第九章 神なる水の唄

 昼間とは裏腹に、夜は気温がぐんとさがるこの気候。マリアが過ごしていた城は、夜は温かく昼間は涼しいというよく気候を考慮を建物の造りになっている。しかし、民間人はそうもいかず、夜は凍えないように皆で固まってじっと朝を待つものであった。逆にコーラル国は常に暑いため、ベスビアナイト国のような夜にぐんと気温が下がる気候には慣れていないきらいがある。ゆえにコーラル国から来た兵士達は、夜は出歩かないようにしていた。ただ一人、男を除いては。

 男は、乗っ取ったベスビアナイト国の王都ベスビアスにある王城の中を歩いていた。かつかつと、足音を響かせつつ歩いていると背後から声をかけられる。


「おや、将軍殿。こんな時間にいかがなされた。それにこんなに寒いと何も出来ないでしょうに」


 声をかけた男の声はしわがれており、歩いていた男より随分と年配のようだ。けれど、男は王族であるかのような上からの物言いで言葉を紡ぎ出した。


「ここは俺の故郷だ、何も案ずることはない。この気候も慣れたものだ」


 男が言えば、しわがれ声の人物は、悲しげに目を伏せる。


「それよりも、あの王子はまだ見あたらぬのか」


「何でもこの国一の騎士が王子と共にいるとかで」


「ほう、その騎士とやり合ってみたいものだな。俺は玻璃国の将軍で国随一の戦士だ。実に会ってみたい」


 男の言葉にしわがれ声の主は返さない。しかし、男は気にした様子もなく国を追放された俺をお主が育ててくれたことは感謝していると謝辞を述べる。そう言った男にしわがれ声の主は期待を込めた目で男を見つめた。その期待の意味が男には手に取るように分かる。だが、男はその期待を答えることが出来ないと首を横に振った。しわがれ声の主は落胆と共に顔を伏せる。


「だが、復讐はやめぬ。わざわざ、コーラル国と手を組み、ここまで来たのだ。もう後戻りは出来ない。だが、せめてお前には俺の最期を見届けて欲しい」


 しわがれた声で何か言葉を紡ごうとして、止めた。男の意志がそれほどまでも強いということが分かったからである。少しでも期待して良いだろうかと男に「あなたの復讐は終えるのですか?」と問いかければ男の答えはやはり思っていたものであった。


「この国の王を殺し、その子をも手にかければ。だが、どうだ。国王もどこにいるのかわからぬ。こんな状態で果たして、復讐など出来るのであろうか」


 としわがれた声が名を呼んだ。グレンと呼ばれた男は、声の方を向き小さく笑って見せた後に「あれはどうなったか」と問いかける。合点がいかずしわがれ声がオウム返しに呟かれれば、王子を追跡していった部隊だと言い換えた。ようやく合点がいき、ああと頷く。


「確か奇襲をかけ、逆にやられてしまったとか」


 使えないやつらだ、グレンが吐き捨てるとしわがれ声の男に背を向けて歩き出すその背に向かってどうなさるのですかと問いかければ、どうするも何も向こうの様子を伺うまでだと答える。そして、こうも付け加えた。


「それにクリフォードのこともあるしな」


 正騎士長様がどうかなされたのですか、としわがれ声が問いかければグレンは足をピタリと止める。


「あいつは、おそらく俺がこの国を追われた本当の理由を知っている」


 驚いてしわがれ声がオウム返しに呟く。すると、グレンは頷いた。


「クリフォードはここに何年も勤めている。たしかにあいつは、コーラル国の間者スパイであったが、数年ほど前から連絡を怠っていた。おそらく、この国に情がわいたのであろう」


「そうなのですか」


「ああ」


「そういえば、王子が実は女の子であったなど、どこでお知りになったのですか? クリフォードは、王子が産まれたときすでにこの国に情がわき連絡を怠っていたのでしょう?」


「コーラル国の第一王子が、随分心酔していてな。それで調べて分かったんだ。この国の王子が実はお姫様だって事がな。産まれたときの出生届が女になっていた」


 あとで男に書き直しているということがわかったしとも続けた後、グレンは歩き出す。


「そろそろ、行く。あまりもたもたもしていられないからな」

 

