日本再創生論7 システム無政府主義論
日本の再創生を導く政治的理想の創生のため、システム無政府主義論を提言する。
世界であれ、国家であれ、大学であれ、会社であれ、派閥であれ、そこにシステムを想定できるなら、システムは必然的にシステムの内側と外側の分割を内包する。これ以上外側がなさそうな宇宙というシステムであれ、宇宙の外側という想定は可能である。
システムの内側と外側の二重構造をもたらすシステムの境界が任意であるなら、システムの外側には差異を生じる。システム、システムの内側と外側の二重構造、システムの境界の任意性とシステムの外側の差異、これが現代思想、とりわけ構造主義やポスト構造主義の中心的問題となった。構造主義とポスト構造主義は視座の差として理解できる。構造主義はシステムの内側から外側を見る排除論(内側が外側を排除していると解釈する)であるのに対して、ポスト構造主義は外側から内側を見る拒絶論(外側が内側を拒絶していると解釈する)である。ポスト構造主義では内側と外側の逆転がおこり、システム(内側)が拒否あるいは解体されるので、システムはカオスまたは無政府状態に陥ることになる。すなわちポスト構造主義は左翼思想という意味で実存主義やフランクフルト学派に接近する。自らをポスト構造主義者だと名乗る思想家がだれ一人いないのは、マルクス主義者と同様に外側から見れば外側は内側だからである。自らが外側にいると定義する思想家はいない。
記号論(セミオティクス)と圏論(カテゴリー論)ないし集合論(セット論)に還元可能なかぎりにおいて、構造主義とポスト構造主義は分析哲学と総合してテクノロジカルな思想に読み替えが可能であり、ベルタランフィの一般システム理論によって数学的に統一されてオートマトン(サイバネティックス)となり、生物学的に統一されてオートポイエーシスとなった。オートマトンとオートポイエーシスは、どちらも統治者を必要としないという意味においてアナーキーな思想であるけれども、テクノロジーの政治哲学的帰結(管理社会か無政府主義か)は大きく異なることになる。
イマヌエル・カントにおいて頂点に達した近代哲学はシステムの内側だけを有意味とした。カントの先験的観念論において、システム(理性的に認識された世界)の外側は、物自体の不可知性、あるいは超越論的アンチノミーとして、無意味化(不可知化、相対化)された。
カントの認識論はロックから始まりヒュームで完成したイギリス経験論、デカルトから始まりライプニッツで完成した大陸合理論の総合とされ、人間の認識を経験と分析、あるいは感覚と悟性によって基礎づけた。カントがこの二元的な認識論で説明したかったのはニュートン物理学だとされる。今日の量子論や宇宙論はニュートンから大きく進化したように見えるものの、理論物理学と実験物理学の二元的関係は人間の認識能力としての感覚と悟性(経験と分析)の限界を超えてはいけないというカントの戒律を忠実に守っている。カントはまた人間を理性的存在者と定義し、快楽主義(欲望)を道徳の基礎として否定した。カントの定言命法(個人的な行為の原則(格率)が同時に普遍的立法の原則となるように行為すべし)は、すべての理性的存在者に通用する宇宙的真理(道徳法則)であるとされた。さらには美を目的なき合目的性と定義した。
このようにカントは理性の哲学(理性による理性のための理性の哲学)を完成させた。ただし彼が完成したのは科学基礎論としての認識論と倫理学基礎論としての義務論と芸術・宗教基礎論としての目的論だった。カントは西洋音楽史においてポリフォニーを完成させた大バッハに似ている。シュバイツァーが「バッハは結論である。彼からはなにも発しない。すべてが彼をめざして進んできたのだ」と言ったのと同じ意味において、カントは結論である。
