第十四章 知恵の悪魔

 一晩、マリア達はソロモンの小屋に泊めてもらうことになった。そして、豪華ではなくともなかなか美味な食事を堪能すると皆、疲れているのかすぐに毛布にくるまって眠りについた。

 深い闇が辺りを包み込み、静かな月明かりのみが夜の静寂を守るように輝いている。そんな空の下にマリアだけがいた。皆が寝静まっても寝付くことが出来なかったのだ。皆を起こさないようそっと毛布から出て音を立てないよう戸を開けると外へ抜け出した。レイヴァンがそこにいたなら、もれなく説教が飛んでくることだろう。だが、レイヴァンも疲れていたようでぐっすりと眠っている。

 ただ静かな空間でマリアは月を見上げていた。青白い光がマリアの姿をくっきりと映し出す。淡い優しい光を反射して薄い金の髪が煌めいた。まるで絵画のようなその景色は、もし画家がいればすぐにでも筆を執りキャンバスに描いたことであろう。けれど、ここには冷たい氷のような外気と優しい月の光、夜行性の動物たちしかいない。

 ただ無言で月明かりを見つめていれば、その背後で土を踏む音が聞こえてきた。驚いて振り返ればそこには、ソロモンがいる。


「ソロモン、どうかしたのか」


「いいえ、あなた様がおられなかったのでどこにいるのかと探しておりました」


「それは迷惑をかけてしまった、すまない」


 マリアが謝るとソロモンは、ゆるりと首を横に振っていいえと答えた。そして、マリアの隣に立つと月を見上げる。よい月夜ですね、とソロモンがマリアに優しく言った。ああ、と頷いてマリアもまた月を見上げる。


「あなたはなぜ、レイヴァンと共に旅立つことを決められたのですか」


 突然、そう問われマリアが驚く。けれど、すぐにそうだなと呟いた。それから冷たい風に煽られながら月を見上げた。青白い月は、マリアの言葉を待つようにじっと静寂を守っている。やがて、マリアの口から言葉が発せられた。


「悔しかったからだと思う」


「悔しい、ですか」


 ああ、とマリアが頷いた。その後ろの方で黒い影がうごめいていた。けれど、マリアはそれには気づかず言葉を紡いだ。


「わたしは無知で無力でいつもレイヴァンを困らせてばかりだ。けれど、わたしはそんな自分が許せなかった。そう考え出したら、なんだかとても空しくて悔しい気持ちばかりがふくらんでいく。それなら、レイヴァンと共に自分の国を見てみたくなったんだ」


 前をまっすぐに見据えて言い放つマリアを見てソロモンは、ふっと息を漏らした。それから、マリアの後ろの方にいた影に声をかける。


「だ、そうだ」


 マリアが驚いて振り返るとそこには、レイヴァンがいた。ますます驚いて固まってしまうマリアにソロモンが片眼をつむり口角を上げた。


「さて、わたくしはもう寝ることとしよう。ではな、レイヴァン」


 告げてソロモンが、マリアとレイヴァンに背を向けた。その姿は闇の中へ溶けてゆく。それを眺めてからレイヴァンがマリアの隣に立った。マリアが少し表情を硬くする。緊張しているように見えなくもない。それから、もじもじとしていると思ったら口を開いた。


「その、先ほどはすまなかった」


 レイヴァンが小首を傾げれば、「怒らせるようなことを言ってしまったようでごめんなさい」と言った。すると、レイヴァンが小さく笑う。それから、「なんだそのことか」と呟いた。


「なんでも無いんですよ、あれは少し俺が苛立っただけなんです。あなたに“関係ない”と言われて何だか距離を感じてしまって」


「関係ないと言ったのは、わたしという存在がレイヴァンにとって足枷になっているのではないかと思って。ごめんなさい、レイヴァンが傷ついているともつゆ知らず」


 しゅん、とマリアが肩を落とせばレイヴァンが優しく微笑んでマリアを抱きしめる。マリアは驚いて目をぱちくりさせて小さく名を呼んだ。レイヴァンは、頬をほんのりと染めてきゅとマリアの体を強く抱きしめる。


