にはラースの従者でいて欲しいと仰ってました」


「せっかく、あの王子から解放されると期待したのに」


 クリシュナの言葉に、ジョードも思わず頷いてしまう。あの王子はとにかく無茶苦茶で、思いこんだら一直線で悪魔の血でも引いているのではないかと思うほど、人を人と見ない所がある。けれど、どうだろう。第二王子は泣き言も何も言わず、笑ってわざわざ城下町へ自ら赴き、国に何がいるのか見いだすために民衆に聞いて回っているようだ。ときおり、彼の従者が勝手に城を抜け出していると漏らしていた。だが第二王子の方が人望が厚い。それは、社交性ゆえだろう。しかも必要だと思ったことは、バルドルに直接直談判しているという。そんな彼と自ら仕えているラース。どちらが有能かと問われれば、前者を誰もが選ぶだろう。

 国王も次の国王は、第二王子にするらしい。ラースには何一つ話さないが、臣下にはよくそういうような話を漏らしていたのだ。

 そのとき、医務室の扉が開いた。まさか、人が来るなんて思わなくてジョードは飛び上がる。振り向けば、そこには第二王子、アンドレアスがいた。アンドレアスは母親に似た薄い灰色の瞳に深い青の髪を持っていた。また爽やかな見た目で女性からの人気が高い。だが、残念なことに彼の右の目は、見えておらず義眼だという。そのためか、右の目は光を宿していない。

 なんでも、昔にラースの指で目をつぶされたらしい。それからというもの、バルドルはラースとアンドレアスを会わせないように別々の住居にしているようだ。今回、ベスビアナイト国へアンドレアスだけを連れてきたのもラースと会わせないためというのと次期国王となるための修行のようであった。


「あ、アンドレアス様! おけがでもなさいましたか」


 驚いてジョードが言えば、アンドレアスは首を横に振る。それから、言葉を紡ぐ。


「いや、お主等に会いに来たんだ」


 呆然とするジョードとクリシュナにアンドレアスが単刀直入に言う、と切り込んで言葉を紡いだ。


「ベスビアナイト国の王子は、どんな人だった?」


 言葉にジョードとクリシュナは顔を見合わせる。アンドレアスがなぜそんなことを聞いてくるのか理解に苦しんだからであった。人望が厚く次期国王と言われている王子が今や亡国となったベスビアナイト国の王子のことを聞いてくる。果たして、その心理が計り知れず二人は答えに困った。


「素直に答えてくれれば良い。わたしは、その王子がどんな方なのか知りたいだけなのだ」


 言われジョードは素直に自分の思ったことを彼に伝えた。強い信念を持ち、この国を旅していること。この国を本当に大切なんだなとこちらが感じるほどに強い視線をこちらに投げかけてきたこと、すべて話した。すると、アンドレアスは「この方ならば」と呟いた。その呟きがどういう意味なのかわからなくてジョードは「え」と声を漏らす。


「すまない、その王子がどこにいるかわかるか」


「ええ、おそらく今はエイドス支城を出てシプリン支城へ向かう途中かと」


 わかった、とアンドレアスは言って立ち去ろうとする。その背にジョードが「どこへ向かわれるのですか」と問いかければ王子の元へ、とだけ答えてその場を後にした。それから、馬を一頭借りると保存の利く食料とランプだけをカバンに詰め込んでベスビアスを出た。

 略奪を行っている兵達の横を通り過ぎながら。


(父上も何故、略奪するのか。それは正当とは言えないのではないか。こんな国を略奪するほど、我が国が飢えていたとでも言うのか)


 自分の国の現状に嘆きを瞳に宿しながら。


***


 マリア達は、レジーの体力が回復したものの皆が気を遣いながら人のいない道を進んでいた。その道中、ソロモンは「うーん」と声を漏らした。するとレイヴァンが反応する。


「どうかしたのか」


「いや、グレンと名乗った男について考えていた。なぜ、わざわざ名乗ったんだ? それも敵である姫様に」


 たしかにな、とレイヴァンも零した。二人して「うーん」と唸って考えていると、前を行くマリアが不思議そうに二人を振り返った。そんなマリアの背をギルが叩く。


「姫様、あれがシプリン支城ですよ」


 言われて振り返ると、少し立地の高い所から太陽を浴びてとまばゆく輝く街が見えた。その遙か遠く。天まで届きそうなほど高い支城が見えたのだ。


「すごい!」


 マリアが思わず言葉を漏らすと、微笑んでいたギルの目に鋭い光が射してマリアを庇いながら立ち、どこからか放たれた矢を剣でなぎ払った。その方向へ目を向けると、兵を引き連れたグレンとのようにひょろひょろの男が現れた。皆は警戒体勢を取る。