 グレンの大きくも広い背は、闇の中へと消えていった。


***


 日が開けると、レイヴァンは元気になり早速、旅を再開しようといったがヘルメスが「休まないと駄目」といったのでまだこの街にとどまることになった。昨日、マリアが看病していたので今度は、ヘルメスが看病をすることとなった。マリアも街をみてくるといい、とヘルメスが言ったので、マリアはレイヴァンのことが気になりつつも宿の外へ出た。久しぶりに外へ出た感覚にマリアが思わずぐっと伸びをする。


「外はいいなあ」


「ええ、そうですね」


 答えてレジーは、はっとする。風が何やら騒がしくざわめいていたのだ。


「レジー、どうしたの?」


「いえ、風がなんだか騒がしくて」


 マリアは思わず耳を澄ませる。けれど、やはりと言うべきか何も聞こえない。そんなマリアを見てレジーが思わず笑みを零す。

 マリアには聞こえないよ、とレジーが言うとマリアはレジーを見上げ少し悔しそうに頬をふくらませた。


「お前には聞こえているのにわたしには、聞こえないなんて不公平だ」


 マリアがあまりに子供じみたことをいうものだから、レジーはやはり小さく微笑んだ。マリアはレジーがどこか好きな店へ行ってかまいません、と言えば文字通り飛び上がって喜んで古本屋へと足を運んだ。かび臭い匂いの付く店内は、どこか古くさい。けれど、風情があり良い店であった。まるでその店だけが世界が違うかのようでマリアもこの雰囲気を気に入り、本を読みふける事にした。

 久しぶりにマリアが手を伸ばした本は、物語ではあるがベスビアナイト国で人気の冒険小説。それをマリアは愛読してはいたが、最新刊だけが手元にありそれ以前の本を読もうにも読むことが出来なかったため、こうして古本屋で読むことにした。

 ページをめくる音だけが店内に響く。その音も心地よくマリアは、すっかり物語に引き込まれていった。

 時刻が夕刻に迫ったところでレジーが読んでいた本を閉じて本棚に戻しマリアに声をかける。


「マリア、そろそろ」


「あ、いけない。もうこんな時間か」


 言ってマリアは、主人公が次の街へ着いたところで本を閉じた。そして、本棚へ戻すとレジーと共に店をあとにする。


「なあ、レジー。また明日も来てもいいか」


 マリアがといかければレジーも頷く。


「はい、かまいませんよ。オレもさっき読み始めた本の続きが気になっているんですよ」


「レジー、本が好きなのか」


「あまり読まない方なのですが、本というのもいいですね」


「いいだろう! わたしは、とっても好きだ。わたしは冒険小説が好きなのだが、親を捜す旅に出た主人公が実は王族でそれも悪い魔法使いに誘拐されて――」


 頬を赤く染めてマリアが好きな本について語り出せば、レジーは何も言わずじっと黙っていた。


「それで、そのとき主人公は……って、ごめん。わたしばかりがしゃべっているな」


 すとん、とマリアが肩を落とすとレジーはふわりと微笑む。


「いいえ、かまいませんよ。それにマリアがそんなに楽しいと思うのならオレも読んでみようかな」


「ああ! ぜひ、読んでみてくれ。とっても、面白いんだ。冒険小説だから、仲間との絆も見物だな」


「マリアはその本の中で好きなキャラクターとかいらっしゃるんですか」


 マリアは、と声を漏らして少し悩む。


「大体のキャラクターが好きなんだけど、主人公の為に我が身を投げ打ってでも助けようとするキャラクターが好きだ。主人公の危機ピンチに駆けつけて主人公のために命をはる彼が好きだ」


 好き、という言葉にレジーが過剰に反応してしまう。


(我が身を投げ打ってでも、か。まるでレイヴァンのようだな。マリアは気づいていないんだろうが、キャラクターのことだと聞かなければ、レイヴァンのことを好きだと言っているみたいだ)


 そのとき、マリアはある人とぶつかってしまう。


「ごめんなさい」


 マリアがとっさに謝れば、相手は「いえ、こちらこそ」と謝ってマリアをじっと見下ろした。その人物は中性的な顔立ちをしている。黒い髪に黒い瞳。この辺りでは珍しい黒い色だ。レイヴァンのように黒曜石ではない黒。服装からして旅をしてここまで来たのだろう。だが、その旅支度した物がマリア達とは異なっていた。マリアが城で見たことのある、とある国の国花・蓮。それが刺繍された小綺麗な外套を着ている。その国でそこそこ身分のある階級であろう。

