日本再創生論4 パラローカル論

 日本の地方の再創生のテーマの第二はパラローカル論である。

 未来を創るのは若者だ。20年来の経済の停滞の中で育った若者は、未来に向けた成長がない社会で、2年に1度フルモデルチェンジされるスマホにわずかな進歩を感じながら生きてきた。ラジオがテレビに変わり、白黒テレビがカラーテレビに変わり、ビデオテープがDVDに変わり、テープレコーダーがウォークマンに変わり、黒電話が携帯電話に変わり、算盤が電卓に変わり、ズックがスニーカーに変わり、株価と地価が天井知らずになり、ジャパンアズナンバーワンといわれた夢のような進歩の時代を生きたことがない。

 スマホのおかげで自己表現の場は無数に用意されており、自己実現には長けている。ところがそれが社会実現とは結びつかず、生まれたときからなんの進歩も感じられない社会に、やがて家畜のように従順に吸収されていく。それが申し合わせたようにお揃いのリクルートスーツを着た入社式である。スーツばかりかネクタイもパンプスも同じデザインである。ライプニッツもびっくりの予定調和だ。しかもリクルートスーツは会社のお仕着せ(制服)ではないので、就活と入社式と新人研修が終わればタンスに仕舞われて二度と日の目を見ない。成人式に一度着るだけの晴れ着と同じ運命だ。このイニシエーション(通過儀礼)を経て、若者は社会と構造的にカップリングした社会人になる。空気を読んでオートポイエーティックに行動できるかという踏み絵がリクルートスーツである。新人研修はしばしばトランクを引きずってのノマド研修になる。街頭で見知らぬ人の名刺を集めるといったばかげた研修もまだ続けられている。

 空気を読む、すなわち忖度して自動的に動くことは役所だけではなく、会社でも家庭でも満員電車の中ですらも重要だ。これは教練された軍隊の統率とは異次元の同一性を提供する。軍隊は上官の号令によって動くアロポイエーティックな機械で、兵士は機械の部品だ。これに対してオートポイエーティックな社会における人間は機械の部品ではなく、命令によらずに自律しながら全体と調和する細胞であり、社会は自己模倣のフラクタル構造をもっている器官なき多細胞生命体のアナロジーとなる。

 もしもこうしたこの国の現状が自分に合わない(カップリングできない)と感じ、リクルートスーツを着たくないと抵抗するなら、この国を変えるという浅はかな望みをもつよりも外国に出ることを目論む。そして実際に多くの若者が外国に出て行く。

 昔は漠然とアメリカに憧れたものだった。今やアメリカを語る若者はほとんどいない。フロンティアがどこにあるかくらい明確にわかっている。愚かにも原爆を落とした国が偉いと思っていた50年前の若者とスマホ時代の若者とでは知識と見識が千倍違う。


 成長がない社会に矛盾を感じている若者は少ない。変化のない社会は安定している社会でもあるからだ。社会に矛盾を感じているのは弱者として育った若者だけだ。一人親だったり、いじめにあったり、転校生だったり、障害をもっていたり、引きこもりだったり、貧困だったりした経験をもっている若者は、弱者だったがゆえにこそ社会へのメッセージをもっている。

 いじめられて自殺した子にとって自殺は命をかけたメッセージである。だがこのメッセージは他の多くの若者の胸には響かない。いじめられた子をかわいそうだと思い、助けられなかった自分をふがいないとは思うものの、それを社会と共有する感受性がたらないのだ。助けるには勇気がいる。本人からは余計なことをするなと拒否され、周囲からは新たないじめのターゲットにされるかもしれない。それでも行動する勇気は感受性と比例する。


 政治や経済や社会の構造について語る以前に、歴史は機関なきエネルギーの塊としてどこかに向かっている。破滅か繁栄か、成長か縮小か、前進か後退か、進歩か退廃か、統一か分裂か、どの方向に向かっているかはっきりとはわからなくても、漠然とどこかへ向かっていることは感じられる。そのエネルギーの流れを止めることはできない。政治や経済や社会のシステムは、そのエネルギーの向かう先を明確にし、わずかな方向転換を試みる。それが政治家と経済学者とジャーナリストの本来の仕事である。

