経済系報告

27 学校がない

<ライフスタイル系報告>


 キャンディはこの国で最初に知り合った若年者であり、未婚女性である。彼女のケースを一般化することは危険にはちがいないとしても、彼女以外の情報源がないので、彼女をこの国の十代の未婚女性に敷衍して生活観を考察してみることにした。

 インターネットによって情報がフラット化しているから、女性のモードはインターナショナルで、彼女が毎日着てくるボトムにもトップスにもユニークなところはなく、どの国の17歳だといっても違和感はなかった。靴は外国ブランドをコピーしたスニーカーだった。オリジナルならこれだけで初任給くらいする高級品だ。


 彼女は学校に通っていない。この国には学校がないからである。学校は子供の隔離施設であり、矯正施設であり、学習監視施設として、この国では憲法違反になる。校舎がないカコトリアではカフェが教室になっている。これは他の国でも語学の個人教授などで、すでに普通に見られる光景である。

 教育は教育サークルで実施され、初等教育から高等教育まで、さらに職業教育から芸能教育までジャンルを問わず、あらゆる教育を負担している。スポーツサークル、芸術サークル、技能サークルなどもあり、カフェではできない教育は教育サークルのジムで行われる。ジムは公園や路上、海岸や河川敷でもいい。教育サークルの半分は個人経営で、半分はSPG(特定目的グループ)経営である。これは日本の塾によく似ている。

 早い子は2歳から、遅くても5歳から教育が始まる。複数のサークルを組み合わせて一人一人違った教育プログラムを組み立てるのが、この国の教育の基本である。サークルの組合せは無限で、一人として同じ組合せにはならない。義務教育や初等教育というものはない。3歳でプラトンや論語の原書講読をする子もいるし、バイオリンを習う子もいる。教育プログラムはDNAはもちろんのこと、あらゆるパーソナルデータに基づき、教育コーディネーターが組み立てる。親の意向は参考にはしても優先はしない。教育に親のエゴは許されない。教育プログラムは少なくとも半年ごとに更新される。5歳から17歳までの教育費には扶助制度(他の国の奨学金制度)がある。教育サークルの経営に対する扶助制度(他の国の私学助成金制度)はない。これにかぎらず着服(ピンハネ)の恐れがある間接補助はすべて禁止されている。


 キャンディは科目別に30以上の教育サークルに登録していた。ばらばらでは不便ではないかと聞くと、どの学生も実技科目だけはジムに通い、それ以外の授業は全部インターネットを使い、毎日カフェを教室にしていた。自宅やホステルでは勉強に集中できないという。4歳からずっとカフェで勉強しているからだそうだ。

 通訳を快く引き受けてくれただけのことはあって、英語、ロシア語が堪能で、中国語も勉強中と話していた。これが世界三大言語だからである。彼女を通訳に選んだのは偶然とはいえ成功だった。ネイティブのカコトリア語は孤立語で、どの国の言語とも似ていない。言葉の響きはギリシャ語に似ているような気がしないでもない。文字もこの言語に独自のものでアルファベットは使わない。ただしインターネットが普及する以前から英語由来の外来語は好んで使う。外来語が豊富なので、ほとんどの教科の授業をカコトリア語で行うことができる。これは日本語を先例にしたようである。

 キャンディは語学力を生かした外国への短期留学を10回経験し、アヴァンギャルド論でサンクトペテルブルク大学からロシア文学の学位を取得し、現在はジェンダー論でオックスフォード大学から社会学の学位を目指していた。外国の大学はすべて通信課程の聴講生である。17歳といっても実力は大学生ないし大学院生であるといえる。この国の教育レベルは侮れない。


