日本再創生論

日本再創生論1 道路円滑化論

<日本再創生論>


 日本の政治の再創生のテーマの第一は道路円滑化論である。公共事業の円滑化(用地の早期収用)はいうまでもなく国土交通省の悲願である。しかしその方法がわかっていない。

 かつてこの国では、道路は政治であり、政治は道路であるといわれていた。政治家の仕事は道路を代名詞とする公共土木施設(道路、鉄道、港湾、漁港、空港、河川堤防、河口堰、水門と揚水機場、治水ダム、用水路、砂防ダム、防潮堤、共同溝、水道、下水道)の建設に尽きるというのだ。公共土木工事はトンカチとよばれていた。広い意味での公共施設には学校、図書館、博物館(動物園、水族館)、官庁庁舎、病院、社会福祉施設、ホール(公民館)、スタジアム、メッセ、モール、発電所、ガスタンク、浄水場、下水処理場、廃棄物処理施設などのハコモノの建設も含まれる。ハコモノは民間事業によって建設されたとしても多額の補助金が交付される準公共施設である。特に大学と病院は新設を極端に規制した上で手厚く助成されており、教授と医師は政治家と高級官僚に次ぐ特権をえていた。


 公共土木施設(トンカチやハコモノ)が政治的に重要な理由はいくつもあった。

 第1に基本的重要性である。公共土木施設は国民の生活と経済を支える最も重要なインフラストラクチャー(公共財)であり、その建設と維持は国民の幸福と経済の成長にとって最も重要である。

 第2に時代的重要性である。公共土木施設は経済の発展(たとえば自動車の増加)に応じて非排除性(すべての人が平等に利用できること)と非競合性(すべての人が同時に利用できること)が損なわれないようにするため、絶えず拡充(たとえば道路の新設、改良)をしていかなければならない。とくに急激な経済成長期において公共土木施設建設の必要性が高まり、全国総合開発計画に基づいて建設が推進された。

 第3に制度的重要性である。公共土木施設はその公共財としての性格から税源によって建設しなければならず、国や地方自治体の予算を議決する議会ひいては議員たる政治家の調整に委ねられていた。

 第4に相続的重要性である。公共土木施設の建設及び維持の予算は巨大な利権となり、利権の調整権を独占する政治家に利権が集中し、その地位が世襲化し特権階級化した。


 だが経済成長期が過ぎると状況が逆転した。全国に作った公共土木施設が老朽化し、補修費と更新費がかかる負の遺産、あるいは公会計上の簿外負債になってしまったのである。施設のメンテナンスに予算が奪われた結果、国富は急速に消耗し、建設国債の元利償還費用もかさみ、さらに高齢化社会による医療福祉予算の増加によって財政は債務超過に陥った。いわゆる赤字国債の発行である。それでもなお政治家は無用な公共土木施設を作り続けようとした。なぜなら一度決まった建設計画は利権となり、既得権となってしまい、状況が変わったにもかかわらず、それをストップする仕組みがなかったからである。円高によって輸出がふるわなくなり、都心の地価高騰も限界に達すると、内需拡大の題目の下に建設投資の矛先が田舎の公共事業に向けられた。その結果田んぼの中に新幹線の新駅が、農村に公共下水道が建設され、通過する特急ばかりの豪華な駅や家より高額なトイレができた。

 こんな無意味な公共事業で国富が増えるわけがない。どんなに統計をごまかそうとも国民は貧しさを体感するようになった。人口減少と少子高齢化が進み、農村は過疎から廃村にいたり、都市はスポンジ化(空地化・空家化)してオールドタウンとよばれるようになった。

 それでもなお半世紀前の総合開発計画に基づいて公共土木施設を作り続けようとしている。高度経済成長期に描いた繁栄の夢を今なお病的な執拗さで追い求め続けているのである。まるで子供のころに買えなかった高額の玩具を中年になってから買い集めているマニアのように、昔の欲望を捨てられないのである。


