32 ホームレス
リサはダンサーだった。これからベリーダンスのショータイムがあると誘われ、チャージを求められた。彼女の相手をカラテに任せ、キャンディと二人で風にあたろうと再び東地区を歩きだした。道案内をしてくれるカラテがいないので、どこへ向かっていいかわからない。しばらくあてどなく歩いていると、汚い川にかかった小さな木橋に行き当たった。橋向こうの路上で料理している飲食店から違法な(おそらくはジビエの)生肉の腐敗臭とスパイスの刺激臭が漂ってきた。ここがほんとうのスラムだった。路上に寝ているホームレスも見つけた。これだと見た瞬間に思った。ホームレスこそ社会のアウトサイダーであり、二重構造の象徴だからである。
キャンディを見返ると、街の悪臭と悪態に目鼻を覆っていた。彼女を一人置いていくわけにもいかず、カラテを呼びに戻る時間もない。彼女の手を引いて橋を渡った。いきなり風俗嬢が並ぶウィンドウが目に入った。キャンディには意味がわからないのか、平気な顔で通り過ぎた。
ホームレスの一人からまじまじと顔を見られたので、こっちも立ち止まって様子を見た。髪が伸び放題なので路上生活者だとわかる。それほどボロは着ていない。
「外人だよな」男が路上に寝たままカコトリア語で言った。
「そうよ」キャンディがカコトリア語で答えた。
「密入国したんだな。(女は)ここ(東地区)で買ったのか」
「違うわ。わたしたち愛し合ってるのよ」キャンディがでまかせを言った。
「ネットで知り合ったのか」
「まあね」
「密入国じゃなかったら、どうやって入国したんだ」
「研究生ビザを取ったのよ」
「ビザを買ったってことか」
「かもね」
「どうやって出る(出国する)つもりだ」
「ビザがあるでしょう」
「あまいね。この国は入国より出国の審査が厳しい。難癖つけられて、ぼったくられるのがおちだ。それより俺にまかせたほうが無難だよ」
「ここには密入国者のキャンプがあるんでしょう」
「残念ながら、キャンプは閉鎖された。行ってもむだだ」
「じゃ、どうすればいいの」
「北地区のキャンプならまだある。それともさしさわりのない偽造ビザでしれっと帰るかだ。俺なら手配してやれる」
「北地区のキャンプに外人は多いの」
「千人かそこらだろう」
「そんなになにしに来てるの」
「仮人のスクラップを買いに来るんだ」
「スクラップが売れるの?」
「この国で売りものになるのは仮人ガラだけだよ。国外に持ち出せば奴隷にでも兵士にでもなんにでも改造できる。鉄くずにするよりずっと高く売れるんだ」
「もしかして銀行とかもグルなの」
「銀行はとっくに仮人に乗っ取られた。スマホも仮人が売ってるんだ。この国の人間は家畜だよ」
真実の一端を聞いたキャンディはショックを受けていた。きちんと通訳してくれなかったので、すぐには理由がわからなかった。(この会話はあとでスマホで翻訳したものだ。)
「なんて言ってたんだ」
「北地区にも外人のキャンプがあるんだって。行ってみる?」キャンディは委細をはしょって答えた。
「せっかくだからあと何人か声をかけてみたい。英語が通じるホームレスがいないかな」
「ならそう言ってみたら。キャニュースピーキングリッシュって」
「そうしてみる」
意地になってキャニュースピーキングリッシュとだれかれかまわず話しかけた。だれも反応しなかった。密入国者のキャンプがあったなから簡単な英語は通じるはずなのに無視されているようだった。
「だめみたいね。そろそろリサのショータイムが終わるんじゃない」
彼女にばかにされたように思い、憮然として路地に折れた。その瞬間、路面が陥没して半身が道路に埋まった。
「大丈夫?」キャンディが心配そうにしゃがみこんだ。
さすがにこの時ばかりは周囲の人々もなにごとかと集まってきた。
「木製の下水管が壊れたんだ。ぼろいからな」だれかが英語で言った。
「助けてもらえますか」
英語を話した男が周囲に声をかけ、みんなで穴から引きずり出してくれた。幸い骨折はしなかったようだが、打撲で膝が痛くてしばらくは歩けそうになかった。それよりなによりズボンと靴がドロドロで強烈な悪臭を放っていた。ホームレスどころじゃない。グッチを着ていなくてよかった。
「俺んちに来るかい。着替えを見繕ってやろう」英語を話す男が悪臭に顔を背けながら言った。よく見るとなかなか男前だった。
「お願いできますか」
「離れてついてきな。臭くってかなわねえ」
男とキャンディが連れ立ち、そこから3メートル離れて歩き出した。膝が痛くてついていけない。どんどん離されていった。先を行く2人はなにか相談しているようだった。
「早く来いよ」相談がまとまったのか、ようやく後ろを振り返ってくれた。
