第二話 燃えるごみの日とニート

「今日は燃えるごみの日だから」

母が私の目の前に大きなゴミの袋を突き出した。

「……」

今、私は大好物の辛子明太子をおかずに朝食を終え、ささやかだが幸せな気持ちでテレビを見ていたのである。だが、悲しいかな、私は現在ニートですねかじりの身の上だ。母の命令に否やの言える立場ではない。

仕方なく私は重い腰を上げ、玄関に向かった。

いつもならばもうすでに出勤しているはずの父が今日はめずらしく家にいて、玄関で飼い猫の爪を切ってやっていた。


「麦子、ごみ捨てか」

「うん。他に捨てるものがあるならついでに持っていくよ」


父は何か言いかけたが、やがて情けないような笑みを浮かべた。

「いや、いいや。ありがとうな」

なんだか父の様子がおかしい。まあ親の反対を押し切って漫画家になると上京していった娘が、七年後に無職となって帰郷し、その上、三年も無職で親のすねを齧っているのだから具合も悪くなろうというものだが、それにしても今日の父はなんだか変である。

「大丈夫?病院に行くなら送って行くよ?」

28にもなって親のすねをかじっているのだから、その程度の親孝行はさせてもらうつもりだ。

「んー?俺はなんともないさぁ」

少し間延びした暢気な口調でそう答えると、父はまたうつむいて愛猫の爪を切りはじめた。


なんだろう、この違和感は。

父が猫の爪を切ってやるのはいつものことで、私にとっては子どものころからの見慣れた光景だ。どこがおかしいかといわれても具体的にここだと指摘できるものではないのだが、とにかくその時の父の姿が印象的で、しっかりと私の記憶に焼きついてしまった。


この時の私は、まさか自分がもう父と会えなくなるのだとは考えもしなかった。

ゴミ捨てが終わったらまた、いつも通り、父と母、そして茶色が私を迎えてくれるものだと思い込んでいたのだ。






重いゴミ袋をカラス避けネットの下に押し込み、私は大きく伸びをした。ゴミ捨てなどたいした家事ではないが、それでも日がな一日何をするでもなく過ごす無職の私にとってはなんだか一仕事やり遂げたような達成感がある。


空は気持ちの良く晴れていて、初夏の爽やかな風が時折木々を揺らしている。手元不如意のため、なかなか外出をしない私だが、今日は父を誘って散歩などしてみるのもいいかもしれない。

なぜそこでハローワークではなく散歩という発想になるのか。私が仕事か結婚相手を見つけてきたほうがいくらか父親の顔色も良くなろうというものだが、それが頭ではわかっているくせに、私は今日も自分の人生に対して建設的なアプローチができないのだろう。我ながら情けない人間である。


ため息をついて自宅に戻ろうと踵を返したその時、見晴らしの良い農道を一台のスポーツカーらしき車がこちらに向かって走ってくるのが見えた。

あいにく私は車に興味がないため、めずらしい車だな、と思っただけで、そのまま家に戻ろうとしたのだが、スポーツカーはそのまままっすぐに私のそばまで来て、ぴたりと停車した。


そしてスポーツカーの運転席から、もう6月だというのにきっちりとジャケットを羽織った若い男性が降りてきて、私に尋ねた。


「すみません、遠藤麦子さんという方をご存知ですか。このあたりにお住まいのはずなのですが」

少し眼鏡をずらして私の顔を覗き込んだ男の美貌に、私は目を奪われた。


彼はこのあたりでは見かけないほど『都会風』で、驚くほどなめらかな白い肌と、切れ長の大きな瞳の持ち主だった。どこか中性的なものを感じさせる優美な物腰がいかにも上品である。いや、上品なだけではない。私のような田舎ものにはどこがどう違うのか具体的には指摘しにくいが、しかし、彼の着ているアイテムからは何か外国のにおいのようなものを感じた。


まるで少女マンガに出てくるキャラクターのようだ。

こんな美しい人が実際に存在し、そして、わずか数メートルの距離から私に話しかけている。

「え、遠藤麦子は私です」


このとき、私は彼の美貌に陶然となっていて、なぜ見ず知らずのこの男が私を知っているのか、そして、彼が私のようなデブスの無職に何の用があるのかとか、この場で当然考えるべきそれらのことには少しも考えが及ばなかった。


彼は、私の返答を聞くと、花の開くような微笑を浮かべた。

「ああ、会えてよかった。では、どうぞ、車に」

紳士的な彼の態度に、私は何の疑いもなく彼の車に乗り込みそうになったが、さすがにそこで何かがおかしいと感じた。

若い女性が見ず知らずの男の車に乗ってもいいのか?いかに安全な田舎の農道でも、一般的な答えはNOであろう。


「あの、あのっ」

「はい」

「ど、どこに行くんですか、あの。あああああの」

引きこもりがちな普段の暮らしのためか、咄嗟に適切かつ失礼でない言葉が出てこなかった。ただどもるだけの私を見下ろし、彼は困惑したような表情を浮かべている。

「どこに……、とは?

