第八話 二人で現実逃避


ぐっすり眠ったあとのすっきりとした目覚めは素晴らしいものだ。

事件の翌朝、私は意外とすっきりとした気分で目覚めることができた。そして十分な睡眠はブラック企業の社員にとってはすなわち大遅刻を意味する。


ベッドサイドのテーブルにあるはずの携帯はいつの間にかラグの上に落ちていて、ひっきりなしに振動している。

おそらくいつまでたっても出勤してこない私に、先輩が何度も何度も電話をかけてきているのだろう。

おそろしい。今すぐ携帯に出て謝るべきなのはわかるが、しかし嫌だ。携帯に出たくない。


いつも人手不足で社員一人一人の長時間労働が当たり前になっているうちの会社では、遅刻と無断欠勤はよくあることだ。そして、その遅刻や欠勤よりももっとよくあるのは新人がある日突然出勤してこなくなることだ。


突然出勤してこなくなった人たちが悪いとは思わない。

わが社の社員の給料を労働時間で割ったら、たぶん時給は400円くらいじゃないだろうか。最低時給をはるかに下回る給料。べつにここを首になっても労働者側は困らない。というかどこに就職したってここよりはましである。


しかしすでに会社の洗脳が進んだのか、私の権利意識は腐り始めているらしい。

私はあわてて立ち上がり、携帯を耳に当てた。


「あ、先輩、サーセンっした!今起きました!!」


電話をかけてきていたのはやはり武田先輩で、何を言っているのかわからないほど激高している。

彼は社会人としてどうこうと怒鳴っているっぽいが、そもそも人間とは疲れれば寝る生き物だ。社会人だろうが大統領だろうが人間である以上寝過ごすときは寝過ごすだろう。「社会人」とはロボットの異称ではない。はずだ。

そもそも酔って後輩の家に突撃してくる先輩だって褒められた社会人ではないのだから私がちょっぴり二時間ほど寝坊したからってそんなに怒るのは筋が通らない。


しかし怖ろしいことに、腹の中では先輩と会社に毒づきながらも私の口は勝手に謝り、体は勝手に頭を下げるのである。


「はい、はい、サーセンっした!すぐ出勤し、」

ぺこぺこと頭を下げていると、不意に私の部屋のドアが開き、スーツ姿の三宮氏が部屋に入ってきて私の携帯を取り上げた。


「昨夜はどうも。僕は遠藤麦子の友人で三宮といいます。

いえ、遠藤麦子はもう本日は出勤しません」


「えっ、ちょっと三宮さん!」

彼は携帯を奪い返そうとする私をさっとよけた。

携帯からは先輩の怒鳴り声が漏れ聞こえてきて、私は反射的にぞっとした。先輩の怒り方は瞬間沸騰型だが、彼は瞬間沸騰型の人に多くあるように怒るだけ怒ったらすぐに機嫌を直すというタイプではない。怒るだけ怒って、怒りの嵐が過ぎ去ると、ことあるごとに人のミスを持ち出してネチネチといびり、パン買って来い、キャバクラおごれなどと言うクソ中のクソタイプ、つまり人間として最悪の怒り方をする人間だ。


三宮氏はチンピラのように怒鳴り散らす先輩を恐れることなくぴしゃりと言い返した。

「あなたにそんなことを指示する権利はありません。

とにかく彼女はもう出勤しません。彼女に用がある場合はうちの弁護士を通じて連絡をください」

三宮氏はまだ何か言っている先輩を無視して通話を切り、携帯の電源そのものを落としてしまった。


「さ、三宮さんっ、……ヤ、ヤヤバいですよそれ!先輩は」

「いえ、これでいいのです。あなたはここで漫画を描くのが仕事です。副業は禁止しませんが、本業に影響が出るようでは困ります」

彼はそう言いながら、かすかに微笑んだ。

「さて、昨夜はよく眠れたようでよかったです。顔色もいいですね。

今から何か食べに行って……、それから、少し夏服をそろえませんか。失礼ですが、お手持ちの洋服では少し不自由かと思いますので」

「いやいや、そんなことよりも仕事に行かなきゃ。ティラピアは私の担当なんです、ティラピアがないと三宮さんだって困るんですよ?」

「なぜ僕が困るのですか」

「うちの会社で作るお弁当はSYアセットマネジメントにも、お、お、卸しているんですよ。私がティラピアを揚げないと、三宮さんの会社だって困るんです」

それを聞いた瞬間、三宮氏の切れ長の瞳が大きく見開かれた。

「……そうだったんですか……!