「よかった、あなたに嫌われたわけではなくて」


「嫌うだなんて、そんなわけないじゃないか。わたしはレイヴァンのためなら何だって犠牲にする覚悟でついてきたんだ」


 抱きしめる手を強めてレイヴァンが、あなたは何も犠牲にしなくて良いんですよと囁いた。それから、俺はあなたのためなら何だって差し出しますと言葉を紡いだ。その言葉にマリアが悲しげに目を伏せる。


「そんなこと言わないでくれ、わたしはお前に幸せになって欲しい。だから、わたしのために傷ついて欲しくはないんだ」


 言ったマリアを愛おしそうにレイヴァンが手で撫でる。そこへギルが起きて二人の姿を見つけたが、甘い空気に出て行くチャンスを失い草むらからそっと様子を伺っていた。もちろん、二人はそれに気づかない。

 そっと、レイヴァンが腕の力を緩める。それからマリアの顎に手を添えてそっと自分の方へ向かせると顔を近づける。唇が重なりそうになった刹那。闇に染められた草がガサリと音を立てた。ギルが思わずぎくりとしたが、ただ風で揺られただけであった。ほっと胸をなで下ろしたギルであったが、どうやら風に草が揺られたときにギルの姿が見えたのであろう。レイヴァンが「あと少しだったのに」とでも言いたげにギルを見下ろしている。


「は、ははは……お、お邪魔しましたー」


 そそくさとギルは退散することにする。心の中であと少しだったのに、とぼやきながら。それを見送ってレイヴァンは駆け寄ってきたマリアの方を振り返る。マリアが戻ろうかと言えば、レイヴァンは逆らえず「はい」と答えて小屋に戻った。



 日が開けると、マリア達は朝食を終えると小屋を旅立ったのだが。


「なんで、お前達までいるんだ?」


 呆れたようにレイヴァンが言えば後ろにいたソロモンが「まあまあ」とおどけた調子で言う。エリスは守人だから良いにしても、と言ったレイヴァンの肩を組んでソロモンは微笑んでいた。


「なあに、せっかく面白そうな娘と出会えたのだ。この出逢いを逃していては、神に怒鳴り散らされよう」


「そう言って楽しんでいるだろう」


 何のことかな、とソロモンは呟いて満面に笑みを浮かべて見せた。それから、レイヴァンを解放すると今度はマリアに近寄る。


「姫様、どうですかな。ひとつ、わたくしの知恵を借りてみては」


「お主は知恵者なのか」


「そういうわけではございませんが、わたくしは少なからずレイヴァンよりは頭が回りますよ」


 悪かったな、とレイヴァンが後ろで呟いた。マリアが思わず苦笑いを浮かべつつもソロモンに城では何をしていたのだ、と問いかける。すると、僭越ながら参謀に似た任につかせていただいておりましたと答えた。


「さ、参謀!? それって、戦略指揮を行っていたのか」


 マリアのみならずギルやクレアも驚いているようであった。レジーは相変わらず飄々としている。かと思えば、何それと呟いた。どうやら意味がわかっていなかったようだ。


「参謀とはそうです。姫様が仰ったように戦争において戦略指揮を助ける者のことです。ですが、わたくしは似たようなことをしていたというだけで参謀ではございませぬよ」


 レジーが納得いったのか「ふうん」と呟いていた。すぐに興味が無くなったのか、どこかに目を移していた。相変わらずだな、と思いながらマリアはソロモンに視線を戻す。


「けれど、そうか。お主がそうだったのか。わたしは、特定の人間としか会えなかったからあまりそういうことは知らないんだ。父上はわたしに武器すら持たせたがらなかったから」


