29 結婚と恋愛
キャンディの親は実父と実母だけだった。必ずしもこのような一夫一妻制がこの国の標準的な結婚ではない。実父、実母という言い方をこの国ではしない。これに対比される養父、養母、継父、継母、義父、義母もない。あえていうなら実父は生物学的父、実母は生物学的母である。
この国の結婚制度は任意的二夫二妻制(重婚性)をとり、男も女も二つの家庭を同時に営むことが許されている。ただし夫妻が誓約すれば一夫一妻制に限定され、重婚が許されなくなる。これは契約的単婚(契約婚)とよばれる。契約婚は戸籍簿に登記される。キャンディの両親は契約婚である。一夫二妻、二夫一妻の婚姻はできるにしても、契約婚としては認められない。契約婚は単婚にかぎられる。二夫二妻制は夫妻の一方が不妊症である場合の救済手段として容認され、一般的な婚姻制度として定着した。ただし女性の9割は契約婚を望む。そうでないと夫の不倫(買春を含む)が自由になってしまうからである。
結婚年齢に制限はなく、当事者の意思だけでいつでも結婚できる。しかし慣習的に18歳にならないと婚約や結婚はしないようである。
二夫二妻制は結婚制度を複雑にしている。二夫妻が別世帯となり婚姻関係を交叉させない並立婚だけではなく、男女4人雑居の交叉婚もありえる。ゲノム戸籍制のおかげで交叉婚から生まれた子でも生物学的親子関係は明確であるが、法的親子関係においては4人全員を親とすることができる。男女5人以上の雑居婚も事実上ありえる。これはサークル婚とよばれる。サークル婚から生まれた子は生物学的両親の他に男女各2人までを法的親とすることができる。一夫三妻以上、一妻三夫以上は法的婚姻関係と認められず、同居の開始時期があとのものから違法な重婚となる。婚姻自由の原則と婚姻平等の原則の妥協点は婚姻関係における男女の比率が一対二までと考えられているからである。
男女3人以上の染色体を交雑させた胚(キメラ胚)による出生は遺伝子工学的(ゲノム手術的)に可能で、染色体を提供した全員が生物学的親となる。一人親の胚(クローン胚)による出生は禁止されている。同性交雑胚(ホモクロッシング胚)からの出生は認められている。ただしY染色体のホモ(超男性胚)は認められない。一倍体の胚(矮人胚)、三倍体以上の胚(巨人胚)も禁忌である。
離婚は一方の意思で成立し、相手の同意や協議は必要ない。結婚しても財産を共有しないので離婚時の財産分与はない。夫妻が共有資産を取得する必要があるときはあらかじめ持ち分を決める。持ち分を決めていない場合はイーブンとなる。離婚した夫妻の同居は認められないので、必ず一方が退去しなければならない。退去しない場合は偽装離婚とみなされる。住宅に付属する家具などの調度は持ち分にかかわらず住宅に住み続ける者に帰属する。本意離婚(事情のない離婚)の慰謝料は請求できない。離婚の原因がドメスティックバイオレンスや相手の不倫だった場合などの不本意離婚(事情のある離婚)の慰謝料は損害賠償として請求される。したがって相手の財産が多いからといって多額の賠償金を請求できるわけではない。配偶者は互いの相続人となることができる。ただし配偶者には法定相続分がなく、婚姻契約登記や遺言登記によって相続させないことができる。こうした結婚スタイルをセパマリッジ(独立婚)という。これに対して夫妻の一方が他方の所得や財産に依存する結婚、あるいは財産目当ての結婚をパラマリッジ(寄生婚)という。売春婚といわれることもある寄生婚は禁止されてはいないものの差別的であるとして忌避される。再婚は離婚後すぐに可能で再婚禁止期間はない。ただし離婚者が同じ相手と再婚する場合は2年を置かなければならない。それ以前に同居を再開した場合は偽装離婚として離婚が遡及的に無効となる。
養子制度はない。これは子の人権を侵害すると考えられている。両親と死別した子や両親に養育能力がない子は国が養育義務を負担するとともに、5歳になれば社会的な親を指名することができる。これは養子になることではない。指名権は子にある。社会的な親として指名されることは名誉と考えられており、指名を拒否する者はいない。ただし指名は2人までしか受けられない。この制限は被指名者の所得に応じて緩和できる。社会的な親子関係は生物学的な親子関係、法的な親子関係と一切の差別を受けない。指名は事情があれば3回まで変更できる。事情とは無資力、虐待、性格の不一致である。社会的な親からの逆指名や離縁はできない。被指名者の配偶者は任意的に社会的親となる。
