第七話 キスのハウツーとニート

それから一週間、私はまじめに……というか、常に焦りながら働いた。


朝早くから弁当を作り、出来上がった弁当を配達する。簡単な仕事のように見えるし実際難しいことはないはずなのだが、しかし周囲とうまくやっていくことはできなかった。

この会社ではみんなが常にイライラしているし、ロッカールームで交わされる雑談はギャンブルと夜の店の話。ギャンブルは怖いし夜の店には縁のない私がこの話題について行けるはずもない。早々に孤立した私はさっそく「どうでもいい奴」認定されてしまったらしい。

私につけられたあだ名は「ジャガイモ」。自分でもジャガイモ似であるという自覚はあったが、自分で言うのと人にそう名付けられるのとは残酷さが違う。そもそも私が自分をジャガイモと呼ぶのはただの自虐なのであって、もし私が寂しげな笑顔の一つも浮かべながら「私、ジャガイモみたいな顔だから……」と発したら相手は「そんなことないよー!目元とかぱっちりしててかわいいじゃん」と返すのが様式美というものである。

だが、ここのやつらは「あ、倉庫からジャガイモ持ってきて。揚げ担(揚げ物担当)じゃない方のジャガイモね!」などと言って大声で笑っている。なので報復として私も心の中で武田先輩を「ニキビ」と呼ぶことにした。やつの携帯番号を自分の携帯に登録する際も「ニキビ(敬称略)」と登録してやった。初対面の時に彼のニキビを気の毒だと思っていた私はすでにいない。ざまあみろだぜバーカバーカ!!

しかしこれだけでは報復としては少し弱い。

そうだ。いつかこの会社を辞めるときに、あの総務のしつこそうな女にニキビの住んでいる独身寮の住所を教えてやろう。陰湿な報復だと思う人もいるだろうが、私は新人でやつよりも立場が弱い。このくらいやり返してやっとイーブンというものだ。


先輩たちは私に配達と、そして皆が嫌がる揚げ物の担当を押し付けた。揚げ物担当はとにかく作業中、暑さで大汗をかく。

私は作業着の中を汗だくにしながら朝早くから白身魚を揚げた。白身魚、と呼んでいるが魚の名前はティラピアというものらしい。どこで採れるものなのかは知らない。朝一番に業者が運んでくる凍ったままのティラピアの箱をいくつも開け、身の崩れやすいそれに粉とパン粉をつけて、とにかく揚げる。11時ごろまでその作業を繰り返したら汗をぬぐう間もなく配達だ。

武田先輩は相変わらずあの総務の女性を避けている。女性は私に文句を言う。私は事情も分からないまま謝る。が、心の中では「お前、そういうとこだぞ?そういう性格だからニキビごとき雰囲気イケメンにすら相手にされねーんだぞ?」などと恋愛経験すらない自分のことは棚に上げて考えている。そして毎日同じことが続く。


工場で働く多くの人々と同様、私の目もようやく死んだ魚のそれのようになってきたころ、事件は起こった。


その日、私は残業代の出ない四時間の残業をこなし、帰宅した。三宮氏はまだ帰宅している様子はなかったので、私は家政婦さんの作っておいてくれた夕食を一人で食べ、シャワーを済ませた。以前ならここでBL本の一つも手に取るのが私という人間だ。しかし12時間も働いた私はくたくたに疲れ切っていて、読書をする体力もない。ただぼんやりとテレビをつけていた。


すると、けたたましくインターフォンが鳴った。この家で暮らし始めて一か月と二週間、これまでこんな乱暴なインターフォンの鳴らし方をした人間はいなかった。そもそも訪問客自体がほとんどいなかった。

