始まりの章 2

 スマホの呼び出し音が鳴っていた。

 いつの間にか泣きながらまた寝入ってしまっていたらしい。


「……はい……」

 寝ぼけた頭で表示画面も見ずに反射で電話に出る。喉から出た声はかすれていて、まるで自分の声ではないみたいだった。

 電話口から少し怪訝そうな問いかけが聞こえる。

「ん? 蓮? 蓮だよな?どうした風邪か? それとも寝てたか? オイ、俺だよ俺。響希ひびきだよ」


 響希という名前に蓮は飛び起きた。

「響希!? 久しぶり! いや……風邪じゃないよ。ちょっとうたた寝してて寝起きなだけ。……うん。響希も元気?」

 受話器から聞こえてくる響希の低くて張りのある声に耳をそばだてる。


 相馬響希そうまひびきは少年院時代に仲良くなった五歳年上の友人だ。

 少年院を出てからも連絡を取り合っていたが、あちこちを渡り歩き生活の時間帯もバラバラな響希に、いつしか連絡は響希からというのが通例となっていた。

「おう元気だ。お前は、蓮? こんな時間に眠ってるだなんて、いいご身分じゃねえの。どうよ、うまく行ってんの? 前に話してた職場は?」

「ん……それがね……」

 事の顛末を手短かに響希に話すと

「ふん。世の中、人の上っ面しか見ないアホが多いからな。お前の良さを分からない奴らなんてこっちから願い下げだ。だろ? 気にすんな、気にすんな」

 あっけらかんとした響希の話し口調に、蓮も自然と笑顔になる。


 響希はいい奴だ。

 掴みどころがなくてぶっ飛んでもいるけど豪気で大胆。男気に溢れ、一度心を許した相手には情が厚い。誰よりも頼りになる奴だと蓮は知っている。


 理由はどうあれ人を手にかけてしまった事、真理子の事、サユリ先生に対する申し訳なさの意識などで固い固い殻にこもっていた蓮。

 その蓮がまた再び世界に向けて心を開く事ができたのは、響希がいたからだった。

 響希は、蓮を型にはめた偏見で見る事はなかった。その観察眼で一目で蓮の本質を見抜き、響希にしか出来ないやり方で蓮の心を溶かしていった。


 あの時響希がいなかったら……と蓮は時々考えてゾッとする。

 ただでさえ暗い少年院の中で、誰にも心を開けずにいつまでも罪の意識に悩まされ、しまいには自分自身のその気持ちに押し潰されてしまっていたかもしれない。


 照れ臭くて口に出した事はないが、響希には言葉には出来ないほど感謝しているのだ。


 育ってきた環境のせいで年齢よりも達観し、人生の矛盾を諦めの気持ちとともに受け入れている蓮と、いつも口元に皮肉な笑いを浮かべて、どこか人をくったようなところのある、いつまでも子供のような響希。お互いの性格に共通点はないのだが、なぜだか誰よりもウマが合う。

 それはお互いの中の誠実な部分、信頼という形で繋がれた、強い絆で結ばれた友情なのだと二人は言葉に出さなくても本能で知っていた。


「しっかし参るよ。また職探ししなくちゃだもん。ところで響希は?今なにしてんの?」

「俺? 俺はまぁ……うん。色々だ」

「相変わらずだな響希は。どうせ人には言えないような事ばっかりしてるんだろ」

「ははは。まぁな」

 笑いながら響希はそこで一旦言葉を切り、それから続けた。

「……つか、蓮……お前、仕事に困ってんだったら一口乗るか? 真面目に働いてるお前にはこんな話、勧めるつもりなんて毛頭なかったんだけどさ。そんな事情なら……暇つぶしに……やる?」

「やるって? 何を?」

 珍しく少し言い淀みながらも響希は続ける。

「──賞金稼ぎ。金になるかどうかはお前次第なんだけどさ。うまくすれば結構な金になる。……どうだ?」

「賞金稼ぎ? どんな仕事?結構な金って? ヤバイの?」

 矢継ぎ早な蓮の質問に、響希はうーん、と唸り、こう言った。


「ま、ある意味かなりヤバイよね。お化け屋敷に五泊六日、夢の宿泊プランにご招待ってトコかな」




 数日後───


 蓮は東京から電車で三時間ほどの、とある駅に降り立っていた。 田舎の小さな駅なのだろうと想像していたのだが、思いのほか駅の構内は広くて新しい。

「そうだ。俺、あいつのせいで修学旅行にも行かせて貰えなかったんだ。サユリ先生とも遠出はしなかったし。少年院も職場もみんな都内だったから……そうか、考えてみたら俺、一人でこんな長旅をしたのって初めてなんだ」