僕はお弁当を利用していないので知りませんでした。あれは社員向けの福利厚生制度の一部で、」

「そうなんです、わかっていただけましたか。それじゃ、私は仕事があるのでこれで!」

走って部屋を出ていこうとすると、三宮氏が私の腕をつかんで止めた。


「先生の手作り弁当を食べ損ねたのは非常に残念です」

いや、手作りじゃなくて冷凍のティラピアを煮えたぎった油に突っ込むのが私の仕事であって、他のおかずは他の人が担当している。

「いや手作りじゃなく私の担当がティラピアで、」


急いで出勤しなければいけないはずなのについ振り返ると、彼はやっぱりいつもの上品な笑みを浮かべている。


「先生の手作り弁当が食べられないのは残念ですが、やはり先生には少し休養を取っていただき、それから創作活動に専念していただこうと思います。あのブラック企業のことはすべて僕にお任せください。けして先生がお困りになるようなことにはしませんから」


三宮氏はすでに『やる気元気弁当』をブラック認定したらしい。判断が早い。ちょっと判断が早すぎるんじゃないかと怖くなるほど早い。


「で、でも。三年以内に離職したら罰金があるとか言われてて、今やめるわけには」

「そういう書類にサインをしたのですか」

彼は切れ長の目を細めた。そういう表情を浮かべると、彼はいつもの柔和な彼ではなくいかにも頭のいいきつい人という印象に変わる。

「口頭で言われました」

「おそらく支払い義務はないでしょう。ですが、もし支払い義務があったとしても、僕が払います」

「い、いや。そんなたびたびお世話になるわけには、さすがに」

彼は手で私を制した。

「僕との契約のほうが先だったのですから契約期間が終わるまでは創作活動が優先です」


それを言われてしまうと、私には「すみません……」とうなだれるしかない。弁護士なんて言葉が飛び出すということは、私は「やる気元気弁当」で稼いだ以上に三宮さんにお金を使わせることになってしまいそうだ。彼に少しでもお金を返したかったから、だからアルバイトの時点でうっすらとブラック臭を漂わせていた「やる気元気弁当」で働き始めたというのに、これではただトラブルを起こしただけだ。


「すみません……」


私は何度も三宮さんに頭を下げた。たぶん、彼は私の頭が少々鈍いことに気づいているだろう。長いニート生活のせいで社会性を失っていることも。情けなくて恥ずかしくて顔をあげることができなかった。今までさんざん格好の悪いところを見せてしまって、迷惑をかけて、いいところはひとつもない。


「悪いという気持ちがあるなら、これからはなんでも話してください。困っているときも、そうでないときも」

私の頭の上に、彼の大きな手がそっと乗せられた。


何でも話せと言われても、もう恥ずかしすぎて自分のことなど何も話せそうにない。当たり障りのないこと以外は。

けれど、こんなに迷惑をかけた相手にそんなことが言えるはずもない。私は何度もうなずいた。

「はい、わかりました」


また三宮氏に迷惑をかけてしまった。

とにかくおとなしくしてトラブルを起こさないようにしなきゃ。

しかし、三宮氏は切れ長の目を細めてじっと私を観察していた。


「その返事はわかっていないでしょう」

「えっ、」

顔をあげると、三宮氏は私に顔を寄せて、うつむいた私の顔を覗き込んでいた。

「妙に物分かりのいい返事をする人は、だいたい何もわかっていないんです」

彼はいたずらっぽくそう言ってふふっとかすかな声をたてて笑った。

「どうしてわかるのかというと、僕がそうだから」

「ええ?三宮さんが、」

三宮氏は少し眉根を寄せて、私の口に人差し指を押し当てた。


「少し落ち着きましょう。そして気分が落ち着いたら、また何か描きたいと思うかもしれません」


彼は私に顔を寄せて私の目を覗き込んだ。私もそのまま三宮氏の目を見つめていた。

不思議な人だ。

大きな会社の社長で、忙しくて、私よりもずっと広い世界で、たくさんの優秀な人に囲まれて生きているのに、私みたいな馬鹿で臆病でだらしない人間を拾ってきて「漫画を描け」という。この人はもう何度も私のカッコ悪いところを見てきて、そろそろ私がとんでもない馬鹿だってことはわかっているはずなのに。


