第四話 逃走を図るニート
ごみの日以降、私は私のマネージャー、つまり私の母、遠藤真美子と連絡をとることはできなかった。父についてもまた母と同じだった。
私の両親は、なんだかんだと言いつつも私の漫画家になる!という夢を仕送りという形で応援し続けてくれた。
そして、私が夢破れてのちもニート化した私を生温かく見守ってくれていた。
だから、きっと両親はちょっと私にお灸を据えるつもりで家を空けただけだろうと思っていた。しかし甘かった。
待てど暮らせど両親からの連絡はなく、今回こそ本当に私は親に捨てられてしまったようだ。つまり例の「ゴミ捨てついでにニートも捨てちゃえプチ詐欺事件(略称GNS事件)」は両親による教育的指導などではなく、我が子を巻き込んだ本気のプチ詐欺事件となってしまったっぽい。
不幸中の幸いというべきか、このGNS事件の被害者となってしまった三宮圭氏は100万円を騙し取られたところでたいして懐が痛んだ様子もなく、私が約束どおり漫画を描くよう鋭意努力していれば母を訴えることはしないつもりのようだ。私はこれ幸いと彼のバk……じゃなかった寛大な態度に甘え、彼の家でお世話になることにした。赤の他人の脛をかじることにしたのである。
親がプチ詐欺をかました相手の脛をかじる。実の親の脛をかじるのすら結構気を使うものなのだから、赤の他人の脛をかじるのはさぞ気骨の折れることだろう。いっそどこかで住み込みの仕事を見つけたほうが楽かもしれない。私はある種の覚悟を決めてこの居候生活を始めた。しかし、実際に始めてみるとこの居候生活は非常に快適であった。
一ヵ月後、私は当たり前のように某オタク向け有名書店秋葉原店にて人気
地元の本屋では買いづらいようなBLも、都会のオタク向け本屋では簡単に買えてしまう。なぜならこのコーナー周辺にいる何十人という人が私と同じような本、いやもっと過激な内容を含む本ですら平然と手にとってレジへと向かうのだ。そして、過激な本を受け取った店員は何のためらいもなく平然とそれらの本をレジに通すのだ。まるでコンビニで弁当を買うような気軽さである。こんな夢のような環境で私だけがBL本の購入を
ところで、ニートの癖に金はどうしたのかと聞かれる前に書いておくが、金の出所はすべて例のパトロン、三宮圭氏のカードである。
彼は
はじめのうち、私は彼の言ったことを限定的に解釈し、ネット通販などでポーズ集やデッサン用の人形などを購入していた。だが、やがて家の中にこもって描いている漫画には限界があるということに気付き、外に出ることにした。外出し、創作へのモチベーションをあげるべく活動する。これも広い意味では創作のための出費であろう。
結論から言うと、私の思いつきは正しかった。
いやー都会は刺激的だね!
私はかねてから興味を持っていた某アニメとコラボしたといわれるカフェにてアニメキャラをプリントしただけのホットケーキとコーヒーのセットに3000円を支払い、カップホルダーにキャラクターのセリフを書き込んだだけのMサイズドリンクに850円を支払った。あ、あと有名声優のイベントにも参加した。こちらのチケットは一万円を越えたが、詳細な金額や累計については考えないようにしている。
なんというか、(人の金だが)金があるというのはいいことだ。やりたかったことが何でも出来る。
今までは陰気でどことなく動作も緩慢だった私だが、このように取材活動とリフレッシュのためのティータイムを繰り返した結果、体力気力ともに充実し、心なしかボディラインもすらりとしてきたような気がする。もう少しこの生活を続けて私の精神に刺激を与えれば、きっと労せずして漫画も出来上がる、はずだ。
もちろん、私はプチ詐欺をやらかした母とは違って気の小さい人間である。はじめのうち、預かったカードを使う時には「人の金でデッサン集など勝手に購入してももいいのだろうか」と悩み、わざわざ三宮圭氏のオフィスにまで電話をしてお伺いを立てていた。
だが、私は学ぶことのできる女だ。カードを預かって一週間でこのようにカードを有効利用できるまでに増長、ではなく成長した。
一緒に暮らしてみて実感したことだが、三宮圭氏は私と同居して作品の進捗状況を確認したいと言っていたくせに、実際には本業が忙しくそんな暇はないようだ。
彼が何の仕事をしているのは未だによくわからないし当方も寸暇を惜しんでリフレッシュにいそしんでいるため調べもしていないが、彼は日付が変わってから帰宅することが多く、出張などで帰宅しないこともある。
つまり彼はあまり家にいないし、いたとしても入浴と睡眠のためだけに家に帰ってくるような生活を送っている。
彼は食事をとる時間も惜しいのか、出入りの家政婦さんが作ってくれたせっかくのおいしいご飯にも手をつけず残すことがある。翌朝、手付かずのまま残された夕食を黙って捨てる家政婦さんの気持ちを慮った私は、圭氏が残した夕食は責任を持って片付けることにした。私は無職のニートだが、心優しきニートなのである。
ここでの生活にすっかり慣れた私は、充実した毎日を送っていた。
毎日午前中のみアニメを見て過ごし、午後はオタクの集まる界隈で漫画のネタ探し(笑)にいそしみ、そして午後八時ごろに帰ってくる。そして以降はBLを賞味しつつ家政婦さんの用意してくれた夕食をいただき、風呂に入ってゲームをするか買ってきた本を読む。
潤沢な資金があり、いつでも秋葉原に行けるような都会に住み、望めば(パトロンのカードで)なんでも手に入るこの状況において、一番惜しいもの。それは私の時間だ。私は今、ニート時代とは全く違い、一分一秒を惜しんでオタクライフを全力で楽しんでいた。