 すると、今度はその人物に男が駆け寄ってきた。駆け寄ってきた男もまた黒い髪に黒い瞳。この国では、あまり見ない黒。


「どうした?」


「いや、この者とぶつかってしまってな」


 マリアの頭の中が軽くパニックを起こして真っ直ぐ二人を見ていられない。それほどまでも、くらくらとしていた。レジーはレジーで、眉を潜めていた。

 男が胸元にしているのは、星を象ったメダル。それにもマリアには見覚えがあった。国を追われたあの日、あのとき兵がしていたものであった。


(コーラル国の――)


 だが、この二人は自分の顔を知らなかったようで襲ってこない。それどころか、二人で何やら会話している。変に警戒するよりも普通に会話をしてこの場をやり過ごした方が良さそうだ。レジーもマリアと同じ考えに至ったのか潜めていた眉を、今は解いている。


「すみません、前方不注意で」


 マリアが改めて謝れば二人は、話を止めてマリアを見る。そして、ぶつかってしまった方の人が申し訳なさそうにきれいなベスビアナイト国の言葉で言った。


「いいえ、こちらこそ。すみません」


「それでは、失礼します」


 マリアはぺこり、と頭を下げて歩き出そうとした刹那。少し遠くから子ども泣き声のような物が聞こえてくる。そちらの方へ目をやるとそこには、コーラル国の兵が小さな子どもに乱暴していた。子どもは小さな体を震わせて薄いボロボロの布地が血で滲んでいた。近くに親らしい人物もおらず、誰も泣き叫んでいる子どもを庇うことも助けてやろうともしない。誰も彼もが遠巻きにその様子を見ているのだ。母親は、足早にその場を離れ、自分の子どもまでも巻き込まれないようにと家の中へ連れ込んでドアや窓を固く閉ざし始めた。なぜ、誰も助けにいかないのだという疑問がマリアの頭をもたげたがそれよりも早く子どもと兵の間に割り込んだ。


「止めろ!」


 マリアは叫びレジーの制止も聞かないで、飛び出すと子どもを守るように覆い被さる。兵はかまわずマリアに乱暴を加え始めた。マリアの仕立ての良い服に兵の汚い靴の底がついて茶色く染められる。それと共にマリアの背中に痛みが走る。歯を食いしばってそれを耐えていた。とめどなく、痛みが走る。


「ええい、このっ!」


 レジーが思わず弓をかまえれば、それよりも早く風のように何かがレジーの脇をすり抜ける。そしてそれは、マリアと兵の間に割り込めば、重量のある風が吹き抜けた。その風にも見えた剣先は、寸分の違い無くコーラル国の兵を切り裂いていた。

 驚いてマリアが顔を上げる。するとそこには、宿で休んでいたはずのレイヴァンがいた。


「大丈夫ですか」


 レイヴァンが問いかければマリアは、涙をぽろぽろと零してレイヴァンに抱きつく。そんなマリアの背に手を回しレイヴァンが撫でてやればマリアもほっとして涙が止まる。


「あなた様が無事で良かった」


「大丈夫なのか。今日は安静にするようにって」


「ああ、すみません」


 レイヴァンが謝れば、後から来ていたヘルメスが呆れたように息を吐き出す。そして、「小説に出てくる王子様かよ」とヘルメスが思わず突っ込めば、マリアも乾いた笑みを浮かべた。マリアに庇われていた少年は固まっていたが、はっとした表情になって小さく「ありがとう」と言った。