あれ、マネージャーさんからまだ聞いていらっしゃいませんか」

「何を!?」

「アルバイトの件ですよ。あなたは今日から住み込みでアルバイトをする契約になっているんです。

今日は、アルバイトのためにここで僕を待っていてくださったのではないのですか」

「えっ……」

「もうすでに契約金はお支払いしたはずですが、ご確認は…………ええっと。

……していただいていないようですね」


私は慌てて記憶の中を探った。けっして私は記憶力がいい方ではないが、しかしさすがに自分のアルバイトの話を聞いていれば少しくらいは記憶に残っているはずだ。しかしここ数ヶ月の両親との会話を思い出してもアルバイトのアの字も出てこない。え、え、え?何?なんなの?


私の反応がそんな風だったので、彼も少し困ったような顔をしていたが、やがて肩をすくめた。


「窓口になってくださったマネージャーさんと、一度お話したほうがよさそうですね」

窓口のマネージャーとは何のことだろう。

今の私はまごうことなき無職で、マネジメントが必要になるような活動はしていない。

「マネージャー……?」

私の鈍い反応に、彼は知的な雰囲気のある涼し気な目を細めた。

「マネージャーさんというのは女性の方です。遠藤真美子さん、というお名前だったと思います」

「……」


私は黙り込んだ。

遠藤真美子は私の母である。彼女はいつから私のマネジメントを引き受けることになったのだろうか。そして、彼女は立派な無職を貫いている私の何をマネジメントする気だったのだろうか。


こういう時、いい年をしてどう対処すればいいのか、私はそれがさっぱりわからない。普通に就職して28歳になるまで働いた人ならばこういう時にどう振る舞えばいいのかわかるのだろうか。

実に情けないことだが、私の頭の中はいい年をして親のすねをかじっている無職の自分が母を追い詰めたのだろうかとか、この男が適当なことを言っているのではないだろうかとか、一人で考えてもらちが明かないことばかりぐるぐると考えていた。


彼は黙り込んでしまった私が口を開くのをしばし待っていた。しかし、やがて私という人間が年齢のわりにかなり頼りないこと、そして私にはこういうややこしい物事を適切に処理する能力はないということを察したようだ。

彼は困惑の表情を浮かべたまま、一つの提案をした。


「とりあえず……、遠藤真美子さんに事情をおたずねしましょうか。姓が同じですし、お身内の方なのでしょう?」

ああ、そうか。そりゃそうだ。母がこの件にかかわっているのなら、私は母にこのことを詳しく聞いてみなければいけない。

「え、遠藤真美子は、母です。さっきまで家にいたので、まだいるはずです。

じゃあ……家に、行って、母に事情を聞いてきます」

「僕も同席して一緒に事情を聞かせていただいてもいいですか」

そうか……。そうだな。彼は先ほど契約金を払ったと言っていたし、なんの話がどうなっていくら振り込んでしまったのかはわからないが、彼の話が事実だとすれば、この人にはそうする権利があるのかもしれない。




私達は私の実家に向かって黙って歩いた。細い路地を掃除していた近所のおばさんが、私と、そして見慣れない美形の組み合わせに大きく目を見開いた。

「おはよう麦子ちゃん」

このおばさんは我が家の向かいに住んでいる一家の主婦だ。

おばさんは私とそう年の変わらない自分の娘が公務員と結婚したことを何よりの自慢としている人である。そういう価値観の人であるから、夢破れて実家で三年も親のすねを齧っている私のことなど当然のように哀れみつつ馬鹿にしている。


しかし今日の私はいつもと違って見栄えのいい男性を連れているので、おばさんの目は好奇心に輝いていた。

私はいつも通りうつむいて、陰気な調子で挨拶を返した。

「おはようございます」

「麦子ちゃん、そちらの方は?」

「ああ……、ええと、バイト先の人です」

私自身も自分のつれている男が何者なのかよくわかっていないのだ。それ以上詮索されても困ってしまうので、私は彼女の次の質問を遮るようにさっさと歩き出した。

田舎はこういうところが暮らしにくい。人情だとか絆だとか、隣近所との密な関係に憧れて田舎に移住する人もいないではないが、しかし、私のように夢破れて田舎に帰り、さらに無職三年目に突入しようかというつつかれて困ることばかりの人間にとってはこの人間関係はただただ息苦しいばかりである。