 そうですね、とソロモンが頷いた。周りからはよく過保護だと言われてたがそれでも王はその信念を曲げることが無かった。それがなぜだかわかりますか、とマリアに問いかけた。マリアは驚いて目を見開いた。


「父上がそんなことを言われていたのか?」


「ええ、それはもうほぼ毎日と言っていいほど必ず誰かが言いました。けれど、あなたには決して武器を持たせなかったのです」


 マリアが言葉を失う。そんなと呟いてうつむいては、唸ってまた苦虫を噛みつぶしたような顔をする。そんなマリアにソロモンが愛情ですよと答えを口にした。


「え?」


「愛情です。たとえ、王族であろうとも親という者は子どもに危険な目に遭わせたくはないものです。わたくしから言わせてもらえれば陛下は、とてもあなたに甘い。飴に砂糖をまぶしたぐらい甘い」


 そんなに、とマリアが驚いて呆気にとられた。ソロモンは微笑んで頷いて見せた。それから、だからあまり無茶をしてはいけませんよと言った。その言葉にマリアがうつむいてしまう。


「でも、わたしは誰も失いたくはないもの。そのために武器をとるのはいけないことなの」


 武器をとらないこともまた戦略の一つ、ソロモンがマリアに説くように言った。ぎゅ、とマリアが手を握り締める。血を流さず自分の望みを叶えられるのなら、それほど良いことはないでしょう、ソロモンの唇から言葉が紡がれる。

 マリアが顔を上げればそこには、微笑むソロモンがいた。その隣には、レイヴァンもいる。


「そんなことができる?」


「ええ、できますとも。あなたが望むのならば、わたくしはあなた様を主とし知恵を授けましょう」


 マリアの目つきが変わり、ソロモンを見つめ返して頷いた。


「欲しい、わたしは誰も失いたくはないから」


  凛ときらめく視線をソロモンに向ける。ソロモンがその視線をまっすぐに受けて小さく頷くとマリアの手をとった。あなたのために尽くさせていただきます、と恭しく頭を垂れてソロモンが言う。そんなソロモンに小さく笑みを向けた。


「ありがとう。けれど、わたしは返せるものが何もない」


「かまいませんとも。わたくしは陛下よりたくさんのご恩をいただきましたから」


 そうなのか、とマリアが驚けばソロモンが頷く。それから、マリアの手を離すとエリスに何やら話し掛けていた。マリアがぼんやりとそれを眺めていると、その隣にレイヴァンが来る。


「変わり者ですから、あの男の言葉を鵜呑みにしてはなりませんぞ」


「だが、信頼関係は一番大切だろう? 信頼していなければ何も出来なくなってしまう」


 確かにそうですが、とレイヴァンが言いよどんだが意を決したように言葉を発する。ソロモンには異名があるが不吉だと言ったのだった。マリアが首を傾げると聞かない方がいいですよ、ともったいぶらされてマリアはますます異名が気になってしまう。けれど、レイヴァンは口を開かない。どうしても言いたくはないようだ。

 やがてマリアがあまりに目をきらきらさせて見つめるものだから口を開いた。


「知恵の悪魔、そう呼ばれています。しかも“知恵王”と名が同じであるからかその王が使役したとされる悪魔の名をとってもう一つ異名があったのですが」


 忘れました、と紡いだ。マリアはもう一つの異名も気にはなったが目的は達成されたのでスッキリした顔をしていた。そんなマリアを見てレイヴァンが小さく微笑む。そこでふとレイヴァンにマリアが問いかけた。


「レイヴァンは異名とかあるのか」


「さあ、俺は周りのことは気にしない質なので」


 そうか、とマリアが落胆の色を見せる。だが、ふと顔を上げて無いなら考えると意気込んでああでもないこうでもないと考え始めた。

 考え込んでいるマリアを見てレイヴァンはやはり、可愛いと思ってしまうのだった。


***


 ベスビアナイト国、王都ベスビアスをラースがグレンと共に旅立っていた。グレンはコーラル国の王バルドルには、ラースをコーラル国へ連れて行くといいながらマリア達一行がいるであろう場所へ向かっている。けれど、ラースはなかなかマリアに会えないからか痺れを切らしかんしゃくを起こし始めていた。