「何か飲んで、それから朝食をとりましょう。きっと気分も変わります」



リビングのガラステーブルの上には、家政婦さんが作りおきしておいてくれた朝食が二人分揃っていて、傍らには三宮氏がアイスティをグラスにいれて置いてくれた。前から気づいていたけれど、彼は非常にまめな男性だ。比較対象が私の父親といとこの忠行のみなので少しサンプルが少ないけれど、それでもまめだと思う。本来、居候の私が彼にお茶を入れるべきではと思うのだが、いつも手を出す隙がない。私がまごついているうちに、彼はさっと飲み物を淹れ、カトラリーをセットしている。

一人暮らしなのに、どうしてこんなに気が細やかなのだろう。


二人で食事をしながら、私はいろいろなことを考えた。その大半は三宮氏のことだった。

三宮圭。SYアセットマネジメントの社長。年齢は知らない。でもたぶん私と同じくらい。毎日とても忙しくて、朝は7時前に出勤、夜は11時ごろに帰ってくる。趣味は知らない。家族がいるのかどうかも知らない。そして、普段は漫画を読まない。でも私の漫画は読みたいみたいだ。


一か月半も同居しながら、私は三宮氏の事をほとんど知らなかった。

でも、この人が私の漫画を好きでいてくれるというのはたぶん本当のことなのだろう。もう描けないのに、それでも私に期待してくれている。その期待は重いけれど、嬉しくもある。そしてすごく寂しい。もう描けないということがたまらなく寂しい。


「先生。今日、僕は休みを取りました。何かお手伝いできることがあれば、」


彼がそう言いかけた時、また私の携帯が鳴った。私に電話をかけてくるといえばニキビ先輩に決まっている。

やる気元気弁当がブラックなのはまったく三宮氏の言うとおりだけれど、でも、ニキビ先輩だって同じ環境で働いていて、今日私がいきなり抜けたことで彼にしわ寄せが行くのは十分に予想できる。

ニキビ先輩は酔って後輩の家に押し掛けるようなパワハラ野郎だけれど、私の仕事を代わりに背負う彼に「ざまあみろ」という気持ちにはならない。たぶん、今後、彼とどこかで偶然に会うことがあったら、私はこそこそと彼に見つからないように逃げることだろう。私は悪くない、と言いたいところだけれど、やっぱり少しは悪いと思う。だからと言って今から会社と先輩に謝ってあの環境でまた働こうというほど腹をくくることもできない。こういうところが私のだめなところだ。何もできないしする気もないくせに、いつまでもくよくよしてしまう。


私はちらっと携帯を見たけれど、出ようとはしなかった。携帯はしばらく鳴っていて、そしてやがて静かになった。

「気になりますか」

「……」

彼は立ち上がって私の手を取った。

「気分転換に、少し遠出をしましょう」

「え、」

「描けないんでしょう?家で座っていてもできないのなら場所を変えましょう。温泉はどうですか。文豪が温泉地で書いた作品を読んだことがあります」

「え、え、わ、私は文豪じゃありませんけど」

私は文豪どころか、むしろ日本語が不自由な部類の人間だ。

「きっといい気分転換になりますよ」

「いやでもティラピアが、ティラピアが」

「ティラピアのことはいったん忘れましょう。創作の妨げになります」





濃い夏の緑が後方に流れていく。

車の窓を開けると、山の匂いがした。


三宮氏のマンションはセントラルヒーティングで常に適温が保たれているので、決して暮らしにくかったというわけではないが、何が違うのか、山の空気を吸った途端、胸に詰まった何かがすうと抜けていくようだ。

すごく気分がいい。本当に三宮氏の言う文豪も、こんなさわやかな空気の中で小説を書いたのだろうか。


「この先に温泉旅館があるんですよ。そこの温泉は戦国時代に傷ついた武将が傷を癒すために立ち寄って、普通ならば後遺症の残るような大きな傷を一か月ほどで治したという伝説があるんです」