婚姻自由の原則によって近親婚は禁止されていない。これはオイディプス婚といわれる。ゲノム戸籍制により婚姻時にはゲノム相性鑑定が行われ、不適の場合は子を設けることについて注意書が交付される。これは懐妊の禁止ではなく、むしろ劣性遺伝子も遺伝子多様性保全のため排除してはならないとされている。体外受精した受精卵のゲノム手術や自然妊娠した胎児の遺伝子導入治療が可能になっており、ほとんどの遺伝的疾患は障害の発現を回避できる。
同性間の婚姻は認められている。ホモクロッシング胚によって子を設けることもできる。ただし今のところはまだ人工子宮が完成していないので代理母が必要になる。代理母が差別かどうかは議論がわかれている。同性間の婚姻と異性間の婚姻が混在する交叉婚やサークル婚も認められており、オセロ婚とよばれる。
このように自由度の大きい婚姻制度は一切の差別を根絶するという憲法の要請によるものであると同時に、出生率を低下させないためでもある。ところが妊娠の可能性がない仮人との単婚を望む女性が増えたことから、合計特殊出生率が0・1以下まで著しく低下している。その一方、男性は人と仮人、あるいは仮人2人との重婚を望む傾向がある。
人工子宮が完成すれば婚姻によらない人間工場による人口計画が可能になる。実は人工子宮はとっくに完成していて、用途がSLBW(超低体重児)の保育に制限されているという。人間工場を実現するには憲法改正が必要である。
生物学的親と法的親(社会的親を含む)の親権は平等である。もっとも親の権利は幼名の命名権、表明権(親であることを表明する権利)、同居権(10歳になるまで同居する権利)しかなく、あとは義務があるだけである。親は子から財産を相続することができない。また子の年齢にかかわらず子の財産の管理権もない。親の義務には養育義務、教育義務、保護義務、同居義務(10歳になるまで同居する義務)、違法行為差止義務、損害賠償責任代位義務、財産保全義務がある。すべての親は連帯して5歳以上18歳未満の子のクレジットカードの担保となっている預金口座に一定額の残高を確保しなければならない。親権が競合した場合は親権調整委員会が調停する。親権は子が18歳になると消滅する。子は必ず親(生物学的親、法的親、社会的親)の相続人となる。ただし負債の相続はしなくてよい。子の法定相続分は2分の1である。遺言登記がない場合、死後寄付登記をしなければ遺産の2分の1は国庫に入る。子には親の扶養義務はない。
法的親子関係は親権が消滅してから2年以内に子の意思だけで解消できる。生物学的親に対しても法的親子関係を解消することができる。これを親子の生法分離的離縁という。法的親子関係を解消した場合、生物学的親であっても親子に認められる一切の権利義務が未来に向かって消滅する。法定相続分も失う。離縁時の親子の財産分与は任意である。ただし分与の額が子の法定相続分に満たない場合、親は法定相続分を子のために留保しなければならず、子はいつでも留保分の請求ができる。親からの法的親子関係の解消、いわゆる勘当はできない。一度解消した法的親子関係は錯誤または欺罔、強要による場合を除いて復縁できない。
夫婦は別姓であり、婚姻によって姓を変えることはできない。これは祖先祭祀に基づく歴史的な制度ではなく、個人主義と男女平等主義に基づく文化的な制度である。親は子に任意の姓名を幼名として与えることができ、姓を創作することも、姓を使わないこともできる。キャンディにも姓がない。
子が18歳になるときは、その1年前から1年後以内に子の意思で生物学的親、法的親、または社会的親の姓の中から任意の一つを選択して承継する。一度選択した姓は錯誤または欺罔、強要による場合を除いて変えることができない。悪意のある名でないかぎり、親が与えた名を変えることはできない。ただし名を追加することはできる。姓を追加することはできない。
子がすべての親に対して法的親子関係を解消した場合には、親の命名権が遡及的に消滅し、任意の姓を名乗り、任意の名に改名することができる。この改名は一度しかできず、親子が復縁しても取り消すことはできない。
子の権利が大きいのは親権の例外性が主権の例外性とオーバーラップする政治的意味をもつからである。すなわち親権は無政府主義と相いれない。しかし現実的には子が少ないからでもあり、出産する女性の権利も同様に大きい。これは歴史的には父権と母権の区別を意味する。父権は主権の起源であるが母権は神聖の起源である。なぜなら主権が殺戮の力であるのに対して、神聖は生誕の力だからである。