そんな忙しい私が今最も嫌うもの、それは私のスケジュールを乱す突発的な何か、であった。
その日は平日だった。
このマンションに居候し始めて以降の私の統計調査によると、三宮氏の帰宅はほぼ日付が変わって以降に集中している。そういう帰宅の遅い夜、私が自室にこもって寝たふりさえ決め込んでしまえば三宮氏は決して私の安眠を妨げない。
ここは彼の自宅だというのに、三宮氏は帰宅の際、足音さえはばかって静かに過ごし、彼自身も早々に眠りについているのだ。
だから、その日は平日ということもあって私は安心しきっていた。三宮氏は今日も午前さまであろう、そして私は彼と顔を合わせることなく一日を終わるのだろう、と。
しかしその日、帰宅した私を玄関で待ち受けていたものは、三宮氏の革靴であった。
三宮氏に会わない生活にすっかり慣れきっていた私は、そのきちんと揃えて置かれた革靴を見た瞬間、その靴を二十秒ほどただ黙ってそれを眺めた。
嫌な予感がする。
そっとリビングに入っていくと、三宮氏は立ち上がり、にこやかに私を出迎えた。
「おかえりなさい、先生。長い間家を空けてしまって申し訳ありませんでした。僕の都合で申し訳ないのですが、やっと少し仕事が落ち着きましたので、一緒に食事でもと思ってお待ちしていました」
「あ……はあ……」
久しぶりに顔を合わせる三宮氏は相変わらず上品でスマートであった。
一方私はアニメキャラがプリントされた大きな紙袋を両手に提げ、重い荷物を持って歩き回ったために安物のTシャツに大きな汗ジミをこしらえていた。自分で自分をなんとなく汗臭いなと思うくらいだから三宮氏の感じたであろう異臭は相当なものだっただろうと思う。
しかし、普段から紳士らしい振る舞いを崩さない彼はこの時も社交的な態度を貫き、私を汚物としてすみやかに廃棄するようなことはしなかった。
「先生、お荷物をお運びします」
彼はさっとたって私の手から紙袋を奪おうとした……が、私は学生時代に
かつて、私は何度もこうやって半笑いのリア充どもの魔手から自分の創作物を守ってきたのだ。そうそう自分の持ち物をリア充などに渡しはしない。
「い、いや、自分で運ぶでっ……」
「……そうですか?随分重そうに見えますが。
ではお待ちしています。今日は銀座のラ・レーヌの予約が取れたんですよ」
何かいいことでもあったのか、彼は非常に上機嫌だった。
ラ・レーヌとはいったい何料理の店なのか、とんと見当もつかないが、しかしこのままこのリビングにいてはエロBL大量購入の件がいつばれてしまうとも限らない。
「わー嬉しいなーたまに外食するとリフレッシュしますよねー……」
私は引きつった愛想笑いを浮かべながらじりじりと後ずさりした。こういう時、敵に背中を見せるのは愚か者のやることである。
まったく、家に帰って即エロBLの読書会を開催しようと思っていたのに、そんな日に限って三宮氏が早く帰宅しているとは。全くの計算外であった。
ったくよー、ラ・レーヌだかラ・セーヌの月だか知らないが、私のような味もわからなけりゃ見た目もイモ丸出しの客に来られたって店も困るだろう。世の中というものは住み分けが大事なのだ。
ブツブツと文句を言いながら、私は重たい荷物を持ち直そうとした。
その時である。
長い時間本の重みに耐えていた
買ったばかりの重要な資料がリビングの床に散らばった。
「あ、大丈夫ですか、お怪我は?」
彼は私の買ってきた本を拾い集めようとして手を止めた。
本は新書サイズでピンクの帯がかかっている。そして帯には濃いグレーの文字で「伯爵に求められる熱いカラダ……!」や「ほとばしる○汁!俺のカラダ、どうかなっちゃいそう……!」などというあおり文句がこれでもかとはっきりきっぱり印字されていた。
「……」
「……」
この苦しい沈黙。どうかなっちゃいそうなのは私のほうである。
事ここにいたり、三宮氏は初めて私がこの家で一ヶ月間遊んでいただけなのではないかという疑惑に取り付かれたらしい。彼はその知的な顔を上げ、その涼しい目をこちらに向けた。
「先生、あの。秘書からは資料を集めにお出かけになっていると聞いていますが」
「え……ああ、まあ(そんなことも言いましたかね……。)」
この一ヶ月の間、私はあくまで『創作意欲を高めるため』だけに寸暇を惜しんで動き回っていたのである。やましいことはないもないはずだが、しかしなぜか私の目はまっすぐに三宮氏を見つめ返すことができない。
「作品の進捗状況は……どのように……?」
「あ、あれだから、まだ創作意欲を高めつつ資料集めっていう段階だから!でも頭の中にはこう、大まかな構成ができつつあって、後は描くだけ?っていうか!!」
「資料、ですか」
彼は妙に肌色の多い本を眺めつつそう呟いた。
ちなみに私の描いていたWeb漫画は成人向けではなく、あくまで全年齢向け作品である。
BLは正確な意味での資料かといわれると厳密にはそうではないが、しかし私のような「彼氏いない歴=年齢の女」にとって肌色のご本はなんというか、生活のスパイスみたいなものである。これがないと私の生活は食うこと寝ることだけの無味乾燥なものとなってしまう。せめて性ファンタジーを楽しむくらいは人として、同じ成人として許して欲しい。
「デ、デデデッサン用の資料だからこれ!!」
苦し紛れにそういうと、三宮氏はああ、と呟いて頷いた。
「そういうことですか。確かに、デッサンは必要ですね」
……三宮氏、馬鹿だな!