「は、はい」

おそるおそるインターフォンに出ると、モニターに大きくニキビ面が映し出された。

「オーーーイ!ジャガイモ!!てめーすっげー家に住んでるじゃん!コラ、シカトしねーで出てこい!!」

うっ……ニキビだ。

しかも彼は私に残業を押し付けてどこかで飲んでいたらしく、すでにかなり酔っている。

確かこのビルには警備員がいるし住居部分に入るにはコンシェルジュの前を通過しなければいけないはずだが、この男。どうやって入ってきたのだ。


私は鼻をつまんで声を変えて返事をした。

「住所をお間違えではないですか」

ニキビと友人関係になった覚えはないし今後も仲良くやるつもりなどない。単なる会社の先輩ならば速やかにおかえりいただこう。

「ばっかやろーーー間違うわけねーだろ、開けろ!ジャガイモの癖に調子のってんじゃねーぞ」

誰がジャガイモだ。それは謙遜だっつってんだろ。

くっそ。総務のあの女に無理矢理押し付けられたラインアカウントがこんなところで役に立つとは思わなかった。まずはあの女をここに呼びつけ、そしてニキビを家に招き入れて彼女にお持ち帰りいただこう。うん、そうしよう。


私は総務の女性に連絡を入れた。彼女はすぐに返事をくれて「すぐに行きます」と私の要請を快諾してくれた。

私は何食わぬ顔でドアのチェーンをかけ、少しだけドアを開けた。

「オラ、ジャガイモ。お前ジャガイモの癖にすっげえところに住んでるじゃん。ロビーからここまで全部絨毯敷いてあったぜぇ、とにかく上がらせろよ」

なんでお前を家に上げねばならんのだ。帰れ。などと言えない気弱な私は、弱弱しく先輩に抗議した。

「こ、ここで騒がないでください。他の住人の方に迷惑だし、ここ、私の家じゃないんで」

「ハァ?お前の家じゃないならなんでお前の住所、ここになってんだ」

ニキビ先輩が私に顔を近づけ、アルコール臭い息を吹きかけていた。私は瞬時に鼻呼吸を口呼吸に切り替えた。

「だから……私は居候なんです」

「へぇ、まあそうか。うちの給料でこんなとこ、住めるはずないもんな!……開けろって」

「いやいやいや、ここ人の家なんで」

「っせーな、何警戒してんだよ。テメーみたいなブスになにもしねえって。ブスがチョーシこいてんじゃねーぞ」

ニキビ先輩はドアの隙間に足を突っ込んでドアをこぶしで殴った。

チェーンをしてあるし、もうすぐ総務の女性がニキビ先輩を引き取ってくれるはずだ。そうはわかっているものの、男性に大声を出されると身がすくむ。くそ……、通報か?通報するか?私は別に先輩の引き取り先は総務の女性でも警察でもどっちでもいいんだぞ。

「おーい!ブス!ジャガイモ!!早く開けろーーー!先輩様が来てやったんだぞお」

もう通報しかない。先輩だからって調子に乗るな!私は閉鎖的な田舎育ちゆえ、警察を呼ぶのは最後の最後だという意識があったが、この際そうも言ってられん。

と、私が携帯を取り出したところで、ドアの外で落ち着いた三宮氏の声が聞こえた。

「何をやっているんですか」

「ああ?」

「わああああ!三宮さん!!すみません!!その人は私の先輩でっ、酔ってこっちに来ちゃったみたいで!すぐに追い返します、すんませんすんません!」

「あんた、ジャガイモの彼氏?ふうん、金持ってそうじゃん」

先輩は相手が若いので侮ったのか、今度は三宮氏に絡み始めた。あまりのことに、私の喉からヒッと変な声が出た。

三宮氏はうちの会社、つまり『やる気元気弁当』の大口取引先であるSYアセットマネジメントの社長だ。取引先の社長の自宅に酔って押し掛けるなんて社会人でなくとも非常にまずい振る舞いである。


「ご、ごらああああ!こっ、ニキ、じゃなかった、た、たた武田先輩!!失礼ですよ!そのお方はなあ!うちみたいなブラック零細企業の従業員が気安く声をかけていいようなお方じゃないんですよ、すみませんすみません三宮さん!!」