「いいんですか」

彼はまだ何か聞きたげにこちらを窺っているおばさんに会釈を返しながら小さく囁いた。

「いいんです。いつものことなんで」

私はぼそぼそと答えると、実家の門を開けた。もう母はスーパーに出かけてしまっただろうか。

飛び石を踏んで玄関先まで歩いていくと、玄関先に古いスポーツバッグと私のスーツケースが放り出してあった。虫干しだろうか。何もこんなお客のあるようなタイミングで玄関先に古いバッグを出しておかなくてもいいだろうに。

「すみません、散らかってて」

急いでバッグを移動させようとしたが、バッグは予想に反して重く、中身が詰まっていた。

「……?」

バッグを開けると、そこには私の衣類がぎゅうぎゅうに詰め込まれていて、その衣類の間に白い封筒が挟まれていた。

「なんだろ、これ。

ちょっと、おかーさーーーん、おかーさーーーん、いないの?お客さんだよ!」


玄関の引き戸を開けようとしたが、しっかりと鍵がかけられている。このあたりは人の出入りの少ない田舎なので、親戚と近所の人以外で我が家に出入りする人もない。だから、よほど長い時間家をあけるとき以外は玄関の施錠などしないのだ。

わずか五分ほどのゴミ捨ての間に玄関に鍵をかけられるなどと少しも予想しなかったので、私は鍵を持っていなかった。


「えー……。出かけたのかな。

なんか、すみません。お待たせして」

「いいえ」

携帯電話を取り出して母と父に電話をしたが、二人とも出ない。

焦れた私は、とりあえず家の前におかれたスポーツバッグに入っていた白い封筒を開けた。中に入っていたのは一枚の便箋と二万円の現金だった。


ヤダ、お父さんったら。お小遣いかな。

父は昔から長女の私に甘く、無職になって出戻って以降も時々こうしてお母さんに内緒のお小遣いをくれる。

いつもならば喜んでお小遣いを受け取る私だが、お客さんをつれている手前、素直には喜べずにこっそりとデニムパンツのポケットに二万円をねじ込んだ。


便箋には

『麦子へ

お父さんとお母さんはブラジルの雄大おじさんのところに行って農園を手伝うことにしました。

麦子ももう28歳なので自分で生きていけるよう頑張りなさい。麦子は仕事をするように言うと、すぐに話をはぐらかすので、仕事はお母さんが見つけておきました。今日、上司さんが迎えにくると思いますが、もし上司さんに連絡がつかなかった場合は090-××××-○○○○に電話してください。

茶色はこの年で野良猫にするのはかわいそうなので連れて行きます。奉公が辛くとも泣かないように。あと夜更かしして漫画を読むのは体に悪いのでやめるように。

初任給が入るまでのつなぎとして二万円を同封します。大事に使うように 母』


と、母の字で書かれていた。まるで『おやつは冷蔵庫にプリンがあります。きちんと手を洗ってから食べるように』のような軽い文面で、突然やってきた親子の別離の手紙とは到底思われないようなノリである。

しかもブラジルの農園を手伝うって。なんだか親は親でいろいろと危ない話に乗っかってしまっているような気がするのだが、私の考えすぎだろうか。


「ぶらじる……」

呆然とする私のわきから、男性が手紙にさっと目を通した。

「もう出発してしまったのでしょうか。困りましたね」



私はショックで何も考えられないまま、ただ機械的に手紙に書いてあった電話番号に電話をかけた。私が家を出てまだ三十分も過ぎていない。さすがにまだ両親はブラジルに向けて出国してはいないはずだ。電話をかけて事情を聞き、28歳ニートとはいえある日突然我が子を捨てるのは人道にもとる行為ではないかと両親を説得するつもりでいた。


幸い、手紙に書かれていた携帯番号は携帯を切ってはいないようだ。呼び出し音が聞こえた。

すると、私の背後にたってじっと待っている男のポケットから妙に気取ったクラシック風の着信音が流れ出した。男は携帯を取り出し、私に着信画面を示して見せた。そこに表示されていたのは明らかに私の携帯番号であった。