「と、ところでお、おなかすいたなー!ご、ごごご飯楽しみだな~!ハハ!じゃあ着替えてくるね!!」
私は不自然なほど汗をかきながら破れた紙袋を抱えてアトリエ(笑)に戻った。
さすがに汗ジミのできた二枚千円のTシャツとハーフパンツでレストランはまずかろうと思い、私はクローゼットをあけた。といってもそこによそゆきの服などかかってはいない。私がもっている服といえばスポーツバッグに詰め込まれたTシャツTシャツ&TシャツハーフパンツGパンそして高校時代のジャージとどてらのみだ。
私の持論だが、服を買うくらいなら本を買うのがオタクというものだ。したがってよそゆきの服など所持しているのは隙あらばリア充どもに取り入ろうとする半端オタクである。真のオタクではない。
比較的新しいTシャツでも着るか、とスポーツバッグに手をのばしかけたそのとき、私は視界の端で覚えのないワンピースを捉えた。
「うわーお……」
私は自分が着飾ることには興味などないが、布の色やものの形には関心がある。
たぶんこのタイミングでこれがここにあるということはこれを着ろという三宮氏の希望というか命令というか、そんな類の意図があるのだろう。
私は黙ってその服のタグをみてサイズを確認した。謎のフランス語と42という数字が示すのはつまり日本で言うところのLLとかXLとかいうやつではないのか。
私はたしかにずんぐりした体型をしてはいるが、しかしせいぜい11号くらいなものでそんなに太ってはいない。はずだ。
三宮氏は私のことを先生先生と呼びつつもこういうところが時々無礼である。
しかしTシャツで銀座に行くわけにも行かないので、私は仕方なくそのオーバーサイズのワンピースに袖を通した。
着替えてリビングに現れた私を見て三宮氏はすぐに立ち上がった。そして品の良い微笑を浮かべた彼はこう言った。
「よかった。よくお似合いです」
「……どうも……」
三宮氏が用意してくれたワンピースは私をワンランクどころでなく、まるで重課金ネットゲームユーザーのごとく普段の何十倍も上品かつ華やかに見せていた。
そう、おそろしいことに、彼が選んだと思われるXLのワンピースは私の体にぴったりとフィットしたのである。
どうもここ二年ほどのニート生活は私の心だけではなく私の体、もといスタイルをも地味に蝕んでいたらしい。
その上、残念なことに私には一般の女性たちのように自分の髪や顔をいじくる技術はなく、ずっとカットに行っていない髪を無造作に束ねただけの私の姿は首から上だけ取ってつけたような姿だ。
「ちょっと失礼」
彼は私の背後に回り、そして私の髪をまとめているゴムを少しだけ引いて髪を緩め、毛束をポニーテールの根元に押し込んだ。すると、どういう仕組みになっているのかはわからないが、きっちりしすぎないイイカンジのアップヘアーになった。
「髪、結構長いんですね」
「……」
男子に髪をいじられるシチュエーションは少女マンガ等ではたまに見かけるが、しかし現実には美容室にでも行かない限り私のようなジャガイモにはおこりえないシチュエーションだ。しかし、人間ニートでも何でもやって生きてみるものである。今、私はファッション雑誌に載っていそうなイケメンに髪をいじられている。信じられない……。
高校生の時、男子と普通に喋る事のできるおしゃれ女子が、リア充男子に髪を触られて「ちょっとぉ、くしゃくしゃになるじゃん!」などといってまんざらでもなさそうな様子で嫌がっているのを恨めしく眺めていたあの日の自分がもしこの現場を見たらどんな顔をするであろうか。
そして今の私は三宮氏の袖口からほのかに香るシトラスの香りを不適切な動機で嗅ぐまいと必死になって息を止めている。彼はあくまで私のカモ、じゃなかったパトロンである。決して不適切な目で見てはいけない。それはプロの漫画家としての私のせめてもの矜持であった。
「今日は一緒にワインを楽しめますね」
ラ・レーヌというレストランはやはり私の予想通り、金持ちが集う金持ちホイホイレストランだったようだ。
メニュー表を見る限りでは十万円以上もする高価なワインをあけさせ、彼はグラスを目線の高さまであげた。
「先生の作品に、乾杯」
彼はにっこりと微笑んでグラスを傾けた。
さく、ひん……。
作品どころかプロットすらなく絵の技術さえすっかり忘れてオタク活動にまい進していた私は、陰気な愛想笑いを浮かべた。
そうだ。創作へのモチベーション(笑)をあげるためとはいえ、この二週間ほどは連日イケメン声優のイベントだのイケメン歌い手のライブだのに参加しすぎて本来の目的を忘れてしまっていた感がある。いや感があるどころかそのものだ。
ゾッとした。
人のクレジットカードで連日遊び倒してはいるが、しかし私は変なところで気の小さい人間である。もし作品など1ページも進んでいない、進んでいないどころかここ一ヶ月で描いた絵の枚数がツイッターにあげた落書き含め30枚以下という事実がバレたら……。いやバレたらというか、もう三宮氏は私のサボりを疑っているのではないだろうか。だからこそ会話の端々に「作品」だの「創作」だのとちらつかせてこちらの反応をうかがっているのでは……?