 道路を作る流れは二つある。一つが行政の流れ、もう一つが政治の流れである。

 道路を建設する行政の手順は次のとおりだ。地元説明会はいつやるか決まっていない。一番多いのは3と4の間である。


  1 国土形成計画、道路の中期計画、道路整備計画、都市計画など、さまざまな計画への盛り込み

  2 事業化の決定

  3 予算の採択と議決

  ※ 地元説明会

  4 測量、設計の着手

  5 用地買収

  6 工事着工

  7 供用開始


 道路は予め何らかの計画に盛り込まれる。計画は無数にあり、整合性は全くとられておらず、計画にいたらない構想やヴィジョンもある。計画や構想は中止されたり棚上げにされたりすることも多く、道路を必ず作るという意思決定ではない。おもしろいことに意思決定ではないこれらの計画の策定機関や策定手続きは明確である。さまざまな審議会で決定されるのである。

 次の事業化が意思決定である。ここが曖昧で、国でも地方でも意思決定の過程がブラックボックスである。期成同盟からの陳情や誓願、政治家の天の声など様々な圧力を受けながらなんとなく意思が固まっていく。官僚機構の内部で決まっていることは確かなのに、表向き官僚機構は決まったことを実行する機関であり、決める機関ではなく、決める手続きが決まっていない。決める機関は議会というたてまえになっているものの、議会は実質的には承認機関であり、議案になるときにはすでに決まっている。


 事実上の意思決定が行われると予算が確保される。国の予算は主務官庁から財務省への概算要求でほぼ決まる。この概算要求で意思決定が公表されることになるので、これが意思決定であり、決定権は事業を採択する財務省にあると誤解されることがある。しかし財務省も実質的には承認機関であり、概算要求の前に意思決定は終わっている。財務省はなにも知らされないで採択しているだけである。各省庁も各自治体もほんとうのことは財務省に教えないからである。採択が意思決定であるという誤解は非常に深刻である。なぜなら財務官僚自らが意思決定しているのは自分たちだと勘違いしており、いわばパラノイアだからである。恐るべきことにこの国の運命はこのパラノイアによってずっと導かれてきた。たとえば二百兆円の予算と決算は、1円の差もなく同額でなければならず、執行残は1円も許されない。予算は完璧だからである。だが残念ながら財務省の完全無欠のパラノイアを満足させてあげるには談合するしかない。

 財務省(旧大蔵省)はバブルを防ぐことも、バブル後のリセッションとデフレーションから脱却することもできず、バカの一つ覚えのように増税(とくに消費税)による均衡財政を唱えるだけだった。なぜなら財務官僚は私的には数学も大得意だった秀才であったとしても、公的には歳入(税収、起債)と歳出、あるいは予算と決算(執行額)を一致させる足し算の能力しか求められていないからである。

 景気回復に必要なのは資本の回転数であるのに、国の予算は1年によくて1回転しかしない。完成までに20年かかる公共事業だと20年に1回転しかしない。社会資本形成は完成まではできるだけ早く、完成後はできるだけ長持ちさせるのが理想である。この国は世界一豊かな国になれるチャンスがあったのに、そのチャンスを生かせなかったのは、これと真逆の社会資本形成をやってきたからである。すべてが裏目になったのは回転数を理解していない財務官僚と、財務官僚の権限に阿るしかなった政治家と、官僚化(無責任化)して果敢で迅速な意思決定ができなくなった大企業経営者のせいである。

 簡単な解決法は会計期間を半年にすることだ。そうすれば国家予算の回転数が2倍になる。これは2分の1×2=1ではない。いっそのこと財務官僚を人工知能で置き換えてしまえば、会計期間を三半期にでも四半期にでも容易に短縮できる。遅すぎると世界中から笑われている意思決定もいくらか早くなるだろう。

 自動車会社だけは自己改善のお手本とされてきたけれども、それも限界にきた。ハイブリッドカーが最後の花になって電機メーカーと同じ運命をたどるだろう。情報通信のNTT支配を乗っ取ったモバイルネットワークの談合も目に余る。競争すべき通信容量の拡大投資は横並びにして本気の競争を控え、テレビCMで遊び半分の競争をしている。最終的にはこれがこの国の経済を食いつぶすだろう。できるものならチャイナモバイルに上陸してもらいたい。