「ええい、いつになったら姫に会えるのだ!」


 馬車に揺られながらラースが言えばグレンは、心の中でため息を零しながらもうしばらくご辛抱下さい、と言った。けれど、それでイライラがおさまるはずもなくラースは顔を歪める。


(やれやれ、こんなやつがコーラル国の第一王子か。こやつが王となったら滅亡は避けられぬな)


 グレンが心の中で零した言葉はもちろんラースには届かない。一方、ラースはグレンの心情などつゆ知らずイライラと何事かを呟いていた。どうせ、不満に思うことを一人で勝手に言っているのだろう。こんな主の元では、臣下たちはさぞ苦労するであろう。目に見えてそれがわかるほどにラースはできの悪い王子と周りからよく囁かれていた。態度ばかりがでかく国王には、小心者で一切逆らわない。だが、臣下に対しては怒鳴り散らし物に当たる。国王もそれを見抜いているのか次期国王には、第二王子であるアンドレアスと決めているようだ。いつだったか、国王が零していたのをグレンは聞いていた。だが、実際に会ってみるとやはり国王の判断が正しいと言わざるを得ない。

 ベスビアナイト国の姫君は、姫という身分を隠して生きている。しかも、あんな娘でありながらなかなかよい剣士を連れている。ラースよりもあの娘の方がよっぽどよい人間のように思えた。あんなどこの骨ともわからぬ吟遊詩人を仲間に引き入れているのだ。

 ラースの見る目が良いと言われればそれまでだが、あの娘がこのラース王子に会ったらどんな顔をしてどんな言葉を吐くのだろう。

 グレンからすればそれが少し、楽しみであった。グレンはグレンなりにあの娘のことを気に入っていたのだ。ほとんど、会話を交わしてはいないがどこの誰ともわからない人間を仲間に引き入れるような娘だ。

 確かに戦力が必要なのはわかるが、そこまで焦ってわけのわからない人間を仲間に引き入れるわけがないだろう。つまりは、少なくとも信頼が置ける人間として側に置いているはず。そんな彼女のことをグレンが気になってしまう。


(あの男もなかなかあっぱれな男だ)


 グレンが剣を交えた男のことを思い浮かべる。毒を受けてでも主をあの男は、守ろうとした。たかが吟遊詩人がそこまでしてでも守る主だ。気にならないわけがない。それにあの距離でグレンを射った男――レイヴァンのことも気になっていた。

 ベスビアナイト国が誇る正騎士だとグレンはすぐにわかった。剣だけでなく弓の腕も確かなようだ。実に正面対決する日が楽しみだと思っていた。

 そのとき、ふと冷たい冷気が馬車の開けた窓から降り込んだ。あまりの寒さに身をよじる。確かにかつてはこの国で過ごしていたグレンであったが、国から離れた期間が長すぎた。冬に近づいたこの季節。こんなに寒かっただろうかと思うほどに風は冷たい。こんな中をあの姫君は、旅しているのかと思うと尊敬してしまう。


「おい、寒いぞ」


 ラースにそう言われ半ば仕方なく窓をと閉めた。すると、ラースの悪口が少しはマシになる。けれど、やはり悪口は止まない。そんなに次から次へと悪口が出てくる口が、むしろすごいなと思ってしまうのは自分がすでに毒されているからだろうか、とグレンがふと思う。そんなことを思っている間にどれほど悪口が飛び出したであろう。もうそれを数えるのも飽きてしまった。そんなグレンの心境を知って知らずかなおも何やらぐちぐちと言っている。心の中で思わず、ため息ついた。けれど、ラースの悪口は止まらないし馬車も止まらない。