私はおそるおそる三宮氏の様子をうかがった。
ポーカーフェイスなのだろうか、彼はその涼し気な美貌に上品な微笑を浮かべて食事と会話を楽しんでいるように見える。ちなみに会話の内容は彼の生業、つまりアセットマネジメントがどうのこうのというものだったが、私はいまだに彼の仕事が何業なのかもわかっていない。
彼は自分で話しては時折フフフと笑っているが、こっちは彼が何のことを話しているのやらさっぱりわからない。タイミングを合わせてこちらもウフフと笑うのみである。このように互いに食事を楽しみながらウフフアハハと笑っているが、少なくとも私は彼の表情の変化を見逃すまいと必死になっている。
もし、もし私がマンガを書いていないことが発覚したらどうなるのだろう。母だけではなく私も詐欺師として警察に突き出されてしまうのだろうか。
突然キリキリと胃が痛み出し、私ははじかれたように立ち上がった。
「ちょ、ちょっとトイレに行ってきます」
「え」
「おなかがいたい!」
「あ……そ、そうですか」
彼は驚いていたが、そちらのケアをしている余裕はない。私はもう走ってトイレに逃げ込むので精一杯だった。
どうしよう。
彼との契約ではとりあえず3ヶ月間、漫画を描こうと頑張って、もしできないならそれでもいいと言うが、彼は私という人間を知らない。私はその『頑張る』が何よりも苦手な人間なのだ。
温かい便座に腰かけてつらつらと思い返すに、私は学生時代から努力のできない人間だった。
中間期末学年末と、どういうわけかテスト期間が近づくたびに漫画の神が降りてきて、「今描かなきゃ二度と描けないほどのネタ」を私に授ける。だから私はそのたびに熱心に漫画を書き散らした。こんなアイディアが降ってくるなんて、自分は天才なんじゃなかろうかなどと何度も自分を疑った。
そしてテスト期間が終わるとともに、降りてきたはずの漫画の神がどっかにいってしまって突然自分の描いているものがつまらなく見えはじめる。すると今度は逆に「こんなもん誰も読まねーよ症候群」を発症する。ずっとその繰り返しだ。
テスト期間が近づくたびにそんなことを繰り返しているのだから当然成績は底辺を這いずった。
親はもちろん先生もそんな不真面目な私をものすごく叱ったけれど、中間期末学年末テストがなくなった今も私のその癖は治っていない。私は相変わらず「今やらなきゃいけないこと」から逃げてしまう。
そして、今の私にとっての「今やらなきゃいけないこと」は漫画だ。漫画ならばさぞ作業がはかどるだろうと思いきや、今はかどっているのは漫画を描く以外のすべてのオタク活動だ。
私はすでに三ヶ月の契約期間のうち一ヶ月を遊んで過ごしてしまった。
三宮氏が衣食住を満たしてくれ、さらにカードまで授けてくれたおかげで今、私は心身ともに健康で、気力体力ともに充実している。でも漫画の神は降りてこないしアイデアを授けてもくれない。それどころか私は以前よりも絵が下手になってしまった。もともとデッサン力のあるほうではなかったが、しかし今の私は右向きの顔が描けない、手が描けない、背景を描けば人物が空に浮く。正直なところ、素人の画力のほうがまだ気負いがない分だけ目に優しい。
そういうわけだから、私は逃げるしかない。
私は女子トイレの換気用の窓を見上げた。
私はデブだがデブでもなんとか通れそうな窓である。
学生が中間期末学年末テストから逃げるのはもちろんいけないことだが、今、私はどうすべきなのか、考えれば考えるほど「逃げるしかない」という結論に達してしまう。
しかし、逃げたところで行くあてはない。実家の電話には誰も出ないし、両親の携帯もはじめのうちは留守番電話サービスに切り替わるだけだったが、今では現在使われておりませんとまで言われるようになった。彼らは本格的にブラジル逃亡したようである。
さらにこの二年間、ニートという自分の立場にたいする劣等感から、私は親戚友人知人その他とはずっとかかわりを避けてきた。今では不義理をしすぎて彼らの連絡先すらわからない。連絡先がわかったとしてもいきなり助けて欲しいなどといって誰がこんな私を助けてくれるだろう。
私はトイレの個室でひとり唸った挙句、一つの結論に達した。
創作には時間が必要とごまかすしかない。
さいわい三宮氏は漫画を描くためと称してまずイーゼルを持ち出すような漫画に関して無知な人間だ。エロBLを資料といわれればそれを信じるような、よく言えば鷹揚、悪く言えばバ、じゃなかった、とにかく彼はこの分野に関してはおそらく何も知らない。
ここに来てから、私は何度か落書きを書き散らして放置している。同居しているのだから彼がそれを目にする機会は何度もあった。そのたびに彼は何とも温かい目で私の作業を見守っていた。今の私は右向きの顔すら描けないのに!人物の手もかけなきゃ背景もかけないのに!!
普通、どんなに漫画のことを知らなくても、絵を見れば気づくよね。あ、この漫画家ダメだって。
しかし彼は気づかないのだ。
今は彼の無知にかけるしか……ない!
人気イケメン声優のライブイベントに金を使っている件もなんかこう……うまいこと言えばイイカンジでごまかせるかもしれない。
三宮氏は無知だが私は馬鹿である。さんざん考えた挙句にこんなまともでない答えしか導き出すことのできない自分が恥ずかしい。
しかし、今はこれしか手がない。
私は鏡に映るジャガイモ顔をじっと睨みつけ、気合を入れた。
三宮圭……。私は別にアンタのことは嫌いじゃない、しかしこっちも生活がかかっている以上、甘い顔はできん。
スマンがもう少し私に騙されていてくれ。もしかしたら……もしかしたら漫画の続きを描ける日がいつか来るかもしれない。でもとにかく今は無理なんだ。そして警察もホームレス生活も困るのだ。
私は漫画を描いていない事実を隠し、適当に言い逃れするためにトイレをでた。
席に戻るべく、そのままこじゃれたロビーを通過しようとした時、若い女性と肩がぶつかった。
「あ、すみま」
