日本再創生論5 トリアリズム経済論

 日本の経済の再創生のテーマの第一はトリアリズム経済論である。

 資本主義経済は、資本と労働及び生産と消費の二重の二元論(デュアリズム)によって構築されている。ところが二元論の資本主義は世界の部分にすぎないため、経済成長がやがて世界の破壊(汚染と枯渇)をもたらすことになる。

 環境社会資本主義(エンビロンメンタル・ソーシャル・キャピタリズム)は、資本と労働に環境を、生産と消費に廃棄を加える三元論(トリアリズム)によって構築される。三元論の資本主義は世界と同一化し、世界を持続可能にしながら成長することができる。環境とは地球の資源・エネルギーのコンディションである。廃棄とは使用済の資源・エネルギーの環境への還元である。

 環境社会資本主義のコンセプトは、トライアスサイクロノミー(三元的循環経済)、すなわち資本・労働・環境の三重の循環による持続可能性である。資本の循環は貯蓄と投資と社会資本蓄積によってもたらされる。労働の循環は生物学的、社会学的、経済学的な人口の再生によってもたらされる。換言すれば出生、教育、雇用である。環境の循環は公害対策、生物多様性保全、気候変動抑制、廃棄物再資源化、再生可能エネルギー活用によってもたらされる。


 資本・インフラ、労働・人権、資源・エネルギーのどれを重視するかで経済学は3つの流派に別れる。

 資本・インフラを重視するのが狭義の自由主義ないし資本主義である。新古典派(マーシャル)、マネタリズム(フリードマン)、一般均衡論(ワルラス)、数理経済学(ノイマン)、計量経済学、ベイズ統計経済学が代表的な理論である。ケインズ経済学は自由主義と社会主義の二面性があるが、どちらかといえば自由主義である。中国の社会主義市場経済は、皮肉なことにマルクス主義者たちが批判してきた国家独占資本主義に類している。

 労働・人権を重視するのが広義の社会主義である。マルクス主義(狭義の社会主義)、社会民主主義(ベルンシュタイン)、功利主義(提唱者のベンサムは自由主義者)、厚生経済学(ピグー)がこれに含まれる。国家社会主義(ラッサール)、普遍経済学(バタイユ)、フランクフルト学派、福祉国家論と福祉レジーム論、最近話題になったピケティ経済学、アルテルモンディアリスム(もう一つの世界が可能主義)もここに入る。共産主義は経済学ではなく政治学の概念である。

 資源・エネルギーを重視するのが環境主義である。これはマルクスが指摘した資本主義の限界を環境に拡張した理論でもある。シナジェティクス(バックミンスター・フラー)、宇宙船地球号経済学(ボールディング)、環境経済学、資源経済学、生態系(エコロジー)経済学、エコロミー(エコロジー+エコノミー)、持続可能な発展経済学(デイリー)、エントロピー経済学、生物経済学、生物多様性経済学がこれに含まれる。『成長の限界』(ローマクラブ)、『宇宙船地球号操縦マニュアル』(フラー)、『沈黙の春』(レイチェル・カーソン)、『スモール・イズ・ビューティフル』(シューマッハー)が環境主義の古典とされる。国連のSDGsやグローバルコンパクトのように、今日では人権と環境は一体として論じられることが多い。

 古典的な経済学は、右翼も左翼もすべてアダム・スミスの『国富論』と『道徳感情論』を基にしているといえる。前者が自由主義、後者が社会主義へと発展した。しかしスミスには環境ないし地球という観点がなかった。古典派経済学にも土地という考え方はあった。しかし土地を環境に読み替えることはできなかった。土地は環境として循環せず、むしろ土地は環境を破壊して造成されてきた。マルサスの『人口論』がスミスの欠落をいくらか補っている。環境社会資本主義はトリアリズムのすべてを統合する経済理論ではあるが、環境主義を優先する。地球がなくなれば元も子もないからである。


 トライアスサイクロノミーにおける資本・労働・環境の3つの循環は、どれか一つが欠けてもいけない。しかし政策には優先順位がある。資本の回転を妨げるマネーストックの不足、物流を妨げる交通インフラの遅れ、人材の再生を妨げる大学の劣化、エネルギーの流通を妨げる資源の寡占と価格の高騰、気象を極端化する地球温暖化など、循環を妨げるボトルネック(コントロール)はいくつも思い浮かぶ。どのボトルネックがクリティカル(致命的)かを見定めることによって経済政策の優先順位は変わる。クリティカルだったボトルネックが緩和すれば他のボトルネックにクリティカルが移動する。これはエリヤフ・ゴールドラットが提唱したTOC(セオリーオブコントロール)とよばれる考え方である。

 もしも資本にクリティカルがあるというなら、マネーストックを増やし、社会資本投資を拡大することが最優先の経済政策になる。これは産業界よりの政策である。

 もしも労働にクリティカルがあるというなら、出生・育児に対する助成を拡大し、教育を充実させ、雇用差別と賃金格差を縮小することが喫緊の経済政策になる。これは生活者よりの政策である。