「く、詳しいんですね」

「ガイドブックに載っていました」

少し開けた窓からさわやかな風が入ってきて、彼の癖のない髪を揺らしている。彼は気分がよさそうだ。

一方私も気分はいい……はずなのだが、じつは悩んでいた。



温泉。

三宮氏に引きずられるようにして車に乗り込んだ時はティラピアのことが気になってそこまで考えなかったが、黙って助手席に乗っているうちに私はある考えに取りつかれた。


温泉って、温泉だよね?あの、裸になってはいるお風呂……。

私の隣で車を運転している三宮氏もさすがに風呂ともなれば服を脱ぐだろう。つまり、私が昨夜うっかり妄想してしまった三宮氏の全裸が現実のものに……。


OH……。そんなものをタダで拝ませてもらっていいのか。いやそれ以前に三宮氏が脱ぐということは私も脱がねばならんのか。はっきり言って私の全裸は持ち主の私が思わず目をそらすほど悲惨なものである。私の裸はなぜか理由もなく例のあの部分やこの部分がドス黒いのだ。もし私よりも三宮氏の例のあの部分がピンクだったりしたら……、その可能性は高いぞ、三宮氏の手や顔は普通の人よりもどちらかというと白い。


別に自分の体なのだから自分の好きな色をしていて構わないのだが、しかし三宮氏がそれを見てどう思うかということが気になる。気にしたってしょうがないのにどうしても気になる。もしドン引きされたらどうしよう。


私はその恥辱(妄想だが)に耐えきれず、叫んだ。


「ああああああああ!!!」

「どうしました、忘れものですか」

「なんでもないです、ああああああああ……温泉……むり……」

「温泉アレルギーですか?」


私は助手席で丸くなって首を横に振った。三宮氏の裸は後学のために見ておきたいが、しかし自分の裸は見せたくない!!



「やだあああああお風呂やだあああああ」

「温泉に来ておいていまさらわがままを言わないでください」

「わ、わがままなの!?これってわがままなの!?水着買ってください頼むから……」

「水着……?温泉に水着の持ち込みは禁止ですよ」

「あああああああああああああああああ」

「あ、つきましたよ。古いですがいい雰囲気の温泉ですね」


確かに三宮氏の言うとおり、温泉旅館の建物は和洋折衷の古い建物で、よく手入れされた和風の前庭がなんともいえない情緒を演出している。こういう情緒はなかなか新しい建物では出せない。

置き石を踏みながら、私は道に影を落とす紅葉を見上げた。

三宮氏は私の視線の先に目をやっていった。


「この道は秋になるととてもきれいだそうですよ」

「……わ、私は、夏の紅葉も好きです。影がさらさらしてて、涼しげです」


何の気なくそう言ってしまってから、私は自分が「影がさらさら」という妙な表現をしてしまったことが恥ずかしくなった。

三宮氏はしばらく私の言葉の意味を反芻して微笑んだ。


「たしかに、さらさらしていますね」


まさか同意してくれるとは思わなかった私は、思わず横を歩く三宮氏の顔を見上げた。


……ああ、そうか。この人は私の漫画なんかを熱心に読んでくれる人なんだから、きっと私と似たような感性の持ち主なのだ。





向かい合って夕食を取りながら、私は一人で顔を赤らめていた。


私はなぜ温泉と聞いて混浴をイメージしてしまったのだろう。普通、温泉の浴場は男女が別になっているものだ。そりゃあ混浴もないではないが、付き合ってるわけでもない男女がいきなり混浴に入ることになる状況など、成人向けの何かでしか見ないシチュエーションだ。


「少しのぼせましたか?顔が赤いですよ」

「あ、いや大丈夫です。お酒も結構です」


かなり豪勢な夕食を前にしているというのに、私は味なんか少しもわかっていなかった。浴衣を着た三宮氏が私の正面に座っているのだ。彼が少し大きく腕を動かすたびに湯上りの良い香りが漂い、胸元のあわせがわずかに開く。オーマイガッ……!私は一体何をよからぬことを考えているのだ。先ほど打たせ湯を頭からかぶって煩悩を払ったばかりだというのにもう煩悩がカムバック!早い!!私、今まではどっちかって言うとそっちの方は控えめな女だと思っていたのに、三宮氏が出来心で、わ、私のく、唇を吸ったりするから!!あああ、また思い出してしまったではないか!!馬鹿!三宮氏も私もバカバカ!!