謝罪の言葉を口にしかけて、私は途中から何もいえなくなった。
「ムギ?」
さきほど胃痛がおさまったばかりだというのに、再び胃の上部が誰かにつかまれたかのようにぎゅっと痛くなった。
若い女性は肩までのセミロングをきれいに切りそろえ、まるで結婚式に出席する時のように華やかなピンクのワンピースにオーガンジーのショールを羽織っていた。
「灰田、先生」
私のかすれた声を聞いた彼女は声を立てて笑った。その笑い声は私の耳にこびりついているかつての笑い声と全く同じだ。
私は愛想笑いの一つもすべきだとわかっているのにそうできなかった。
「先生だなんて、やだ、同期じゃん。昔みたいに理緒でいいよ」
私の前で笑っているのは灰田ミツという漫画家で、本名は灰田理緒という。
彼女の言うとおり、私達は同期だ。
同期といっても会社や学校の同期ではなく、同じ年度に同じ漫画賞で同じ佳作を受賞したことがあるという意味での同期だ。
漫画家というのは人間同士の付き合いが薄いようでいて、案外横のつながりは濃かったりする。私と理緒は同じ佳作を受賞したその授賞式で連絡先を交換して以来、八年間、私が漫画家を諦めるまでずっと連絡を取り合っていた。最後のほうの二年間は同じ有名作家の仕事場でアシスタントとして机を並べて一緒に仕事をした仲だ。
それだけの付き合いがありながら、私はこの三年、ずっと彼女と連絡を取っていなかった。
一度だけ彼女のほうから「最近連絡がないけど、元気にしてる?私は元気だよ。ムギに会いたいよ!」という、フレンドリーかつ当たり障りの無い内容のメールが来たけれど、私は返事をしなかった。返事をするまいと決めて返事をしなかったのではない。できなかったのだ。
彼女はいまだに私のことを同期と呼んでくれているようだが、私と彼女が同じ立場になっていたのは二人同時に漫画賞の佳作を取ったときだけ。
それ以降、彼女は有名作家のアシスタントをしながら勉強し、ちょくちょく漫画を雑誌に載せてもらっていた。
一方私は何度原稿を描いてもそれを雑誌に載せてもらうことはできず、アシスタントとしての技術もいまいちだった。当時の私もこのままではまずいという自覚はあったので、必死で勉強した。でも、勉強をしているつもりでも技術、絵を描く速さともに周りのアシスタントに追いつかず、アシスタント先の先生に叱られてばかりだった。最終的には私が先生のそばに行くだけで罵声が飛ぶくらい、私はだめなアシスタントだった。
理緒はそんな私と一緒に働いていたのだから、私の状況はよくわかっていたはずだ。彼女はだめな私を何度も慰めてくれ、私がこの道を諦めないようにと心を砕いてもくれた。いい友人だったのだ。
でも、彼女がいい友人だったからこそ、いったん夢を諦めてしまった私は彼女と友人づきあいを続けることさえ苦しくなって、連絡すら取らなかった。彼女から見れば不義理もいいところだ。
私はまっすぐ彼女の顔を見ることさえできず、自分の足元に目をやったまま答えた。
「もう理緒は先生だよ。だって、連載決まったでしょ。読んでるよ」
連絡をとってはいなくても、理緒は着々と漫画家としての道を歩み、今では連載を持つ立場になっている。一方、私は彼女と一緒に有名作家のアシスタントをしていたが、いままでずっと実家にこもってニートをしていた。
今、私の目の前にいる彼女はきちんとした女らしい格好をしていて、セミロングの髪にゆるくパーマをかけていて、生活に苦しんでいる様子はない。
昔は同じ夢を追う立場だったのに、夢をかなえた理緒と、そして夢を投げ出して逃げた私、今ははっきりと明暗が別れていた。
当たり前のことだけれど、改めてそれを突き付けられると、この場を逃げ出したくなる。
「そんなの運だよ。
ムギはいまどうしてるの?東京にいるのなら声をかけてくれればよかったのに。
最後に会った時、実家に帰ろうかなって言ってたから実家に戻ったのかと思ってた」
「……う、うん。一旦実家に戻ったんだけどね。今は、東京……」
胃がきりきりと痛んだ。
この三年、ずっと思い出さないようにしていた自分の挑戦の連続と、そして挑戦の数よりも多い挫折と、先生の罵声。そして息苦しくなるような劣等感が再び私の頭の中を占拠して、相手の言葉が耳にはいってこない。何も考えられなくなる。
『どうしてこの程度のこともできないんだよ!本当に漫画家目指してるの?漫画家舐めてない?』
先生はこの場にいないはずなのに、あの時先生が吸っていた煙草と、先生がひっきりなしに飲んでいたコーヒーの強い香りが自分を飲み込んでしまったような気がした。
本当ですね。どうしてみんなが軽々とやってのけることが私には出来ないんだろう。私が知りたいくらい。どうして?
漫画家という仕事を舐めていたわけではない。でも結果的には舐めてたことになったのかも。
親の反対を押し切って東京に出てきた時、私は自分が八年たってもデビューもできず、毎日アシスタントとしても叱られてばかりいるなんて想像もしていなかった。
毎日のきつい叱責と、時には罵声。他のアシスタントたちは私が先生に叱られている間、絶対に顔を上げず、みんな作業に没頭しているふりをしていた。それは、私に対する哀れみからそうしてくれたのだと思う。
10畳ほどのマンションの一室に閉じ込められた状態で、毎日とばっちりで先生の罵声を聞かされる彼らは、私に対する恨み言なんて一度も口にしなかった。私が叱られてもそのことには決して触れずにいてくれた。
その彼らの優しい心遣いを、私はわかっていたはずなのに、そのうち先生の罵声よりも彼らの気遣いの方が辛くなった。
そしてある日、とうとう私は先生のところに行かなくなった。
アシスタントの仕事は、私が佳作をとった時の編集さんの紹介だった。この世界は広いようで狭い。
勝手に有名作家のアシスタントを辞めて、編集さんの顔をつぶした私にはもう漫画家どころかアシスタントとしての道も閉ざされていた。
「そっか、一旦実家に戻ってから、また出てきたんだね。あのころのムギ、いつも顔色が悪かったから心配してたんだ。
