第9話「妹の危機と、兄②」

 今でも時折、夢に見ることがある。

 小学生のあの日、絶望の奥底から救ってくれた、お兄ちゃんの姿。


 私が泣いているとき、いつも慰めてくれて。

 私が楽しいとき、いつも横で笑ってくれていて。

 そして、私が辛いとき、いつも助けてくれる。

 誰よりもカッコよくて、誰よりも優しくて、そして、誰よりも私のことを大切にしてくれる、私のお兄ちゃん。



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「あ? 誰だお前は?」

 先輩は不意に掴まれた右手を思い切り払い、僕の方へ目をやった。


「お、おい。大丈夫か? ちょっと落ち着け」

「あ、ああ。悪い助かる」


 後からやって来た嘉樹の言葉で、少し冷静さを取り戻す。

 そう、確か僕は目の前の光景を見て、それで思わず飛び出してしまって、それで……。

 あれ? なんで僕は朱莉のピンチに、こんなにも怒っていたんだ?


「あ、あー……。えっと、僕はそこの女の子の……、そう、朱莉の兄です」

「はあ? 兄? お前がぁ?」


 そう言いながら、顔を近づけてくる先輩。

 先ほどの勢いはどこへやら。先輩の凄みに圧倒され、急にヘタレっぽい返答をしてしまった。普段喧嘩なんて全く縁がない人間だから、こんなにも威圧的に来られると正直ちょっとビビる。


 ――すると先輩は、僕の顔を見るや否や、

「ハッハッハッ、こりゃ傑作だな。兄がいるってのは知ってたけど、まさかこんなのとは」

 と、まるで信じられないといった表情を浮かべたのち、笑いながら口にした。


 こんなの、とは、つまり僕の顔立ちを含めた諸々が、朱莉に比べるとかなり劣っていることを差しているのだろう。


 まあ、普段から僕を訪ねて来る人たちも、「え? これが朱莉さんのお兄さんなの?」みたいな表情を浮かべる人がほとんどだし、実際に僕自身朱莉に比べて平凡的な人間であることは重々承知しているので、特に気にする事でもないし、正直今更感もある。

 出来の悪い兄と、出来の良い妹。比べられるのは慣れっこだ。


 そんなことよりも、どちらかと言えば山本先輩が、実はこんな性格してたことのほうで頭がいっぱいである。人気者って聞いてたからきっと中身も良い人なんだろうと思い込んでいたけど、どうやらそれは勘違いだったらしい。


 などと、少し的外れなことを考えていたら、更に先輩からの罵りは続いた。

「それに見たところ体つきも随分と貧弱そうだし、こんなのに右手を掴まれたのかよ」


 自分の右手に目をやりながら、

「お前さあ、兄だかなんだか知らないけど、自分が何したか分かってんの? 今俺達は凄くいいところだったわけ? 分かる?」

 と、僕に詰め寄る。いや、どう見ても良い雰囲気ではなかった気がするが。


「それにしても並木さんも可哀想だなぁ。こんなのが兄だなんて。ねえ? 並木さん?」


 変わらず馬鹿にした口ぶりで僕の頭に手を置きながら、後ろに立っている朱莉のほうへ同調を求める先輩。

 朱莉のほうへ目を向けると、彼女は下を向き俯いていた。


「朱莉ちゃんだってこんな兄貴に助けられて逆に困ってるぜ? ほら見ろ、下を向いて俯いてるじゃねえか」


 表情が見えないので分からないが、どうやら先輩は朱莉が僕に助けられたことを迷惑して下を俯いているのだと思っている様子。


「分かったらとっとと帰れよな? 俺は今から朱莉ちゃんとお話をするからさぁ――」

「――――黙れ」 

 先輩の言葉を遮るように、俯いていた朱莉が静かに告げた。

「え?」

「……それ以上喋るなと、そう告げたんです。先輩」


 それは、聞いたことも無い朱莉の、本気の声だった。

 その場にいた全員を凍らせてしまうほどの、冷たい声。だが、その声色には確かに怒りが込められており、どこか熱を感じさせるものでもあった。


「さっきから黙って聞いていましたが、随分と兄に対して好き勝手言ってくれましたね? こんなの? 私からすれば、先輩のほうが『こんなの』にしか見えませんけど」

「なっ……」


「確かに私と兄は、全く似ていません。学園内では私達が兄妹であると知っている人も少ないです。ですが私は、兄が兄であるという事に悲観したことも、絶望したこともありません。むしろ、私にとって兄は、他の誰とも違う、特別な存在なんです。貴方のような人とは、それこそ比べ物にならないほどに、です」


 矢継ぎ早に、朱莉は先輩に対して言葉の嵐を投げかけた。

 それも、僕を庇うように。


「……すみません、失礼します」


 数秒の沈黙の後、朱莉は僕達を一瞥し、丁度ホームに到着した電車に乗りこんでいった。

 僕と先輩、そして嘉樹の三人はどうしていいのか分からず、ただ彼女が去っていくのを眺めるしかなかった。

 僕達が動き始めたのは、先ほどの一悶着を聞きつけ様子を伺いにやって来た駅員さんが声を掛けてきた数十秒後のことであった。



 【桜井嘉樹】

 正直なところ、優介が朱莉ちゃんの危機に対してあんな行動を取るとは思ってもみなかった。

 俺が見ている限り、並木兄妹の仲は最悪なもので、少なくとも俺は二人が会話を交わしているところなんて一度も見たことが無かった。


 以前優介に「兄妹だしそんなものなのか?」と尋ねると、「あー、ウチは妹から話しかけるなってキツく言われてるから」と返されたのを覚えている。

 だから二人の関係は水と油みたいなものだと思っていたし、優介もハッキリとは口にしていなかったけど、朱莉ちゃんに対して良い感情を抱いていないものだと思っていた。

 だけど今日、アイツは妹を守った。自分の身を呈して。


 そして……そんな兄に対して、朱莉ちゃんは

『私にとって兄は、他の誰とも違う、特別な存在なのです』

と口にしていた。


「うーん、もしかしたら……」


 山本先輩が執拗に尋ねていた、朱莉ちゃんの好きな相手。

 一瞬、優介の顔が浮かんだが……いや、まさかな。





【並木優介】


 今日の出来事は、僕にとって驚きでしかなかった。 

 朱莉が「計画」のために、僕と距離を取っていることは知っている。

 そして自分が兄に対して良い感情を持っていないということを口にしていることも知っていた。


 だけど、今日。

 朱莉は、先輩に対してハッキリと告げた。

『私にとって兄は、他の誰とも違う、特別な存在なのです』

 と。


 もし僕が朱莉の好意に気づいていなかったとして。

 そうしたら、朱莉の今日の言葉をどのように受け止めていただろうか。


 いやそもそも。何も知らない僕は、朱莉のことを助けたりするだろうか?


 今まで考えたことも無かったけど、僕は朱莉のことをどう思っているんだろうか。

 そもそも、ノートのこと、カメラや盗聴器のこと、そして「計画」のことを知って、それでもなぜ僕は朱莉のことが嫌いにならないのだろうか。


 自分が朱莉の正体を周りに話すことで、彼女が周りから疎まれることになると思い、彼女がどんな行動を取ってもそれを黙認し続けていた。

 だけどそれはつまり、僕が朱莉のことを思っているからこその行動なのではないか?


 思えば、小学生のあの日もそうだった。


 朱莉のことを異性として見た事は無いし、もちろん彼女の気持ちを受け入れるつもりも無い。だけど、もしかしたら僕は、自分が思っている以上に朱莉のことを好きなのかも知れない。


 それはもちろん、妹としてだけど。

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