この国の女性には道路革命以前から3つの特権が与えられてきた。これは男女平等の例外規定である。
第一に不労特権であり、これは出産のために働かなくてもいい特権だ。不労所得保証特権がこれに付随する。
第二に就労特権であり、これは出産のために働けなくなることがない特権だ。復職復位特権がこれに付随する。
第三に健康特権であり、これは出産のために健康を損なうことがない特権だ。周産期医療特権、避妊堕胎特権がこれに付随する。
この3つの特権はいずれも出産という女性にだけ課された生物学的犠牲を補償するための社会学的特権である。この特権のために出産を望む女性は独身を選び、出産を望まない女性が結婚を選ぶという逆転現象が生じていた。これを夫子択一(ハズバンドオアチャイルド)といった。現在のカコトリアではゲノム戸籍制によって子の父が明らかにされるため、非婚の母を望むことはできなくなった。重婚禁止規定に抵触しないかぎり、未婚のカップルから子が出生した場合には自動的に婚姻関係となる。ただし離婚は自由である。
20歳になるキャンディの兄には婚約している恋人が一人いて、ホステルで同棲を始めている。18歳を過ぎると婚約する者が多い。これは恋人を公表して情交の相手を特定するためである。婚約は長続きしないことが多く、婚約者と結婚するとはかぎらない。結婚はホステルを利用できなくなる26歳の直前に行うことが多い。26歳をすぎると親と同居しないので、独身だと単身世帯(独居)になるからである。
17歳のキャンディには複数の恋人がいる。もちろんだれとも結婚を約束したことはない。18歳未満では恋人を公表せず、情交の相手を特定しないことが普通である。
婚約は公表された結婚の約束である。婚約せずに同棲を開始した場合でも同棲が秘密でなれば婚約とみなされる。逆に公表されていなければ当事者間で結婚を約束していても婚約ではない。公表されていない結婚の約束は同時に何人とでもできる。婚約は同時に2人までしかできない。同時に3人以上と婚約した場合は婚姻とは逆にあとのものが有効である。婚約はなんらの権利義務も生じず、一方の意思だけで解消は自由である。婚約の破棄に対して破棄の理由を問わず損害賠償は請求できない。婚約中または同棲中に持ち分を決めずに取得した共有資産は分与の対象となる。
同棲とは一月以上継続しているか継続する見込みのある結婚の意思のある者同士の同居をいう。一月におおむね半月以上の同泊が必要である。したがって雑居でないかぎり同時に同棲できる相手は2人までとなる。結婚の意思がある男女4人までの雑居は交叉同棲という。4人を超える場合はサークル同棲という。同性同士でも結婚の意思があれば同棲である。
結婚制度と同様、婚約制度も複雑になっている。
未婚者同士の恋愛は自由である。
恋愛とは情交を伴う婚姻前の異性関係をいう。情交とは性的関心を伴い同意に基づく反復性又は持続性のある身体的接触をいう。飲食や遊興に同伴しても情交ではない。手をつなげば情交である。握手や社交的な抱擁、接吻は情交ではない。同性間でも情交があれば恋愛である。未婚者同士の性的関係に年齢制限はない。一般的に異性を性的関心の対象として意識するのは3歳とされている。これは2歳に修正すべきだという有力意見がある。情交を伴わない恋愛は清恋といい、同意を伴わない恋愛は片恋または偏恋という。恋愛をしないこと(したことがないこと)は未恋という。
恋愛は同時に複数の未婚者間ですることができ、人数に制限はない。また未婚者であれば年齢は無関係である。ただし年齢差のあるカップルはカスケードラブ(売春)とみなされることが多い。
一方または双方が既婚者の婚外情交は不倫である。ただし重婚できる場合は不倫ではない。
配偶者に不倫された既婚者は不本意離婚による損害賠償を配偶者及びその不倫相手に請求できる。ただし配偶者が不倫の相手と1年以内に合法的に重婚することができ、2年以上婚姻が継続することが見込める場合は除く。不倫されても離婚しない場合には損害賠償の請求はできない。不倫の責任は既婚か未婚か、また年齢や動機によらない。売春または買春も不倫とみなされる。不倫の斡旋は闇風俗である。