紙に書かれた連絡先は両親のものではなくこの男、つまり件の『上司さん』のそれであったらしい。

「……」

私と男は黙って顔を見合わせた。

私は母からの手紙を男に示し、そして緊張でかすれた声で尋ねた。

「え、ええと。じゃあ、あなたが『上司さん』ってことですかね……」

男は呆れたように肩をすくめた。

「まあ、上司というか雇用主、ですかね。振り込み票、ご確認いただけますか」

彼はポケットから財布を取り出すと、なかから某銀行の名が印字された振込み票を取り出し、私の顔の前に突き出した。


一、十、百……とそのゼロの数を数え、私はうっ、と小さく呻いた。

受け取り口座は私が小学生のときにお年玉をためておくために親が作った口座だが、私が家をでた十年前以降、使っていない田舎の信用金庫のそれである。そこにきっちりと100万円、振り込みがなされたようだ。


100万円。

大金といえばそうだが、しかしそれだけで一年生活するのは少し苦しいような、変に生々しい金額である。


「あ、あのこの金額」

「前金です。仕事が終わったらあと200万円を振り込む契約を結びました。あなたは本当に何も聞いていないのですか」

私は頷いた。

「困ったな。じゃあ僕もあなたも、詐欺にあったようなものか……」

彼は少し神経質そうな眉をよせ、ためいきをついた。


詐欺と聞いて、私は青ざめた。

きっと何かの間違いだ。あるいはこれは夢ではなかろうか。


「……え、えと。あの。母は……詐欺をするつもりはなかったと、思うんですよ。田舎の気のいいオバサンなんで」

オバサンというかおばあさんに差し掛かる年齢かもしれないが、他は間違っていない。母は詐欺など働くような人間ではない。詐欺を働くのはたぶんなんかこう……都会的で頭が良くて、男を惑わすような若く美しく胸のでかい女だ。母はすでに若くない私を娘に持つおばちゃんで、過去美しかったことなど一度もなく、都会的どころか東京バスツアーでさえ気後れしてしまうような人間なのだ。だまされることはあっても騙すような人ではない。

「詐欺ではない、と?

では、僕の支払った100万円はどうなりますか。返ってくるのですか」

「……」

私は黙って自分の知りポケットに納めたばかりの自分の小遣い二万円を取り出した。

彼は冷たい目でその二万円を見下ろし、そしてさらに言った。

「残りの98万円は」


自慢するわけではないが、私は約8年間も安い給料で漫画家のアシスタントをやり、そしてその後三年間は無職。そんな私に貯金のあろうはずもなく。……したがって母がこの男から詐欺った(かもしれない)金を母に代わって立て替え返金するなどという資力は私にはない。

しかし、金がないからといtって母を詐欺で訴えられてはかなわない。時々、何かのスイッチが入ったようにヒステリックに怒鳴り散らすこともあるが、それでも母は母である。



「すみません……いまは、お金、ないです…………。母と連絡がついたら、必ず返すので」

きっと今は移動中か何かで私の電話に気がつかないだけなのだ。何度か連絡をすれば母もすぐに帰ってきて(何があったのかは知らないが)ごめんごめんと98万円を返してくれるだろう。昔、私が学生だった時も、母は私の習い事のレッスン代を私に持たせたはずだと言い張って、あとから勘違いだったという事件を何度か起こしている。そういう人だ。今回もそれによく似た勘違いがあったのだろう。


「僕としては当初の予定通り、あなたが仕事をしてくだされば、100万円を返していただかなくても結構ですよ」

「……仕事ってなんですか」


嫌な予感がした。

偏見かもしれないが、若い女……いや、言うほど若くもないが一応二十代の、とくに手に職があるわけでもない女に100万という大金をぽんと払って働かせようなんて人間などろくなもんじゃない。

そういう人間が持ってくる「お仕事」の話といえば犯罪か、エッチなお仕事に決まっている。

犯罪、はたぶん無理だ。自慢ではないが、私は100メートル走ではだいたい20秒台の記録保持者だ。つまり足は遅い。たぶん何か犯罪をやらかしても一瞬で捕まってしまう。根性もないので吐けと言われれば仲間の名前も組織の名前もペラペラしゃべる。

ということは残るはエッチなお仕事しかないではないか……。


私は自分のTシャツの胸元をさりげなく腕で庇った。私はブスだしやや太り気味ではあるが、しかし胸はDカップだ。いまどきDカップなど珍しくもないのかもしれないが、しかしDカップあればエッチなお仕事のオファーだって顔にモザイクをかければあるいは。


様々な可能性を考え、私は少しずつ後方に下がった。

男は私に向かって一歩踏み出した。


「お仕事というのは漫画を描くことです。『Web picture』にあなたがアップしていた未完の漫画が二作あるでしょう。あれを完結させてください。もちろんあなたはアーティストですから、機械のように一定速度で一定の仕事が出来るものだとは思いません。時間はかかってもいいので、とにかく前向きに取り組んでいただきたいのです」