 予算案は国会や地方議会の予算委員会で審議され、本会議で承認される。これが形式的な意思決定となる。財務省の事業採択は形式的にも意思決定ではないのである。しかし実質的な意思決定は議会の外で行われ、根回しは審議の前に終わっている。財務省から与党への事前説明があるからである。

 特定の実業家、学者、元政治家、裏社会のボスなどが政治に強い影響力をもつことがある。しかしあくまでもプライベートな立場であり、補佐官や顧問、諮問会議委員といった公職に就くことは稀である。とくに強大な影響力をもつ者はフィクサーとよばれることがある。いつでもそうだがだれがフィクサーかは風聞の域を出ない。戦後しばらくは在日米軍(占領軍)やCIAがフィクサーを指名したといわれる。フィクサーというより日本の政治情報をアメリカに売るスパイだったかもしれない。今もそうだというのはもちろん都市伝説の類である。

 地方自治体の予算は単独事業と補助事業にわかれ、補助事業は事実上の上位機関(市町村なら都道府県、都道府県なら中央省庁)に意思決定が委ねられているかのようだ。しかしこれも同様に補助金を申請するという意思決定は申請の前に終わっている。この意思決定の過程も曖昧である。


 ここまでで市民や企業が国や自治体の意思決定に関与する場面はない。市民や企業からすれば密室での意思決定となる。発表された時はもう決まっている。市民や企業がどうしてもここまでの意思決定に関与したいなら、政治家を介して陳情したり、政治献金したり、デモ行進をしたりということになる。

 予算が執行される段階になると住民説明会が開かれる。決まってしまってからの説明に不快感を示す住民は必ずおり、住民説明会は簡単には終わらない。残念ながら住民説明会は意思決定の過程ではなく、何時間かかったとしても計画が1文字でも1円でも修正されることはなく、結局は木で鼻を括るような説明内容で終わる。概算要求や補助金査定に使われた書類が住民説明会で公開されることはない。概略設計がなければ予算は見積もれないし、補助金も申請できないはずだ。ところが概略設計書が住民に公開されることはない。まだなにも決まっておらず、これから測量し設計して決めると住民には説明される。実際には測量と設計は実質的な着工であって、意思決定の資料にはされない。

 住民説明会が終わると用地測量と実施設計の段階になる。測量のための土地の立ち入りや杭打ちに抵抗するという反対運動もありうる。しかし一部の住民の反対なら測量は強行される。

 次の用地買収の段階で反対派住民の抵抗は本気モードに入る。用地買収とは民事上の権利の金銭補償である。財産権や営業権のみならず、すべての既得権が、ときには人格権のような基本的人権すらが金銭化される。

 地権者が一人でも用地買収を拒否すれば工事はできず、たった一筆の未買収地のために事業休止に追い込まれることもある。土地収用法による強制収用にはなかなか踏み切れない。住民との禍根を将来に残すことになりかねず、首長の選挙がある地元自治体が二の足を踏むからである。

 このように意思決定の過程では住民を阻害しておき、実行段階になると一人の地権者の反対(差別的にゴネといわれることもあるが、むしろチャレンジというべきである)に振り回されるというのが道路建設のみならず公共土木事業の一般的な流れである。

 事業が遅れると事業効果の再評価が行われる。結果的になにも変わらないこの無意味なアリバイ予算は3~5年ごとに必要で、数千万円ときには数億円も費やされる。事業効果の評価は事業化の決定や予算の採択の前にも行われている。しかし住民説明会の資料に使われるのは都合のいい部分だけである。

 事業効果の評価は買収難航地を土地収用するための事業認定申請にも必要である。この際、代替案との比較が必須になる。事業着手前に代替案と比較した資料などないので新たにでっちあげることになる。

 反対住民の同意なく工事が強行されれば工事差止め訴訟に発展することもよくある。公共事業反対闘争で歴史的に有名なのは、筑後川の下筌(しもうけ)ダムで起きた蜂ノ巣城闘争(黒澤明監督映画『蜘蛛巣城』にちなんだ命名。闘争現場の団結小屋が蜘蛛巣城のセットに似ていた)である。教養ある富農だった室原知幸が旧建設省九州建設局を相手に一人で始めたダム建設反対闘争は、住民のみならず左翼政党や学生を巻き込み、法廷闘争と現場立て籠もりの戦術を独自に編み出した。この闘争スタイルは成田空港反対闘争を始め、全国の公共事業反対闘争に引き継がれた。警察が機動隊を動員し強制代執行で団結小屋を排除する結末も似ている。

