第8話「妹の危機と、兄」
夏休みも既に3分の1が終わろうとしていた。
彼女――朱莉の計画を知ってから10日余りが経過したが、あれから何か進展があったかといえば、全くと言っていいほどのゼロだった。
まずは朝の挨拶から始めてみようと、
「おはよう」
と、あくまでさりげなく声を掛けてみるものの、返事が返ってきたことは一度も無し。
ノートをチェックしてみると、「今朝はお兄ちゃんが挨拶をしてくれた! 嬉しい」なんて書いていたので、少なくとも耳にはちゃんと届いているようなのだが、返事が無ければ何の意味もない。
挨拶じゃダメかなぁ……。けど、これ以外に理由無く声をかけるきっかけって、何があるんだ……?
「どうしたんだ優介、浮かない顔してるな。悩み事か?」
などと考えながら部活動の作業を進めていると、横で休憩を取っていた本間先輩――マッさんが声を掛けてくれた。
「あ、いえ、特に何か悩んでるってわけじゃないんですけど……」
口を衝いて出たのは、丸っきりの嘘。
むしろ色々と有り過ぎて、もうどこから悩んでいいのか分からないくらいなんだけど、流石に「妹に愛されすぎて困ってるんです」なんて相談をするわけにもいかないだろう。
「そうか、何かあったらすぐに相談するんだぞ」
いつでも相談に乗ってやるからな! と、マッさんは僕の肩を軽く叩いて練習に戻っていった。
ありがとうございます。お気持ちだけ、ありがたく頂戴いたします。
「優介、今の嘘でしょ?」
なんて、マッさんの心遣いに心の内でこっそりと感謝の意を唱えていると、少し離れた位置で僕らの会話を聞いていたのか、七海が少し小さな声で尋ねてきた。いや尋ねてきた、というよりは、もはや断定に近い聞き方であった。
「嘘って、何がさ?」
「悩み事が無いって答えよ。さっきのあんた、悩み事を抱えているけど誰にも相談できなくて困っている。そんな顔つきしてたわよ」
図星。
七海が口にしたそれは、今まさに僕が陥っている状況を、寸分たがわず言い当てていた。
え、何で分かったの? 怖いよ?
「馬鹿ね、何年幼馴染やってると思ってるの? あんたの表情なんて、手に取るように分かるわよ」
なんて恐ろしいことを口にするんだ、お前は。
道理で七海の前だと嘘が突き通せたことが無かったわけだ。幼馴染、恐るべし。
「相談できる相手がいるのって幸せな事なんだからね。どんな悩みか分かんないけど、人を頼るって事を覚えるのも大切よ」
「……どうしようも無くなったら、誰かに……うん、その時は七海に相談するよ」
「よろしい」
返答も、なるべく小声で。
七海にはバレてしまっているみたいだけど、なるべく部活動のメンバーには悟られないように気をつけないと。
「はいはい、それじゃ大会までもう1週間ですからね。頑張っていきましょう」
くるりと反転し、休憩中の部員に向けて七海が発破をかける。
てっきり詳しい事情を根掘り葉掘り聞かれると思っていた僕は、そんな七海の気遣いが、なんだか少しに嬉しかった。
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「あー、今日も練習お疲れ様って感じだな」
部活動も終わり、帰宅の途につく僕と嘉樹。降車駅は別々だが、途中までは一緒なので大抵いつも一緒に帰ってたりする。本当は七海も加えて三人で下校することが多いけれど、今日は少し学校に残って作業をしたいとの事だったので、珍しく嘉樹と二人での下校であった。
「まあ大会まで1週間ってところだし、自然と練習にも身が入るよね」
既に僕は担当している大道具の製作を終わらせてはいるけど、だからと言って何もしなくて良い訳ではない。
劇を発表する際に作った大道具を設置したりしなければいけないし、不備や修正点が出てくればすぐに直さなくてはならない。
それに、皆の演技や動きなどをを見て、「そこのセリフはもっと感情を込めて」「そこは、もう少し右側にずれないと後ろの演者と被ってしまう」などと言ったダメだしをしなくてはいけないので、舞台に出ない人間にも、それなりに負担は掛かるのが高校演劇だったりするのだ。
「んー……あ、そうだ。大会が終わったら海でも行かね? 皆を誘ってさ、どっか近くの」
突拍子も無く旅行の提案をする嘉樹。
「随分といきなりだな……。けど海か、それも良いなー」
「だろ? 俺達ほぼ毎日部活で夏っぽいこと何も出来てないじゃん? だからさ――」
夏っぽいことか、祭りや花火なんてのもあるな。なんて嘉樹の話を聞きながら、夏の風物詩を頭に連想していると、ふと嘉樹の口が止まったことに気づいた。
「どうしたんだ、嘉樹? 急に黙りこくって」
