第10話「妹の変化」

 昨日の先輩との一件を、逆にきっかけとして利用することは出来ないか。

 昨夜、冷静になってもう一度状況を整理して考えた末に導き出した結論は、前述のそれだった。

 騒動の前は、自分から妹に近づくのは明らかに怪しまれると思い徐々に距離を詰めていく、という方向性で考えていた。

 しかし、昨日の一件は、それこそ僕が求めていた「朱莉に話しかけても不自然ではない理由」

になるのでは無いか。そう思ったのだ。

 例えば、

「昨日はあれから大丈夫だったか?」

 と、心配する素振りを見せても良い。

 

 他には、

「また先輩に何かされたら、すぐに相談なり呼び出すなりするんだぞ」

 と、ちょっと頼れる兄を演じるのもアリ。


 とにかく、今回の一件を逃す手だけは、絶対に無い。

 


 そんなことを考えながら部屋を出て階段を下り、リビングのドアを開ける。すると、両親の姿は見えず、食卓に並べられた朝食を、朱莉が一人で食べている状況だった。

 どうやら両親は既に仕事に出たらしい。


「……ッ!」

 僕がリビングに入るのを見て、朱莉の表情が少し揺らいだのが分かる。今までは同じ状況でも朱莉は特に気にする様子も無く、ただ黙々とご飯を食べ続けていたので、昨日の件を意識しているのが丸分かりだ。


「おはよう、朱莉」

 ここ最近、すっかり習慣になった朝の挨拶。僕が決意を固めた朝から一週間、一応毎朝のように声を掛けているが、返事が帰ってきたことは無かった。

 ――のだが。

「……お」

 ん?

「お……はよ、う」

 それは、微かに。

 耳を澄まさなければハッキリとは聞き取れないような小さな声で。

 でも、確かに、今。


 朱莉が、僕に対して、挨拶を返したのだ。


「お、おお。おはよう」

 

 あまりの不意打ちに、思わずどもってしまった。様子が変だなとは思っていたが、まさか返事が返ってくるとは思っても見なかった。

 

 結局その日の朝は、お互いそれ以上何も言うことは無く、その後はいつも通り終始無言のままであった。

 ただ、今朝の返答は、昨日の一件について口にするのもすっかり忘れるほどに、僕の中で大きな衝撃になったことは、言うまでもあるまい。





【春瀬七海】

 優介の様子が、今日はちょっとおかしい。

 最近ずっと何か悩み事があるんじゃないかというのは、表情で何となく察していた。

 結局、本人に直接聞いてみても「困ったら相談する」としか答えないし、何に対して悩んでいるのか分からずじまいだ。

 そんな優介が、今日はなんだか晴れ晴れとしているというか、いつもよりどこか楽しそうな表情を浮かべて活動をしている。

 明らかに昨日までと違う。

 悩みが解決したのだろうか? それとも、他に何か良いことでもあったのだろうか?


 つい昨日、優介に言った自分の言葉を思い返す。


『相談できる相手がいるのって幸せな事なんだからね。どんな悩みか分かんないけど、人を頼るって事を覚えるのも大切よ』


 ……相談できる相手、ね。

 悩み事の件にしてもそうだけど……私もホント、人のこと言える立場じゃないな。





 朱莉が返事をしてくれた。

 中学生の時から、一切僕と口をきこうとしなかった、あの朱莉が。 

 

 結局、驚きが勝ってしまって今朝は先輩のことについて何も言えなかったけど……やっぱり昨日のことがきっかけになったのだろうか。

 

だとすれば、これは大きな進展になったのではないか?


 朱莉は、少なくとも自分が高校を卒業するまでは僕と絶対に口をきかないと決めていたはずだ。それを一度も破ることなく、4年間ずっと続けていたし、その意思は相当固かったと思う。

 

 なのに、であるにも関わらず、今朝、ついにその均衡を破り、僕と言葉を交わした。


 朱莉の心情に大きな変化が起こったのだろうか?いや、もしかしたら、計画そのものを見直したのかもしれない。


 とにかく、とにかくだ。一歩前進した。それだけは間違いない。


 これを機に、もう少し朱莉に近づいてみよう。うん。


 ――それにしても僕は、なぜ朱莉から返事が返ってきたというだけのことなのに、こんなにも嬉しいという気持ちになっているんだろうか。

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