「少し窓を開けてもいいですか」


ああもう喋らないで!口を動かさないで!そういうのを見るたびにあのキスを思い出すんだよ!たぶん三宮氏はおろか、地球上の全男性にとってどうでもいい情報だろうから一生情報公開するつもりはないが、あれは私のファーストキスだったんだぞ!!


「ええ、どうぞ」


「先生、麦子さん。星がきれいですよ」


三宮氏は無邪気に夜空を見上げて喜んでいる。星空が見たいわけではなかったけれど、私もお付き合いで三宮氏の隣に立って窓から外を眺めた。

「わあ……」

そこには私の想像以上の夜空が広がっていた。

じっと夜空を見上げていると吸い込まれていきそうな、めまいがするような不思議な感覚にとらわれた。きっと三宮氏も同じようなことを思っているのだろう。私たちは黙ったまましばらく空を見上げていた。


「麦子さん。僕は昼間、嘘をつきました」

夜空を見上げたまま、彼がぽつりとひとりごとのようにつぶやいた。

「え、嘘?」

「はい」

「そうですか……」

私は三宮氏がいつ嘘をついたのだろうと、今日一日あったことを順に思い出していったが、彼がどこで嘘をついたのか、思い当たるところがなかった。


「僕がここの温泉について詳しいのは、ガイドブックを読んだからではなく、ここで育ったからです」

「ああ……」

私はここに来る途中、車内で交わした会話を思い出した。そういえばそんなことを言っていた。


「三宮さんって都会育ちか、もしかしたら外国育ちのイメージでした。ニューヨークとか」

彼はそれを聞いてかすかに口元に笑みを浮かべた。

「僕は典型的な田舎の子供でしたよ。坊主頭で、いつも虫取りに夢中でした」

「今の姿からは想像できないですね」


彼はどうしてそんな嘘をついたのだろう。田舎育ちを隠したかったのだろうか。


「YSアセットマネジメントで、このあたり一帯の開発を請け負うことになったんです」

「そうなんですか、あ、じゃあ今日の温泉旅行も、お仕事の下見ですか」

「半分はそうですが、本当は僕が自分で来る必要はなかったのです。

ただ、ふとここの景色が変わってしまう前に見ておこうかなと思ったんですよ。だから純粋に仕事というわけでもないのです」

「へえ……。懐かしいですか」

「どうかな……。複雑です。ここに住んでいた祖父母ももういないし、僕も変わってしまったし。もしここを離れることがなければ、僕はどうなっていたのか、温泉につかりながら少し想像してしまいました」

あああああ、私が温泉でよからぬことを妄想している間にこの人はそんな感傷的な時間を過ごしていたのか……!なんか、申し訳ない!!

「そっ、それで、三宮さんの想像では、もしここから引っ越さなかったら、どんな大人になっていましたか」

「地元の高校を卒業して、それから祖父の畑を手伝いながら、祖母がやっていた雑貨屋の手伝いをやっていたかもしれません」

「へえ、ご実家は農家だったんですか」

私の家も祖父の代までは畑をやっていたので、そういう話を聞くと、今までは「大企業の社長さん」だった三宮氏に親しみが感じられた。


「今日、この土地に戻ってみて……、

僕がここで暮らしていたころの風景がやはり、変わってしまったなと感じました。目まぐるしく変わっていく東京ほどの速度ではないけれど、それでもやはり、僕が暮らしていたころの雰囲気は、もうずいぶん薄れています」

彼は口元に微笑みをたたえたままゆっくりと話をした。彼の口元は形ばかり笑んでいるけれど、どこか寂しげだった。

この土地に来れば、昔自分が見た風景をもう一度見ることができると期待していたのかもしれない。


「そう、ですか……」

もっと気の利いた慰めの言葉があったのかもしれない。でも、私は何も思いつかなかった。思えば、私は人を慰めた経験が少ない。人付き合いがよくないので、誰かの心の中の話を聞いた経験も少ないし、自分の心の話は避けてきた。だから、こんな時に何を言えばいいのかさっぱりわからなくて戸惑うばかりだ。


