第三話 安っぽいニートが「先生」に

彼の物腰、およびくだらない漫画に大金を投じる非常識具合からそうだろうなとなんとなく想像してはいたが、彼の案内してくれた「アトリエ」はこの田舎者の想像を超えてはるかにおしゃれで都会的で、そして何よりも金がかかっていた。


いや、アトリエと呼ぶのではなんだか現実味がないので正確に表現すると、そこはマンションであった。そしてそのマンションは彼の住居でもあった。


彼の住居は一応マンションだがマンションなどと気軽に呼んでいいものではなかった。

まず、彼の住むビルの1階から12階まではショッピングが楽しめる百貨店が入っていて、その上に企業のオフィス、20階以上が住居となっていて、彼の家はその住居部分にある。彼の住居として使われている部分は、私の実家が五軒は入りそうなほど広かった。


そして彼の家はただ広いだけではない。家の中のインテリアも空間を無駄に取る仕様の金持ち用スマートインテリアで統一されており、イヤミなほど真っ白なレザーのソファとガラステーブルだけで20畳は占拠している。なんというスペースの無駄遣いだろうか。二十畳あればコタツは年中出しっぱなしにできるし座敷猫のケージも置けるし、木彫りのクマなど親戚からの土産物類を乗せるガラスと棚も設置できそうだが、彼は親戚との付き合いはあまりないのか、そこに置かれているのはあくまでソファとテーブルのみ。北海道の木彫りのクマも新撰組の羽織もない。実にもったいない。


「玄関扉はナンバーロックになっています。リビング、キッチンは一つですが、バスルームとトイレは各部屋についています。どの部屋も今すぐ使えるようにしておきましたが、どこをお使いになりますか」


心なしかウキウキしているように見える男の後について歩きながら、私は彼の部屋から一番遠い部屋を指した。

独身の男女が同居するからといってこんな美貌の男とジャガイモに何かあるとは思っていない。だがしかし変に互いの生活音が響くのも不快である。私はルックスこそ繊細さとは無縁の造形をしているが、心のほうはトイレットペーパーよりも薄く破れやすい。些細なことを何年も気に病む性格なのだ。こんな美貌の男に自らが発した放屁の音でも聞かれようものならショックで三日はご飯が食べられなくなりそうだ。


「そこで大丈夫ですか、日当たりならこのあたりがベストですよ?」

「いえ、日当たりは気にしないので」


私が漫画を描く時間は深夜帯がメインになっている。

夜中に書いた手紙を後で読み返すと恥ずかしい内容になっていることが多いというのは有名な話だが、私の漫画もそれと同じようなものだ。昼間、普通に活動し、いい感じに疲弊した脳を用いて漫画を描くほうが私の場合は自分のセンチメンタルな作風によく合うようである。正直言って、昼間の私はセンチメンタルでもなんでもない、ただ鬱々としているだけのニートで、漫画など描くような精神的余裕はない。しかし、ごくまれに夜間は漫画を描く(こともある)センチメンタルニートとなって漫画やイラストを描くこともある。


「そうですか。ではすでに届いている画材をご確認ください」


彼は何か言いたげだったが、しかし余計なことは言わずにリビングにいくつか積まれている段ボール箱を示した。

母が玄関に放り出した私の荷物の中には、服以外にも蔵書という名の漫画やペンタブ、ノートパソコンやゲーム機もすべて一緒くたに詰められてあった。だから、梱包財もなく詰め込まれたそれらに何の故障もなければ漫画を描くのに支障はない。新たに画材など何も用意してもらわなくても構わないのだ。

しかし、せっかくの心遣いなのでのぞいてみる振りだけはしなければならぬ。私はニートだがその程度の社会性は一応持ち合わせている心優しきニートなのだ。


ニートなりに気をつかって一応のぞいたダンボールの中には、なにを勘違いしたのかイーゼルと油絵の具、ポスターカラーに絵筆などがきっちりと梱包されて詰められていた。どれも輸入品のようで、気取った書体の横文字でメーカー名などが刻印されていた。

褒められたことではないのかもしれないが、私は今までイーゼルなど使ったことは一度もない。漫画を描く人の中にはイーゼルに油絵の具を使う人もいるのかもしれないが、私も、そして私の知る漫画家の中にもそういった道具を持ち出してきた人はいなかった。当然使い方もわからない。


「道具類は一応このような物をそろえさせましたが、他に必要なものがあれば遠慮なく僕か僕の秘書に仰ってください。僕は漫画については詳しくないのですが、芸術には投資が必要だということくらいは理解していますので本当に遠慮はなさらないでくださいね」