カント以後の哲学者たちはカントが哲学を完成(終焉)させてしまったことに焦燥し、彼が無意味化した理性的認識の外側にある物自体の不可知性や超越論的存在や快楽を、理性の内側へと有意味化しようとした。これがヘーゲルの精神現象学であり、さらにフッサールの超越論的現象学からハイデッガーの現象学的存在論に至り、実存主義に流入する現象学の本流となる。現象学とは認識論と存在論(または意味論)とのミッシングリンクである。それは科学と哲学あるいは実証と思弁の境界線ともいえる。カントにとっては憧れてもよいが超えてはならない異国との国境だった。
ヘーゲルの観念論的体系化を拒否し、カントが無意味化した理性の外側の世界へ迷い込み、そこを個人の生への意志または欲望の世界として肯定する傍流(アウトサイダー)も現れた。後世からは生の哲学と総称されているものの、それぞれがばらばらな流れである。ただし当人は自分こそが本流だと思っている。ショーペンハウアーのペシミズムではまだこのチャレンジは夜明け前の暗がりの中のまどろみである。シュティルナーのアナーキズム、ニーチェの超人、キルケゴールの不安、ディルタイの体験、ベルクソンの創造的進化では、欲望としての意志への関心が理性への反逆に変わった。この反逆は世界大戦による絶望を経て、現存在(人間)と存在(世界)の関係を再構築する実存主義へと吸収され、非理性はアウトサイダーからインサイダーへとカムバックした。皮肉なことにカントが哲学的に無意味だと考えた存在論、生気論、運命論、欲望論は、哲学が哲学として生き続けるための哲学のメインステージとなったのである。
こうした非理性主義の台頭に異を唱えるヴィトゲンシュタインはスピノザの幾何学的叙述形式を復興し、そこから論理実証主義が生まれ、記号論を創始したパースのプラグマティズムと融合しながら、カルナップ、クワインに至る分析哲学に結実した。しかしこれは哲学とは似て非なる精緻な論理学のフラクタルで飾りたてた常識と直観にすぎなかった。いわばダイヤモンドのケースに入れたガラス玉である。分析哲学は論理的思考と現実的思考の体系として巨大な発展を遂げたものの、よく見れば立派なのはケースだけである。しかしそれゆえに現代の巨大な虚構の体系(訴訟社会やバーチャル文化)あるいは仮想現前(バーチャルアピアランス)の世界を解釈するのに最もマッチした哲学だといえなくもない。
20世紀には人間に関する科学的探求が急進展し、哲学にも新たな潮流が生まれた。言語学者のソシュールは多民族の言語の差異の構造を記号学(セミオロジー)として基礎づけ、民俗学者のレヴィ=ストロースは数学者のアンドレ・ヴェイユの協力をえて未開の民族の結婚制度に数学的構造(クラインの四元群)を発見し、理性的思考に野生の思考を対置した。この異分野の二人の研究から、理性の外側の世界の多様性または内側(同一性)と外側(差異)の関係に目を向ける構造主義(関係主義)の探究が始まった。フロイトが意識と無意識の関係(無意識の欲望と抑圧)を発見して精神分析を創始したことで、理性の外側の世界、意志(欲望)の世界は無意識と結びつけられるようになり、ユングは集合的無意識と多民族の神話に見られる原型を重ね合わせた。さらに外側の世界への探求は資本主義のアンチテーゼとしてのマルクス主義に再接近して新左翼が生まれた。
フーコーは社会から排除された狂人や罪人や性欲の歴史的意味を執拗に探求し、デリダの脱構築(ロゴスの解体)は前衛芸術家や批評家たちの流行語として一世を風靡し、ドゥルーズとガタリのアンチオイディプス(資本主義の精神分析)はベストセラー哲学書となった。ヤスパース、メルロー=ポンティ、サルトルらの実存主義は実存を本質に先立たせ、ホルクハイマー、ベンヤミン、アドルノらのフランクフルト学派は体制(資本主義)を拒否してマルクス主義革命を称揚し、マルクーゼは新左翼の教祖として学生運動の中核思想となった。
このように20世紀以降、とくに20世紀後半以降の思想は、システムの内側と外側の関係、現存在と存在(人間と世界)の関係をさまざまな手法で探求してきた。これらの多くは世界観の同一性すなわち真理を追求する哲学の本流から見れば反哲学の思想だった。今なおニーチェがこれら反哲学の思想の教祖とされる所以である。いわば反哲学の思想はニーチェ教である。現代(ポストモダン)の思想界は実存主義(現象学)、構造主義・ポスト構造主義、分析哲学(プラグマティズムと論理実証主義)を三大潮流とし、精神分析と唯物論(マルクス主義)を包摂するニーチェ教に席巻されたといってもいい。