 外を眺めると四方のどこを見ても景色が山に囲まれていた。東京の景色しか知らない蓮にはそれだけでもひどく不思議で新鮮な感覚だった。


「来たな、蓮!」

 ふいに肩を叩かれて振り向く。

 百六十五センチの蓮よりゆうに十五センチは背の高い、細身だが筋肉質な体格の、日に焼けて精悍な顔立ちをした茶髪の男が立っていた。

 日本人にしては色素の薄い茶色の瞳が、蓮を捕らえて鋭く煌めく。

「響希!」

「久しぶりだな蓮。ん? ちょっと痩せたのか? ま、元気そうだけどな」

 響希は一度蓮の肩に手を置き、首を少し傾げて蓮の顔を覗き込むと、それからポンポンとまた軽く叩いた。

 これは昔からの響希の癖らしい。

 少年院にいた頃も何度もこうして肩をポンポンされたっけ。久しぶりの響希のその仕草に、蓮はくすぐったいような、けれども懐かしくてあたたかな気分になる。

「響希こそ! 相変わらずだなぁ。今はこの辺で仕事してんの?」

 響希は無精ひげを触りながら

「だったら楽だったんだけどなぁ。俺はわざわざ四国から来たんだよ。はー、長旅だった。着いたのは昨日だけどな」

「へぇ、四国から……。で? これからどこへ行くんだ、俺達?」

「さあね」

「さあね、って響希……」

 響希は笑って、

「だって集合は明日だからな。せっかくだからお前には一日早く来てもらったのよ。明日の夕方、この駅の近くに他のメンツも集合。で、そっから現場までクライアントが車で拾ってってくれるんだってさ」

 響希は蓮の肩に腕を回して

「久々の再会……んー会うのは一年半ぶりくらいか? だから今日はゆっくり再会を祝いあおうぜ。募る話もあるしさ。旅館も取ってあるし、まずはその荷物を旅館に置いてからブラブラ観光でもしてさ」

「観光かぁ……」

 陶然とした顔になった蓮を見て響希は不思議そうに

「何だよ、普通しないか観光? せっかく知らない土地に来たんだしよ」

 蓮は照れ臭そうに頭をかきながら

「いや、そうじゃなくて……俺、生まれ育ちがあんなだろ? だから東京から離れてこんな旅行みたいな事したのって実は初めてなんだ。で、観光とかそういう言葉が何かすごく新鮮な感じがしちゃってさ」

 響希は一瞬ポカンとした顔で蓮を見つめたが、すぐに腹を抱えて笑い出した。

「はははは。お前って、お前って……本っ当ーに面白いよな! そっかそっか旅行が初めてか! はははは! 海外ってんなら分かるけどさ。俺にはお前のその言葉の方がよっぽど新鮮だよ」

 蓮は顔を赤らめながら、笑い続ける響希に軽くパンチを入れる。

「笑うなよぉ、響希」

「ははは……悪い悪い」

 響希は涙をぬぐい、ようやく息を整え、それから急に真顔になって言った。

「そんならなおさら悪かったな。どうせならお前に純粋に初めての旅行を楽しんでもらいたかったわ。しかも、よりによってこんな仕事絡みの……そんなんじゃない旅行を、さ」

「そのことだけど響希。電話では詳しく教えてくれなかったけど、つまりはこれってどんな仕事な訳?」

「そうだな……。ま、ここじゃ人目もあるし、夕飯の後にでも詳しく話すよ。明日までにお前がやるかやめるか判断できるようにちゃんと話すから心配すんな。とりあえずはまず、そのでっかい荷物を置きに旅館に行こうぜ。タクシー使うか? 歩いても15分くらいなんだけどさ」

「歩きたいな、俺。座りっぱなしでケツも痛いし。それにせっかくだからこの辺を見て歩きたい」

「そうだな。駅前は結構開けてるけど、ちょっと歩くとのどかでいい景色だぜぇ」

 響希は蓮から荷物を半分奪い取ると肩に掛け、ゆっくりと歩き出した。



 全てが蓮にとってはまったく楽しくて新鮮な感覚だった。

 先生亡きあとの虐げられたその後の少年時代──少年院生活──それからもそんな自由はないままに、気づくとそれが当たり前のように過ごして来ていたのだから。

 少年院を出てからも日々がむしゃらに働き、たまの休日もひたすら体を休めるためだけに存在していただけのような気がする。

 そんなことをぼんやりと思い出しながら、蓮はゆっくりと周りを見回した。


 初夏の風が蓮の頬をなでる。

 目に鮮やかな水田の緑が風にそよぎ、所々であぜ道を燃やす煙が立ち上っている。

 道端にはラベンダーを中心に色とりどりの花が植えられ、その周りをヒラヒラと蝶が舞っていて、忙しい日々をがむしゃらに過ごしてばかりだった蓮を非日常へと快く誘っていた。

 ふと足元に目を向けると。

 暑さにゆらめく陽炎。

 真夏の濃い影。

 蝉の声が聞こえて来る。


 ミーンミンミンミンミン…

 ジーワ、ジーワ…


 蓮は、ゆったりとしたけだるい午後の陽光を浴びながら、十一歳の時以来、初めて自分が生きているような気がして、その世界の鮮やかな眩しさに目を細めた。

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