 エネルギーの意思なき方向性、すなわち時代の潮流あるいは時流を読み間違えば、時代錯誤として相手にされない。うまく時流に乗れば、政治家だろうと、実業家だろうと、芸人だろうと天才と崇められる。だが時代の潮流にうまく乗っただけの見てくれのいいサーファーにすぎないのかもしれない。

 時流が早ければその方向性がどうあろうと、たとえ自滅や戦争に向かっているのだろうと、あるいはそこから脱出しようとしているのだろうと、時流に乗るサーフィンは面白い。だからこそ災害ボランティアや最貧国ボランティアに多くの若者が集まってくる。同情心からではなく、使命感からでもなく、義侠心からでもなく、混乱した構造なき現場に機関なきエネルギーの蠕動を感じているのだ。どこかに向かって爆発したいという欲望の絶望的な希望にわくわくするのだ。


 田舎で目立つのは高校生だ。大学生になると田舎を離れて都会に出てしまう。田舎の駅は高校生で溢れかえっている。高校生がこんなにいるのだから田舎は決して高齢化していない。大学生以上が陥没してカルデラ化し、高校生と高齢者が取り残されているだけである。分布に偏りがあるから平均値には意味がない。超高齢化社会は確かに来るだろう。しかし高齢者が働ける環境を整えればすむことである。それよりも問題なのは田舎のカルデラ化である。

 大学生が田舎から離れてしまうのは都会が好きだからでも田舎が嫌いだからでもない。大学が田舎にないからである。若者が都会を好きだというのは先入見で、むしろ若者はなにもないフロンティアや秩序のないカオスを好むものである。

 田舎で目立っていた高校生は大学生になって都会に出たとたんたちまち目立たなくなる。大学教授がバカすぎてついていく気がせず、バイトとボランティアとゲーム以外になにもやることがないからだ。スマホが生活のすべてで、ほかにほしいものがない。


 田舎のカルデラ化をなくすには都市にある大学をすべて田舎に移せばいい。すでに文部科学省は東京都23区の大学の新設規制、定員規制に乗り出しており、全国知事会がこれを歓迎している。これをもっと徹底すればいいのである。このことは総務省よりも、農林水産省よりも、文部科学省こそが地方の未来の生殺与奪権を握っていることを意味している。大学は地方再創生のジョーカー(万能の切札)なのである。

 教育改革のプランはほかにもいろいろ語られているけれども、思いきって大学教授の8割を入れ替えてみるべきだ。1割は研究者として残し、もう1割は専門書の翻訳家として残したい。教授の代わりはいくらでもいる。高校教師や進学塾講師や専門学校教員の方がずっと優秀だ。なぜなら彼らの教育にはアウトカム(結果)が求められているからである。欧米の論文をチャチャッと剽窃したあとは、マッカランを飲みながら御託を並べていればいい教授とは違って、生徒のキャリアを託された教師や講師らにとっては日々の教壇が戦場だ。

 都心の大学のほうが就活に有利だといわれる。しかし考えてみればまだ学生なのに勉強しないで就活していることがおかしいのであり、就活は卒業後にすべきである。卒業ぎりぎりのタイミングで学士認定試験(卒業試験)を実施し、少なくとも2割は落第させることにすれば、卒業前就活、卒業旅行やその資金稼ぎのための学業そっちのけの専従的アルバイトという悪習はなくなるだろう。

 大学の地方移転は簡単にできる。都市と田舎の大学の私学助成金に格差を設ければいいのだ。私学助成金に地方枠を設定し、文部科学省の権限を地方に下して交付を自治体に任せてもいい。たちまちこれまで大学がなかった田舎に移転する大学が増えるだろう。そもそも家賃が高い都心にある大学に全国の地方から学生を集める必要性も必然性も全くない。

 地方の教育は義務教育まではユニークな取り組みが目立つのに、高校生になると受験のために教育が手段化してしまい、大学生が地域を離れるとせっかくの取り組みが切断してしまい、地方の人材に結び付かない。地方に大学が立地すれば、一部の私学しかできない義務教育から大学までの一貫教育を地方で行うことができるようになり、それを地方の人材に結び付けることが可能になる。