「すみません、食事の途中でしたね。戻りましょう」

彼は何か言わなければと焦っている私を気の毒に思ったのか、さらりと話を変えて席に戻った。私は何か言うべきだと思いながら、何も言えないまま彼に従った。





糊のきいた旅館の布団はいかにもいつもの寝床とは違う感じがした。

なかなか寝付けないままに何度も寝返りを打って、私はとうとう無理に寝るのをやめ、布団の上に旅館のメモ帳をひろげた。いつもなら眠れないときはネットをするかBL小説でも読むのだが、あいにくここにはそんなものはない。


「坊主頭の虫取り少年はうそだろぉ……」

独り言を言いながら、なんとなくイメージした田舎の雑貨屋を描いた。


昔、うちの近所にも雑貨屋があった。田舎の雑貨屋というのはいろいろなものを置いている。食品、鍋、いつ仕入れたのかわからないような埃だらけの缶詰やカップ麺。昭和の雰囲気を残したカレーの看板。

元々、人物よりも細かいものの描写が好きな私は、思いつくままに田舎の雑貨屋にありそうなものを描きこんでいった。絵が八割ほどできてみると、昔、私の住む町にあった雑貨屋によく似ている。あの頃はただ通り過ぎるだけで気にもとめていなかった店なのに、こうして思い出しながら描いてみると案外自分はあの店をよく見ていたのだなと驚かされる。


私は絵を顔に近づけたり遠ざけたりして何度も線を書き足し、そして、苦手な人物にとりかかった。旅館のメモに書いた暇つぶしの落書きなのだか人物を書き込まなければいけないことはない。いつもの私ならばそこを避けて落書きを終わるところだ。けれど、その日は珍しく人物を書き込みたくなったのだ。


私ははじめ、店の入り口付近で商品を整える店主を描こうとした。けれど店主の姿を想像するうちに気が変わって子供の姿を描くことにした。

坊主頭の三宮氏だ。


昔の三宮氏かあ。今あれだけ顔立ちが整っているのだからきっと子供のころはもっと可愛かっただろう。

現在の三宮氏の身長は180センチ近い。背が伸びるときに成長ホルモンが作用するのは体だけではない。顔だってきっと縦に伸びたはずなのだ。ということは、彼は子どものころ、かなりの丸顔だったのではないだろうか。


目は切れ長で大きくて、鼻筋は細い。色白で、……そういえば色白の人というのは大抵日光は苦手で、すぐに顔が赤くなるものだ。例外もないではないだろうけれど、三宮氏はきっと日焼けで顔が赤くなるタイプにちがいない。あくまで見た目に基づく偏見だが、そういう偏見でいろいろと

想像しながら描くのは楽しい。

私はボールペンで三宮氏を描きながら、いつの間にかにやにやしていた。「社長」でもなければ「イケメン」でもない三宮氏。勉強は好きだったのかな、いたずらはしたのかな。


その夜、私は久しぶりに小学生の頃に戻ったような気持ちで絵を描いた。

絵を描くのが楽しくて、クラスメイトが入れ代わり立ち代わり私の絵を覗き込んで、口々に「スゴーイ」「上手」「漫画家になれるよ」と言ってくれた。私はそれまで将来はお姫様になると決めていたのに、クラスメイトのその一言で、私の夢は漫画家になった。描き続けて諦めなければ、いつか漫画家になれると信じていた。

あの頃のクラスメイト達の中で、地元に残った就職した子たちはみんな結婚した。進学や就職で都会に出て行った子たちはどうなったのか知らない。彼らは私のことを覚えているだろうか。覚えているとしたら、私はきっと漫画家になったに違いないと思っているのだろうか。


坊主頭の三宮氏を書き上げて、私は書き上げたメモを丸めて屑籠に投げ込んだ。そうすることでようやく枕に頭を載せて目を閉じることができた。

なんだか一仕事終えたような気分だ。



大人になってから思い出す子供の世界は、とても鮮やかで夢と希望に満ちている。当時は当時で嫌なこともたくさんあったし、毎日何かしらしでかして、大人に叱られてばかりの毎日だった。でも、ただ夢を見続けられていたというだけで、どうも私は幸福だったらしい。


変なの。

夢はかなわなかったし、私はあの頃のクラスメイト達の中で、きっと一番ダメな大人になった。

でも、そんな自分を思っても、今日は不思議と「しょうがないな」と思えた。わーっと大声で叫んで何もかも捨てて逃げたくなるような自己嫌悪はやってこなかった。


変なの……。




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