「いや、かまわないよ。君が無事なら、それでいい」


 少年はもう一度、頭を下げると駆けていった。そんな少年を見送っていると、先ほどのぶつかった人がレイヴァンを見て呟く。


「風のような剣裁き、まさか。彼がレイヴァン?」


 マリアが思わずハッとする。それから、声のする方へ顔を向けた。


「お会いしたかったよ。ベスビアナイト国の正騎士、レイヴァン。そして、そこにいるのは王子ね」


 レイヴァンの瞳が二人を見据える。そして、行儀良く頭を下げた。それだけでも、高貴な身分であることがわかる。


「初めまして、わたくしコーラル国の第一王子の臣下をしております。ジョードと申します」


 すると、もう一人の男はニヤリと不敵な笑みを浮かべる。


「オレはクリシュナ。コーラル国の騎士だ」


 そうなまりのあるベスビアナイト国の言葉で言った、と思ったらレイヴァンに向けて剣を振り下ろす。その剣をレイヴァンは、いとも容易く受け止めた。


「やはり、この程度じゃ駄目か」


 焦燥しているマリアにレジーが合図を出してこちらへ来るように促す。マリアは慌てつつも何とかレジーとヘルメスの元へ来た。それを確認すると、レイヴァンはその剣を力で押し切る。剣がキンと音を立てた。


「一度、やり合ってみたかったんですよ。正騎士レイヴァン。剣裁きは疾風が如く、鋭い眼光は獅子が如く。噂というものはあてにならないと聞くが、あんたのそれは本当のようだ」


 言ってクリシュナと名乗った男は、またレイヴァンに剣を振り下ろす。レイヴァンは、軽く受け流すとクリシュナの脇腹に剣を突き立てようとしたが、クリシュナは外套の下に隠してあったもう一振りの剣で受け止める。

 驚いてレイヴァンの目が一瞬開かれたが、それもすぐに鋭い眼光へと変わりクリシュナから距離を取った。


(街中でなければ、もっと動けるが)


 しかし、そうもいかない。すると、視界の端にレジーがクリシュナの背に向けて矢を放とうと弓をかまえている。しかし、誤って住民をケガさせるわけにはいかないからか矢を放つのをためらっているかのようだ。その隣では、マリアがハラハラと状況を見ている。

 気がつけば自分の息が上がっている。普段ならば、この程度で息が上がることはないだろう。だが、今は自分は負傷中。こんなに自分が情けないと思ったのはいつぶりか。ふとヘルメスの方を見ればカバンの中を何やらあさっている。もしかすると、何か役立つアイテムを探しているのかもしれない。マリアではないが、本当に彼のカバンの中には何が入っているのか未知数だ。

 しばらく、二人のにらみ合いが続く。すると、クリシュナはレイヴァンに向けて剣を振り回す。その剣を避けつつレイヴァンは、考えを巡らせる。


(普段の俺なら、こいつを住民に被害もなくやれる自信がある。だが今は、どう考えてもこちらの分が悪すぎる)


 レイヴァンが奥歯を噛みしめる。そのとき、「きゃあ」とジョードが声を上げた。その声に驚いてレイヴァンとクリシュナは、そちらの方へ視線を向ける。すると、そこには何やら怪しげな色の液体が揺れている瓶をジョードにかけようとするヘルメスがいた。


「これ以上、暴れるのはやめてもらおうか」


 ヘルメスはジョードを人質にしてそれを交渉の材料にするようだ。そんなうまくいくはずがないと、レイヴァンが思っていると驚くべき事にクリシュナは、剣で思いっきりレイヴァンを突き飛ばすと背を向けて駆けだしたのだ。たちまち、ヘルメスが不敵な笑みを浮かべる。レイヴァンは、この好機を逃がさないようにクリシュナの背を斬りつけた。


「ぐあっ!」


 すると、どこから現れたのか大勢のコーラル国の兵が現れる。兵達は、レイヴァンやマリア達を取り囲むが一向に手を出せない。人質がいるからかもしれない。ジョードは涙をぽろぽろと零しながら、がたがたと震えていた。クリシュナは地面につっぷつし何とか立ち上がろうとするものの傷が痛むのか立ち上がれずにいる。そんな状況の中、ジョードは何か意志を固めたようでヘルメスの手にかぶりつく。

 たちまち、瓶が地面へ落ちて中の液体が零れだした。その液体が地面へ広がる。ヘルメスから解放されるとジョードは落ちていたクリシュナの剣を取り、マリア達に剣を向けた。その手は、震えている。すると、クリシュナが力を振り絞って立ち上がりジョードの手を取る。