「あ、あー!漫画……!」

自分でも忘れていたが、私は手に職がないわけではなかった。プロにはなれなかったが、一応漫画家のアシスタントで生活していた時期もあったのだ。

彼は品の良い笑みを浮かべた。

「漫画を書き上げていただけば、完成原稿に対して200万円をお支払いします。電子マネーではなく現金でご用意しています」


電子マネー。どこかで聞いたフレーズである。


「……あ」

私は一ヶ月ほど前に応対してそのままブロックしていた謎の非常識ユーザーのことをぼんやりと思い出した。この男のバカ丁寧な口調は何となくあの小学生の文面と似ているような気もしないではない。

「もしかして、あなたは、あの、いつだったかWebpictureのほうで私にコメントをくださった方ですかね……?」

「……ああ、覚えていてくださいましたか。光栄です」


認めた!

あの非常識ユーザーはアンタか!あまりにもネットリテラシーが感じられない行動をとるものだから、てっきりあのコメントの主はネットデビューしたばかりの子供だと思い込んでいた。しかし、普通に大人じゃねーか。


もうすっかりその件は忘れて私の日常は穏やかになったものだとばかり思っていたが、事件は全く解決していないばかりか、さらに悪い方向へと進行していたようである。

彼は私が彼のコメントを覚えていたことが嬉しかったのか、今までとは少し違った笑みを浮かべている。

「あなたのファンとして、漫画の続きをぜひ読ませていただきたいとずっと思っていたんです。ぜひ、続きを描いてください」


「いや、それは」

私のような素人が好きな設定で、さらに好きなペースで描いた漫画にそこまで入れあげてくださるのは嬉しいことだが、しかし何度も言うようだが描けないから描かないのであって描けるなら100万円を貰わなくてもこっちは勝手に描くし勝手に続きをアップするのである。ああいうものは金を貰ったら続きが描けるというものではない。


それにしても、てっきり小学生だとばかり思っていたあの非常識ユーザーがまさか大人の男だったとは。しかも、こんなまともな、いや、ルックスだけはまとも以上の人間だったとは。

一見まともそうに見える人の中にもあんな無料同人漫画サイトの素人漫画を読む人がいるのか。商業誌ではなく無料の素人漫画を読み漁るのは漫画を買う小金にも不自由している子どもか商業漫画を読みつつそれだけでは満足できずに素人の描くものにまで手を広げた真性の漫画オタクばかりだと思っていた。


この男、何者だ。

私はいかにもニートらしい姿のニートだが、この、一見芸能人か何かかと思うような美貌の男の生業は一体何なのであろうか。聞いてみたいが聞いてはいけない気もした。



とにかく、私はその後、何度か母に電話をかけた。そして彼のほうからも何度か母に連絡をしてもらった。しかし母に電話がつながることはなく、そのまま数時間が過ぎた。

時折近所のおばさんが私の家の前を通りかかるふりをして、ずっと玄関前に立ったまま電話をかけ続ける私達の様子を窺っている。



「困りましたね。今日は一日休みをとっていますが、明日からは僕も仕事があります。今日中に連絡がつかなければ、やはり弁護士に」

男がそう言いかけた時、私の腹が鳴った。もう昼が近い。

「ああ、もうそんな時間ですね。

とにかく、ここに居たってあなたのお母様は帰って来ないと思いますから、今後どうするにせよ、場所を変えませんか。暑い」


私は男の顔を見上げた。たしかに、数時間前の登場の際には世にこれほど爽やかで上品な美男があろうかと思うような男だった彼が、今は少し……汗ばんでいる。まだ6月とはいえ、温暖化した日本の6月は初夏でももう立派に暑い。その上、私はTシャツにGパンの軽装だが彼はなぜかジャケットを羽織ってわりときちんとした格好なのだから、体感温度はきっと私以上に高いだろう。


「ランチにしましょう」

「でも、このあたりはゴルフ場かファミレスか……あとは道の駅くらいしかないですよ。道の駅で柿ジャムアイスでも食べますか。特産品ですよ。あと私、お金ないです」

「ゴルフ場であろうとどこであろうとここでじっとご両親の帰りを待つよりはマシです。行きましょう、ごちそうします」

「あ、でも」

「暑いんです」

彼は心なしかイラついた口調でそう答えると、どうしたものかと戸惑っている私の手を引いた。


「うぉっ……」


突然の彼の行動に思わず変な声が出た。

男性に手を引かれるなど何年振りであろうか。……などと見栄を張ってみたが、何年振りではなくほぼ初めてだ。ほぼ、というのは中学三年の運動会で披露したフォークダンスのときに、クラスメイトの男子が義務として私の手をとった、という事実があるので『ほぼ』と表現した。