スラムのバラック街の中を10分ほど行くと中層ビルが立ち並ぶ場所に出た。拓けてはいるのだがスラムとは違って人通りはほとんどなかった。男は壊れかけたビルの地階に降りていった。階段で膝の痛みがぶりかえした。
地下3階まで降りたところで男は階段の壁に立てかけてあった板を外し、隠し穴に入っていった。
キャンディが男に誘われて穴に入ったのを見て続こうとすると、そこで待ってろと言われた。彼女を男と二人きりにするのは心配だったが、しかたなく階段に座って待っていた。
ところが10分しても20分しても、なんの音沙汰もなかった。もしかして危険な目にあっていはしないかと気が気ではなかった。
「そこで着替えたら入ってこい」ようやく男が戻ってきて着替えのズボンと靴とタオルを階段に投げた。
男の着古しはとくに臭くはなかった。というより鼻が麻痺していた。
着替えをすませて穴に入った。しばらく手掘りのトンネルが続き、そこからコンクリートのボックスカルバートに降りる梯子があった。奥に小さな灯りが見えた。電気がきているのだ。灯りに向かって進んだ。キャンディが暗がりの中で、スマホを鏡にして身じまいを直していた。目的はわからないがカスケードをしていたらしい。
「ここはなんですか」
「下水管だよ。さっきのとは違って本管だ」男が答えた。
「もしかしてこの中に住んでるんですか」
「見てのとおりだ」
「ビルには住まないんですか」
「俺には住む権利がないし、それにいつ壊れるかわからない。下水管のほうがずっと頑丈だ」
「地下生活者ってことですね」
「ここらの人間はみんな地下生活者だった。地下は人間の世界、地上は仮人の世界だった」
「地上は仮人の世界?」
「東地区ではそうだったよ。だけど地下狩りがあって追い出され、ほとんどの地下施設が埋め立てられた。以前には地下駅の跡や地下街があったんだ。下水管だけは大雨のときに困るから残ったんだ。それで地下にいた連中はさっきのバラック街に住んでるんだ。俺みたく、いまだに地下に住んでるのは何人もいねえよ。大雨の日に寝てたら流されちまうからな。さっき通った穴は逃げ道に掘ったんだ」
「なんでそんなことに」
「外人が大勢きて、ここにキャンプをつくったせいだ」
「外国人はなにをしに」
「スクラップを買いにでしょう」キャンディが口を挟んだ。
「そうだよ。よく知ってるねえ」
「スクラップ?」
「仮人ガラだよ」
「使用済の仮人ですか」
「それを密輸する外国人が、ここに集まったんだ」
「取り締まりでキャンプが閉鎖されたのね」またキャンディが言った。
「逆だよ。密輸は黙認されてて、キャンプがどんどん大きくなった。地下街が外人相手の商売で繁盛した。外人向けの風俗街もできた。しかし地下はやつら(当局)が管理できない。ドローンが飛べないからね。それで地下街が潰されたんだ。川向うが風俗街になって、こっち側のバラック街が居住地になった。外人キャンプはここらにあったんだ。ここが閉鎖されたのは違う理由だ」
「どんな理由ですか」
「よくはわからん。北地区に新しいキャンプができたから、こっちはいらなくなったってことじゃねえか」
「なぜ東地区の住民は普通の仕事をして、普通の暮らしをしないんですか。差別を受けているんですか」
「意味がわからん。普通の仕事ってのは、仮人がやってる仕事のことか。ここにいる連中がやってることが人間がやれることのすべてだ。差別されてるとは思わん。みんな自由気ままに生きてるよ」
「路上に寝ていたホームレスもですか」
「ホームレスじゃねえよ。ただ寝たいから寝てるだけだよ。犬猫と同じだ。人間はどっちかっていうと、仮人より犬猫に近いだろう。だって生きてるんだからな」
「はあ、確かに」聞いたばかりの真実にため息しか漏れなかった。いったい今までこの国のなにを見ていたんだろうか。
「そろそろあっちに戻ろうか。腹が減ってきたよ」
「もう一ついいですか。子供の姿を見かけないのはどうしてですか。スラムは出生率が高くて、子供が多いのが普通だと思うんですが」
「ああ、ガキができるとね、女はいろいろ優遇されるんだよ。ここには住まずに、もっといいところに国の金で移住するんだ。だから女は妊娠するとここを出ていくんだ。売春だってかまわないんだ。外人の子だっていいんだ。妊娠さえすれば女は天国だよ」
「母子だけの町があるんですか」
「あるんだろうね。どこにあるかは知らん。さあ、もう帰るぞ。そっちのお嬢さんの顔が青ざめてるからな」
暗くて顔色はよくわからなかった。しかし確かにキャンディは震えているようだった。この国の真実のショックは、彼女のほうが何倍も何十倍も大きかったようだ。