 もやし男は、マリアがいる方向をじっと見つめる。


「どうです、ラース王子。あなたの会いたかった人ですよ」


 ラースと呼ばれた男は、花開くように顔を紅潮させて目を大きく開いた。


「おお、あなたが恋いこがれたベスビアナイト国の姫君か!」


 え、とマリアは息を漏らす。驚きはしたがコーラル国がマリアの本当の性別を知っていてもおかしくはないと結論づけ、何の疑問も抱かなかった。


「ああ、お会いしたかった。あなたに会えない日々、どんなにあなたに焦がれたことか」


 どんどん近寄ってくるラースにマリアが後ずさる。そんなラースの首元にギルが剣を差し向けた。すると、ラースはけだものでも見るようにギルを見る。


「邪魔をするな。おれと姫の恋路を邪魔する気か」


 意味がわからなくてマリアが困惑する。果たして彼と会ったことがあるだろうか、と。レイヴァンも困惑しているらしくマリアとラースを交互に見つめる。すると、レイヴァン達に向かってグレンや兵達が武器を振り下ろしてきた。とっさのことでレイヴァンは何とか、剣を抜きグレンの刀を受け流したが無理に筋肉を使ったらしく僅かにレイヴァンの肩に痛みが走る。


「ぐっ」


「レイヴァン!」


 今すぐにでもレイヴァンに駆け寄りたい衝動に駆られたが今は、それどころではないのはマリア自身もわかっていた。だが、それでも――マリアはグレンに向かって弓をかまえていた。けれど、手が震えて正確に射ることが出来そうにない。すると、ラースにギルがわずかに押されていた。ラースの剣筋は無茶苦茶だ。だが、力に押されている。

 そのとき、ギルが崖に追い詰められ始めた。慌ててラースの方へ弓をかまえ直してラースに向かって矢を射る。その矢はラースの片腕に突き刺さりラースは後ずさった。けれど、ギルは崖から足を滑らせて崖から出ている木の枝になんとか掴まっている状態だった。


「ギル!」


 マリアが慌ててかけよりギルの腕を掴んで引っ張り上げようとする。けれど、やはりマリア程度の力では無理なのだろう。まったく、上がらなかった。ギルは汗を浮かべつつもマリアに声をかけた。


「姫様、俺のことはいいですから、レイヴァンの元へ……!」


 マリアは首を横に振って、必死に持ち上げようとする手を止めない。それどころか、余計に力を込めて「いや」と零した。そして、涙をブルーダイヤモンドの瞳からぽろぽろと零した。涙が重力によって地面に、それからギルの頬を伝う。


「嫌だ! わたしは、お前を失うわけにはいかない」


 叫んだマリアの声は、涙声でギルが今まで聞いたことがないくらい必死な声であった。そんなマリアにラースが、よぼよぼと近寄ってくる。それから、「そんな男など放っておけばいいものを」と呟いた。そんなラースをマリアが、にらみ付ける。眼光にラースがたじろいだ。困惑するラースを余所にマリアはギルに視線を戻す。


「何も知らないで、勝手なことを言わないで!」


 叫んだマリアをグレンが思わず見つめる。グレンの視線がそれた瞬間、レイヴァンがグレンを突き飛ばした。すると、ちょうどクレアぐらいは通れる空間が出来てクレアは慌ててマリアとギルの方向へ向かいマリアと同じように崖の上から手を伸ばしてギルの腕を掴んだ。


「ギル、死ぬんじゃないわよ」


 涙目でクレアが叫べば、ギルがやれやれと呟いて「嬉しいね、女の子二人に心配されるなんて」と軽快に紡いでいた。


「こんな時に何を、言って」


 クレアが言ったときだった。ギルが握っていた木の枝が、ポキリと折れて重力によってギルの体は下へ下へと落ちる。それに伴ってギルの腕を掴んでいたマリアとクレアも宙へ放り出された。


「きゃああああああっ!」


 クレアの甲高い悲鳴が峡谷にとどろいた。

 ギルは必死に手を伸ばしてマリアとクレアを掴み、なんとか自分の体の中へ抱え込んだ。だが、クレアはすでに十八歳だ。マリアに比べれば体がだいぶ大きい。そのため、完璧に抱え込むことは出来なかった。

 そのまま三人の体は、重力によって崖の下へ落とされていった。甲高い悲鳴も小さくなって聞こえなくなる。すると、ラースがそっとマリアがいた場所から崖をのぞき込んだ。それを見てグレンは同じように崖の下へ飛び込むのかと思い、レイヴァンとのつばぜり合いもそこそこにレイヴァンをよろめかせてラースの腕を引いて兵達と共に馬車に飛び乗った。馬車はレイヴァン達を取り残して去ってゆく。馬車の音が消えれば、静寂だけが辺りに満ちた。

 レイヴァンは、そっと崖に近寄り崖から下をのぞき込む。そこには、深い森が広がっているばかりであった。レジーがレイヴァンの肩を叩く。


「大丈夫、マリアは生きてるよ」


「だが」


 レジーは急いでギルの下に風の層を作り上げて、落ちても出来るだけゆっくり落ちるようにしたという。そのため、命だけは助かっているとのことだった。そのことにホッとしたが、ソロモンがどこかここから降りれる場所を探そうということになり、皆で捜索を始める。