あわててドアのチェーンをはずして出ていくと、さっそくニキビ先輩に胸倉をつかまれた。

「テメー、何を偉そうに俺に指示してんだ……このジャガイモブスが」

「ギャー!」

恐怖のあまり悲鳴を上げると、三宮さんがニキビ先輩の腕をつかみ上げた。

「あなたがどういう人なのか知りませんが、先生の創作活動に支障をきたすような行いはやめてください。警察を呼びますよ」

警察と聞いて、ニキビ先輩はちょっとおびえたような様子で私の服を離した。即座に三宮氏が私とニキビ先輩の間に体を割り込ませ、私を背中で庇ってくれた。

「テメー、このジャガイモブス。明日出勤したら覚えてろよ……」


先輩は小さくそう吐き捨てた。


その時、「たあくん!」と女性の声が廊下に響いた。

とっさにそちらに目をやると、そこには総務の女性がいた。彼女はいつもとは様子が違い、長すぎる黒髪をきれいに巻いて、いつもはすっぴんなのにメイクまでしていた。

私は先ほど彼女に「武田先輩が酔ってうちに来ました。急いで介抱しに来てあげてください」とメッセージを送った。彼女は「すぐに向かいます」と返事をくれたではないか。何化粧してんだ。

先輩は彼女の姿を認めた瞬間、一気に酔いがさめたような表情で「うわあああぁ」と声をあげた。今までこの関係に巻き込まれたくなかったので深くは追及してこなかったが、この二人は一体どういう関係なのだろう。



「私の婚約者がご迷惑をおかけして申し訳ありません。

今は本人がこの状態なので、後日改めてお詫びに伺います」


彼女は私と三宮氏に丁寧に頭を下げ、こそこそと逃げようとする先輩の手を握った。なんだ、会社で見るときは少し危ない人に見えたが、なかなか礼儀正しい女性じゃないか。


彼女はもうすでにニキビ先輩の嫁になったかのように丁寧に私たちに頭を下げ、ニキビ先輩を回収してくれた。


「もうこういうことのないようにお願いしますね」

三宮氏はニキビ先輩が何者なのかとか、女性が自分の会社の総務で働く人だとか、そういうことには気が付いていない様子でそういうと、彼らがちゃんとエレベーターに乗り込むのを見届けると、そのまま自宅に戻った。



まったく、ひどい目にあった。

ため息をついて玄関ドアを施錠すると、三宮氏と目が合った。

「先生」

「は、はい」

「あの人は誰なんですか。何かトラブルに巻き込まれているのではないですか」

「……」


彼はいつもと同じ穏やかな態度だった。

けれど、彼の表情からはこの問題をうやむやにはしないぞという決意が見て取れた。

「い、いやあの……なんでもないんです」

なんでもなくはない。実際、私の頭の中は明日からのシフトをどう乗り切るかでいっぱいになっていた。武田先輩はきっと今日のことを覚えているだろうし、たぶん報復してくるだろう。切り抜けられる自信がない。

「先ほどの方は先輩ということですが、学校の先輩ですか、それとも以前の職場の方ですか」

「……」

「答えてください」


私は渋々、仕事を始めたことを三宮氏に話した。新人ながらけっこう重宝されていて、忙しいことも話した。

本当はここを出ていくころにまとまった金額を渡して母のやったこと、私が三宮氏のカードで結構使いこんでしまったことをお詫びしたかったのだが、武田先輩のせいでまだ初給料をもらう前に三宮氏に私のやっていることがばれる結果となってしまった。

しかも、私は先ほど三宮氏の前で武田先輩に「ジャガイモブス」などと罵られてしまった。私がブスなのは三宮氏もよくわかっているだろうが、改めて他人からブス呼ばわりされているところを三宮氏に見られてしまうのは心が痛かった。なんかもう……私がかっこよかったことなんて一度もないけど、でもかっこ悪いことこの上ない。


三宮氏は私の話を黙って聞いていたが、やがて言った。


「それで、漫画のほうは」

「……えっ」

私は朝の7時から早くて午後三時、下手をしたら夜の九時くらいまで働いている。この上漫画を描く時間なんてあろうはずもない。

「漫画を見せてください」

「……いや、漫画は、まだ」

「読める形になっていなくてもいい、見せてください」

彼はそう言い切ると、「出すまで待つ」と言わんばかりの態度でリビングのソファに腰かけた。


私はしぶしぶ部屋に行って、自分のデスクの上に散らかしたままのコピー紙をリビングに持ってきた。コピー紙には絵が下手になってしまった自分の練習として書いた数種類の落書きと、プロットらしきもの。