 もしも環境にクリティカルがあるというなら、エネルギーと資源の再生可能性を拡大し、脱原発し、気候変動を制御し、生物多様性を保全していくことが必須になる。これは生態系よりの政策である。

 政策の優先順位を決めるにあたって注意すべきことは、クリティカルなボトルネックは一つのシステムには、国民経済であれ地域経済であれ、常に一つだけだということである。クリティカルでないボトルネックを拡げても経済は反応しない。経済政策は馬券を全部買っておいてなにがあっても当たったこと(想定内)にする官僚的総当たり主義(両天秤主義)ではだめで、どれか一つを優先的に選ばなくてはならない。たとえば労働力不足がクリティカルなのにマネーストックをいくら増やしても経済は反応しない。これがTOCの教えてくれる政策のジレンマである。経済政策には経済学よりも経営学が重要である。

 トライアスサイクロノミーの3要素は共依存の関係にある。しかし単独で暴走することもある。資本が労働力や環境(資源・エネルギー)と無関係に回転すればバブル経済になる。労働力(人口)は経済成長期に爆発的に増加し、経済安定期に少子高齢化し、超高齢化社会を経てデフレ経済とともに縮減する。この人口動態の変化は経済と連動的ではあるが調和的ではない。環境の暴走は地球温暖化、生物多様性喪失、資源の枯渇として現れる。これも経済と連動的ではあるが調和的ではない。


 自由至上主義(リバタリアニズム)にとって一切の規制がない自由放任(レッセフェール)が理想だといまだに考えられている。アナルコ・キャピタリズム(無政府資本主義)などの極右の思想もある。確かに官僚機構の都合にすぎない無用な規制は少なくない。しかし循環のためには規制が必要である。なぜなら循環にはタイムラグがあり、共時的な市場原理が成立しないからである。

 労働人口を増やすには、出生数の増加、教育水準の向上、女性・障害者・高齢者などの雇用条件の改善といった方法がある。いずれの方法も効果を発揮するまでにタイムラグがある。たとえば女性の雇用条件を安定させたからといって、すぐに働く女性の出生率が増えはしない。政策が文化として根付くには多世代にわたる時間がかかる。雇用の規制を一切なくせば、タイムラグがなくもっとも即効性がある外国人(移民)や非正規雇用労働者が増えることになる。移民を規制すれば偽装移民が増える。

 このような時間的競合は輸入天然資源と国内再生資源、外国資本による投資と国民貯蓄や企業内部留保による投資の関係にもあてはまる。規制が一切なくなれば輸入資源や外資に再生資源や国内資本は太刀打ちできない。トライアスサイクロノミーにとっては循環と再生のために時間的競合を規制することが必須である。

 新たな規制は新たなビジネスを生み、旧いビジネスを終焉させる。規制を上手に使えば国力は伸び、下手に使えば萎む。規制と規制緩和は交感神経と副交感神経のようなもので、どちらか一方に偏れば自律神経失調症に陥り、適切な処置を怠れば自閉(デフレ)や暴走(バブル)などの極端現象へと進展しかねない。


 トライアスサイクロノミーは地球環境保全と社会的公正を経済的自由よりも優先する。これは個々の事業者の利潤追求と事業者間の自由競争が結果として国民経済全体の成長をもたらすと考える自由主義と対極の考え方であり、自由競争だけでは地球環境保全も社会的公正も図れず、利潤追求を優先する企業は環境や社会と共存できなくなり、経済全体としても不経済が大きくなって資本主義経済が自滅するにいたると考える。マルクス主義のように資本主義経済の崩壊が次の段階の経済へと止揚されることは想定しない。地球生態系が不可逆的に破壊され、あるいは核戦争が勃発すれば人類は生存を継続できないからである。トライアスサイクロノミーが経済のアクセルなのかブレーキなのか、バックギアなのか、方向転換なのかは、予断を許さないところがある。方向転換のつもりでハンドル操作を誤ればドリフトし、クラッシュするかもしれない。

 単純な市場原理あるいは自由競争によってではトライアスサイクロノミーを実現できないことを廃棄物経済を例として証明してみたい。

 廃棄物はマイナス価値の財である。したがって廃棄物の処分費は安いほど望ましい品質だということになる。つまり価格が高いほど高級品だという通常の商品とは価格構造が逆転している。

 通常の商品は対価と交換されるので商品の品質を手元で確認できる。これに対して廃棄物が処分されるときには対価はなにも受け取らずに廃棄物と処分費を渡す。交換によってえられるものがなにもないので、商品(廃棄物処分)の品質を確認するすべがなく、不法投棄されてもわからない。行って来いではなく、行って行ってである。つまり取引構造が通常の商品とは逆転している。ちなみに産業廃棄物管理票の返送は適正処分の確認にはならない。虚偽の返送が容易だからである。