 ため息混じりに外を眺めれば、凍り付いた空と大地が広がっているだけであった。


***


 さむい、とマリアが思わず零した。

 空は氷のようにどこか薄暗く、大地もどことなく凍り付いているように見える。冬が近づいている。ベスビアナイト国の気候は、朝と夜が寒いが冬になれば話は別だ。日中でもとてつもなく寒くて凍えてしまいそうになる。雪もとてつもなく降り積もり、成人男性の足がすっぽりと収まってしまうほどに降り積もる。しかも、日が沈むのがはやく一般的に夕方と思われる時間にはすでに日が沈んでおり、大体の人はその時間には毛布にくるまるようにしている。そのため、冬はベスビアナイト国に住んでいる人でも早めに夕食を終えて眠るのだ。

 今はまだ雪が降っていないが近いうちに雪が降り積もり、マリアの子どもの足どころか体がすっぽりと雪に埋まってしまいそうだ。そうなる前に次の支城へ赴かなくてはならない。そう考えてレイヴァン達は、やや駆け足だ。

 もちろん、マリアはほぼ城の中で過ごしてきたのでそんなことは知らない。ただ、外はこんなに寒かったんだなあぐらいにしか思っておらず暢気に曇り空を見上げていた。すると、ちらちらと白い物が降り注いできた。

 雪、とマリアが呟けばエリスがマリアに近寄り「珍しいですか」と問いかけた。城の窓から雪を眺めたことがあるため、首を横に振る。ただ、と言葉を紡いだ。


「いつも窓から眺めるだけだったから。でも、外はこんなにも寒かったんだな」


 楽しげにマリアが言えば、エリスの頬が綻ぶ。ただ純粋に言ったマリアが何となく、愛らしく思えたのだ。主とか王族とかそういうもの全て抜きにして、この少女は守ってあげたくなるような衝動に駆られる。男の服を着て王子として確かに育てられてきた少女であるが、やはり中身は可愛らしい娘以外の何者にもエリスは見えなかった。しかも、この少女はどうやら自分の国をよく見たいが為にレイヴァンと旅立つことを決めたという。それを聞いたとき、どんなに勇ましく男らしい少女なのだろうと思ったが、こうして会話していると少女以外の何者にも見えない。


「確かに、言われてみればこの国は寒いですね」


 この国は地理的に北の方にあるため、基本的に寒い。それでも、日中は他の北方にある国に比べれば温かい方のなのだが全体的に見て寒いのは確かだ。夏から秋口までにかけての日中と朝晩の気温差は砂漠のように気温差があるがこれからは日中だろうと寒くなる。寒暖の差が激しくないという点では良いかもしれないが、逆にずっと寒いようでは手足がかじかんで行動力が鈍る。それは、やはり困ったことだ。

 エリスがもうそんな季節か、と呟いて空を見上げた。次の支城へ早く行って暖まりたいなと隣でマリアが微笑みながら言った。それを見てエリスは苦笑いを浮かべる。それから、確かにと頷いた。支城や城へは入ったことが無いため、どんな建物の構造なのか気になっているというのがエリスの本音だ。入ったことのない物に対して夢を抱く自分もまだまだ子どもだなとエリス自身が思って笑ってしまう。幼い頃に読んだ本のようにキラキラした世界では無いだろうけれど、やはり夢を持ってしまう。そこでふと、エリスは口を開いた。


「姫様は、おとぎ話とか好きですか?」


 すると、にっこりと微笑んでマリアが「もちろん」と答えた。それを聞いてエリスの頬が少しばかり紅潮する。


「では、灰かぶり姫シンデレラとか白雪姫とか好きですか」


 ずいぶんとメルヒェンだな、とマリアが呟けばエリスが頬を染めてうつむく。すると、後ろにいたソロモンが笑いながら「エリスはメルヒェンが好きだからな」と答えた。それを聞いてマリアが小さく笑う。