ホント、会えて嬉しい。今度飲みに行こうよ」
にっこりと笑ってそういう理緒は昔と少しも変わっていない。思い返せば佳作をとったときもアシスタントをしていたときも、理緒は表情が豊かで、素直な感情がいつだって顔に出ていた。
「灰田先生」
ダークスーツの男性がフロアから顔をのぞかせて理緒に声をかけた。
細面に目尻のほくろ。シャープなデザインの黒縁眼鏡。ちょっと冷たい印象を受ける端正なその顔には覚えがあった。
昔、私の担当編集だった
彼はまだ東京に出てきたばかりで、右も左もわからなかった私を新人賞の佳作にと推薦してくれて、そして有名作家の先生のアシスタントの口を見つけてくれた人だ。
私の漫画については厳しいことばかり言う人で、正直なところ私は彼が苦手だったけれど、でも、結構……いやかなりお世話になった覚えがある。
「あ、ごめん。待たせちゃいました?」
「いえいえ、大丈夫ならいいんです。そちらは?」
田淵さんは私のことを覚えていないようだった。最後に会ったのは三年前だ。喋るのが下手でたいした漫画も描かなかった私のことなんて忘れていたっておかしくない。というか、忘れていてくれ。
「じゃ、私はこれで」
逃げるようにその場を去ろうとすると、田淵さんが声をあげた。
「あっ……もしかして、ムギさん?やっぱそうだよね?」
嫌なタイミングで思い出したな。
私はもうその場を去ることもできず、小さく頭を下げた。
「どうも、その節は……お世話に…」
もぐもぐと口の中で謝罪とも挨拶ともつかないことを言うと、彼はちょっと眉をしかめた。
「あのねえ、ムギさん。そういう時はご迷惑をおかけしました。だろ?あのあと先生が怒っちゃって紹介したこっちが責任を取れって大変だったんだよ?何も言わずにやめちゃうなんてアシスタントじゃなくても普通に社会人としてダメだからね?」
全くそのとおりだ。私だってあの時なぜ誰にも何も言わずに先生の家に行くことをやめ、誰からの電話にも出なかったのか、うまく説明もできやしないし、後悔はもちろんしている。
少しでも私の漫画の勉強になればと私を先生の紹介してくれたのは田淵さんだ。きっとあのときの私の行動は紹介者として彼の顔をつぶしてしまっただろう。
私は返す言葉もなく、ただもごもごと口の中で謝罪を繰り返すばかり。もう顔を上げることもできない。
「は、はい、すみませんでしたっ……」
「うん……。もうちゃんと謝ってくれたからそれはいいよ。
何年も前の話だし、先生も別のところで描いてるしね。それで?」
「え、それで、って……」
「今はどうしてるの。あのときムギさんお金もほとんど持ってなかったでしょ。心配したんだよ?」
当時の私の担当編集者であり、アシスタントの口を紹介してくれた田淵さんには、ずいぶん迷惑をかけたという強い罪悪感はあった。彼の紹介してくれた職場を断りもなく辞めたのだからきっと田淵さんの信用をひどく傷つけた。
当然田淵さんはきっと私のことを怒っているだろうと思っていた。しかし、心配されていたなんて思いもよらなかった。だから、私は何と答えたものか、さっぱりわからなかった。
あの頃、田淵さんは私の漫画を読んでは厳しい評価を口にしていたから、私はてっきり田淵さんには嫌われているものと思い込んでいた。
「い、いやあの」
脂汗がじわりと噴き出し、額と脇がじっとりと湿った。
まさか人の多いこの東京で、それも出版社とは関係のない場所で彼らに会うなんて考えもしなかった私は、今の自分のおかれているよくわからない状態を説明することもできないのだった。
そんな私に、理緒が助け舟を出してくれた。彼女はいつだって口下手で頭の回転が鈍い私を助けてくれるのだ。あの頃も、そして今も。
「ムギちゃんはあの後一旦実家に戻って、それから最近はまた東京に戻ってるみたいですよ?今、みんなで飲みにいきたいねって話してたんです」
「……」
みんなで飲みに行くなんて悪夢である。
私は二年間実家でニートをして、そして親にも見捨てられた。
今は金持ちだが変な男の家でやはりニートと変わらない生活をしている。
私はお金と時間を与えられたって漫画なんかちっとも描いていないし、漫画に代わる仕事にもありつけていない。こんな最悪の状況の中、昔の仲間に近況など聞かれても、私は何を語ればいいのか。
「ふうん、そうなんだ。じゃ、連絡先教えて」
まさか田淵さんまでそんな事を言い出すとは思わなかった。
私の背中を嫌な汗が流れてったが、しかしこの雰囲気でそこで連絡先の交換を断ることは私のような人間にはハードルが高すぎる。私はアシスタントをばっくれることはできても面と向かってNOということはできない。
私はおどおどとした態度を取り繕うこともできず、言われるままに携帯を出した。理緒や田淵さんを懐かしく思う気持ちはあるけれど、でも、過去に自分のやらかしたことや今の自分の現状を思えば連絡なんて取りづらい。きっとまた私は彼らからの連絡に返事一つできずに不義理をして逃げるのだろう。いつまでたっても私はカッコ悪いし馬鹿だ。
その時、私の肩に誰かが手を置いた。
「先生、そんなところにいらしたんですか」
顔を上げると、三宮圭氏がそこにいた。
「遅いから心配しました。大丈夫ですか」
田淵さんも理緒も、突然現れた三宮氏の姿を見、そして私に目をやった。
彼らの顔には私が「男連れである」という事実に対する驚きが露骨に表れていた。
普段、彼らはこんな無礼な人たちではないのだが、彼らの知っている私があまりにも男っ気のないオタク女だったために、きっと彼らは取り繕うことも思いつかないほど驚いてしまったのだろう。
「う、うぁ、すみません、」
私は三宮氏に頭を下げた。嫌なところを見られてしまった。
三宮氏は私の気まずい気持ちなど知らぬげにいつもの上品な笑みを浮かべた。
「お友達ですか」
「お、お友達というか昔の同僚というか、そういう、人達です」
「そうですか」
「……」