 レイヴァンは心の中で静かに“あるじ”の名を呼んだ。胸の奥には、嫌な予感と焦燥ばかりが木霊していた。



 マリア達は木の上に落ちて木の枝の間に落ちてゆく。やっと、地面へ到達したときギルはぐったりとして意識を失ってしまった。マリアとクレアも意識を失いぐったりとしている。そこへ黒い髪をなびかせた青年がやってきた。薄い鉛色の瞳が不気味に三人を見下ろしている。かと、思えば三人を何とか草むらから引きずり出した。それから、水を汲み布を用意すると三人の手当を始める。処置を施すと古びた小屋にわたの少ない薄い布団を敷くとそれぞれ三人を寝かせた。

 そのあと、ほっと一息つくと火鉢に火を起こして薬缶に水を注ぐと、火鉢の上へ薬缶を置き温め始める。すると、クレアが声を漏らして目を開けた。それから、きょろきょろと辺りを見回す。すると、いかにもくつろいでいる青年をぼんやりと眺めた。それから、驚いて目をぱちくりさせる。


「あなたが手当もしてくれたの?」


 青年は無言でこくりと頷いた。すると、クレアはマリアとギルの方を見る。マリアはあまりケガをしていないようでただぐっすりと眠っている。だが、ギルの方はケガがひどい。体中あちらこちらに包帯がぐるぐる巻きだ。どうやら、マリアとクレアを庇ったらしい。

 クレアが心配そうにギルを見つめていると青年が初めて口を開いた。低いけれど、少し高い声はどことなく人を安心させるような響きが含まれていた。


「大丈夫、生きてる。むしろ、あの高さから落ちてそれで済んでるんだから良い方だよ。ひどいときは、体が粉々になってるからね」


 そういうところを見ると青年は、見たことがあるようだ。だが、クレアは深くは突っ込まずにギルの手を握り締める。するとマリアも小さく息を漏らして目を覚ました。きょろきょろと周りを見回すマリアをクレアがそっと抱きしめる。


「よかった、姫様」


「クレアも無事でよかった」


 クレアが体を離せば、マリアはギルの方を見る。やはり、痛ましい包帯に悲しげにうつむいた。ギルの体はピクリとも動かない。クレアはまたギルの手を握り締めた。二人のもとをそっと離れてマリアが古びた小屋を出て辺りを見回す。すると、マリアの後ろから青年も来た。


「君はこの小屋で生活しているのか」


 青年は小さく頷きマリアの薄い金の髪にふれる。さらり、と金の髪が流れると青年がわずかに息を飲み込み、とても小さな声で呟く。「我らが王」と。その言葉は、国を追われてからマリアが何度も聞いた言葉だ。だが、マリアはくすりと笑うと空を見上げる。


「わたしは王などではないよ」


 つげたマリアの足下に茶色い何かがすり寄ってくる。細長くて茶色い何かは小さく「クックッ」と鳴いた。その泣き声にマリアがその茶色い何かを抱き上げる。


「イタチなのか」


 青年は何も言わず黙っている。イタチは、甘えるようにマリアに体をこすりつけてきた。マリアが頭を撫でてやれば、イタチは、とマリアの手から逃げて青年の肩へ上っていった。そこで初めて青年は口を開く。


「この子は、撫でられるよりかかれる方が好きみたいです」


 言って青年は軽くイタチの背をかいた。すると、イタチは気持ちよさそうに目を閉じる。マリアが感心したようにイタチをのぞき込んだ。青年が小屋へ戻ると「小屋へ戻って」と言われている気がしてマリアも小屋へ戻る。すると、小屋の中は寒いもの先ほどよりも随分と温かくなっていた。

 青年がイタチをわたがほとんど入っていない座布団の上に寝かせれば、イタチは丸くなって眠り始めた。それをマリアが眺めていると青年は、お湯を注いだ湯飲みをマリアに渡す。それから、クレアにも同じようにお湯を注いだ湯飲みを渡した。ありがとう、と言えば青年は小さく笑って火鉢の近くに座りズズズと湯を飲む。それから、はあと息を漏らしていた。思わずマリアが笑えば青年が首を傾げる。


「いや、すまない。そんな風に音を立てて飲む者を初めて見たから」


 何か考える仕草をしたと思えば青年はすくりと立ち上がった。


「そういえば名乗るのを忘れていた。やつがれはクライドと言う。〈闇の眷属〉の守人でございます」


 マリアが目を見開いたが、すぐに表情を軟らかくするとそっと微笑んで立ち上がり、クライドに手を差し出した。呆然と見つめるクライドにマリアが、柔らかく微笑んで力を貸してくれるか尋ねた。すると、クライドは恭しく跪く。


「もちろんですとも、やつがれはあなた様に会えるのを楽しみにしておりました」


 マリアは驚いて目を見開き、わたしが来るのを知っていたのかと問いかける。すると、クライドが首を横に振り「いいえ」と答えた。


「〈眷属〉とは主を待ちわびる。数千年の時を超え、こうしてあなたに出会えたことをやつがれはとても嬉しく思います」


 クライドにそっと笑顔を向ければ、クライドもまた微笑んでマリアの手を取った。そのようすは、まるで忠実なる臣下のようだった。

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