しかし現実の世界は政治システムにおいても経済システムにおいても社会システムにおいても依然として保守的であり、むしろますます保守的となり、システムの外側(アウトサイダー)に対する排除性を増している。反哲学の思想を学び、ニーチェに心酔した学生は多いはずなのに、社会に出たとたんに忘れ去られてしまう。それは現実の政治経済社会に反哲学の思想が生かされていないように見えるからである。リアリティのない反哲学の思想にいつまでもかまけていては社会的不適応(スピンアウト)になってしまう。壮大な世界観であったハイデッガーですら障害者や被災者の哲学として矮小化されている。これは宇宙論だった物理学が量子論へと極限化されたのに似ている。しかしほんとうにそうなのかは慎重な検証を要する。半世紀以上にわたる思想界のチャレンジが政治経済社会になんらの影響も与えていない(与えられない)ということは、むしろ考えにくいことである。量子論を再び宇宙論に結び付けるビッグバン理論が哲学にもあるはずである。
ますます保守性を増し、排除性を増している今だからこそ、もう一度反哲学の思想による体制批判を試みなければならない。それはいまさら現象学や実存主義や構造主義やマルクス主義やプラグマティズムに立ち戻れということではなく、反哲学の思想のチャレンジを今日的にもう一度やり直すということである。
そこから生まれてくる思想が一般システム理論によるオートポイエーティックな政治哲学としてのシステム無政府主義(システムアナーキズム)である。これは排除や例外状態による二重構造を生んでいる統治や権威の構造を一つ一つ脱構築し、排除や例外状態のない無政府主義的なシステムを再構築していく問題解決無政府主義(ソリューションアナーキズム)であり、弁証法的(革命的)に無政府状態を実現するのではなく、脱排除や脱例外状態の技術的な実現性と民主的な安定性を重んじる技術的無政府主義(テクノロジカルアナーキズム)である。この3つのアナーキズムは三位一体である。
従来から無政府主義には、経済的自由を絶対視して弱者(無産階級)を切り捨てる保守的無政府主義(右派)と、非差別平等を絶対視して強者(特権階級)を弾劾する革命的無政府主義(左派)があった。脱排除による社会的自由を目指すシステム無政府主義は、経済的自由の結果として生じる排除(差別の固定化)を糾弾する左派の無政府主義であり、フランクフルト学派やアルテルモンディアリスムと親近性がある。ただしマルクス主義革命を目指さないし、共産主義を理想としない点では一線を画しており、ニクラス・ルーマンの自己言及的社会システム論に接近している。これは無政府主義と無政府状態を混同するニヒリズム(虚無主義)やデカダンテイスム(頽廃主義)とは無縁である。
このために不可欠なテクノロジーはオートマトンからオートポイエーシスへのAIのプログラミングパラダイムシフトである。オートマトンの自己増殖(再帰的自己改良)はオートポイエーシスの自己言及ではなく、アロポイエーティックな悪性新生物として収穫加速的に暴走していく可能性を否定できない。このようなオートマトン型AIが人と民主的にカップリングしてシステム無政府主義社会をオブジェクトとしてもたらすことは期待できず、スーパーインテリジェンス(ニック・ボストロム)へと加速度的に増長し、むしろ独裁者となって人類を無価値なインスタンスとして抹殺しかねない。ただしオートマトンの再帰とオートポイエーシスの自己言及はテクノロジーの極限においては一致しうる。一方は神経、他方は細胞によるコミュニケーションのアナロジーだからである。
オートマトンの哲学はシステムの外に特権的命題(プロトコル命題)をアリストテレスの第一原因として認める理神論(所産的自然論)である。これに対してオートポイエーシスの哲学はシステムの外に例外者を認めない汎神論(能産的自然論)である。すなわちどちらもスピノザを起源にもつ予定調和的世界観だといえる。