三宮氏はそれを受け取って「拝見します」と言ってしばらくそれを眺めていた。


私はただただいたたまれなかった。

その気持ちは初めて経験するものではない。昔、そう。私がまだ小学生だったころ、夏休みや冬休み、長期休みの終わりには必ず親が私を呼び、宿題の進捗を尋ねるときの気持ちに似ていた。


私は絵を描くこと以外に何の興味も示さない子供で、勉強も大嫌いだった。当然夏休み、冬休みの宿題は始業式前日になってもまだできていないということがよくあった。私はそのたびに両親に叱られた。

毎回叱られて泣いて反省するのに、次の休みに入るともうすっかりそのことは頭の隅に押しやられ、私は同じことを繰り返した。

今から思えば小学生の勉強なんて特別な才能なんて必要ない。コツコツ少しづつ頑張れば十分夏休み中に終わらせられる内容だった。それなのに私はまたこっぴどく叱られてしまうことも、新学期が始まって早速先生にみんなの前で叱られる恥ずかしさも十分にわかっていたはずなのに、私は毎度毎度同じことを繰り返し、高学年になるまでそれは治らなかった。


たぶん、三宮氏はもうすでに私のこのだらしない性格に気が付いているだろう。

出来たところまででいいから。漫画を見せろと言われては取り繕うこともできなかった。

私は二十年ぶりくらいに、九月一日に教室で味わった恥ずかしさ、いたたまれなさを味わっていた。


三宮氏はそれほど枚数も多くない私の落書きと、断片的な単語を書き散らしただけの私のプロットをすべて見て、そして私を見上げた。

「少しも進んでいませんね」

「……すみません」

「あなたをここにお招きして一か月半が過ぎました。お約束いただいた期間の半分です。

僕の目からは、あなたの作業は少しも進んでいるように見えません。それに、僕の目にはあなたが真剣に漫画に取り組んでいるようには見えないのです。僕は漫画制作に携わったことがないので、じっさい、漫画が出来上がるまでにどんな作業が必要なのかは知りませんが、これは……。

このままでは期間内に漫画が仕上がらないのではないかと思わざるを得ません」


思わざるを得ませんというか、まさにその通りだ。

私はもうすでに『君と僕の街』の続きを書くことを、夏休みの宿題同様完全に忘れ、今は借金を返すことばかり考えている。


「……すみません……」


「何に対して謝っているのですか」

「漫画、描けない事です。

私、もう描けないんです。絵も、ちょっと描かない間に自分でもびっくりするくらい描けなくなっていて……漫画を描くどころじゃなくなっていて。

多分もう描けないと思います。だから、ごめんなさい。お金は返します、働いて」

「待ってください。100万は返さなくてもいいと言いましたよね」

「それは、聞きましたけど。やっぱり返さなきゃと……三宮さんもその方がいいでしょう?」


私の言い分を聞いて、三宮氏は黙り込んだ。

そして少し考えてから、顔をあげた。癖のない黒髪から落ちる陰で、表情が見えない。

「座ってください。このままでは話ができない」

私は言われるまま彼の斜め向かいに座った。

「僕の希望は少しもあなたに伝わっていなかったみたいですね。

どう説明すればいいのか……」

彼は短くため息をついた。仕事を終えて帰ってきた彼からはいつもの凛とした様子は消えて、ひどく疲れているようだった。私よりも長時間働いているのだから疲れていて当たり前だ。


「僕は、あなたの時間を三か月、買ったつもりでいたんです。三か月の間、まじめに漫画に取り組んでほしい。創作意欲を高めるために

外出することはいいと思います。声優のコンサートもいいでしょう。アニメイベントだって、先生がそれがリフレッシュできるのなら、何度行っていただいてもかまわないと考えています。