 大学が地方に移転すれば産学連携のため企業の研究所も地方に移転し、人材が地方に定着するようになる。大学のレジャーランド化や風俗嬢斡旋所化といった問題も同時に解決するだろう。憲法第89条違反の疑義があり、文部科学省の教育ファッショあるいは教育利権といわれる私学助成金も使いようである。


 都会でわずかにユニークなのは地下アイドルのライブくらいなものだ。彼女たちは田舎の高校生たちと同様、居場所をもっている。でもそれなら田舎のヤンキーたちのほうがもっとパワフルだ。彼らがほぼ日本の芸能界を席巻してきた。

 カルデラ化で若者を失い滅亡しかけている田舎を再生させるには、今こそ田舎が都会の居場所を失った若者の受け皿にならなければならない。準備は整い、機は熟している。逆潮流は同時多発テロのように一斉に始まるだろう。都会に居場所のない若者たちのパラローカルコミュニティが田舎に次々と形成されるだろう。都会に対比されない田舎がパラローカルである。都会にあるものがなにもないからこそ、パラローカルは貧しいどころかかぎりなく豊かである。山が頂上に近づくほどなにもないのに豊かになるのと同じである。

 田舎に若者を集めるのはそう難しいことではない。田舎を機関なきエネルギーを狩るジムにすればいいのだ。2016年、GPS複合現実ゲームに夢中になった若者はなにもない公園や廃屋に集まって存在しないモンスターを夢中で狩っていた。だから田舎に若者を集めるためにはなにもいらない。なにもないところに若者を集める仕掛けはいくらでもあるのだ。

 わからないというなら、イベントプランナーや音楽プロデューサーといった人集めのプロに学べばいい。東日本大震災の津波に流されてなにもなくなった被災地にどれだけの若者が集まり、今も集まっているか。人集めのプロにとってなにもないところに若者ばかりの村を作るくらいどおってことのない仕事だ。

 これからの田舎の政治家や官吏は、もしも存在感を示したいなら、道路作りのプロではなく人集めのプロになるべきだ。


 人口減少によって都市ではコンパクトシティが進展するのに対して、都市近傍の通勤圏内の田舎ではライバブルタウン(暮らしやすい街)が進展する。ライバブルタウンには、インターリタイヤー(中途退職者)、ミニマリスト(家も家財も持たない無所有生活主義者)、ニート、新外人(多民族外国人)、ホームレス、生活保護受給者、アウトロー芸術家などのニューマイノリティ(新被差別層)が集まってくる。こうした人たちはなにもないことを気にしないし、むしろそれを快適と感じるだろう。ただしコミュニティを作るとしても隣人に干渉しないクールなコミュニティになるだろう。

 都市からさらに離れた通勤圏外の田舎ではエステティックヴィレッジ(美しい村)がトレンドになる。これは中間層のリタイヤ後の住処である。そこそこの資産をもってリタイヤしたものの日本で老後を迎えるには不安があるという人(ミドルレンジリタイヤー)をパナマ、ニュージーランド、インドネシアなどに移住させるプログラムがある。国内にもリタイヤーのための美しい村を作るのである。

 このためにはスポンジ化した郊外バス圏の旧ニュータウン(オールドタウン)、フリーズドライ化した高原や海浜のリゾート地(ミラージュヴィレッジ)などを改造するのがいい。これらの住宅地の建付き価格(建物付き土地価格)は往時の十分の一以下になっている。千葉県の柏ビレジ(煉瓦とアイビーの街)は今からでも日本のハリウッドに改造できる。長野県の清里などの旧リゾート地では都心の億ションと同等の広さの中古マンションが一部屋数百万円以下で買える。茨城県の東海村では手入れは必要なものの中古別荘が数十万円程度で買える。ただしエステティックヴィレッジをリタイヤーだけの村にしないため、若者と混住するアイディアが必要である。

 田舎にはなにもいらないのだから、田舎には政治も行政も必要ない。パラローカルコミュニティは簡単に実現できる。スマホしか新しいものがない世界に生まれてきた若者には、スマホがありさえすればほんとうにもうなにもいらないのだから。それでも少しくらい税金をむだ遣いしてもいいのなら、恋人とタンデムできるサイクリングロードくらいはあってもわるくない。

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