スラムやホームレスは各国各様だ。ドラッグや暴力の巣窟になることもあるし、アーティストを輩出することもあるし、脱商品化された無害な人々の集団にすぎないこともある。この国のホームレスは、世界のどの国のホームレスとも似ているようで違うようだ。
日本のホームレス問題も日に日に大きくなっている。昨今のホームレスは戦後の食糧難の時代の浮浪者(高度経済成長の完成とともに姿を消した)とは似て非なるものであり、ホームレスでも生きていけるということが前提条件の生き方である。すなわち福祉国家の拒否であり、人間の商品化と脱商品化に対する反抗である。なぜホームレスでも生きていけるのか。これはやってみないとわからないだろう。
ホームレスは生活保護受給者ではない。生活保護は現地保護が原則だから住所がなくても申請できる。それでも本籍や親族の確認は必要である。ホームレスが生活保護を申請しないのは、申請する必要を感じないか、本籍や親族を言いたくないかである。外国人(国籍法上の国民でない人)は法的には保護できない。しかし死ねとは言えないから在留許可や永住権があれば外国人も保護している自治体が多い。在留許可がないと本国送還になるから不法滞在者は保護を申請しない。生活保護は申請主義が原則で、身元不明の行き倒れでもなければ職権保護はしない。偽装被保護者が少なくないのは事実だとしても、それが問題の本質ではない。
ホームレスにも家がある。といってもたいていは橋の下、公園、河川敷などの公有地に住んでいる。端材や段ボールで壁を作った家である。公有地管理者が見過ごしていると家はだんだん大きくなり、ほんとうの家のようになっていることもある。
ホームレスにも収入がある。高齢者や障害者なら年金をもらっている。年金通知が届く住所がどこかにあるのだ。年金がない場合、工事現場で働いたり、廃棄物を集めて売ったりしている。一日千円もあれば十分だからときどきしか働かない。廃棄されたコンビニ弁当は食べていない。リサイクルするために廃棄されなくなったからだ。フードバンクは役に立っていない。弁当や総菜を扱わないからだ。公園のトイレや水飲み場で体は洗える。
ホームレスは弱者のように見えるけれども、それなりに自立した生活をしていることもあるので全員が弱者というわけではない。現代のディオゲネス然としてこの苦行の生活を満喫すらしている人もいて、あえて生活保護を申請しないのである。ときどき10~20代の若者や女性も見かける。しかしながら公有地の不法占拠は犯罪であり、公園や河川敷などが本来の目的で使用できなくなるのは問題だし、しばしば火災を起こしたりもする。
ホームレス問題が解決しないのは政治も行政も警察も本気で取り組んでいないからである。この問題を解決するには役所が毎日現場に行くしかない。ホームレスは孤独であることを楽しんでいるので、役所に毎日来られるだけで逃げてしまう。なにより名前を知られ、家族の所在を知られ、前歴を知られるのを嫌がる。だからゴミだらけに見えて手紙やハガキは几帳面に処分してある。ホームレスは実はネームレスなのである。保険証や年金手帳はどこかに隠している。死ぬのは嫌だから病院で心臓病や糖尿病の薬はもらっている。透析を受けていることだってある。
日本では子供の貧困のほうがホームレスよりもさらに深刻な問題であり、様々な派生的問題を生んでいる。教育格差、いじめ、虐待、自殺、引きこもり、逸脱(不良)、暴走族、違法風俗、違法ドラッグ、窃盗や振り込め詐欺(おれおれ詐欺、母さん助けて詐欺)などである。
一人親世帯と子供の貧困は残念ながら関係がある。一人親は非正規雇用労働者であることが多く、これは保育施設が一人親に配慮していないことも理由の一つである。非正規雇用は主婦のパートタイマーを前提にしているので、時給が安く、労働時間も短い。このため一人親は多重被用者にならざるをえない。非正規雇用でも時給を上げるには、深夜勤務、工事現場、風俗店しかない。
逆にいうとその気があるなら問題解決は容易である。非正規雇用差別撤廃、一人親に配慮した広年齢長時間保育施設の充実、主婦のパートタイマーを前提にした非課税所得限度額制度の完全廃止、教育格差是正である。たったこれだけのこともできない政治家に子供の貧困や少子化問題を語ってほしくない。保守と革新とにかかわらず、どの政権も同一労働同一賃金、24時間保育、非課税所得限度額引き上げ、高校授業料無償化、大学奨学金拡充と、お題目だけはうまく並べてきた。ところが賃金が上がれば製造業の国際競争力がそがれると経済団体に反対されて腰砕けになり、どれも実効性があるほどは進展しておらず、子供の貧困は続いている。
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