還らずの館

蟹カノン

始まりの章 1

 プロローグ




 暗闇の中を手探りで這い回る。

 逃げなくちゃ、早くここから。少し でも、ほんの少しでも遠くへ。

 でも、どこへ?どうやって?

 早くしないと。アイツが来る。見つかってしまう。


 イヤ!それだけは嫌だ!


 無我夢中で手に触れるもの全てに爪を立てる。

 と、

 カタリ。

 小さな音がして、不意に小さな空間が口を開けた。

 逃げたい一心で必死に少女は『そこ』に体をねじ込む。

 さらに奥へ。できるだけ奥へ。

 その時。少女の体が反転した。

 声を上げる隙もないほどの勢いで、深い深い闇の中を少女は転がり落ちて行った……



 そして暗転。

 闇。

 漆黒の闇。








 朝六時。スマホのアラームがなった。

「ん……」

 大沢蓮は布団の中から腕を出してアラームを止めた。次いで伸びをし、もそもそと布団から這い出す。

 いつもの習慣でまず洗面所に向かい勢いよく顔を洗う。 が。ピタリと顔を洗う手が止まった。

「あ……そっか……」

 ボソリと呟いてそのままぼんやりと鏡を見つめる。 鏡からは顔から水滴を滴らせた、ボサボサ頭の寝ぼけた目をした二十二歳の青年が見つめ返していた。

「そっか。俺昨日……仕事、クビになったんだっけ……」

 ため息をついて水を止めると蓮はタオルで乱暴に顔を拭い、ノロノロした足どりでそのまま部屋に戻ると、また布団に突っ伏した。



 世の中は不公平だなぁ。

 布団にひっくり返って天井を見つめながら蓮はぼんやりと考えた。

 蓮には両親がいない。いないというよりも両親の記憶すらないのだ。蓮は生後間もなく都内のホームに捨てられていた子どもだった。

 身元がわかる物は何もなく、肌着のタグには『蓮』と書かれていただけ。肌着も新品とは言えないものだったため、それが蓮のために書かれていたものなのかも分からない。でもそれが蓮に関する唯一の手がかりで持ち物の全てだった。


 別にその境遇が不幸だったとは蓮は思っていない。なぜって一番最初の蓮の記憶は、大きくて暖かな院長先生──サユリ先生の腕に抱きしめられて優しく体を揺すられている、そんな幸せな記憶だから。


 サユリ先生……

 彼女のことを考えただけで自然と連の口元がほころぶ。

 蓮は彼女の経営する小さなホームで愛情に包まれた恵まれた幼少年期を過ごした。

 彼女は当時七十歳くらい。連れ合いを亡くしたのち再婚もせず子どももいなかった彼女は、その愛情をホームの子ども達に太陽のように惜しみなく注いでいた。

 愛に溢れた彼女のもと、そこは裕福ではなくともアットホームで暖かなホームだった。みんなにとってのそこは本当のホーム──我が家だった。

 ──あの日までは。



 蓮が十一歳の時、突然先生が倒れた。 脳梗塞だった。そして病院から一度もホームへ戻ることなく間もなく還らぬ人となってしまった。

 彼女の死を嘆き悲しむ暇すらなく、子ども達の境遇が一変したのはその直後だった。


 後任にやって来た男は、彼女とは似ても似つかない人物だった。

 子どもを憎んでいるかのように、まるで自分の玩具のように扱った。いや、玩具のほうがまだしもの扱いだったと思う。

 子ども達はロクにご飯も与えられず、学校にもほとんど行かせてもらえなくなった。それだけではなく男の気分で見境いなく殴られ、蹴られ、罵りの言葉を浴びせられた。

 いつでも酔っ払っていて、ほとんどない素面の時でさえ最低の人間だった。酔っている時の振る舞いは人間ですらなかった。

 子ども達は耐えるしかなかった。どこにも行く所がないことを知っていたからだ。

 満足に食事も与えられなかったため、痩せて傷だらけになった小さな体を寄せ合い、怯えた小動物のように震えて、ただただ男の暴力に耐えるしかなかった。


 そんなこんなで数年───

 年上の子ども達は自活できる年になると次々とホームから出て行った。

 年下の子達を連れて行くだけの生活力はなかったため、蓮を含め残された子ども達は自分が自活できる年になるのをひたすら待つしかできなかった。


 十五歳の時、度重なる暴力に耐えかねて遂に蓮はホームを飛び出した。

 身寄りのない、未成年の蓮を雇ってくれる会社はなかなかなかったが、どうにか住み込みの職を得た。

 一度だけこっそりホームに戻り、ホームの仲間に連絡先を渡して来たのだが、痩せてうす汚れた小さな仲間達を残して帰るのは心が痛んだ。


 蓮は必死に働いた。早くお金を貯めてホームに残してきた子ども達を集めて養うだけの財力が欲しかった。

 がむしゃらに働く蓮に職場の上司は何かと目をかけてくれて、暫くはまた幸せな、充実した日々が続いた。


 ホームを飛び出して一年が過ぎようとしていた、ある日───

 蓮の元に一本の電話が入った。

 ホームに残してきた、十二歳の真理子からだった。

「た……助けて……蓮おにいちゃん……」

 それだけで切れてしまった電話に不吉な予感を感じ、蓮はホームに向って飛び出した。


 ホームに着いた蓮が目にしたものは……


 泥酔した男と、部屋の隅に裸でうずくまり、意識を失った体中傷だらけの真理子の姿だった。


 状況を理解した蓮の視界に赤い霧がかかり、喉の奥から獣じみた咆哮がせりあがる……


 気づくと、蓮の拳は血にまみれていて。


 足元には、血まみれの、かつては男だった物体が転がっていた……



 蓮は殺人犯になっていた。



 この事件がきっかけとなり、次々とホームの実態が明るみに出た。

 蓮は未成年ということ、被害者のあまりの非人道的な行為の数々に加え、世間からの擁護の声が数多く寄せられ、情状酌量の余地が考慮された刑期となった。


 そして数年。蓮は少年院から開放された。

 シェルターに保護された真理子とは、少年院から時々手紙のやり取りをしていたが、二年を過ぎたころからだんだんと返信が減っていき……やがてふっつりと手紙が途絶え、少年院を出た後にいくら探しても消息が分からなくなってしまった。


 無事でいるのかな……と、蓮は天井を眺めながらぼんやりと真理子のことを考える。


 何もかもが、あの男のせいで変わってしまった。


 せっかく職を見つけても、この不況時、クビを切られるのはいつも身寄りのない蓮からだった。

 うまく職場に馴染んでもどこからか蓮の過去が噂され、ダメになる。


 ──あいつ、施設育ちらしいよ

 ──あいつ、少年院にいたんだってさ


 半年続いてうまくいっていた今度の職場も、そのパターンだった。



 蓮は右手を上げ、じっと拳を見つめる。



 この拳で、あの男を、殺した。



 後悔はない。



 もしあの男が生きていたら、何度でもまた同じことをしていただろうから。


 けど。


 ……ごめんな、サユリ先生……

 蓮は小さく呟いた。


 ……だけど俺、間違ったことはしていないって思ってるんだ。今でも。

 だけど……

 だけど……


「ごめん…… 」


 呟くと、ゆっくりと蓮の目に涙が溢れた。

 小さく体を折り曲げて、蓮は体を震わせてすすり泣いた。

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