「……は、はぁ」

私はそっと段ボール箱を閉めた。たぶんこれらの画材を使うことはないだろう。

私の気まずい表情をなんと受け取ったのか、彼は照れたように少し頬を赤らめた。


「ああ、すみません。お越しいただいて早々仕事の話なんて。つい。

まずはゆっくりとくつろいでください。ここは三か月間、先生の生活空間になるのですからね。

コーヒーと紅茶、どちらになさいますか」


私は初夏以降は麦茶か清涼飲料水しか飲まない女であるが、しかしスポンサー様に麦茶か清涼飲料水を出せとはいえないので「どちらでも……」と言ってぎこちない笑みを浮かべた。


「僕はダージリンが好きなんですよ」


ダージリンってダーリンに似ているな……。


私はぼんやりとそんな事を考えていた。すると男はえもいわれぬ何やら高級な香りを漂わせる紅茶を私の前に置いた。もちろんアイスではなくホットである。金持ちは初夏でも熱い紅茶を飲むのだろうか。

なんのせよこれは一般のフリードリンクで供される「ダージリン」とはおそらく似て非なるものであろう。

向こうが透けて見えそうなほど繊細なティーカップに淹れられたそれを、私はそろりそろりと口に含んだ。


「……おう……」

こういった場に出たことのない私は、気取って「おいしゅうございます」とでも言うべきだろうかと頭の中でぐるぐると考えていたくせに、いざ口をついてでてきた言葉は「おう」だった。ダージリンの予想外のうまさに結局は素の感想を漏らしてしまったのだ。これは私の知っているダージリンではない。


彼は私を一瞥し、私の発した言葉の意味を理解すべく間をおいた。

やがて彼はにっこりと微笑んだ。彼の笑みは私なんぞに向けられるのは少し上等すぎるほど美しく上品だった。


「先生に喜んでいただけて光栄です。先生のお口にあうかどうか、心配だったので」

世間一般の先生のお口がどうなっているのかは知らないが、私の口は非常に安くできている。いや、口だけではない。頭の中身も容姿も感性も、すべてがお安くできている。グラム88円の合挽きミンチで作ったハンバーグが私にとってのご馳走であり、60袋入り158円の麦茶を薬缶いっぱいに沸かしたものこそが私の「お茶」である。そんな安い口の私なのに、まっとうな紅茶がお口にあうかどうか心配されてしまうなんて。私なんぞその辺の雨水……はさすがに腹を壊すのでそのへんの水道水で十分である。


だが、そう思っているのはこの場では私だけらしい。彼は「先生」を自宅にお招きした事、そして高価そうな香りを立てるダージリンを褒められたことが、どうも、嬉しいらしい。態度こそ落ち着いているが、目が……なんというか、喜んでいる。


信じられない。

こんなに上品で、

明らかにテーラードと思しきジャケットを身にまとったいかにもな「勝ち組」が。

私のような安っぽいニートを大先生と呼び、

厚待遇を用意して、

私の作品なんぞを待っている……。


私は夢を見ているのだろうか。

それとも今までの人生が不遇すぎて、とうとう現実を捨てて自分の殻の中に閉じこもり、とうとう自分でもそれと知らぬ間に妄想の世界に移住してしまったのだろうか。

しかし夢の中の世界にしては私という存在はいかにもリアルな私そのものである。せめて夢の中でくらい美少女設定であってもよさそうなものだが、この世界での私は相変わらずジャガイモのような顔をした小太りの女であって、可愛げもなければ絵面(えづら)も悪く、インドア派にもかかわらず顔色はなんだかどす黒い。


「あの、質問してもいいですか」

「なんですか、先生」

「あの、とりあえずあなたのお名前を教えていただけますか」

彼は眉をあげて驚き、そして恥ずかしそうに頬を赤らめた。


「これは、失礼しました。マネージャーさんには僕に関する資料をいろいろとお渡ししたのですが、たぶん、資料は先生の手にはわたっていませんよね」

私は頷いた。資料どころかバイトの口があるという話すらなかった。おそらく母は事前に情報を開示することで私が逃走することを恐れたのだろう。


「肝心の先生に自己紹介をするのを忘れてはいけませんね。

僕はこういう者です」

彼は名刺を出した。私はニートなので名刺などもっているはずもなく、またビジネスマナーにも疎いので口の中でああ、とかどうもとか言いながらそれを受け取った。



SYアセットマネジメント代表取締役 三宮圭


『あせっとまねじめんと』……?