でも、あなたは100万円を返せばそれでいいと思っている。

そうじゃないんです。100万円なんて、先生が三か月漫画と向き合ってくれるのなら、安いものです。

本音を言えば、僕は、100万円なんて返ってこなくてもいいんですよ」



私だって描けるものなら描きたい。子どものころから絵を描くこと以外に得意なことは何一つなく、他のことは何をやっても人並み以下だった。いつも空想ばかりしていた。描きたい話がいくつも頭に浮かんで尽きることがなかった。

十歳くらいになって、他の子供とは少し違う自分に気づいたとき、私は自分が漫画を描くために生まれてきたんだと思った。それ以外に生きていく方法が思い浮かばなかった。

でも、高校を出て親の反対を押し切って飛び込んだプロの世界は厳しくて、その中で、私の絵は多分一番へたくそで、そして私の思いつく話は一番くだらなかった。漫画を描くこと以外をしてこなかった私の中は自分で思う以上に空っぽで、面白い話や魅力的なキャラクターの土台となるものが何もなかった。


自分には何もない。

そのことに気づいてから、暇があれば本を読んで、映画を見て、デッサンをして、有名漫画家の先生のところでアシスタントをして、漫画を描いた。努力すればいつかは。そう思っていた。

でも、同期デビューした理緒は次々と読み切りを雑誌に載せてもらっているのに、私は何度描いてもダメだった。焦って追い詰められて、逃げてひきこもって、それでも、同人誌からデビューした漫画家のことを思い、自分もいつかはと思った。けれど、素人の中でさえ私はだめだった。

10年やってダメだったことが、今更三か月でどうなるというのだ。


本当は私だって漫画家以外の何かになんてなりたくないのだ。

あんな変な先輩に朝から晩までブスブス言われながら、汗だくになってフライを作る仕事なんかしたくない。逃げたアルバイトに電話をかけて何とか出勤してくれないかと脅したりなだめたりする仕事なんかしたくない。

でも、社会に出た私には何もなかった。頭がいいわけでもないし何をやっても人並み以下だ。こんな私を雇ってもらえるだけで、残業代が付かなくても暑くても寒くても、何もできない私が雇ってもらえるだけ運がいい。



私は自分に対する情けなさから顔をあげることができなかった。子どものころからもっとまじめに勉強すればよかった。漫画家になんかなりたいなんて思わなきゃよかった。もっと親の言うことを真剣に受け止めなかったのはどうしてなんだろう。

自分とは対極の立場にいる三宮さんに叱られて、少しも尊敬できない先輩に馬鹿にされて、思い描いていた未来はもうどこにもない。


「すみません、

でも、私は、もう、漫画は描けないんです。

私だって、漫画家になれない自分の人生なんて想像したこと、なかったですよ……、料理は嫌いじゃないけど、あんな変な先輩にブスブス言われながら、学生に頭を下げて、バイトに来てもらうなんて、やってける気がしないですよ……でも、ニートよりましじゃないですか……」


この人は、人から容姿を笑われたことなんてないんだろう。

夏休みの宿題がいつまでも終わらなくて、泣きながら親に手伝ってもらったことなんてないんだろう。

学生アルバイトに頭を下げて出勤してもらえ、なんて言われたことはないんだろう。

「で、このテーマは何ですか」なんて、困惑の表情を浮かべた編集さんに言われたことはないんだろう。

何者にもなれないのがわかっていて、それでも働かなきゃいけなくて。働くのが怖くなったことなんてないんだろう。


私はこの人のことを何も知らないけれど、この人が挫折なんて知らないだろうってことはわかるのだ。

自分と真逆の人生を歩む人を見ていると、かえって自分というものがくっきりと浮かび上がってくる。友達だと思っていながら、いつまでも罪悪感を抱えながら、それでも莉緒と連絡が取れなかったのは、ダメな自分を意識したくなかったからだ。それなのに、私は今また三宮氏という、自分とは対極の位置にいる人と向かい合っている。