 沖縄の辺野古基地移設反対闘争もこの流れを汲んでいるといえる。違いは知事が住民側についたということである。国は動揺を隠し、知事の言動を無視しようとしているけれども、このことの政治的な意味は大きい。詳細な研究が待たれるところである。


 道路建設の流れの問題点は行政側にとっても住民側にとっても住民同意である。

 間接民主制では国民の同意権が議員に委任され、議員が計画案、予算案、決算案に、国民に代わって同意する。道路建設などの公共土木事業は、行政が策定した建設予算が議会で成立すれば住民にも同意されたことになる。しかしこのような間接的な同意過程で事業や予算にほんとうに同意が与えられたことになるのだろうか。これが間接民主制のジレンマである。議会の同意があるのになお住民同意の過程を経る必要があるのは、議会による間接同意だけでは不十分だと考えられているからである。

 住民の同意なく工事を強行すれば闘争や訴訟に発展しかねないので、住民説明会は開かざるをえない。行政側からするともう事業化は決定しており、予算もついていてやめられないのに、住民の同意を待って着工するというポーズを取らざるをえないので、なにもかも決まってしまっていることが見え透いてしまう詳しい資料は出せない。つまり住民をバカにしたようないわゆるポンチ絵での説明に終始する。住民はどうせもう事業はやめられないのだろうと薄々は思いつつ、どうして別の選択肢があるうちに住民に相談しないのかといらだっている。つまりどちらも疑心暗鬼である。いずれにせよ住民説明会は住民に情報を公開する場でもなければ住民の同意をえる場でもなく、ただ説明会を開催したというアリバイを作る場にすぎない。

 この問題を解決するため、最初に住民説明会を開くべきだという意見がある。最初から白紙で住民の意見を聞く方法としてタウンミーティング方式が実施されたこともあった。これは自由度が大きいアメリカの自治体で開発された直接民主制的手法の移入だった。実際には全住民が参加できるわけではなく、特定の意見に偏った住民に占拠され、数百回にも及ぶ堂々巡りの会議になってしまうこともあった。

 このような問題をかかえながら、この国のすべての道路、すべての公共土木施設が作られてきた。


 道路建設の政治の流れは行政の現場の苦労とは別世界にある。

 まず少数の政治家が道路をどこに作るか内緒で相談する。これら特権的政治家たちは道路の予定地の地価がまだ安いうちに広範囲の土地を買い占めておく。道路の利権は地価の利権とセットなのである。

 次に中央官僚に命じて道路の計画を作らせる。政治家が指示したことは国民には内緒である。計画はすぐに事業化の段階に入る。事業化は天の声で決まっているのにアリバイ的に審議会や公聴会が開かれる。もちろんなにを言われても聴かなかったことにする。

 中央官僚は地方官僚や特殊法人に命じて土地の買収を始める。一部の地権者は計画に反対する。これは想定内で、地方官僚らは宅地見込価格という名目で高い買収価格を提示する。買収予算は多額になるけれども、財源は中央官僚が補助金として用意してくれる。

 工事が始まる前に建設会社を決める入札が行われる。どの会社が落札するかは予め政治家が決めており、契約額に応じたリベートが談合に応じた競合社と口利きをした政治家に支払われていたといわれる。このリベートは議員の選挙の際に有力者を接待したり有権者を買収したりする資金となった。このシステムは現在も生きており、巨大なプロジェクトや大規模災害の復興事業では、JV(ジョイントベンチャー)という巧妙な仕組みですべてのゼネコンに利権が公平に配分される。いわゆる護送船団である。

 道路が完成し沿線に住宅地や商業地が開発されると、地価はどんどん高くなっていった。あらかじめ土地を買い占めていた政治家の資産は何倍、何十倍にも膨れ上がった。道路のおかげで資産家になった政治家は、そのお金で派閥の領袖となり、やがて総理大臣になった。その次の総理も、その次の総理も、みんな道路のおかげで総理になった。総理の息子も道路のおかげで総理になった。