残念なことに、カッコいいデザインの名刺を渡されても私にはアセットマネジメントというものが何業を指すのか見当もつかない。

ただ、この私よりも年下と思しき若い男が代表取締役、つまり社長だということはさすがに理解した。たとえ社員数名の小さな会社であってもこの若さで経営者になるとはたいしたものだ。


「お若いのにご立派ですね」

どう立派なのかは自分でもさっぱりわからないが、しかし、たぶん彼は私などよりもよほど立派であろう。立ち居振る舞い肩書き服装、知的な面差しに上品の口の利き方、何をとってもなんとなく品がよくきっちりとしていて、非常に偉い人のようである。彼の場合、ネットリテラシーだけはひどいものだがとにかくそれ以外は素晴らしい。


「たいしたことはありません。まだ小さな会社です」

ふうん……。小さい会社なのか。でもまあ毎日ちゃんと通勤しているだけでもたいしたものだ。

「先生のお仕事のほうが誰にもかわりのできない立派なお仕事ですよ」


代わりがいないというよりも、私の代わりをしたい人などどこにもいないというのが正確なところだと思う。私本人でさえできれば私には生まれたくなかったと思うくらいなのだから。


私は日本人らしい習性から彼のお世辞に謙遜を返そうとした。しかし、なんと返せばいいのかわからない。あたたかい紅茶をいきなり胃に入れたせいか、少し眠い。疲れているのだろうか。……うん、疲れているな。


四方を田んぼに囲まれた実家で家族以外と接することもなく、特に出かけることもない暮らしを二年間もおくりつづけてきた私は、集中力や体力など、すっかりいろいろな機能が衰えてしまったようだ。

まして今日はいきなり28歳にして捨て子になり、そして見知らぬ男に拾われたのである。これが疲れずにいられようか。

彼は目をしょぼしょぼさせている私にすぐ気がついた。


「先生、お疲れですよね。気が利かずに申し訳ありません。それではベッドルームにご案内します。どうぞごゆっくりお休みください」

この男、私に漫画を描いて欲しいらしいが、しかしいきなりペンを握らせて「働けー!!」などといって鞭を振るう気はないようだ。


なんだ。わりといいやつだな。


疲れていたこともあって、私は少しだけ彼に気を許した。

そもそも地位や権力財産とは無縁のニートに何を警戒することがあろう。一応私も若い女なので貞操の危機について少しだけ考えないでもなかったが、しかし目の前のこの美しく上品な男がわざわざジャガイモ似の女をどうこうしようなどという気を起こすとは思えない。

例えジャガイモ似の女であろうとセクハラをすれば罰せられるのがわが国である。そんなものを性的にどうこうして刑罰を食らうくらいなら合法的に500グラム198円のジャガイモを買ってきて煮るなり焼くなり好きに料理するほうがはるかに建設的というものだ。


素直にベッドルームに案内された私は、エレガントなキングサイズのベッドにごろりと横になったが、やはり私の予想通り、彼はそんな私を性的にどうこうしようなどという様子もなく、自ら私のスポーツバッグを部屋に運び入れてくれた。なんだかやたらに親切である。

「それでは、先生。ごゆっくりお休みください」

彼は軽く頭を下げて出ていこうとして、そして何かを思い出したかのように私を振り返った。

「ど、どうしたんですか」

彼は少し照れたような微笑を浮かべた。

「……あの、あとでお手すきのときにでも、サインをお願いします」

「何のサインですか」

新たに雇用契約書でも出してくるのだろうかと私は一瞬身構えた。

「ファンサービスの一環としてのサインです。創作活動の邪魔にならない程度に、お願いします」

「……」

少し恥ずかしそうにそう言い残して去っていった彼に、私はほんのりと狂気を感じた。特に人気もない三流同人作家のサインなんかどう考えたってゴミだが、そんなものをもらってどうする気なのだろう。





とまあこのような成り行きで、私は三宮圭と同居することになった。彼氏いない歴=年齢の私がいきなり若い美貌の男と、結婚もしないのに同棲するなんてなんていかがわしい、という気持ちもあったが、仕方がなかったのだ。家なき子となった私にとっては三宮圭との同棲か野宿しか生活の方法がない。

そして、熟慮の結果、三宮圭と暮らすほうが野宿よりはいかがわしい目にあう確率も低かろうと判断した。


そして、三宮圭は私が当初危惧したようないかがわしいことは要求してこなかった。

私としては、ある程度生活を保障されているのだからボディタッチくらいは我慢すべきかと腹をくくっていたのだが、彼はいつまでたっても私に対して礼儀正しかった。


何度か彼と面談した結果を総合するに、どうも、彼は本気で私に漫画を描いてほしいらしい。

十年ほど前に某漫画雑誌で佳作を取ったきり、他に何の受賞歴もなく、もちろん自作の漫画を雑誌に載せてもらったことすらないこの私の漫画の何がそんなに気にいったのだろう。金持ちの考える事はわからない。