 教育サークルにはレベル認証がある。これは他の国の単位認定に近いものである。レベルは教育分野ごとに20段階まで設定されており、各レベルを終了する期間は6か月である。つまりダブリ(落第)がなければ全レベルを終了するのに10年を要する。ただし途中のレベルから始めてもいいし、飛び級もできるので、5年で最高レベルに達する者もいる。最高レベルは日本の大学院博士課程に相当する。6か月で進級することにしたのは学校がまだあった時代に誕生日による能力差別を緩和するためだった。このおかげでこの国の教育はスピードアップした。学校がなくなったことで誕生日による能力差別は完全になくなった。

 教育サークルには卒業試験(レベル認証試験)はあっても入学試験はない。一定の教育レベルを認証された者は全員が次の教育レベルに進む権利を保証される。このため人気サークルには入学希望者が殺到して定員をオーバーすることがある。入学希望者を差別することは許されないので、必ず定員を増やさなければならない。校舎や教室という物理的制約も、教師という人的制約もないので、定員増にコストはかからない。

 入学資格がある者全員の入学を認め、入学後の成績で進級(レベルアップ)や卒業(レベル認証)の選抜を行うことを卒業主義(成果主義)という。入学時に学生を選抜する入学主義(入試主義)は学校側の都合であり、この国では入学者の差別として禁止されている。

 入試主義は入学後の学習成果を見ておらず、卒業時の実力を評価していない。入試主義の国で行われている学校偏差値は入学時の学生の実力を表していても、卒業時の学生の実力の評価になっていない。在学中の学習成果を見ないことは悪平等であり、在学中のエスケープ(ずる休み)やスピンアウト(学業放棄)につながる。大学のレジャーランド化は入試主義のネガティブな効果の際たるものである。

 この国の学歴は教育レベル歴である。学校歴という意味の学歴は存在せず、学閥もない。国内の教育レベルに飽きたらない学生は、キャンディのように通信課程によって海外の大学の講義を聴講し学位を取得している。もちろん学位は学歴として評価される。短期または長期の留学も自由にできる。しかし留学歴自体がことさら評価されることはない。


 人間性の差異の観点からはマンツーマン教育が最も望ましい。しかし人が教師をやっていたのでは教師が足らない。だから学校を建て、教室や講堂に生徒を集めて授業をする。これがマスプロ教育である。道路革命以前、学校があった時代にはこの国の教員学生比率は1対15だった。これは小学校から大学まですべての学校で同じだった。教育当局にこれといった目標があったわけではないのに、なんとなくすべての学校がこの比率に収束していた。いわば1対15は黄金律だった。

 道路革命前、家庭教師は差別的だとして禁止されていた。革命後むしろ規制は緩和され、仮人の家庭教師は解禁されている。それでも学生の数と教師の数を等しくするには程遠い。教師不足の問題を解決しつつマンツーマン教育を実現するにはインターネットと人工知能によるほかない。これはどの国でもすぐにも可能な技術なのに、学校と教師が不要になるため学校経営者と教員労働組合が抵抗している。日本では語学塾や進学塾、ヨーガ教室などで、わずかにネット授業やネットレッスンの試行が始まっている程度である。

 宗教にリアリティがなくなった今日、だれにとっても一番大事なのは自身の長寿と子供の教育である。政治の主眼もバイオまたはライフになった。だから医療の利権(医局制度)と教育の利権(学閥)は政治家による政治的方法ではなくせない。


 この国が学校によるマスプロ教育を否定するのは、人の差異を人間性の源として尊重するためである。人には差異がある。民族にも差異があり、国家にも差異がある。だが差異が差別になるとき紛争が生じ、ついには戦争になる。差異と差別を区別し、差異を差別に発展させなければ、あらゆる紛争は防げる。

 差別とは自分の差異を優越させることである。自分の国、自分の民族、自分の宗教、自分の親と親族、自分の職業、自分の財産と所得、自分の性別、自分の思想、自分の政党、自分の才能、自分の容姿など、自分の差異を優越させることが差別につながる。

 差異は人間の存在にとって必然的であり、必要的である。しかし差別は必然的でもなければ必要的でもない。差異が差別の歴史を作ってきたことは事実だとしても、それは差別する側の利益を正当化し、差別される側の犠牲を無視する歴史だった。こんな歴史は終焉させなければならない。