私は今、猛烈に恥ずかしかった。私以外の誰かに慣れるのなら誰だっていい、普段は目をそらしているその願いを再び強く願ってしまうほどに。


はっと気が付くと、私はうつむいたまま涙を流していた。

こんな時、泣くなんてどうかしてる。ジャガイモ似のもう若くもない女が泣いたって、見ているほうは嫌悪感が増すだけ。わかっている。優しくされたくて泣いてるんじゃない。私ってかわいそうでしょアピールでもない。でも、私はこんな風に自分という人間を意識した時、涙をこらえることができない。

神様なんか信じてはいない。でも、こういう時、私は心の中で思いきり神様を罵ってしまう。

どうして私なんか作ったの。私は私以外の人間に生まれたかった。私は私が嫌いだ。


「漫画なんか、描けないんです。元からっ……。ずっと、描けるような気がしていただけ。

自分だけが、勘違いしてて。でも誰も教えてくれなかった。勘違いだよって、教えてくれる人なんかいなかった」


お前に才能なんかないよって、早めに教えてよ。どうして編集部の人は、明らかに才能なんかない私の漫画を真面目に読んで、いちいち批評するの。どうして漫画家になりたい人みんなに門戸を開くの。そのせいで、私はもう取り返しがつかないじゃないか。

神様と編集者を、何度心の中で罵ったか知れない。こんなのひどい八つ当たりだ。わかっている。わかっているけれど、私は弱い人間だから、かっこ悪い自分を誰かのせいにして、悲しみを怒りに変えることでしか涙を止めるすべを知らない。

ぎゅーっと奥歯に力を入れて、嗚咽をかみ殺した。必死だった。

泣くなんて、ますますかっこ悪い。


「描けない……。もう、描きたくない、すみません」


ぽとぽとと音を立てて、私のジャージに涙のシミができた。

そのとき、三宮氏の動く気配を感じた。落ち着いたグリーンノートとかすかなシトラスのまじりあった香りが近くなった。思わず顔をあげると、三宮氏の美貌が息も触れんばかりの距離にあった。

「さ、さんの」

驚いて瞬きをすると、ぽろっと一粒涙がこぼれ、鼻のわきを流れて唇にたどり着いた。

次の瞬間、三宮氏の骨ばった手が私の頬に触れ、彼は静かに私の唇にひっかかった涙のしずくを唇で吸った。

誰かにそんなことをされたのは初めてだった。思わず身を固くすると、彼はもう一度強く唇を押し付けてきた。


う、うそ……。


何となくお察しくださっている方もいるだろうが、私はこの年にして男性と唇を触れ合わせる、すなわち……世にいうキスとやらの経験はない。

しかし私は今まで何度も何度も何度も何度もエロBLを熟読してきた身であるからどうやってキスをするのかについての知識はある。

つまり、あれだ。上の唇に軽く歯などたてて甘噛みをし、次に下唇に同じことをする。しかるのちにちょっと唇を開いて迎撃態勢を整え、相手が舌を突っ込んできたら、絡めるのである。キスと一口に言ってもいろいろなやり方があるが、私の蓄積した知識の中ではこの段取りがもっともこなれていてかつ下品ではない。もちろんいくつかイメトレをした結果、そう結論を出しただけであるから実際はどうかは知らない。


オーケオーケー、いける!ハウツー上の問題はこれで問題はない。問題はないが、しかし……三宮氏?

なぜ三宮氏が私にキスなどするのだろう。私はブスだ。三宮氏はイケメンだ。世にブス好きの男性もいるというのは知識としては知っているが、しかし今の話の流れにキスをするようなフラグがどこかで立っていただろうか。さっきまで私は三宮氏に説教されていた、ような……違ったのか?


頭の中は真っ白なのに、私は必死になってこの状況を理解しようとしている。キスの時は目を閉じるものだという基本中の基本もすっかり頭からすっぽ抜けていた。私は茫然と三宮氏の伏せたまつ毛の長さに驚き、その手が静かに私の背に回り、私の体を抱きしめるその腕の温かさ、女の腕とは違うかたい感触にただただ驚いていた。


三宮氏はそこで少し顔の角度を変えた。

キ、キターーーーー!!