不倫の責任が重いため、未婚者は恋愛の相手が未婚であることをスマホの身分証明機能であらかじめ確認するのが常識である。これはID交換の際に自動的にIDが未婚者か既婚者か、既婚者の場合、単婚か重婚かにフォルダリングされることによって行われる。恋愛の相手が途中で結婚した場合にはアラートが発せられるとともに、IDが保存されたフォルダが既婚者のフォルダに移動する。
この国は人格の非差別平等を最高の原則とする観点から未婚者の売春は恋愛の一形態として自由であり、既婚者の不倫は配偶者に対して不誠実かつ差別的であるので禁止するという考え方をとっている。
したがって金銭や物品の反対給付がある情交、すなわち売春は未婚者同士にかぎって許されている。というより未婚者同士では恋愛と売春を区別していない。年齢差があるカップルでは歓心を買うためのプレゼントは当然だし、売春が恋愛に発展し、結婚することもあるからである。未婚女性とくに学生の売春は日本では援助交際とよばれることがある。この国ではカスケードラブという。格差のある恋愛という意味である。カスケードではない(情交に反対給付がない)恋愛はボートラブという。池に浮かんだボートでのデートシーンのようにフラットな恋愛という意味である。カスケードでボートには乗らないだろうという暗喩でもある。
カスケードラブのための交際場所の提供や交際サイトの開設は許されている。これは他の国と同様、出会いクラブ、出会いサイトとよばれる。ただし既婚者(重婚可能な場合は除かれる)は利用できない。既婚者は売春も買春も許されていない。
カスケードラブには保健的なリスクと社会的なリスクがありえる。妊娠や性病などの保健的なリスクは下げることが可能であり、この国ではほとんど問題にされない。エイズや肝炎などの難病の治療法も確立されている。カスケードラブが社会的なリスク、すなわち差別の理由となることもない。
未婚女性の妊娠と出産については、不本意妊娠であっても母子が手厚く保護される。母体に危険が及ばない時期の堕胎は自由であり、堕胎薬が用いられる。人工妊娠中絶術は母体の危険及び損傷が大きいという理由で禁止されている。帝王切開術や会陰切開術も同様の理由で禁止されている。母体の負担を軽くするため、すべての分娩が無痛分娩である。また9月齢までに人工早産させるのが普通である。母体の負担が重い自然分娩は差別と考えられている。これを母体優先原則という。この国では親が望んでも新生児優先原則を選択することはできず、分娩時の母体の死亡及び傷害は自動的に医療事故として訴追対象となる。このためハイリスク出産は回避される傾向にある。
強姦、準強姦は殺人並みの重罪であり、未遂も含めて全財産が収用されて被害者への賠償金となる。痴漢行為、ストーカー行為、盗撮行為も重く罰せられる。痴漢等の誣告(虚偽の告訴)も重罪とされる。
未婚女性が出産した場合は自動的に婚姻関係と親子関係を成立させてから、違法な重婚または不本意妊娠の場合は同日離婚となり、生涯賠償金の請求が可能となり、婚姻歴は戸籍から完全消除されて未婚に戻る。ただし生物学的親子関係は解消できない。5歳になった子からの生法分離的離縁はできる。生法分離的離縁をしても母子に対する生涯賠償責任は免除されない。未婚または非婚の母子を差別することは憲法に反する重罪である以前に恥ずべき行為とされる。
この国では未婚者のカスケードラブは容認されているから、キャンディも経験していた。ある日、自分は遊べるけどと持ちかけられたのだ。この国の学生が性的に自由なのはとっくに知っていたのに、彼女だけは純潔だと勝手に思い込んでいた自分を恥じざるをえなかった。既婚者だからといって丁重に断ると、それなら仕方がないと笑っていた。
学生あるいは若年者の売春ないし風俗は他の多くの国でも珍しくない社会現象である。学生の売春や風俗に対する各国の法や倫理はさまざまである。経済が発展するにつれて概ね寛容になっていく傾向がある。とくに大学では売春や風俗を理由に退学処分にしたり、奨学金を停止したりすることはない。経済格差が拡大している国では売春や風俗が格差を埋める手段になっていることも否めない。
カコトリアのカスケードラブは恋愛の範疇であり、経済的理由からではないようだ。キャンディにそれを恥じる様子はなかった。風俗の経験はなく、やるつもりもないとのことだった。この国では第三者が介在する性的な接客サービスを風俗とよんでいる。このような意味の風俗店は少なくない。18歳未満の依存学生は風俗にはまずかかわらないという。
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