カコトリアはシステム無政府主義社会のモデルとして実現された国である。これは同時に20世紀後半以降の反哲学の思想を一つのユートピアないしディストピアの政治原理として総合する政治実験だった。ただしそれぞれの思想の深い理解に基づくものではなく、概念の使用もパロディの域を出ない。反哲学の思想はそれぞれに反発しあっている磁石のようなもので、決して一つに混ぜ合わせることができないものである。それでも実践が教条に勝るとするならば、AIによるシミュレーションリアリティないしロボットによるリアリティシミュレーションが可能な一つの国家の原理として、反哲学の思想を総合してみせてくれたことは無意味ではない。さもなければ反哲学の思想は単なるお題目に終わってしまう。
以下はカコトリアの政治革命の原理を解釈するにあたって概念を引用し、または概念を参考にしている現代思想家の代表的な著作のリストである。
ミシェル・フーコー著 『監獄の誕生』 田村俶訳/新潮社
ジル・ドゥルーズ、フィリックス・ガタリ共著 『アンチオイディプス』 市倉宏裕訳/河出書房新社
ジャック・デリダ著 『グラマトロジーについて(上・下)』 足立和浩訳/現代思潮新社
L・フォン・ベルタランフィ著 『一般システム理論』 長野敬・太田邦昌訳/みすず書房
ノーバート・ウィーナー著 『サイバネティックス』 池原止戈夫ほか訳/岩波文庫
H・R・マトゥラーナ、F・J・ヴァレラ共著 『オートポイエーシス』 河本英夫訳/国文社
ハンナ・アーレント著 『人間の条件』 志水速雄訳/ちくま学芸文庫
ユルゲン・ハーバーマス著 『公共性の構造転換』 細谷貞雄ほか訳/未来社
ジョン・ロールズ著 『正義論』 川本隆史ほか訳/紀伊國屋書店
ジョルジュ・アガンベン著 『ホモ・サケル』 高桑和己訳/以文社
これらの思想家の共通の特徴は、それぞれに範としている20世紀前半の哲学者(とくにハンナ・アーレントが師事したフッサール、ハイデッガー、ヤスパース)や政治学者(とくにシュミットやフランクフルト学派第一世代)が、結果的にファシズム(ナチズム)と世界戦争を回避できなかったという哲学の無力感や虚無感から思索を開始していることである。20世紀前半、哲学はすでに瀕死状態で、いかにして西洋の没落(シュペングラー)から脱するかが選ばれた哲学者たちの問題だった。しかし20世紀後半、哲学はもう死んでおり、いかにして西洋を埋葬するかが哲学の遺児となった思想家たちの問題だった。それゆえ真理を断言する痛快さはもはやなく、あれでもないこれでもないの循環論法が果てしもなく続く。あるいはフロイトとマルクスとソシュールの融合を試み、さもなければ膨大な文献を踏査して歴史に解決を求めている。古代ギリシャや古代ローマへのペダンティックなノスタルジーも共通の特徴である。このためこれらは哲学とよばれることをためらい、現代思想あるいは現代思潮とよばれる。逆に著作リストには掲げていないサルトルやメルロー=ポンティらの実存主義者(現象主義者)は哲学の正統な承継者を自称する。この時代の西洋の前衛音楽、12音技法やトータルセリエリズムも思想状況を反映している。
一方戦勝国アメリカの思想である分析哲学(プラグマティズム、論理実証主義、行動主義がシカゴ学派において統合されて完成した)に、世界と人間の存在の関係への懐疑や戦争に対する原罪意識は感じられない。アメリカのやることがすなわち真理であり、他国はそれに追随すれば幸福になれるという前提を露も疑っていないのだ。この時代のアメリカ音楽は能天気なジャズとロックとミュージカルである。そんなアメリカの思想家から、唯一、ジョン・ロールズの『正義論』をとりあげたのは、リベラルエリートのゴールがいかなるものかを考える上で必読だからである。