「あんたは剣なんて握らなくていい。これは、オレの仕事だ」


「でも、クリシュナ」


 二人の会話にマリアは、思わず自分とレイヴァンを重ねてしまう。


(彼らは敵だけれど、彼らにもちゃんと家族や友達がいて。それを守るためにみんな、必死なんだ。敵だとしても、そこにはちゃんと人間らしい営みがあって。けれど、わたしだって譲れないんだ)


 マリアは確かな覚悟を決めて顔を上げる。青い瞳は、凛として前を見据えていた。瞳に吸い込まれるようにジョードは見つめる。


「わたしだって、譲れない」


 マリアの薄紅色の唇から紡ぎ出された言葉にジョードは、息を飲んだ。コーラル国の兵も皆がマリアを見つめていた。マリアもまた彼らを凛とした瞳で見つめ返す。兵がわずかに後ずさった。


「これが、ベスビアナイト国の王子」


 震える声で兵士の一人が言った。マリアの瞳は、けれど揺るがぬ太陽のように前を見据えている。決して怖じ気づくことなく、打ち抜くかのように兵達を見ている。

 静寂が辺りに染み渡る。やがて、マリアの唇から凛とした言葉が発せられた。


「この場から立ち去れ」


 その声にすら物怖じしそうであったが、兵の一人がマリアに斬りかかった。


「ふざけるなあ!」


 これを筆頭に、次から次へとマリア達に襲いかかる。今のレイヴァンやレジーに太刀打ちできる人数ではないのは明白だ。だが、この娘の気迫から兵達はすでに自信という物を挫いていた。それにより、いくらかレイヴァンの動きが遅くとも太刀打ちが出来た。

 レイヴァンが剣を一振りすれば、たちまち兵の数十が地面に倒れ込んだ。けれど、さすがにレイヴァンにも疲労があり視界が少しかすむ。

 倒れ込みそうになったレイヴァンをマリアが支えているとまだ生きていた兵が二人に斬りかかろうとする。刹那、風を切り裂く音が耳に届いた。と思ったら、兵が声を上げて地面へ倒れ込む。矢が来た方に目を向ければ、そこには洋琵琶リュートを背負った男が立っていた。

 無言のままマリアが固まっていると男は、弓をしまい込みながらマリアを守るように立つ。そして、剣を引き抜き舌なめずりした。


「やれやれ、この程度でへばるなよ」


 口跡をつむいだと思ったら、残りの兵が男の持っていた剣の餌食にされる。剣が稲妻のように空を斬り兵士達を地面へ倒れ込ませた。それは実に一瞬で呆然と見ていたジョードであったが、はっとした表情になりクリシュナを連れてそっと場を離れた。残されたのは、マリアとレイヴァン、それからレジーにヘルメス。そして、危機を救った男だけであった。

 マリアは周囲に危険が無いことを確認するとレイヴァンの名を呼んだ。ヘルメスはレイヴァンに近寄り、体の状態を見る。そして、レイヴァンを抱えると宿へ連れて行った。そこでようやく、男は口を開く。


「俺は〈水の眷属〉の守人、ギルだ。あんたが、ねえ」


 ギルと名乗った男はマリアを見てしみじみと呟く。


「主が女だとは思わなかったけど。まさか、こんな餓鬼がきとは。女ならせめて、美女が良かったなあ」


 ギルのいきなりの言葉にマリアは驚いて、言葉を失ってしまう。そして、乾いた笑みを浮かべた。


「すまぬ」


「けど、まあ。あと数年すれば何とか」


 そんなことを言うギルに怒りを覚えてレイヴァンが、動いてはいけないというのにベッドから起きて抜刀する。


「貴様、さっきからきいてれば」


「レイヴァン、剣しまって!」


 マリアが慌てて止めればレイヴァンは、しぶしぶといった調子でベッドの上に横になった。すると、いくらかましなのか顔の血色が少しよくなる。マリアが布団を掛けてやればレイヴァンも素直に眠ることにした。


