日本再創生論3 低価格経済論
日本の地方の再創生のテーマの第一は低価格経済論である。
経済の空洞化に悩む地方自治体が打つべき起死回生の妙手はなにか。それは徹底した低価格経済(デフレノミー)である。
高額所得者が高額不動産を買い回すという不動産本位経済では生活感のある景気回復はできない。不動産価格はバブルをもたらしても実体経済の成長はもたらさない。土地は財ではないからである。不動産価格は、土地価格+建物価格に分解される。このうち建物価格には原価があるため、バブルは土地価格にのみ起こる。人口減少時代の不動産バブルは選択的(差別的)であって、一部の土地しか値上がりしない。
先富論(富める者から先に富む)も、トリクルダウン効果(おこぼれ効果)も、インフレターゲット論も、人口減少によるデフレの時代には通用しない勘違い政策である。デフレ時代の賃上げは、労働分配率が変わらないとすれば大企業と中小企業、正規雇用と非正規雇用の賃金格差を拡大するだけに終わってしまう。この政策では実質賃金は上昇しない。最低所得保証政策も社会政策ではあっても経済政策にはならない。所得再配分は国民所得を増やさない。経済成長をもたらすのは財の循環あるいはその回転数である。低価格経済こそが人口減少によるデフレの時代に回転数を上げる政策である。
低価格経済は安い物価、安い地価と家賃、安い税金からなる。この低価格を持続させ、それを地方経済の魅力にしてボリュームゾーン(中間所得層以下)に訴えるのだ。
安い物価を安い輸入品(アジアなどから輸入される衣料、雑貨、食品、燃料、逆輸入される家電製品)が支えている現状では、田舎よりもむしろ都市の物価が安くなる。都市の方が空港や港湾から近いからである。ガソリン価格がその好例である。量販店による薄利多売も郊外まではできるが、田舎ではかぎられており、一店舗独占になってしまう。駅前もしくは畑の中に巨大なスーパーマーケットが1つというのが田舎の風景になっている。しかも商品構成も価格も都市と無差別であり、かわり映えがしない。
EC(ネット通販)もまた都市と田舎を無差別にする。地域産品の直販にもEコマーズは活用されている。外国では通販は店舗が少ない田舎で利用されている。日本では店舗コストがかからない分、商品を安く提供できるのが通販の魅力で、都市部の利用者も多い。このためもあって都市部のデパートやスーパーマーケットの閉店が相次いでいる。ミネラルウォーター1箱買うのにも、近所のコンビニやスーパーまで行くのが億劫でネットで注文する人が増えている。
通販会社は田舎に雇用を生み出してきた。ところが田舎に立地していた物流センターが都市近郊の環状道路沿線にこぞって移動している。地価は田舎の10倍以上なのに敷地数万坪以上の大型物流センターが都市近郊に続々と立ち上がっている。EC市場が都市の独身者や独居者を中心に急拡大し、海外からの注文も増え、即日配達や返品自由など通販のサービスが多様になったことが原因である。このため通販の物流を担ってきた宅配便業者の雇用が追いつかなくなっている。
これらの構造変化によって物流コストが上昇し、かならずしも無店舗(通販)だから安いとはいえなくなっていくとみられている。
都市に出荷する地場産品は洗浄し、選別し、包装し、運搬する。そして生鮮品の半分が売れ残る。これらの流通コストのため国産品は輸入品より高い。
地場産品を地元で消費するのに、こうしたコストをかける必要はない。洗わない、選ばない、包まない、運ばない、余らせないを徹底すれば、輸入品より高品質で高安全な地場産品を安く消費できる。これは地産地消でしかできないことである。地産地消は地元愛によってではなく、経済として成立させなければならない。そのキーワードは低価格である。
地産地消を特定の商品でだけ実行しても低価格経済にはならない。食品や生活必需品のすべてを地産地消(無物流)にするには市町村では狭すぎるし、都道府県では大きすぎる。いくつかの市町村が連携して地産地消経済区すなわち無物流経済区を構築する必要がある。自治体単位の発想ではだめである。半径10キロくらい(自転車で運べる距離)の地産地消経済区を10~20まとめて地域経済圏とすればいい。地域経済圏は地方中核都市を中心に半径50キロくらいで、都道府県を超える規模になる。地域経済圏では生活必需品のみならずすべての物品が自給自足される。廃棄物の再資源化循環も地域経済圏を単位として行われるのが望ましい。動脈と静脈がループにならなければ資源は循環しない。