「わたしも好きだぞ? だって、未だに運命の王子様とかあこがれてしまうもの」


 エリスが顔を上げてマリアを見た。栗毛色の瞳を青い瞳が見つめ返して、柔らかく微笑むとマリアの背後を影が差した。そちらへ顔を向けるとギルがおり、マリアが驚いているとギルはマリアの後ろからぎゅうと肩を抱きしめる。


「王子様にあこがれるなんて、姫様もまだまだかわいいですね」


「ギルっ……」


 マリアが驚いてそう声を上げれば、ギルの背後で黒いオーラをまとわせたレイヴァンが怒りをあらわにして立っていて、手の指が剣の柄にかけられていた。マリアはというと、レイヴァンには気づかず恥ずかしそうに頬を染めていた。

 エリスは、うっすらと汗をうかべて「どうしましょう」とソロモンに問いかける。すると、ソロモンは可笑しそうにくつくつと笑いながら「しばらく様子を見よう」と言ったのだった。

 ソロモンとのつきあいの長いエリスであったが、彼がそこまで何が楽しいのかわからなくて首を傾げた。その様子を後ろからクレアは眺めてレジーに話し掛ける。


「ギルってば、レイヴァンに恨まれるの覚悟であんなことしてどうするつもりなのかしら」


「さあ。ただギルがやろうとしていることはなんとなくわかる」


「ええ!? わかるの? あなた飄々としているようで人のことちゃんと見ているのね」


 驚いたようにクレアが言えばレジーは、なんてことないように「まあ」と答えた。ギルがどうしようとしているのかとクレアが、問いかければレジーが困ったように言いよどむ。それから、ちらりとギルの方を見た。すると、ギルは「言うな」とでも言いたげにレジーを睨んでいた。視線を受けてレジーは、ごくりと唾を飲み込むと。


「やっぱり、わからない」


「どっちよ!?」


 レジーの下手くそな嘘の付き方にギルは、嘆息しかけたがクレアはちっとも疑う様子が無いようなので良しとする。それよりも、自分の背に殺気を飛ばしてくる騎士の方が重傷だ。そこまで主のことを思っているのならば、さっさと告白して恋人でも夫婦でも何でもなればいいものを。なのに、この騎士と来たら気に入らなければ殺気を飛ばしたりにらみ付けたりするばかりで具体的な行動はこれといって起こしていない。剣を抜いたことはあったが、マリアに対してこれといった行動は起こしていないようだし、ギルは見たことがない。

 レイヴァンの彼女に対する執着と過保護っぷりは、すでに主従を超えている。おそらく、昔からなのだろう。なのに行動を起こさないのは彼女の出自上なのか、もっと別の所に理由があるのか。そこまで頭を巡らせていると、マリアがたじろいだ。恥ずかしそうにモジモジしているのだ。思わず可愛いと思ってしまう自分がいて、自分はどんだけ女性に対してフランクなのだろうとギルは思う。けれど、レイヴァンの嫉妬がとにかくおっかない。それを知っていてマリアに手を出す自分も大概だなと呆れてしまうけれど。


「なあ、ギル」


 腕の中にいるマリアに話し掛けられて、思わずぎくりとする。話し掛けられると思わなかったのだ。けれど、すぐにいつもどおりの調子でどうかしましたかと問いかけた。すると、マリアが真剣なまなざしでギルに問いかける。


「ギルは、どうしてわたしについてきてくれたのだ」


 え、と思わず呆然と言葉を発する。自分で驚くほどに間抜けな声が漏れて口を噤んだ。それから、少し考えて後ろにいるレイヴァンにも聞こえるような大きな声で言った。


「決まっているじゃないですか、あなたが可愛い人だからですよ」


 今度はマリアが呆然としてギルを見つめる。その視線を受けてギルが今まで見たこと無いくらい優しいまなざしをマリアに向けた。今までのヘラヘラしたお調子者の声じゃない、真剣で熱がこもった声だった。