「……」
こういう場面に慣れない私は、そのまま何を誰に言えばいいのか混乱してしまい、狼狽しつつ黙り込んだ。
あとから考えると、私はきっとこの場で三宮氏を田淵さんや理緒に紹介するべきだったのかもしれない。けれど、その時の私はみっともないことに、ただ忙しく目線を動かしてみんなの顔色をうかがうばかりだった。
アシスタントという仕事を投げ出して逃げた私のだらしない過去が三宮氏の耳に入ってしまったのではないかと怖かった。そして今の私の境遇を、かつての同期と編集さんに知られてしまうこともまた、すごく怖かった。
「僕は
三宮氏はジャケットの胸ポケットから名刺を出して、理緒、田淵さんの順に名刺を渡した。理緒も田淵さんも、名刺を受け取って、……理緒は漫画家なので名刺はないけれど、田淵さんは三宮氏に編集部の名前が入った名刺を出した。彼らの様子はなんだかテレビドラマで見るビジネスマン同士のようだった。
そして、三宮氏の登場と彼がはじめた名刺交換のせいで、なんとなくだが私が仕事をしているかのような雰囲気になった。
もちろん私が無職で、三年もニートをしていて、とうとう親に捨てられてしまったという事実は何も変わらないのだけれど、それでも私は少しだけ昔の同期と編集さんに対して、かろうじて面目を施したような気持ちになった。
家(といっても私の家ではなく三宮氏の自宅だが)に帰っても私はずっと上の空だった。
理緒がちょこちょこと読みきり漫画を本誌に載せてもらっているのは知っていた。彼女はそうやって地道にファンを獲得し、そして今はその地道な努力が実って連載をもっている。
一方私はというと、自分が逃げてしまった罪悪感と劣等感から、ずっと理緒からの連絡を無視した形になっている。それでも私は彼女の歩みをなんとなく意識し、知っていた。
理緒を避けてはいても、無意識に街で見る本や雑誌で彼女の名前を見てしまうと、やはり目が行ってしまう。
すると、私はもうあの世界には戻れないんだとわかっているのに、理緒が同期だというだけで、私は後悔してしまうのだ。
あのまま頑張っていたら私だって今の理緒と同じ場所に居たのかもしれないとか、もし、先生の原稿を仕上げるだけじゃなく、自分の原稿を描いていたら、どこかで誰かの目に留まっていたかもしれないとか。理緒と私はたまたま同じ時期に同じ賞を受賞したというだけで、実力は全然違うし描く漫画の内容も全然違うのに、まるで自分にもチャンスがあったかのように過去を振り返っては「できなかった自分」「頑張れなかった自分」を責めてしまうのだ。
もうチャンスはどこにもないのだから自分を責めたって気分が落ち込むだけだとわかっているのに、私は夢を諦めて実家に帰って以降、ずっとこの後悔と諦めの中でぐるぐるとさまよいながら抜け出せず、かといって何か新しいことを始めるでもなく、ずっと同じ後悔をするばかりで少しも成長していない。
せめて、結婚でもしていたら。子どもの一人でも生んでいたら、私は自部の二十台を肯定することができていたのかな。世間や親は私を許してくれたのかな。
「先生、大丈夫ですか?」
「……はい……えっ、なんですか?」
顔を上げると、三宮氏の涼しい目とまともに目が合った。私は人の目を避ける癖があるので、同居人といえども彼の目をまともに見るのは本当に久しぶりだ。
我に返ってみると、自分は三宮氏のマンションリビングのソファに座っていた。
ガラステーブルの上には紅茶がおいてあり、よい香りが部屋の中に広がっていた。この香りは私が初めてこの家に来た時、三宮氏が淹れてくれたダージリンだ。
「おなかは大丈夫ですか。病院に行きますか?」
三宮氏は本気で私の体調を気遣っているようだった。ときどき私の顔を覗き込んで、額に手を当てたりしている。そんなことにも気づかず、私はずっとリオと自分の格差について考えていた。
「あ、いや、おなかは大丈夫です。ぼーっとしちゃってすみません。紅茶、いただきます」
ぺこぺこと頭を下げてティーカップを手に取ると、すでにそれはぬるくなっていた。
私は一体どのくらいの時間、ここでぼうっとしていたのだろう。
三宮氏は生返事ばかり繰り返す私につきあって、ずっとここにいたのだろうか。夜昼なく働く忙しい人なのに。
三宮氏は少し私の様子を見ていたが、やがて穏やかな口調で言った。
「レストランで会った二人が気になるのですか」
「え?……や、そういうことではないです」
どうみても今の私はあの二人のことばかり考えているのだが、彼はそれ以上私を追及しなかった。
「そうですか」
彼は鷹揚な態度で一言答えると、そのままゆっくりと紅茶を飲んだ。
沈黙が苦しかった。彼が今、何を思っているのかを知りたかった。同期がこんなに頑張っているのに、私は親のすねを齧りながら趣味のウェブ漫画すら書き上げられないでいる。親のすねをかじることすらできないこの追い込まれた状況でも本当は少しも漫画なんか描いていない。彼もうすうすそれは察しているだろう。
それを彼は内心どう思っているのだろう。きっと……内心呆れているに違いない。
あの時の私はしどろもどろで、まるで浮気が見つかった人みたいにおどおどとしていた。
私は田淵さんや理緒の口から過去の自分の所業が明らかにされるのを恐れていたし、また三宮氏の口から今のだらしない暮らしが漏れるのも恐れていた。自分のことばかり考えて、お互いを紹介することさえできずに黙り込んでいた。社会性がないにもほどがある。
「あ、あの、」
「はい」
「今日、レストランで、会った人たち……。
あの女の子のほう、漫画家なんですよ」
彼はそれを聞いても顔色一つ変えなかった。
「そうですか」
「いや、私みたいな勝手に漫画を描いてる人じゃなくてね、本気で漫画を描いているプロの人なんです」
あまりにも彼の反応が良くないので、少し補足してみたが、やはり彼の態度は変わらない。
「ああ、淵田さんから頂いた名刺に、N出版コミックG編集部と書いてありましたね」
……あれ?