もともと地産地消が失われたのは大量生産・大量消費によって生産・流通コストが劇的に下がり、小規模生産の地場産品の価格競争力がなくなったからである。国産品が相対的に高くなると輸入品がこれに代わるようになった。しかし流通コストがかからない地場産品が輸入品より高いというのはおかしな話である。低価格という観点から地場産品を見直し、地域の経済構造を再構築することは十分にできることである。地元産品の価格は徹底的に安くすべきである。
なんといっても安い地価が低価格経済のベースである。地価が高くなったら、そこからはもうなにも生まれない。国に信用がなくなれば紙幣が紙切れであるように、地上になにもなければ土地はそれ自体になんの価値もない。地価が10倍になっても10分の1になっても、土地の価値はなにも変わらない。土地が生産財といわれたのはずっと昔のことである。土地が経済の制約条件になるのは慣習であっても本質ではない。土地は貨幣と同じ信用でしかない。生産財になるのは土地ではなく土地(すなわち地球)の環境である。
日本一高い東京銀座の地価は1坪1億円以上する。この価格にはなんの意味もない。日本列島改造論(1972年)からバブル経済のピーク(1991年)までの20年間に10倍に値上がりして今と同じ1億円超えになった。ところが10年後の2001年には4分の1に下がり、そこからまた4倍になった。この間銀座の風景はなにも変わっていない。老舗デパートがリニューアルした程度だ。地上の権利移転は頻繁だ。しかし土地そのものが取引されているわけではない。資産流動化法施行以来、地価(土地所有権の時価)のプレミアムは建物を含めた権利(信託受益権)に変容している。所有と使用が分離され、使用なき所有は価値を失っている。この間全国の地価がバブル期までに10倍に値上がりしたのは銀座とおなじだった。ところがバブル崩壊後には10分の1に下がり、40年かけて1970年と同じ価格に戻った。元の木阿弥である。
地価は幻であり、田舎の地価は夢から覚めた。銀座の地価はまだ夢を追っており、全国の大都市や中核都市の地価が銀座に追随して上昇している。高度経済成長期(ハイパーインフレーション期)が終焉したのちの地価には10年の小循環、20年の中循環、40年の大循環があるので、そろそろ反転期が近づいている。おそらく2020年の東京五輪がミニバブルの潮目になるだろう。
地価抑制のためには土地取引規制が必要である。この規制は現行の法(国土利用計画法)においては都道府県の権限でできる。この権限を地価が上がる前に使うべきだ。高くも安くもない地価の目安は、住宅地の場合には坪10万円(銀座の千分の一)である。日本が地価の夢から完全に覚めたとき、全国の地価はそこに落ち着くだろう。商業地はその2倍、工業地は半分、農地は10分の1である。それより高い土地を買う人は幻を買っているのだ。
地価に踊ってもなにも手に残らない。地価が安い田舎にこそ地価の幻に惑わされない本物の価値を作りあげることができる。
昔から田舎の住まいは大屋根の下の大家族同居だった。地価が安い田舎なのにどうして狭い家に住むことがあろうか。田舎の地価が都心の100分の1、都市郊外の10分の1なら、100倍、10倍の敷地に住宅を建てられるはずだ。低価格経済は広い敷地に住むための経済である。ところが地価がバブル時代の10分の1になったというのに、バブル時代よりももっと敷地を狭く切って庭のない戸建て住宅を建てることがはやっている。昼間は家におらず、不要な庭の手入れをしたくないからだという。それならいっそ都心のマンションに住めばいいのに、どうして郊外の小さな戸建住宅に住みたいのだろう。土地は本来無価値なのでどんなに地価が安くなってもまだ高い気がするからだろうか。
戦後の持ち家政策で夢のマイホームとされてきた木造戸建住宅こそが日本の富を損なった最大の元凶である。25年しかもたない木造戸建住宅を一生に3回も建て直さなければならないからだ。このむだのせいで世界第二位の経済力を国富として蓄積することができなかった。まだまだ世界第三位の経済力を今からでも国富に変えるには、25年しかもたない木造戸建住宅や鉄骨造アパートと決別しなければならない。
よく知られているようにアメリカの富豪は郊外や田舎に住んでおり、都心には住んでいない。アメリカのカントリースタイルの真似をしなくても、日本の田舎で豊かに暮らす方法はいくらでもある。むしろ日本の田舎にアメリカのような富裕層は必要ない。地価が安いからといって富裕層のばかげた豪邸を許してはならない。富裕層は不労所得層だから、そのために働く人を必要とする。いわば肉食動物と草食動物の関係だ。こんな差別構造は日本の田舎には必要ない。富裕層を排除するのは簡単だ。富裕税を徴収すればいい。年率10%の富裕税を課税することにすれば豪邸は建たないだろう。逆に普通の市民の小さな別荘なら非課税にしたってかまわない。