 この構造は地価バブルが崩壊すると成り立たなくなった。地価バブルを再来させようとさまざまに試みられているものの、小泉内閣のイザナミ景気以降、全国的にみると、ようやく地価は下げ止まった程度である。それでもなお全国の高速道路網、整備新幹線やリニア新幹線、原子力開発(廃炉や核廃棄物処分を含む)が地価利権の思惑とセットで動き続けている。だからこれからもなにもない畑の真ん中に新幹線の新駅や公共下水道が作られ続けるだろうし、脱原発に熱心な政治家がこっそり核廃棄物処分場計画地を買い占めていたりするかもしれない。


 道路建設の構造がわかっていれば構造を変えることは容易である。地元説明会のタイミングを変える勇気をもてばいい。


  1 国土形成計画、道路の中期計画、道路整備計画、都市計画など、さまざまな計画への盛り込み

  ※ 地元説明会

  2 事業化の採択と議決

  3 予算の確保

  ※ 地元説明会

  4 測量、設計の着手

  5 用地買収

  ※ 地元説明会

  6 工事着工

  7 供用開始


 地元説明会のタイミングは3回ある。

 一回目の説明会は事業化の決定の前である。これは事業計画の是非を住民に問うことになる。説明会というよりは公聴会である。ただし密室で実質的に事業化が決定したあとの公聴会では意味がない。この説明会を意思決定の場とするためには、1回で終わらせず、少なくとも5段階(枠組みの決定、情報開示、追加調査、追加情報開示、意思決定)で開催することとし、初回に意思決定のルールとスケジュールを決めておく必要がある。これが決められなければなにも決められない。情報開示では新規事業採択時評価書と事業採択申請書(案)の全文開示が必須である。環境アセスメント評価書も同様である。

 二回目の説明会は測量、設計の着手前である。主として土地所有者に用地買収予定を説明することになる。

 三回目の説明会は工事着工前である。主として路線周辺住民に工事の内容を説明することになる。


 行政の意思決定の過程には様々な圧力が介在する。国道や県道の場合なら国会議員、県議会議員、知事や地元市町村長などの政治家、建設業や建設コンサルタントの団体、様々な審議会、行政内部の高級官僚、高級官僚OBなどである。行政内部の意思決定手続きは決まっておらず、圧力を勘案していつの間にか意思決定が終わっている。

 もしも事業化の決定前に住民説明会を開催したら意思決定の過程は全く違ってくる。住民の意向を政治家も官僚も無視できないから、住民説明会での同意形成が事実上の意思決定になるのである。

 だがこれは政治家にも官僚にも不都合である。住民の意向が自分たちの都合に合致する方向性でまとまらなかったら元も子もないからである。そしてしばしば住民説明会は予想したとおりに紛糾する。住民説明会は意思決定機関ではないので、ひとたび紛糾すれば治めることは不可能である。

 意思決定手続きの前に住民説明会が開かれる事業もある。区画整理事業がその典型だ。ところが一度紛糾すれば二度と話はまとまらない。満場一致が事業化の要件ではないので、一部の反対住民を無視して事業化を強行したとすれば、いつまでもそれが禍根となって事業が遅延し、結局事業が失敗する(事業縮小や赤字精算を余儀なくされる)原因となるのである。

 この住民合意の難しさが事業化の決定前の住民説明会の開催や情報開示に行政が二の足を踏む理由である。しかしこれは法律の問題ではなく勇気の問題である。急がば回れ、最初に情報をすべて開示し、手間をかけて住民合意を取り付けた事業は円滑に執行することができ、事業が頓挫することはまずない。逆に中途で頓挫した事業の多くは最初の説明が足らなかったことが行政への不信感の原因になっていることが多いのである。

 道路が政治であるなら道路を正常化すれば政治も正常化する。だから道路改革こそ政治改革の中心だと捉える観点は間違っていない。ただしこの改革はトップダウンではうまくいかない。道路を作るための透明な意思決定システムを、政治とも行政とも違う第三のシステムとして新たに構築しなければならない。

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