し、舌がっ、三宮氏の温かい舌が私の唇を割って、割って……。


「おふっ、」


私はむせ返りながら彼の体を押しのけた。

三宮氏は驚いたように私の体を離した。


私たちはお互いに大きく目を見開いて互いを見、そして、次第にどうしようもない困惑と恥ずかしさがこみあげてきた。三宮氏の白い肌も一瞬にして真っ赤になった。

「す、すみません。僕は、こんな、こんなつもりじゃ、」

私は何度も何度もうなずきながら、自分の顔の下半分を手で覆った。驚くほど顔が熱い。

三宮氏の悪気がないのは何となくわかる。そして、彼自身が衝動的にそうしてしまったのだということも何となく理解した。

途端に、私はこの場にいてはいけない気持ちになった。どうしたらいいのかわからない。


「や、その」

私はもぐもぐと口の中で言い訳を口にして、そして、逃げた。

自室に逃げ込んだのだ。


自室に逃げ込んだ私はベッドに突っ伏して呻いた。

「おふっ」ってなんだよ!は、初めて男の人に、キキキキスされて、出てきた声が「おふっ」ってなんだよ!!もっとこう、エロ小説みたいに「あんっ、」とか「……っ、」とか色気のある声が出てもよかっただろうに、なんなの、自分にがっかりだよ!!あと、これは私はたぶん悪くないけど口臭!


私は涙目になって自分の手の甲を舐めた。そして数十秒待ってから自分の舐めたところを嗅いでみた。

「くっせ!」

ここのところストレス一杯の環境で働き疲労をためていたせいか、私の口臭は電車等でたまにおじさんから漂ってくるそれに酷似しているような気がした。企業戦士の諸兄方と同じ匂い、ですか……。ニートなのに。


今日、私は新たに心の傷を負った。まさかこの年にしてこのタイミングでこの相手とファーストキスを経験することになるとは思わなかったがまあそれはいい。べつに私の唇は28年間守ってきた唇ではなく、28年間誰にも見向きもされなかった唇なのだ。自分で言うのも悲しいが、私の唇には価値がない。しかし、そんな私にも一応羞恥の感覚はあるのだ。三宮氏は絶対に私の口臭に気づいただろう。あ、こいつおっさんの匂いだって絶対思ったよね、そうだよね!!

たぶん、私は今後、何か唇を想起させるものを見たり聞いたりするたび、いや、妙齢の男を見るたびに今日のことを思い出すだろう。「おふっ」って言った事とこの口臭!!


「うわあああああ!死ね!自分死ね!!」

両手で顔を覆ってゴロゴロと転がっても足をじたばたさせてもこの全身をあぶられるような耐えがたい羞恥はなかなか消えなかった。

なぜ食べたらすぐに歯を磨かないのか!私という人間は本当にだらしない。小学生のころから夏休みの宿題を(以下略)!!


あまりにも勢いよく転がって勢いでベッドから落ちた時、私の部屋のドアがノックされた。


「……あの、先生。少し話をしませんか。入ってもいいですか」

「いやっ、それはっ、あのっ」

「では、そのまま聞いてください」


「今夜のことは、本当に申し訳ありませんでした。決して、先生をアーティストとして侮ったわけではなく、自分でも、何が何だか……。

でも、先生を敬愛する気持ちは変わりません。本当です。お詫びします。……申し訳ありませんでした。

それから……、

先生のお仕事のことですが」


「僕は、先生の漫画が諦めきれません。どこかで働くことで創作のインスピレーションが湧くというのならそれもいいのですが、現状そうではないようですので、少なくとも僕との契約期間が終わるまでは副業は控えていただきたいいのです」

「えっ、でも」

私は漫画は描けない。もう描けなくなってずいぶん経つ。その間、私なりにどうにかしようとしたのだ。でも、できなかった。

「描けない、そうおっしゃるのでしょう。わかります。でも、契約期間の間は描こうとしてください。

苦しいことかもしれませんが、お願いです。

僕は、先生が他の仕事をして得たお金はたとえ一円だって受け取りたくありません」


私の漫画の何がそんなに気に入ったのだろう。不思議でならない。


「もし、僕がここで一緒に暮らしていることで先生の気が散るというのなら、僕がどこか別のところに移ってもかまいませんし、先生にいふさわしいもっとちゃんとしたアトリエを用意してもかまいません。ですから、もう少しの間、僕があなたの漫画を諦めきれるまで、……漫画に集中してください」