もちろん私の手をとった彼らはたぶんそれが教師に強要されたことでなければ敢然と私の手を拒否したであろう。固太りのジャガイモ似の女の手を好き好んで引く男はさすがにこんな田舎でも遭遇したことがない。おそらくジャガイモ農家を営むほどジャガイモ好きの男性でも私の手など好き好んで引きたがらないだろう。私は自身の経験からそう確信している。


しかし、いかに私がジャガイモ似であろうと、さすがにジャガイモとして畑で育ったわけではないので、当然のこととして私も人間としての情緒と自意識を持っている。他意はないとはいえ、若く美しい男に突然手を引かれ、しかも昼食をご馳走していただけるという。この唐突なタイミングでこんなプリンセス扱い(?)をされては平常心でいられるはずもなく、私は魂を抜かれたようになって、ただ言われるまま彼の車の助手席に乗せられ、そのままさらわれてしまった。




彼はTシャツとGパン姿の私をこじゃれた会員制のレストランに連れ込み、食事をさせ、当たり前のように私の分の食事代金を支払ってくれた。

なんとかのテリーヌとか、アメリカのなんとかワインを飲まされ、さらにアマランサス?とかなんとかいう穀物状の何かと妙に柔らかいたんぱく質を食わされた私は、自分の口にしている物がうまいんだかうまくないんだかわからないまま、デザートを食うに至り、そこでやっとこれはかなりお高い食事だと気がついた。

このデザートはコンビニで販売されているちょっとしか入っていないのに400円近くするアイスにコクと甘さの質が似ている。十本入り298円のアイスでさえ遠慮しいしい食している無職の私にはなんだかもったいないような味だった。



「あの、お口に会いませんか」

「……んっ?」

「ですから、ランチのことです。何も仰らないので僕の好みでこのレストランに決めさせていただきましたが、ずっと何も仰らないのでお気に召さなかったのかと思いまして」


どうやら私は提供された食事の内容に驚くあまり、舌と手以外の機能がすべて停止していたようである。

「あ、……い、いえ。気にしないでください。おいしいです」

「そうですか。ワインをもう一杯どうぞ」

「あ、いえ。もう結構です。あ、ああ、すみません。気が利かなくて。私も」

彼がワインをついでくれようとするのを押しとどめ、私は俗に言う「返杯」とやらを見よう見真似でやろうとしたが、彼はすぐにワインボトルをおいてしまった。

「僕は車なので」

あ、そうか。なるほど、すっかり忘れていた。

「……それで、先ほどの話を続けてもいいですか」

「先ほどの話?」

「雇用契約の話です」

「んっ?」

「やっぱり聞いていなかったのですね」

軽く睨まれ、私はすんませんすんません、とコメツキバッタのように頭を下げた。


「謝らなくていいので今度はしっかり聞いてください」

「はいっ!なんか、すんません!」


久しぶりに緊張したせいか、つい大きな声を出してしまった。これは私がある有名漫画家の先生のもとでアシスタントをしていたころに身につけた習慣だ。


漫画家といえばゆるい雰囲気の自宅兼職場でまったりと仕事をしていると思われがちだが、ゆるっとまったり仕事をしている漫画家はアシスタントなどそれほど必要としていないのである。

すべてがそうだとは言わないが、アシスタントを複数雇っているような人気のある漫画家は、たいてい複数の締め切りを抱えていて、彼らは疲労と緊張で非常にイライラしている。

私がついた先生もそうだった。週刊誌で連載していた先生はいつもイライラしていて、アシスタントの作業が先生の望むレベルに達していない場合は容赦なアシスタントを怒鳴りつけたし、アシスタントの礼儀にもうるさく、挨拶が小さい、敬語がなっていないアシスタントは首を切られた。私のようなできないアシスタントはしょっちゅう怒鳴られることになる。その恐怖体験はいまだに私の中に残っていて、ふとした瞬間に顔を出すのだ。


彼は私の大声に驚いたようだが、少し周りを見回して周囲の客に軽く会釈をすると、また話を戻した。


「とりあえず、あなたのお母様に詳しい事情を聞くことは今のところできていない。今後も、連絡がつくのはいつになるのかわからないという状況です」

「……そ、そうですね、すいません」

「ただの事実確認ですから謝らないでください。話が進まない」

彼は少しイライラしているようだった。大きな切れ長の瞳をときどきすうっと細める彼の怒りの表情は、彼が美貌なだけにそれだけで迫力がある。

「あ、はい、すんませんっ」

いちいち謝らなければ怒る漫画家もいれば、いちいち謝るとイライラする人もいる。人と付き合うのは本当に難しい。世間の人はどうやって彼らの違いを見極めているのであろうか。