「あなたが主でよかった」


 それだけマリアの耳元で囁くと体を離して前を進んでゆく。その背中をマリアは呆然と見つめていた。そんなマリアのとなりにレイヴァンが来ていかがなさいましたか、と問いかける。


「いや、少し勇気がわいてきた」


 告げてマリアが凛と煌めく視線をどこかへ向ける。まるでその瞳に遠い未来を映しているかのようであった。その姿を見つめてレイヴァンが言葉を失う。呆然と勇ましいマリアの姿を見つめていたレイヴァンであったがふと我に返る。


「マリア様、あの男になんと言われたか存じませんが俺はいつでもあなた様の味方ですから」


 マリアが花を咲かせるようにパッと輝く笑顔をレイヴァンに向けた。それから、あたたかく響く声で「ありがとう」と答えた。レイヴァンがわずかに微笑む。

 かと思えば片眉をつり上げて尚も近くで、と笑っているソロモンに詰め寄った。


「お前は、いつまで笑っているんだよ」


 けれど、ソロモンは腹を抱えて笑っている。レイヴァンは怒っているもののどことなく表情は軟らかい。やはり、旧友と言うだけあって仲はよいようだ。

 それはおいておいて、とソロモンは呟くとマリアに視線を移す。それから、今度は意地の悪い笑みを浮かべて見せた。


「姫君、あなたはこれからどうしますか」


「どうするって、それは旅を続けて――」


「言い方を変えます。いつになったら、挙兵し国を取り戻しに向かわれるのですか」


 問われてはっとする。そうだ、旅が楽しくてすっかり忘れてしまいそうになっていたが、自分は城を追われ何とかレイヴァンと合流しこうして生きている。いつまでも、旅をするわけにはいかない。それは分かり切っていたことだったのに、もっと旅をして自分の国を見たいという願望ばかりを持っていた。

 国は早く取り戻したい。けれど、どうすればよいのだろう。まだ幼いのだから、なんてことはすまされないことはわかっていたつもりであった。だが、自分は結局甘えていたのだ。まだ自分は幼いと、自分には何も出来ないと。それはただの甘えでしかなかったのだ。ソロモンに言われて気づかされて、どうすればいいのかわからなくなってうつむいた。


「姫様、わたくしはコーラル国が愚かだといいました。それがなぜだかおわかりですよね」


「城攻めというのは、やむなく用いる最後の手段」


 こくりと頷いてソロモンは、よくできましたと言ってマリアを少しだけほめて本題へと入っていた。ソロモンが言うには、「戦わずして勝つ」ことが一番良い。だが、コーラル国は武力で訴えてきた。


「ベスビアナイト国が、コーラル国の手に引っかかったのはなぜだと思われますか」


 マリアが小さく息を漏らして顔を歪ませる。どうしてなのか、わからなくて困っているようだった。すると、ソロモンは人差し指を立てた。


「ひとつ、ベスビアナイト国はかつての参謀の知略によって守られておりましたがそれが逆手に取られたこと。ふたつめ、勝利の目算を甘んじたこと」


 マリアがオウム返しに呟いて首を傾げた。ソロモンは、無知であるマリアに少しずつ説いて聞かせた。かつての参謀、つまりソロモンの目上の人間に当たる人が良くも悪くも知略に長ける人間であった。それゆえに、国王からの信頼も厚く彼を悪く言う者もいなかったという。だが、彼は常に孤独で一人でいることが多かったらしい。


「ま、昔話もほどほどにいたしましょう。そんな彼が行った戦略は、支城を建てて周辺諸国の状況を見て基本的に防衛に力を入れて向こうが仕掛けてきたら『敵のくずれを待つ』という策略の下、勝利して参りました」


 けれど、彼が参謀を降りてからは新たに参謀につく者もおらずただ防衛ばかりに力を注いで参りました。それで何が起こったかわかりますか、と問われて「え」とマリアが声を漏らして考え込む。それから、「裏をかかれたということなのか」と呟けばソロモンが頷いて見せた。それから、「ただ」と続ける。