「申し訳ございません、あなた様をお守りしなくてはならないのに」


「いいの。それよりも、わたしはレイヴァンが無茶ばかりするから心配でたまらないんだから」


 マリアの心配そうな表情が黒曜石の瞳に映り込む。確かにそこにいるのは、一国の王子でもお姫様でもなく、幼い少女以外の何者でもなかった。

 王女の名を呼ぶとレイヴァンの意識は次第に薄れ、闇の中へと落ちていった。そんなレイヴァンの手をマリアが握り締める。その様子を見てギルが思わず……


「夫婦か」


「ふ、夫婦じゃないよ!」


 ギルのつっこみにすぐさまマリアが反応してそう返した。けれど、ギルには夫婦に見えたようだ。


「俺には夫婦以外の何者にも見えぬ。それに、その騎士の年でお姫様ぐらいの妻がいても別におかしくはない」


「だが、レイヴァンには好いている者がいると言った。わたしではないよ」


 けれど、ギルは何か気になるかのように顎に手を当てる。


「へえ、じゃあ。姫様を俺がもらってもいいのかな」


「どうして、そうなる!? 第一、わたしは表向き王子なんだぞ」


「よいではないか、よいではないか~」


「なにがよいのか、さっぱりわからない!」


 ギルとマリアの会話を聞いてレジーとヘルメスは、先が思いやられる気がした。



 翌日、レイヴァンの体力が回復した。ヘルメスは驚異的な回復力に驚いていたがレイヴァンはそれを別段、気にした様子もなく。


「おい、ギル。貴様、俺が見ていないところでマリア様に何を」


「ええ~、別になあにもしてないですよぉ」


「嘘をつけ、マリア様がこんなに思い悩まれて」


 マリアは朝焼けの空を眺めていただけであったが、レイヴァンには思い悩んでいるように見えたようだった。


「マリア、どうかした」


 レジーがマリアに声をかける。すると、マリアは薄い金の髪を風になびかせながら答える。


「ああ、本の続きを読みたかったなあと思って」


 マリアの一言で、レイヴァンが固まってしまう。


「それだけですか?」


「ああ。何かまずかったのか」


「いいえ! とんでもございません」


 レイヴァンが慌てて取り繕うようにマリアに言った。マリアは首を傾げるばかりで状況が分かっていないらしい。そんなマリアの肩にギルが手を回す。


「なあんでも、無いんですよ、お姫様。レイヴァンは一人で勝手に勘違いしていただけなのですから」


 レイヴァンは、肩を震わせたと思ったら剣を引き抜く。


「きさまァ」


「おお、恐い恐い」


 なんてこと無いようにギルが言う。けれど、マリアからすればあまり仲間同士で争って欲しくはない。


「だめだよ」


 マリアの一言にレイヴァンは、しぶしぶと引き下がる。そうして、マリア達は宿をあとにして街を旅立った。


「ギルは洋琵琶リュートが弾けるのか?」


 歩きながらマリアが問いかける。


「ええ、これでも俺は吟遊詩人ですから。しかも、吟遊詩人とはよくモテる」


 言われてマリアはギルの容姿をまじまじと見てしまう。確かに、世の女性達を虜にしてしまいそうなほど良い体のつくりをしている。少しばかり高い鼻筋にきれいな輪郭。レイヴァンに比べれば体の線が細いが、むしろ女性に表立って黄色い声を上げられそうな容姿である。レイヴァンの容姿が女性達から裏で好かれそうな容姿であるから、それとは真逆であろう。ギルの言葉通りと言わざるをえなかった。


「確かに、ギルはかっこいいもんね」


 マリアが何気なく言えば、後ろにいたレイヴァンが不機嫌になったのは言うまでもない。レイヴァンの静かな殺気にあてがわれギルの顔が青ざめ、背筋に冷たい氷のような何かが這った。


「ギル?」


 マリアは、レイヴァンの様子に気づいていないようで首を傾げる。ギルは慣れているはずの愛想笑いすらも引きつっていた。


「い、いいえ~、なんでもございませんよ」


 マリアは気になりつつも特に言及したりはしなかった。


(やれやれ、騎士殿の独占欲には困ったものだ。だが、これが主か。まったく、どんな猛者かと思えばまだ幼い少女ではないか。子どものお守りなんて性に合わない。けれど、もう少しこの少女に付き合うのも悪くない)


 ギルがそんなことを考えていればレジーは、やはり無表情でギルを見る。レジーの瞳がふと青い空を映し込んだ。青い空には、鳥ばかりが舞うだけで何もないが、レジーには何か聞こえていたのかもしれない。