「……では、確認しますね。

僕は、そもそもあなたの漫画の続きが読みたい。しかしあなたは同人作家という存在で、プロではない。趣味で漫画を描いている。

そして趣味で漫画を描いている以上、仕事ではないので気分が乗らなければ描かない、そうですね?」

「は、はい。そうです」

「同人作家というのはいま一つ僕にはピンときませんが、とにかく趣味だというのはわかります。

だから、僕はあなたにモチベーションをあげていただくために、成功報酬とは別に漫画の着手金として100万円お出ししました。

しかし、あなたはその100万円を受け取ってはいないし、当然創作に対するモチベーションも上がっていない。そういうことですね」

「い、いやあの、母は詐欺を働こうとしたんじゃなくって、母は田舎のおばちゃんなんで、家族の収入イコール家の金っていう認識で、だから、あの、悪い人じゃないんです。警察には言わないでください!」


テーブルに額をこすり付けんばかりにしてそう頼んだが、彼はさすがに即「いやいや、困ったときはお互い様です」とか「人という字は二人の人間が(以下略)」などというような甘いことは言わなかった。


初対面のジャガイモにランチをおごってくれる懐のゆるさ具合から、この人はちゃんと謝ったら許してくれそうな気がしていたのだが、100万円だもんねえ……。そりゃあ簡単に見逃すことはできないだろう。


彼はテーブルの上で指を組んだまま、ゆっくりと私に尋ねた。


「……で、あなたのお母さまが詐欺を働いたのでないとすれば、100万円はどうなりますか」

「ど、どこかでバイトをして返します、接客は苦手なんですが、け、軽作業なら」

「今のお仕事のほかにバイトですか?ダブルワークは大変ではありませんか。余計に創作のほうが滞ると思うのですが。もっとシンプルに考えて、普通に漫画を描こうとは思わないのですか」

問い返され、私はうつむいた。

「い、いやあの。諸事情ありまして、私……今は、無職なんです。だから、バイトをする時間はあるんです。

でも漫画は、描けないんです。だからあの、軽作業とかのバイトなら少しは経験があるので、そっちで働くところを探して、お、お金を返済できたらなーって……」


私が『Web picture』で描いていた漫画は、分かり合えない親子の心理をネチネチと、じゃなかった丁寧に細かく辿っていくスタイルの内容で、『Web picture』のランキングの中でも上位を占めるエロや恋愛、残酷系とはちがって閲覧者も平均年齢が高く、ひっそりと読んでくれる人が多く、露骨な催促も少なかった。

しかし特に大きな事件が起こったりハラハラドキドキするようなストーリ展開が待っているわけでもない内容のため、書き手としてもモチベーションの上がりにくい内容だった。言葉で表現するのは難しいけれど、物語の世界に自分自身が入っていないとなかなか書けない内容というか。


一度はプロを目指した身としてこういうことを言うのは情けないが、とにかくあの漫画は今はもう描けないのである。


彼は黙って私の言い分を聞き、そしてその内容を頭の中で反芻するように少し考えていたが、やがて言った。


「……描けないかどうか、まだわからないじゃありませんか」

「えっ」


描けないと本人がそう明言しているというのに、この人は何を言っているのだろう。


顔を上げて彼の顔を見つめると、彼は真剣な顔をしていた。その瞳には強い意思の光が宿っていた。私のようなジャガイモと違い、美貌の人がそんな真剣な表情を浮かべていると少し怖いような迫力があった。


「せめて、今から三ヶ月、真摯に作品に向き合ってください。三ヶ月向き合って、それでも描けなければ仕方ありません。僕も100万円で社会勉強をしたと思って諦めます。

もちろん、あなたはアーティストなんですから、ただ機械的に机に向かっていれば漫画ができるというものではないというのは理解できます。ですが」

「ちょっ……、あ、あのっ」


私は背中を丸めて周囲を見回した。普通のトーンで話をしているので露骨にこちらを見ている人はいないが、しかし恥ずかしい。私のようなきったない格好をしたジャガイモ似の女が『アーティスト』って。周囲の人には『アーティスト(笑)』と聞こえるに違いない。少なくとも私にはそう聞こえた。


「なんですか」

「その、『アーティスト(笑)』っていうのはやめてください」

「では芸術家、ですか」

日本語にしただけじゃねーか。

「そ、そそそれはもっとやめてください。恥ずかしいので」

芸術家というのはそれなりに社会的評価を得てベレー帽をかぶったなんか気難しそうな中年以降の人を指すのであって、こんな財布も持たずに家を締め出された無職のジャガイモを指す言葉ではない。