しかし、三宮圭が私に女体を求めず、作品を求めているのならば、私は描くべきだ。

住居を提供され、衣食住と創作にかかる費用を補償されたのだから、今の私は……かなり特殊な形ではあるけれども……漫画で生活をするプロ、といえなくもない。

だから、私は何が何でも描きかけで放置している漫画の続きを描かなければいけないわけだが、しかし、そんなに簡単に描けるならわざわざ人に言われなくとも描いている。

しかし、今の私は漫画を描いて生活をする人間である。他の漫画家とはかなり仕事の形態が異なるが、生活がかかっている以上描かねば、生活が崩壊する。無理にでも描かねばならんのだ。


というわけで、特殊な形ではあるが一応プロの漫画家となった私はネットに接続したパソコンのモニターを前にうんうんと唸り、描きかけの漫画の続きを考えた。

一応描き始めたからにはその時点で完結の着地点は考えていたはずなのだが、それが思い出せない。着地点どころか、私は自分が描いた漫画をまるで他人が描いた初めて読む漫画のように新しい気持ちで読んだ。漫画投稿サイトWeb Pictureには心躍るアクションものやハラハラドキドキのサイコサスペンス、思わず涙を流してしまうような純愛物語など、人の目を集める感動作がたくさん投稿されている。そんな中で私の漫画は実に地味で閲覧数も少ない。しかし、地味でネチネチした内容ながら、私の漫画は読んでみると結構面白い、と私は思う。自分で描いたのだから自分の趣味に合致しているのは当たり前のことなのかもしれないが。



しかし。問題があった。


自分で描いておいてこんな事を言うのは何だが、驚くべきことに、私は自分で描いた漫画について何もおぼえていなかった。絵柄も書き込んだ文字も確かに私のものなのに、まるで初めて読む他人の漫画のように次の展開がどうなるのかさっぱりわからずにページをくっているうちに漫画を読み終わってしまった。

自分の描いた漫画なのにその内容を何もおぼえていないとは一体どういう事だ。


私は悩んだ。自分で考えていたはずの続きが思い出せないのであれば、私はこの漫画の続きを今から考えなければいけない。人から見れば起承転結の前半くらいまではすでに描けているのだから後の作業は楽に見えるのかもしれないが、しかし半分くらいできた作品の続きを描くというのは結構難しい。なぜなら、一つの作品である以上、半分できている前半と後半新しく書いた部分に設定上の齟齬があってはならないし、現実に作者である私の時間がいくら経過していようとも、作中の時間は止まったままだ。だから絵もできれば同じように描くべきだ。


ちなみに、漫画を描くことに飽き飽きしていたので、ここ最近の私は絵を書くこともほとんどなくなっていた。

私はためしに鉛筆を握り、コピー用紙に絵を書いてみた。


何度も何度も紙と消しゴムを消費した結果、私は一つの結論に達した。


こりゃダメだ。

半年間のブランクで、私は自分の手にしっかりとしみついていたはずの「自分の絵柄」というものを完全に失っていた。キリンを描けば犬になり、ビルを描けば歪んだマッチ棒が描きあがる。

小学生の頃から積み上げてきたものがたった半年で失われるなんて思いもしなかった私は自分の手を見つめた。


心なしかペンだこが小さくなっているような気がする。



自分の絵を取り戻すにはたぶん量を描いて勘を取り戻すしかないのだろうが、しかしいかんせんやる気が出ない。私がもしやるべき時にやる気が出るような人間なら三年も無職で親のすねをかじるような真似はしないだろう。つまり私はうまれつきやるべき時に頑張れない人間だ。それは他人に命ぜられた仕事であっても家事であっても同じ事だ。これはもはや不治の病である。


結局私はその夜、半泣きになりながら広くて寝心地のいい金持ち専用ベッドにもぐりこんだ。

親に捨てられ住居を失い、変な男と一緒に暮らすことになったのもショックだが、漫画を描くことから逃げ続けた結果、とうとう自分の絵柄にも見捨てられてしまった。これでは無い無いづくしである。どうして私はこんなに不幸なのだろう。

きっと私は一晩を泣き明かすのだろうと思っていたが、しかし疲れていたのか現実逃避なのか、はたまた金持ちのベッドには何か不思議な効果でもあるのだろうか。私は涙で枕を濡らす暇もないまま深い眠りの中に引きずり込まれていった。



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