観光は一番重要な田舎の収入源である。田舎の魅力は景観と食と芸能で決まる。とくに食が大事である。ここでしか食べられない美味しい食材はリピーターを作れるし、それが定住にもつながる。朝摘みの野菜や山菜、朝漁りの魚の味は、物流に時間がかかる間に鮮度が落ちてしまう都心では決して味わえない。田舎の鮮度のいい食材を都会に出荷せず田舎で安く美味しく消費することが田舎を守ることになる。都心ではなんでも食べられるかわり、なんでも中途半端である。都心でグルメを語るのはメディアの詐欺である。フレンチの名店はパリにはない。同様に都心の料亭ではほんとうに新鮮な食材は揃えられない。
さらには農業や木工や漁業などの体験滞在型観光も、定住化への布石になる。
今一番人気のある田舎は沖縄と北海道だ。どちらにも豊かに暮らせる田舎の魅力がある。その一方で、中途半端な田舎の茨城は人気がない。都会ではなく、さりとて田舎でもないからだろう。しかし茨城こそ都会も田舎も利用できる好立地である。人気がないうちに茨城を買っておくといい。
田舎は都市をうまく利用すべきである。田舎と都市が姉妹都市になるのだ。対等の姉妹都市ではなく格差のある姉妹都市、いわば格差婚である。格差婚は貧乏なほうにメリットが大きい。東京都世田谷区と群馬県川場村の姉妹都市はよい先例だろう。田舎と都市をセットしにして、田舎は都市を、都市は田舎を第二の地元のように利用し楽しめるようにするのだ。相互に格安の宿泊施設を用意し、田舎と都市を自由に行き来できるようにする。田舎と都市の連携を進めれば田舎暮らしのいいところを享受し、不便さは解消できる。すべての国民が都市と田舎に二軒の家をもつのが理想である。空家が増え続けているのだから、これはコストをかけずに実現できる。田舎の空家を住める状態で自治体に寄付したら、その損金を所得税から10年間控除できるようにすればいい。逆に都心の空家は建て替えを認めずに取り壊して高度利用に転換すべきだ。
税制が田舎を凋落させた元凶である。そもそも所得税と法人税が主要税となっている現在の税制では、人口も法人数も少ない田舎に税源があるわけがない。それを地方交付税で補うという発想は根本から間違っている。地租が主要税だった時代をいつまで続けるつもりなのだ。
地方の税源不足の問題を解決するには国税庁を廃止して国税徴収権を市町村まで下ろし、上位機関への上納制にするしかない。この時大都市と田舎で上納率に差を設ければいいのである。こうすれば地方自治体の財政はたちどころに自立する。多くの国の税制は先進国ではもちろんのこと中国ですらも地方からの上納制になっている。国税庁と社会保険庁を合併して歳入省(庁)に格上げするといったプランもやらないよりはいいとしても、地方の税源自立を優先すべきである。
低価格経済の最後の条件である税金を安くするためには、田舎で公共事業をやってはいけない。田舎にはなにも作ってはいけない。公民館も病院も野球場もコンサートホールもなにもいらない。それはみんな都市にあるのだからそれを利用すればいい。都市にあるものを借りればいい。いわばフリーライダー(ただ乗り)戦略である。なんでもある都市の周囲になんにもない田舎をドーナツ状またはクラスター状に配置すればいい。都市にあるものを田舎もフルセットでもとうとするから財源のない田舎は貧しくなる。なにももたなければ田舎は豊かになれる。あるいは都市の財源で大学や病院やホテルを田舎に作らせてもいい。重要なのは田舎の財源で田舎になにも作らないことだ。
田舎は田舎のままであり続け、都市の真似をしてはいけない。日本の地方自治の最大の失敗は田舎を小都会にしようとしたことだ。その象徴が日本中の地方都市にある銀座だ。今はそこがみんなシャッター銀座になっている。分不相応に贅沢なハコモノは利用者がなく、もて余して売ろうとしたものの1円でも売れなかった。いわば資本の回転数がゼロになってしまったのだ。田舎にハコモノがいらないのは贅沢だからではなく回転数が低いからだ。
田舎の都市化は都市の田舎化ももたらした。田舎に都市を求めたのと同じ発想で都市に田舎を求めたのだ。都市の田舎化の典型が都心の商店街の夏祭りだ。その陳腐さは笑うに笑えない。
田舎は都市になってはならないし、都市は田舎になってはいけない。その上で田舎か都市かの二者択一ではなく、田舎も都市も我がものにすればいい。二兎を追って二兎を手にするタンデム(相乗り)戦略が田舎を蘇らせるし、都市にも刺激を与えられる。田舎と都市が相乗りすれば過疎は死語として忘れ去られる。
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