第2話「お兄ちゃんノート」
初めてノートの存在を知ったのは、中学三年生の時だった。
受験勉強で必要になった二年生の教科書を借りに、ここ数年一切会話を交わしていなかった絶賛鎖国中な関係の妹の部屋を尋ねると、部屋の主が不在だったので、こっそり借りて後で返せば大丈夫だろうと、無断で部屋に進入したのが、事件の始まり。
「お、これこれ」
机の上に並ぶ、綺麗に整頓された教科書の中から『地理』と書かれたモノを取り出す。
兄妹というのは時に不便なもので、こうして自分の教科書をお古として家族にそのまま渡しましょう、なんて、なんとも厄介な風潮がある訳だが、笑顔で教科書の貸し借りが出来るのは仲が良い兄弟だけ。僕らのように不仲な間柄では、全く持って迷惑な話である。
……とはいえ、もし妹に無断で借りたことがバレたらひとたまりも無い。
朱莉が帰宅する前に、急いで自室へ戻ろう。
……と、部屋から出ようとすると、
「いてっ!」
左足の小指を、開いたままの引き出しに思い切りぶつけてしまった。
無駄に急いでしまっていたので、かなりの勢いで。めちゃくちゃ痛い。
教科書に夢中で、引き出しが開きっぱなしだったなんて気がつかなかった。
「あー、痛かった……。まさか引き出しが開きっぱなしだとは……」
小指をぶつけた先、机に備え付けられている三段構造の引き出し、その一番先に目をやる。
全く朱莉のやつ、引き出しくらい閉めて行けよな……。
そのまま引き出しを閉めようと手を掛けると、ある違和感に気がついた。
「あれ? この引き出し、やけに重いな」
見ると、下には板が一枚敷き詰められており、その上には本が数冊置いてあるだけ。
にもかかわらず、片手で閉めようとすると、引き出しはビクともしなかったのだ。
「どうなってんだ?」
不思議に思い、底の板を触ってみる。
すると、突然引き出しの底がズレて、どうやら外れることに気がついた。
そのまま板を持ち上げる。すると、更に下にスペースが空いており、そこには大量のノートのような物が敷き詰められていた。
「ノートか……? なんだこりゃ」
手前の一冊を取ると、表紙に大きく①と書かれている。
恐らくは数あるノートの中で、一番最初に書かれたものだろう。
「お兄ちゃんノート? なんだこれ、小説か何かか……? でもあいつ、そんな趣味あったっけ」
初めは、純粋な好奇心だった。
一つ下の妹、朱莉。お互い中学生になる頃にはすっかり目には見えない壁のようなものがが生まれ、同じ屋根の下で暮らしながらもすっかり会話を交わすことが無くなった。
そんな妹が、こんな手の込んだ二重底に隠した秘密のノート。
正直気になる。中身がどんなものであれ、まるで名前を書いたら人が死んでしまうノートでも隠しているんじゃないかと疑いたくなるほど厳重に隠される本だ。気にならないはずが無い。
「えーい、ままよっ!」
ギリギリまで迷ったのち、最終的に欲求に負け思いっきりページを開いた。
◇
『5月2日、月曜日。今日のお兄ちゃん、快晴。
祝日だというのに部活動のため学校へ向かう。せっかくの休みだから一日中おにいちゃんの監視をしたかったけど、外出したので予定を変更。今日はお兄ちゃんのゴミ箱チェックを行うことにした。
目的のブツをしっかり回収できたので、今晩の情事が非常に捗った。
お兄ちゃん、好き』
……なんだ、これ。
『7月23日、水曜日。今日のお兄ちゃん、やや曇りぎみ。
夏休みに入ったというのに少し元気が無い。
原因は分かっている、あの女だ。
終業式前、お兄ちゃんは他のクラスの西平とかいう女に告白して振られていた。盗聴器でも状況は把握できるが、どんな女か確かめるために物陰から監視を行いつつ、盗聴器と合わせてこの目でしっかり現場確認を行った。
「――ごめんなさい。並木君のことは嫌いじゃないけど、友達としか見れないの」
あの女、私がどれだけ望んでも手に入れられない地位を自分から投げ捨てている。許せない。
それにしても、お兄ちゃんはあんな女のどこがいいのだろう。
顔だって普通、スポーツも、勉強も、特別ぬきんでているものが無い。
せいぜい彼女とお兄ちゃんの接点といえば、同じ委員会に所属しているだけのはず。
まさかその委員会で何かあったのだろうか。
やっぱり私もその委員会に所属しておくべきだった。後悔。
お兄ちゃん、好き』
ページをめくる手が止まらない。
いや、止められない。
『9月27日、日曜日。今日のお兄ちゃん、晴れ。
今日は私の誕生日。
お兄ちゃんからのお祝いプレゼントは無かったけど、朝ごはんを一緒に食べた時に、おめでとうと言ってくれた。嬉しい、その言葉だけであと3年は生きていけそう。
お兄ちゃん、好き』
ここまで読み、気づいた。
――これは、決して開いてはいけないパンドラの箱だ。
「なんだ……これ……」
そこに書かれていたのは、全て一年前に自分がとった行動そのもの。
去年のゴールデンウィーク、僕は確かに部活動に出席していた。
去年の7月、同じ委員会の西平さんに告白して振られた。
去年の10月、妹にお祝いの言葉を贈った。
その全てが、作りモノではない。紛うことなきノンフィクション。
だが、重要なのはそこではない。
「お兄ちゃん、好き」
全てのページをチェックしたわけではないが、これまで読んだページの全て、終わりの一行はその言葉で締めくくられている。
朱莉が僕のことを? そんなバカな。
僕が中学生になった頃、朱莉は僕に「私に話しかけてくるな」と告げたことを良く覚えている。
朱莉が一年遅れて同じ中学に入学した日、「学校で話しかけてきたら殺す」と冷え切った目で忠告してきたことを忘れてはいない。
朱莉は、僕のことを嫌っている。
僕は、朱莉に対して嫌悪感は抱いていないが、妹から話しかけるなと言われたら、それを守るほか無い。きっと彼女は僕のことが嫌いなんだろう。原因は分からないけど、僕と会話を交わすのが嫌で嫌で仕方が無いのだ。
そう思っていたのだが……。
「ただいまー」
あまりの衝撃に意識が軽く飛びそうになっていると、下の階から朱莉の声が聞こえてきた。
マズイ、もう帰ってきたのか。
手に取ったお兄ちゃんノートなる本をすぐに引き出しへ戻し、二重底を元に戻して急いで部屋から出る。
危なかった、どちらにせよ妹の部屋に勝手に入っていたのがバレたらどうなったことか。
「「あっ……」」
なるべく冷静にと、平静を保ちながら自室へ戻っていると、階段で朱莉とすれ違った。いや、すれ違ってしまった。
「お、おかえり……」
とりあえず一言かけてみる。が、返事をすることなく彼女は真っ直ぐ自分の部屋に入ってしまった。
「あのノートはなんだったんだ……」
先ほどの妹の態度を見る限り、やはり僕は嫌われている……はず。
なんだけど、先ほど見てしまったあのノート。もう何が嘘で何が本当なのか良く分からなくなっていた。
――これが、僕の中学3年生の時に起きた、現在まで続く悩みの1ページ目。
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