プロの漫画家未満の私のサインなんか欲しがっていたくらいだから、コミックス出版経験があり、本誌で連載中の漫画家に会えたとなればもっと大喜びするかと思ったのだが、彼はまるでただ雑談をしているかのような反応だ。
「人気あるんですよ、灰田ミツって知りませんか?」
「灰田ミツ……先生ですか。申し訳ありません、勉強不足で」
「しっ、知らないんですか?結構有名なのに」
私のような素人の漫画描きの存在を知っているのに、プロで、しかも雑誌の表紙を飾るような漫画家を知らないなんてことがあるのだろうか。
「今度、勉強しておきます」
「そうじゃなくて……、あの子、私と同期なんです。同じ漫画賞で同じ佳作をとって一緒に授賞式に出たんです」
「そうなんですか。じゃあ先生とのお付き合いも長い漫画家さんなんですね」
私はその時、自分が何を言いたいのかわかっていなかった。
けれど、胸の中がひりひりと痛むような感じからなんとか逃れたくて、ほとんど喋ったこともないはずの三宮氏を相手に必死で喋っていた。
「あの子、私よりもずっといい漫画を描くんです。絵もうまいし、作る話もほんとうに、なんていうか、女の子の憧れが詰まってて、爽やかで、読み終わるのがもったいないって思えるような漫画を描くんです」
「さすが、先生と同じ賞を受賞された先生ですね」
「ちが、そういうことを言って欲しいんじゃなくて。だから、あああ、もう……」
私は三宮氏が結ってくれた髪の根元に指を突っ込んで、音がするほどがりがりと頭を掻いた。自分がどうしてこんなにイライラしているのかわからなかった。でも喋っていないと泣き出してしまいそうで喋ることをやめられなかった。
三宮氏も、さすがに私の様子がおかしいことに気がついたようだった。
「先生、どうしたんですか?」
「だからっ、私なんか、全然すごくなんかなくて……!先生なんかじゃないし、ちゃ、ちゃんとしてるのはあっちのほうで、私なんか、わ、私は」
自分の読みたい漫画を描かせるなら、もっとちゃんとした人に注文すればいい。漫画家志望の人なんて星の数ほどもいるのだから、きっと誰かが……私よりもちゃんとした人が、もっときちんと描いてくれるはずだ。
三宮氏は首をかしげた。私の話がただの雑談でないことにようやく気が付いたようだった。
「『ちゃんとしてる』?」
「だから、才能があるのは灰田ミツのほうで、わ、私じゃないっていうことが言いたいんです。わ、私は別に、有名人と知り合いですごいでしょって言いたいわけじゃなくて、」
「……」
「さ、三宮さんが、漫画……私の漫画を読んでくれるのはうれしいけど、本当は私、もう、漫画……かけなくて……だから、灰田先生とか、ちゃんとした人に、好きな話を描いて貰ったほうが、話は早いと思うんです」
三宮氏は私のことを先生などと呼んでいるし、私も調子に乗って先生と呼ばれて返事をしているが、本当の私は先生なんて呼ばれるような人間ではない。先生どころか、私はアシスタントすらまともにできずにいろんな人に迷惑をかけて逃げ出したのだ。
本当の私は漫画家に憧れて、憧れだけでプロの仕事の邪魔をしていただけの……だめなやつだ。ここにきてからだって、漫画を描かなきゃと思いながら、毎日別のことをして、逃げて時間をつぶしている。
「先ほどお会いした灰田さんがどんな漫画を描くのかは知りませんが、僕が読みたいのは『僕と君の町』の続きです。僕は漫画なら何でも読みたいというわけではないし、そもそも僕は、漫画はほとんど読まない人間なんです。
先生が優秀な漫画家さんを勧めてくださるのはうれしいのですが、僕は灰田先生の漫画にあまり興味はないんです。もちろん先生がどうしても読むようにと仰るのなら社会勉強として拝読させていただきますが」
彼は少し間をおいて苦笑した。
「僕があなたの描いた『僕と君の町』の続きを読もうと思ったらあなたに描いていただくしかないんですよ。いくらあなたが怠け者でもね。
ですが、先生のお心遣いには感謝します」
「な、『怠け者』……」
「事実でしょう?」
彼はそう言ってにっこりと微笑んだ。
やっぱり私が漫画を描いてなんかいないことは彼もうすうすはわかっていたのだ。それがわかっていてなお、彼は『待ち』の姿勢でいるのだ。
「なんか、すみません……」
本当に申し訳ないと思うよりも、やるべきことに向き合えない自分を責められるのを避けるために、私はとりあえず謝った。口先だけの謝罪だ。
たぶん、私は三宮氏の求めている「漫画」なんか描けないだろう。それがわかっているのに、私は謝った。叱られたくないから。もちろん罪悪感はあるけれど、叱られたくないという気持ちのほうが罪悪感の何倍も大きい。まるで小学生みたいだ。
三宮氏は私の子供っぽいこの内面に気づいているのかいないのか、ティーカップを置いて鷹揚に微笑んだ。
「いえいえ、まだ二か月ありますから」
変な人だ。
私はもう何を言う事もできず、ただうつむいて手のひらにおさまっているティーカップを見つめていた。
変な人と話をすると、変な気分になる。けれど、先ほどのひりひりとした劣等感をずっと味わい続けるよりは、彼の「変な」話を聞くほうが少しだけいい気分だった。
プロの漫画とプロになれなかった私の漫画があって、それでも私の漫画を読みたいという三宮氏の気持ちには納得できないし、何か裏があるんじゃないかといまだに
今まで更新の催促をされるとき、私は顔も知らない読者に申し訳ない気持ちと、そして、描けない自分の罪悪感を刺激する彼らのコメントに少しずつモチベーションを削られていくのような感覚を味わい続けてきた。けれど、三宮氏の今の言葉には、私の作品に対する愛情が確かにあるように感じられた。
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