彼はそれを聞いていやな顔をしたが、強いてその件について私と論じる気はないらしく、そのまま話を続けた。

「このままただ100万円が返ってきたところで、僕はあの作品をあきらめることはどうしてもできない。

ですが、あなたにも創作をする上での都合というものがある事も理解できます。ですから無期限に頑張ってくれとは言いません。

着手金としてお支払いした100万円はそこまで大きな額じゃない。あなたが挑戦してみてできなかったらそれはそれで仕方がない。その時は100万も漫画も諦めます。

どうですか、あなたにとってさほど悪い条件でもないでしょう。

だから、結果が出なくても3ヶ月、本気で頑張ってほしいのです」

「は、はあ……」


漫画が描けなかったとしても、描こうと頑張るだけで100万円がチャラになる。これはかなり寛大な申し出ではないだろうか。もしこの人が100万円を母に騙し取られたと警察に駆け込めば、母は犯罪者になり、私は犯罪者の娘になるのだ。

「ほ、ほほほんとうに、い、いいんですか、その条件で。その、つまり、結果、描けなかったとしても、それでも……?」

彼はゆっくりと頷いた。

「ええ。アート作品ですから」



アート!

アアアァアアトだって!馬鹿じゃないの!?漫画じゃん!!


私は人のことを言えるほど賢い人間ではないが、この人は私に輪をかけて……アレな人物らしい。

一見知的でちゃんとしていそうに見えたのだが、それは単に彼のおしゃれなジャケットと美貌の見せる蜃気楼だったのだろう。人間の印象など本当にあてにならないものだな。

八年間頑張って漫画を描いても良くて奨励賞、悪ければ編集者も途中で読むのを放棄するようなくそつまらない漫画しかかけない私の『作品(笑)』なんかに100万円も出すような人間はきっとどこか病んでいるのだ。


三か月間漫画に取り組めば、作品ができなくても素直に諦める。つまり酸欠を乗り切れば100万円は返さなくてもいい。不自然なほどおいしい話だ。しかしこんな(変な)人の言うことを聞いて大丈夫だろうか。あとでこの人の親が出てきて、「無職の自称アーティストがウチの僕ちゃんを騙した!」などと騒ぎ立てたりしないだろうか。

私が嫌な未来を想像してうつむいていると、彼は短く付け足した。


「このまま漫画も描かない、金は返すがいつになるか分からないというのであれば、僕も法的手段に訴えて100万円を回収しなければいけなくなりますよ」


私は小さくうめき声を上げた。

あ……、私に選択肢なんかなかったんだな。はじめから。


彼の言っていることがおかしかろうとなんだろうと、親を犯罪者にしたくないのなら、私はもう何を言われてもハイハイと頷くしかなかった。


「あなたのような立派な先生を我が家にお招きできて光栄です。三ヶ月間、よろしくお願いします」


彼は花の開くような笑みを浮かべてそう言ったが、待て待て。「家にお招きする」とはどういう事だ。


「あ、あの。家にお招きするってなんですか」

「ああ、失礼ながら、あなたが真摯に作品と向き合っているか、定期的に確認させていただきたいので、三ヶ月間は僕の家に住み込みで作品の製作に当たっていただきたいと、マネージャーさんに申し入れて契約書にもそう、……ああ、そうか。

そういえばあなたは契約書の話も何も聞いていないんでしたね。

これが、契約書の写しです」


彼はテーブルの上にきちんとファイリングされた書類をひろげた。

それは、ところどころに判子まで押してあり、弁護士の名前も入っている書類だった。学力も低く、会社勤めをしたことのない私では内容はあまりはっきりとは理解できないが、彼の言ったとおり、『アトリエや創作にかかる資材はすべて甲が用意するものとする』、と書かれている。きっちりと母の筆跡で母の実印が押してある。こんな、私本人の50倍は社会的信用がありそうな書類を持ち出されてはもはや言い逃れなどできない。


彼は私が納得したと見るや、途端に真剣な表情を崩して穏やかに微笑んだ。


「それでは、突然のことで驚かれたかとは思いますが、先生のアトリエにご案内します。

大丈夫、先生のプライバシーは尊重しますし、先生の私生活に関することは決して口外しません。

どのみち、ご自宅には帰れない事情があるようですし、住むところがなくては創作に差し支えるでしょう。どうぞ遠慮なくそちらで創作に励んでください」


「あ、はあ……」

私の立場で『はあ』以外になんと言うことができただろうか。のちに何度考えても、私はこのとき発するべきだった言葉を見出せないでいる。


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