「なあ、ギル。唄を聞かせてはくれないか?」


 マリアがお願いすれば、ギルも悪い気はしないのか「はい」と答える。


「では、お昼に聞かせて差し上げますよ」


「ありがとう、ギル!」


 マリアは頬を紅潮させて軽い足取りで前を歩き出す。それほどまでも、楽しみのようだ。それを見てギルもやはり悪い気はしない。思わず頬を緩ませると後ろにいたレイヴァンがギルの隣まできた。


「お前は何で付いてきたんだ? レジーから聞いたぞ。いにしえの盟約に何か縛られたくないと言っていたと」


「ふん、俺はいつだって自分が赴くままに進んでいるんだ。まだ幼い少女を見殺しにするような冷酷さは持ち合わせてないよ」


 凛とした瞳でギルがレイヴァンを見つめる。


「それにマリアは、数年後に絶対美少女になるね。この俺が言うんだから間違いない」


 レイヴァンが、明らかに不機嫌な雰囲気を醸し出して顔を歪める。そんな様子を見て小さく笑う。


「そんなに他の男に近づかれるのが嫌なら、さっさと自分の物にすればいいのに」


「そういうわけにもいかないだろう。第一、マリア様はこの国の王子だ」


「ふうん、俺は別にかまわないけど。他の男に横取りされても知らないよ? 例えば、俺とか」


 刹那、レイヴァンがギルを裸締めした。たちまちギルの脳に酸素が行かなくなり、苦しげな息が唇から漏れる。声に驚いてマリアが振り返って、二人に駆け寄った。マリアが焦った調子で、レイヴァンに「止めて」と言えばするりと離した。ギルは大きく咳き込んで首をさする。


「げほ、げほっ」


「大丈夫?」


 マリアが心配そうに顔をのぞき込めば、ギルは慌てて体勢を立て直す。


「ええ、大丈夫ですよ。俺はあなた様のためとあらば何度でも立ち上がって見せますよ」


「たくましいな」


 素直にマリアが言えば、ギルはやはり調子に乗って髪の毛をかき上げる。ふぁさ、と前髪が揺れた。


「ふふふ、そうでしょう。そうでしょう! 姫様はよくわかっていらっしゃる」


「そうかな?」


 マリアはわずかにのけぞりつつ答える。けれど、ギルはそれに気づいていないのかマリアに歩み寄り肩に手を回した。


「姫様、こんな男より俺の方が頼りになりますぞ」


 ギルの言葉にレイヴァンがわずかに眉根を寄せる。


「確かにお前のことも頼りにしている。なにより、わたし達はあまりに数が少なすぎるんだ。一刻も早く、国を取り戻したい。そのことに協力してはくれないか」


 マリアの言葉にギルは、わずかに息を飲んだ。青い瞳が真っ直ぐにこちらを見据えているものだから、ギルはわずかに目を張る。それも一瞬で、すぐにいつもの調子を取り戻して言辞を紡いだ。


「ええ、もちろんですとも。微力ながらも、あなた様に尽くさせていただきます」


「ありがとう。わたしは皆の足を引っ張らぬよう強くならなくてはならないな」


 ギルがにわか息を詰めたけれど、なんてことないように口跡を紡いでいく。


「姫様は向上心があって良いですなあ、どこかの騎士とは大違いだ」


 レイヴァンがむっとした表情になった。


「いや、わたしが弱すぎるだけなのだ。皆に世話になってばかりだ。これでは、誰もわたしを主とはしてくれないだろう。だからこそ、もっと強くならなくてはならない」


 少女とは思えない言辞にギルだけでなく、皆がマリアを見つめる。


「なにか変なことを言っただろうか」


 マリアが驚いて問いかけると、ギルが初めに言葉を発した。


「なあに皆、マリア様に圧倒されているのですよ。強くなろうとするあなたがとてもたくましいから」


「わたしがたくましいなんて」


「いいえ、たくましいです。その言葉だけでも俺は戦える気がします」


 ギルの言葉にマリアは、少し頬を赤らめた。それを見てレイヴァンの表情が少しだけ悲しげに伏せられる。ギルはそのことに気づいていながら気づいてないふりをしてマリアに笑顔を向ける。