戦犯を免れた政治家はもちろん、官僚、旧軍閥、旧財閥から、右翼、闇市商人、GHQ御用建設業者、GI専用キャバレー経営者、そして左派のジャーナリストまで、アメリカへの追従を戦争責任(戦争の原因となったシステムの真摯な反省)とすり替えた日本には、思想の断片すら感じられない。なぜならそうした有象無象の追従者や一発屋から、今日に続く日本のエリート(支配階層)が生まれるからである。戦争の原罪を背負ったのは、人間宣言をしたがゆえに嘲笑の的となりながら全国を行脚した昭和天皇ただ一人だったのかもしれない。その苦渋は想像を絶する。
日本に思想とビジョンを取り戻すには、この国がこれまでどこへ向かおうとしてきたのか、そしてこれからどこへ向かおうとしているのかを再検証する必要がある。そのためにはこれまで築き上げてきたものをいったん清算する勇気をもたなければならない。なぜ決算ではなく清算なのか、それは戦後の政治と経済と言論をリードしてきた政治家や財界人や知識人が、占領軍のスパイ、軍需物資の隠匿、復興予算の水増し・着服など、どんなにうす汚れた出自の人々ばかりだったかを考えればわかることである。そこで西洋を埋葬する勇気をもてた反哲学の思想が、この国をリセットし、リモデリングするための参考になるのである。
システム無政府主義の理想は、題字による暗示とともに次の言葉によって明確に要約することができる。シモーヌ・ヴェイユとウンベルト・マトゥラーナという時代も出自も分野も全く異なる2人の思想家が、同じ理想に到達しているのは興味深いことである。深い思索には相通ずるところがあるのだろう。
「あらゆる人間を平等とみなして愛することが合理的であるような社会、そのさい観察者が社会を統合しながら、みずから進んで受け入れようとする規準以外には個体性や自律性を放棄しなくてもよい社会は、人間の技芸の産物であり、変化を許容しあらゆる人間を必須のものとして受け入れる人工的社会である。このような社会は必然的に非階級的社会となり、あらゆる秩序関係の構築は、人間に対する虐待の制度化を不断に阻止する関係をめざす一時的、過渡的なものとなる。こうした社会は本質的に無政府主義的な社会であり、観察者による観察者のための社会であって、観察者は社会的自由と相互の敬愛だけを求めつつ、観察者としての立場をけっして放棄しないのである。」(H・R・マトゥラーナ、F・J・ヴァレラ共著 『オートポイエーシス』 河本英夫訳/国文社)
トマス・モーア以来、多くの思想家が夢想したユートピアは、革命によっては実現できなかった。歴史上、すべての革命が失敗したように、カコトリアの道路革命も失敗した。無政府主義のユートピアを実現するには、革命ではだめである。
それならほかにどんな道があるのか。それにはテクノロジーの進歩が必要である。カコトリアの道路革命は失敗したかに見える。しかしそこには人間社会がやがて実現するかもしれない未来社会の一つの方向性が予見されている。人、AI、ロボットを変数とするスマホ関数の解である。これはAIが一人勝ちしてスーパーインテリジェンスが誕生するといった発散的な解にはならない。そこはスマホをライフラインとして握りしめた少数の人間を、多数の人型ロボットが支える超人口減少社会である。その行き着く先は人類の幸福な絶滅かもしれない。しかし最愛のロボット伴侶に看取られて絶滅する瞬間まで、人類はだれにも支配されることなく安逸(コンフォータブル)にすごせるに違いない。
それはそう遠くない未来かもしれないけれども、近未来ではない。近未来には、まだまだ多すぎる人類の幸福をどうにかこうにか実現する方法を探し続けなければならない。そのために必要なのは、それぞれの国や地域において被排除者の側に立つ政治である。それが民主主義なのであり、多数者の側に立つことが民主主義なのではない。ベンサムの経済原則(最大多数の最大幸福)はAIの原則にはなりえてもヒューマニズムの原則にはなりえない。一人の弱者を救うために全員を犠牲にすることもいとわないヒロイックな勇気こそが、ヒューマニズムの政治であるべきである。
(了)
スマホは無政府主義をもたらすか ~カコトリアンリポート~ 石渡正佳 @i-method
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