少し離れた位置を見つめる嘉樹に声をかける。どうしたんだ、一体。
「あ、あー……。えっと、ほら、あそこ」
促されて嘉樹が向いていた方向に目をやると、そこには僕の良く見知った女性の姿が――朱莉の姿があった。
「ほら、お前ら兄妹って仲があんまり良くないから、教えるべきかちょっと悩んだんだけど……余計なお世話だったらスマン」
「いや、余計なお世話って事はないけど……」
どうやら朱莉は僕達に気づいてはいない様だ。
まあ向こうが僕達の存在に気づいたところで、特にどうとなるわけでもあるまい。
せいぜい今日の日記に「駅でおにいちゃんと会えた」の一行が書き加えられるくらいのものだろう。
「それにしても……こうしてみると朱莉ちゃんって、やっぱりダントツで可愛いよなー」
何も知らない嘉樹が、そう口にする。
まあ、顔立ちだけは整ってるからな。顔立ちだけは。何も知らなければそう思うのも無理は無いだろう、ははは。
なんて軽く自虐を交えながら嘉樹の話に心の中でツッコミを入れながら朱莉のほうを見ていると、なにやら少し様子がおかしいことに気がついた。
「あれ? 横にいるのって、山本先輩じゃないか?」
駅のホームで電車を待っている朱莉のすぐ横で、先日朱莉に告白して玉砕していた山本太市先輩の姿が眼に入った。
端から見る限り、山本先輩が一方的に話しかけている状態で、朱莉がそれにつき合わされている、そんな雰囲気であった。
いつも(僕以外の)他人に対して、それなりに好意的に会話を交わす(そぶりを見せる)朱莉にしては珍しく、少し引き気味というか、若干煩わしそうな表情を浮かべている。
「確か山本先輩って、この間朱莉ちゃんに振られたんだよな。なのに、何で一緒にいるんだろ」
虫けらと、彼女は先日、自身のノートにて山本先輩をそう評していた。
そんな相手に対して、朱莉が自分から話しかけるとは少し考えにくい。
それに、朱莉のあの表情。
これは、何かあったのかも知れないな。
「嘉樹、ちょっと近づいてみようか」
「おう、そうだな。なんだか、あんまり良い雰囲気でもなさそうだし」
お互いの意見は一致した。
ひとまず僕達は、様子を伺うべく彼女達にばれないよう少しずつ距離を縮めて行く。
「……からさ」
男の声が、少しずつ鮮明に聞こえてくる。
声の主は、件の山本先輩。どうやら少し苛立っている様子である。
「名前くらい教えてくれても良いじゃない? って言ってるの。並木さんの好きな人のさ」
会話の最後だけ、やたらとハッキリ聞こえたのは気のせいだろうか。それとも、心当たりがあるからか。
どうやら山本先輩は、先日朱莉に告白した際に「好きな人がいる」という理由で断られたのが御気に召さなかったようであり、この間の件について詳しく追求しようとしているようであった。
「だから教えたくないって言ってるじゃないですか。何度聞かれても、答えは変わりませんよ」
山本先輩の問いかけに対し、こちらも少し苛立ちを織り交ぜたような口調で返答する朱莉。
基本人目を気にする朱莉にしては珍しく、少し強気な口ぶりであった。
というか、朱莉の声をまともに聞くのも久しぶりだな。
「ほら、答えられないって事は、どうせ好きな人なんていないんだろ? だったら俺と付き合ってくれてもいいじゃん?」
「だから、嘘じゃないって言ってるじゃないですか」
徐々にヒートアップする二人。
僕達は途中からしか見ていないので分からないが、両者の口ぶりからして既に何度か同じ問答が繰り返されてきたようである。
「なんか、止めないと不味くないか?」
そんな二人の会話をそばで見ていた嘉樹が、二人に気づかれない声で僕に告げる。
自分の思う通りに行かないことが余程不服なのか、山本先輩の表情がだんだん険しくなっていくのが見える。
「確かにそうかもな……っ!」
瞬間。
嘉樹の言葉を聞きながら二人の様子を伺っていると、ついに我慢の限界がきたのか、はたまた堪忍袋の緒が切れてしまったのか、横に立っていた山本先輩が、朱莉の正面に立ち、今にも殴りかかろうと手を上げたのが見えた。
そのときのことは、あまり良く覚えていない。
ただとっさに、考えるより先に、体が動いてしまっていた。
気づけば僕は、朱莉達とのわずかな距離を一気に詰め、振り上げていた山本先輩の右腕を掴み、彼の行動を押さえつけていた。
「……先輩、ウチの妹に、何してるんですか?」
ノートの事だとか、「計画」のことだとか、そんなことは考えず。
今はただ、僕の妹を守ってやりたい。そんな、純粋な兄心がフル稼働して、彼女達の間に割って入ってしまっていたのだった。
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