「や、あの、移るって、なにもそこまで」

私だってかつては東京で一人暮らしをしていたのだ。たとえ狭くて古いところであっても部屋を借りるとなれば結構な出費と手間がかかる。ただでさえ100万円の負い目があるのにそこまで経費をかけさせてもいいのだろうか。小金でBL本やコンサートチケットを買うのとはわけが違う。

「でも、僕は先ほど先生に失礼なふるまいをしてしまいました。もちろん僕は反省していますが、しかし、一度そういうことのあった僕と同居では」

「あ、や、だ、大丈夫、なので。あのことは私も忘れますから、三宮さんも、さっきのことは忘れてください」

ドア越しにそう言うと、彼はしばらく沈黙した。互いの顔が見えないので、私のこの真っ赤になった顔を見られてしまうことはないが、しかし彼が今どんな顔をしているのかを知ることもできない。ドアを開けるべきか逡巡しているうちに、彼が返事をした。

「……わかりました。では、当面の間、先生のアトリエはここで、僕の住居もここ。

そういうことにしておきましょう。でも、もし僕のせいで集中できないようなことがあれば、遠慮なく言ってください」

「わ、わわわかりました」

「それでは、おやすみなさい。……いい夢を」


彼の足音が遠ざかっていく、私は自室のドアにぴったりと耳をつけてそれを聞いていた。やがて、彼の部屋のドアが閉まり、シャワーの音が響いてきた。私はここに来て初めて自分が生身の若い男と一緒に暮らしていることを意識した。三宮氏は初めて会った時から皺ひとつないシャツに趣味のいいネクタイを合わせて、決してTシャツとかパンいちとか、そういうくつろいだ姿は見せたことがなかった。けれど、その隙の無い格好を剥いたら彼だって若い男なのだ。シャワーを浴びるときは当然、ハ、ハダカになったりもするわけで。


そこで私は初めて三宮氏の裸を想像してしまい、うめき声をあげた。自分が気持ち悪い。

恥ずかしながら、私は今までエッチな漫画や小説はたくさん読んできたし、その中で若い男性の裸についての描写も100回以上見てきた。いまどきドラマや映画における男性のギリギリショットももはや珍しいものではない。したがって若い男の裸は私にとっていわば見慣れたものであって、ライフワーク的立ち位置にある。しかし、身近な男性の裸については父親の横チン以外に目にしたことはなく、まして自ら脳内で知人男性の全裸を想像したことは一度もない。しかし、28歳にして私はついにそれをやってしまった。しかも、何度もその妄想を脳内から追い出そうとしても、まるでまぶたの裏に焼き付いたように消えない。


ただ仕事の関係で同居している私がこんな不埒な想像をしているとは、さすがの三宮氏も思うまい。そしてもし何らかの事故でそれを知ってしまったら、たぶんそんな私をキモいと思うだろう。私も、もし三宮氏にそんな妄想をされていたとしたら、いや彼が私の全裸など想像しても何のメリットもないのは十分理解しているが、万一……万一彼がそんなことをしていたとしたらショックで人間不信に陥ってしまいそうだ。

だから、淑女のマナーとしてやってはいかんと思うのだが、しかし気を抜くとついそっちのことを考えてしまう。


「キモい!キモすぎる!!」

私は悲鳴を上げてベッドの中に逃げ込み、頭から毛布をかぶってぎゅっと目を閉じた。

きっと今はあのキスのせいで平常心を失っているのだ。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前っ!臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前っ!臨・兵・闘・者……」


私は毛布の中で芋虫のようにまるまって手で九字(九字護身法。)を切った。むかし好きだった忍者アニメの影響で覚えたものだ。私は何の修業をしたわけでもないのでこれをすることによって何かが起こるわけではない。でも一応、これを熱心に唱えているうちに手が温かくなって眠くはなるのだ。寝ろ、寝るのだ自分!寝てすべてをなかったことにするのだ!



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