「陛下はスパイが紛れ込んでいることに気づかなかった。そのため、スパイの口車にまんまと乗せられたのでしょう。『今まで通り守りを固めて相手の隙を見て攻撃に転じましょう』と言われて」


 そんなことがわかるのか、とマリアが問えばソロモンが頷く。陛下は部下を皆、信頼してしまうほどお人好しですからと答えて笑う。そのあとにそこが臣下に慕われるゆえんでもありますが、と紡いだ。


「ですが、それが今回は仇となってしまった。確かに、今まではそれで確かに勝つことが出来ました。ですが、コーラル国はベスビアナイト国にわざと隙を見せて攻撃に転じさせた。だが、そのときすでにコーラル国は準備を進めておりベスビアナイト国より先に戦場へ赴き相手を迎え撃った。そのため、戦場では多くの仲間の命が失われることとなった。また城門がいくら強くとも中にいる仲間が開けてしまえばなんら意味を持たない」


 つまり、今までのベスビアナイト国が行ってきた戦略がまんまと破られてしまったとソロモンが言った。戦略というものは時に応じて変えなければならない。それはマリアも本を読んで知っていた。しかも、ソロモンがマリアに会ったときに言った言葉。『できるのにできない』と見せかける。それが、戦略において大切であると。ベスビアナイト国は、それにまんまと引っかかったのだと思わざるを得なかった。隙があると見せかけて実は隙なんて無かったのだ。コーラル国の策略にも感嘆の息を漏らさずにはいられなかった。

  実に基本的なことではあるが、それによってベスビアナイト国が落とされたのは確かな事実なのだ。


「そうか、だから城へも易々と入って来れたのだな」


「はい。わたくしもはじめは、城攻めを行うなどなんと愚かなことをコーラル国はするのだろうと思いました。ですが、姫様やレイヴァンの話を聞いて納得いたしました。彼らはこのような知略を持ってして我が国を貶めたのだと」


 マリアが小さく頷いてぎゅと手を握り締める。凍えた指先が赤くなっていた。実は随分と冷えていたらしい。思わず手をさすっているとその手をエリスが握り込んだ。暖かな体温が手を伝う。


「エリス?」


「寒そうにしていらしたから。それに、何だか泣いているように見えまして」


 そんな顔していただろうか、と思わず呟いてエリスの茶色の瞳をのぞき込めば、そこには今にも泣き出しそうな自分の顔が映り込んでいたのだ。ああ、と感嘆にも似た声を漏らして目を細めた。


「すまない、エリス。どうやら心配をかけてしまって、けど大丈夫だから。わたしは、元気だから」


 その声に胸を打たれてエリスが、ぎゅうと手を握る。困ったようすでマリアがうろたえると、エリスが青い瞳を真っ直ぐに見つめた。


「あなたは甘やかに育てられてきた姫君なのでしょう? なのに、どうして甘えてくださらないのですか。つらいときは、つらいとはっきり仰ってください。あなたを真綿にくるむように守ることは出来ないかもしれませんが、せめて弱音くらい聞かせてください」


 マリアの瞳が嬉しげに綻んだ。けれど、すぐに凛とした瞳をエリスへ向けた。それは、一つの決意を胸に固めたようで戦士のように前を見据えて言った。


「ありがとう、エリス。だけど、わたしは今まで散々甘えてきたのだ。もうその時期も終わりだ。お前の気持ちは嬉しい。だけど、甘えるのはもう止めると決めたんだ」


 マリアの言葉に鋭い視線に何も言えなくなってしまう。すると、ソロモンがマリアに「では、これからどうしますか」と同じ問いかけを繰り返した。その言葉に凛とした瞳で頷き答えを出した。


「とりあえず、次の支城へ向かう。挙兵は戦力が集まり次第、行おうと思う。それから、エイドスで頼んでいる武器類も整い次第」


 了解いたしました、とソロモンが恭しく頭を垂れた。

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