 差異を伸ばし、差別をなくすことがこの国の憲法で規定された教育の基本理念である。


 この国には大人と子供、すなわち成年と未成年いう考え方はない。ただし5歳になるとスマホIDとクレジットカード名義を取得して参政権が与えられ、10歳になると学生としてホステルが利用可能になり、18歳になると法的親子関係を解消できるようになり、26歳になると学生としてホステルが利用できなくなるので、4歳までが幼児、5歳から9歳までが在宅児童、10歳から17歳までの8年間が前期学生(依存学生)、18歳から25歳までの8年間が後期学生(自由学生)、それ以降が社会人であると実質的に考えてもいい。これは便宜的な区分であり、参政権を成人の要件とするなら5歳で大人である。キャンディのような依存学生でも仕事をしているので、18歳になったとたんに経済的に自立するわけではないし、自由学生と社会人の境界もグラデーションになっている。

 教育は義務ではないが、前期学生の就学率はほぼ100%である。後期学生の就学率は1年ごとに約10%ずつ落ち、25歳の就学率は約20%となる。26歳以上の社会人年齢の就学率は約10%である。40歳以上になると就学率が再び高まり、50歳以上では30%、60歳以上では50%になる。これを就学率の二峰性という。再び就学率が高まる40歳以上が中年であり、この国では立年とよんでいる。いわゆる老人大学のようなものはなく、すべての教育サークルにおいて老若は共学である。老人(オールドパーソン)という言葉は差別用語ではない。老人は完成(老成)した人という尊敬の意をこめて使われている。製造から20年以上経過した仮人も老人とよばれる。


 日本でも子供はすでに子供ではなくなっている。幼稚園生にもなればスマホで世界とつながるすべを持ち、実際に世界とつながっている。以前ならかぎられたエリートの子弟しか世界旅行をしたり、世界の一流芸術家と触れ合ったりできなかった。今はスマホがありさえすればバーチャルな方法ではあってもどんな国でどんな体験でもできる。

 子供が創造性を発揮する場も増えている。親が用意した発表会で子供がバレエや日本舞踊やピアノを披露したり、合唱団や劇団に入ったりすることは昔も今も盛んである。最近はハワイアン、ベリーダンス、フラメンコなど多彩な民族舞踊も人気だ。芸能人や有名大学合格を目指して英才教育を受ける子供もいるし、成功している天才子役や天才スケーターや数学コンクールで優勝する秀才もいる。

 しかしそうした親や教師が用意してくれた場ではなく、自らアイドルユニットを組んで親や学校とは関係なしに活動し、その活動をインターネットを通じて拡散する子供たちが増えている。一人一人の個性を追求しているから、だれが一番かを決めることは意味がない。大人に頼らないこうした子供が増えていることこそ現在のシーンである。親の熱意や富裕度は関係なく、むしろ一人親や引きこもりなど壁のある子供ほど卑屈になるどころか親や教師から離れたとたん見違えたように活発に活動している。見た目は子供であっても、その活動スタイルは大人である。今や小中学生と大学生は無差別化されたといっていい。かつては大学生にならなければできなかった自由な表現が許される生活を、小中学生もやれるようになったし、やるようになったのである。遅くとも女児は小5、男児は中1で大人とみなすべきである。

 インターネットやスマホがある時代の子供と、それ以前の子供は決定的に異なる。今や小学生の作文でネット情報を使うのはあたりまえ、大人の言葉、大人の視点、大人の知識で作文を書いてくる。大学生に代筆してもらったのかと見まがうほどの完成度である。読んでみればわかることだが、大人の使う文脈を完全に理解して書いている。フィリップ・アリエスは17世紀以降の近代学校教育制度によって子供(小さな大人ではない子供)が誕生したと論じた。ところがネット社会への参加によって、子供は再び小さな大人になり、子供ではなくなったのである。

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