 商品の生産においては製造設備を揃え、原材料を購入し、作業員を雇用して工賃を支払う。これが商品の原価となる。商品が販売されて売上を計上するまで原価は会計上の資産(棚卸資産)となっているのだが、キャッシュフローはマイナスである。もしも商品が売れなければ原価を回収することができずに在庫倒産する。これに対して廃棄物処理業者は廃棄物を受け入れた時点で処分費を請求できる。廃棄物の処分を終えるまでは会計上の負債(前受金)なのだが、キャッシュフローはプラスなので、処分せずに在庫したままでも在庫倒産はない。つまりキャッシュフローが通常の商品とは逆転している。

 廃棄物は処分費が安いほど価値が高く、交換による対価がなく、在庫のキャッシュフローがプラスになる。このような逆転した商品構造をもっている廃棄物市場が自由競争に任され、なんらの規制も監視も罰則も受けなかったら、一番安い不法投棄業者が一番有利になり、まじめな廃棄物処理業者は全滅する。逆にいうとすべての廃棄物処理業者が生き残りのために不法投棄に手を染めるようになる。すなわち廃棄物経済は自由競争に任せることができず、規制と監視と罰則が必須になる。


 地球環境保全や社会的公正は、廃棄物経済と同様に市場原理に任せたのではうまく実現できない。これを実現するには厳しい規制を実施し、規制を守るためのコストを企業と社会に負担させ、負担を免れた企業にはペナルティを課さなければならない。負担と罰金が圧力になることによって市場に公正が回復し技術開発が誘導される。これを環境社会資本主義の規制経済的誘導あるいは功利的間接誘導という。自動車排ガス規制や二酸化炭素排出税(炭素税)はこの例である。

 地球環境保全と社会的公正の実現を消費者の商品選択に委ねる方法もある。これは環境社会コストを負担している商品を選択するように消費者の嗜好を誘導する方法である。これを環境社会資本主義の消費選考的誘導あるいは任意的間接誘導という。二酸化炭素排出量のオフセット(カーボンオフセット)やエコマーク(環境配慮型商品認証表示)はこの例である。

 地球環境保全と社会的公正の実現を資本家の投資行動に委ねる方法もある。これは環境社会コストを負担している企業に選択的に投資するように資本家のファンドマネージメントを誘導する方法である。これを環境社会資本主義の投資選択的誘導あるいは期待的間接誘導という。CSI(社会的責任投資)やESG投資(環境・社会・ガバナンス投資)はこの例である。

 これらの取組みのカタログが、国連のSDGsやグローバルコンパクトなのである。


 このようにしてトライアスサイクロノミー(環境社会資本主義)は、環境・社会・経済の三元的な公正(エンビロンメンタル・ソーシャル・エコノミカル・フェアネス)というトリプルボトムラインに統合される。

 資本主義をベースとする以上、環境社会資本主義は事業者の競争(市場原理)によって実現される。ただしその競争は自由な競争ではなく公正な競争である。あくまで競争によって環境性と社会性と経済性を追求するという点で、環境社会資本主義は脱商品化された労働者の扶助を旨とする社会民主主義や福祉国家とはコンセプトが異なる。ただし社会的公正が福祉国家を包含しているとすれば、福祉国家が環境福祉国家へと発展したものと捉えることもできる。このような方向性での取り組みのリーディングケースはアイスランドといわれている。

 規制は公正な競争と分配を促すためのルールであるべきである。ところが公正という言葉は国によって、時代によって、ヒエラルキーによって意味が異なる。同じ規制がある国のある人には公正と映り、別の国の別の人には不公正と映る。公正を一義的に限定せず、それぞれの地域の特質を尊重することを多極主義とよぶ。いまや環境・社会・経済の三元的公正と多極主義なしに貿易や投資の利益を先進国や多国籍企業が独占することは許されない。

 公正(フェアネス)は正義(ジャスティス)に通じる言葉であり、100%の実現は難しい。それでも国民経済及び国際経済の両面において、なにをもって公正の基準とするか、公正のために必要な規制と保護とはなにか、その戦略的な自省の下に経済政策と産業政策を再構築していくことが求められている。公正な競争においては国民経済の規模や成長よりもリターンのシェアリングが重要である。そのためには経済統計を国民生産ではなく所得分配という新たな視点から読み直す必要がある。たとえば国民所得や経済成長を所得階層別に上位・中位・下位の三層に分解するトマ・ピケティの分析手法が参考になる。いいとこ取りの見せかけの成長率でごまかすことは許されない。

 19世紀は資本主義と物理学の時代だった。20世紀はマルクス主義と生物学の時代になった。21世紀は環境主義と情報学の時代になっている。環境と情報の時代は多極主義の時代である。資本、労働、環境のバランスの取れた循環を実現する新たな道を拓かなければ、多極主義時代に応じた国際的公正を構築していくことはできない。

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