「ねえ、お姫様。姫様はだれか恋慕している相手はおられますかな?」


 ギルの突然の問いかけにマリアは目を瞬かせる。そして、小さく笑った。


「そのような相手はいないよ。わたしは今は、自分のことでいっぱいいっぱいなのだから。それよりも、強くなって皆を守れるようになりたい」


 志を新たにマリアが言えば、ギルがひゅうと口笛を吹く。


「勇ましいお姫様ですね。お姫様というのは本来、真綿にくるまれて世界の汚れも知らず過ごすものではございませんか」


「そうなのか? わたしには、わからぬ。けど、わたしは無知で弱いと言うことを理由に誰かを見捨てたくはないんだ」


「まったく、守る方の身にもなってくれ」


 マリアの後ろの方でレイヴァンが小さな声で呟く。そんなレイヴァンにギルが声をかけた。


「でも、そんなお姫様だから。側にいるんだろう?」


 ぐうの音も出ないレイヴァンの方をマリアが振り向く。すると、険しい表情をしたレイヴァンがいた。

 

「そろそろ、お昼にしましょう」


 前方にいるレジーが声をかけた。レジーは手作りの竿を持って深い森の中へと足を突っ込む。どうやら、この奧に水辺があるらしかった。演奏は食事が終わってからと言うことになり、マリアは弓の練習を始めた。

 風を切る矢の音、それだけが静かな森の中で響く。それをじっと眺めながらレイヴァンは、木の根のところで座った。その隣にギルも座る。ギルを邪魔者でも見るように見据えてレイヴァンは、冷たく何だと問いかけた。しかし、ギルはそれを物ともせずに「別にただ過保護そうなレイヴァンが姫様に武器を持たせるなんてね」と皮肉を込めていった。その皮肉に気づきつつも、なんてこと無いように普通にレイヴァンが答えを返した。


「俺だって賛成しているわけじゃない。本来なら、持たせたくはない」


「それでも、持たせているんだろう?」


「それは、マリア様が自ら武器を取ると言ったんだ。たとえ、王様と王妃様を悲しませることになっても、と」


「なるほどねえ。そこまで覚悟を決めているわけだ。じゃあさ、あんたはどうなの?」


 質問の意図が分からず、軽く小首を傾げるとギルは軽く息を吐き出す。


「あんたは、そこまで覚悟をしている姫様のために“守る”以外のことはしないわけ?」


「俺はマリア様が望むなら、何でもする。マリア様がまっすぐ前を見据え戦おうと望むのなら俺はそれに従う。それだけだ」


 ギルが僅かに目を見開いた。けれど、すぐにいつもの調子に戻って、誰にも聞こえないような小さな声で随分と心酔しているな、と呟くとギルはマリアに近づく。そして、「先に聞かせてあげます暇ですし」と言って洋琵琶リュートの入っているカバンに手をかける。


「ああ、ありがとう」


 マリアは矢を拾い集め矢籠に戻した。ギルは、洋琵琶リュートをとりだし奏で出す。切なくも、もの悲しい旋律が森に響き渡った。


『あの街に行くのかい?

 パセリ、セージ、ローズマリーにタイム

 そこに住むあの人によろしく言っておくれ

 彼女はかつて恋人だったから』


 悲しい旋律に乗せられた歌詞もまたどこか切ない。

 ギルが歌い終えるとマリアは、嬉しそうに微笑んだ。それから、「なんだか、悲しい歌だな。だが、歌詞の意味がよくわからない」と正直に言った。


「どの辺りがですか?」


「その元恋人に向けてあれをやってくれ、これをやってくれと注文が多い。それに無茶なことばかり頼んでいないか?」


「ええ、そうですね。けど、こう解釈もできませんか? この二人の男女は愛し合っているのに会うことすらも許されない。だから、無茶な頼み事の本当の意味は『出来ないことをやってみせてくれ』というかなわぬ願いの表れだと」


 ますます悲しいな、とマリアが言ってうつむいた。


「でも、いつか絶対また会えることを願っている。そんな二人の唄です。この歌詞では、かなわないまま終わっていますが、もしかしたら叶わないことが叶っているかもしれない」


「そうか、そうだな。わたしも希望を捨ててはいけないな」


 マリアはつぶやいて、ぎゅと手を握り締めた。

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