26 アーティストがいない
この国にはアーティストがいない。というよりはすべての国民がなんらかの芸術活動をしているアーティストであり、それぞれにアート作品を発表している。特定の人だけを芸術家とよんで賛美することは差別と考えられている。
もちろんアートの才能には差異があり、研鑽にも差異があり、作品には出来不出来がある。したがってアーティストやアートの人気や評価には差異がある。しかし差異は差別ではない。
すべての国民がアーティストであり、アート作品を発表していることは、政治的に重要な意味がある。なぜならアート作品の発表と公論(政治的意見の発表)には紙一重の違いしかなく、アート作品はそのまま公論に結びつくからである。とくに思想と感情の表出である音楽や文学といった著作物は公論そのものといえる。道路革命においても音楽と文学が果たした役割は大きかった。すべての国民がアーティストであるということと、すべての人が公論に関わるということとはほとんど同じ意味である。
この国でもアートには著作権がある。しかしこの国では著作権はオリジナリティとよばれており、コピーライトではなく、アートの複製に対して著作権を対抗できない。したがって他の国のように音楽や映像やデザインを独占的にコピーすることによって、かつての王族も凌ぐ巨万の富をえることはできない。優れたアートはたちまち無償でコピーされてしまい、すべてのアートは発表された瞬間にパブリックリソース(公共財)になる。
生の演奏や舞台などの身体芸術も仮人のコピユニによって複製・拡散することができる。それでもオリジナリティのある生の演奏や舞台は価値を失わない。とくに人気があるのは少女や少年たちのユニットによる音楽とダンスのライブである。他の国と同様に彼らはアイドルとよばれている。しかし他の国のようにアイドルが商業化されることはなく、アイドルを商品とよぶこともない。公開されたライブの撮影を禁止することはできず、映像のコピーも投稿も自由である。
この国はオリンピックに国として参加していない。ナショナリズム(愛国主義)の祭典になってしまっているからである。開会式のパフォーマンスの芸術性は評価している。しかしながらその後の国別の入場行進は閲兵式(軍事パレード)のアナロジーとして嫌悪している。自国民に限定せず、無国籍(難民など)のオリンピック参加者を支援している。
この国の人は美容に熱心で、コスメティックはもちろん美容整形も盛んである。整形手術はこの分野の先進国とされるアメリカや日本に研修に行った医師が始め、この国で独自に発展して美容アートとして定着した。女性は巨眼、細顎、豊胸の三点セットを好み、男性は高額、高鼻、広胸の三点セットを好む。この国の人は思い思いのタトゥーをしている。これも美容アートである。性転換や性器整形・ピアシングも美容アートと捉えられている。美容アートをした人としていない人を差別することはない。整形手術前後写真のインターネット暴露投稿はこの国では自分でする。国民の過半が整形手術を経験しているし、手術前後の格差が大きいほど称賛される。仮人は整形手術ができないので人の特権と考えられている。
受精卵の遺伝子整形(ジェネティックエンハンスメント)も盛んで、多くの子が親とは似つかない容姿で生まれてくる。特に美白遺伝子(メラニン合成阻害遺伝子)の導入は不動の人気がある。生まれてからの美白は難しいからである。ただし皮膚がん防止遺伝子の同時移植が必要になるし、悪くすると先天性エリテマトーデス症として生涯完全UVカットが必要になる。それでも美白遺伝子ブームはとどまるところがない。遺伝子整形は人のアンドロイド化といわれる。
これらの美容技術の普及の結果、この国は北欧、ウクライナ、アルゼンチン、レバノン、ラトビアなど世界有数の美人国の一つに数えられている。ベネズエラや韓国と同様に、美男美女は重要な資源と考えられており、国民こぞってそのための投資をおしまない。街中やリゾートで美人を探すストリートスナップ観光は外国人にも人気であり、スナップショット専門の投稿サイトがいくつもある。人の統計的美人率が高まるにつれて仮人の美人率も年々高まっている。
他の国でも批判が多い美人コンテストはこの国ではいち早く廃止された。性差別だからではなく、だれが一番かを決めることが差別と考えられており、審査員のなり手がいないからである。
著作権は日本を含むアジアにおいてもすでに崩壊している。これはアパレル商品を見れば瞭然である。アパレル商品のデザインはほぼすべてなんらかの意味で模倣である。国外ハイファッションブランドや国内他社ブランドの模倣のみならず、自社のブランド間の模倣すらある。模倣方法はさまざまである。パタンナーが他社の商品を解体して型紙に写しとる完コピ(完全コピー)もあれば、デザイナーが他社の商品カタログから模倣する場合もある。古着(ビンテージ)を模倣することも多い。さらには街頭でファッションセンスのいい人のスナップショットを勝手に撮りまくるという手法もある。一番安易なのはファッション誌からの盗用である。世界的なファッション誌は各国で版が違うため、パリやニューヨークから取り寄せて最新のモードを模倣する。自分で取り寄せなくても輸入ファッション誌の専門店があり、ネットでも買える。
ブランドロゴまでコピーしたら偽造品(レプリカ)であり、これを本物だと偽って売ったらさすがに犯罪になる。しかしデザインの盗用だけならパロディだという伝説がまかりとおっているため罪の意識はほとんどない。ブランドオーナーやブランドマネージャーが海外でハイファッションを買い付けてきて私用し、インスタグラムにアップしたあと、「これまねといて」とデザイン室に放り投げて購入費は会社の経費で落とす。これがどのアパレルブランドでも常識である。
警察はレプリカの取り締まりに消極的である。デザインの参考にしただけでコピーではないと主張されると、不正競争防止法違反の立証が難しいからである。コピーといわずに何々ブランド類似品とか何々ブランド系とかいって本物ではないが本物っぽいとほのめかすネットショップは数知れない。こうした模倣品の多くは中国製か韓国製である。ときおり他社から模倣商品が売られていると訴えられることもあるにはある。全商品完コピなど相当悪質な場合には有罪になる。しかしたいていのブランドは自社にだって模倣商品が一つもないともいえないので、泥仕合になるのを恐れ、相見互いと考えて訴えない。
グラフィックデザインのコピペもまた日常茶飯事であり、どこか少しでも変えておけばパロディだという伝説がここでもまかりとおっている。東京オリンピックロゴ盗作疑惑問題は記憶に新しい。日本のデザイン界のモラルの低さを象徴した問題だった。オリンピックロゴ以外にも次から次へと疑惑が出て一時は騒然となった。しかしデザインの模倣が犯罪だったのかどうかは曖昧なままである。少なくとも発注者や被害者がこのデザイナー(あるいはアートディレクター)を訴えることはほとんどなかったようである。コンペの応募作品にまで模倣デザインを持ち込んだとするなら、さすがにやりすぎである。
デザインがすべて模倣でいいとするなら、デザイナーには価値がなくなる。コピーすればいいだけなら美大や美術学校を卒業してすぐにデザイナーになれる。そのかわり給料も安いだろう。かわって幅を利かせているのはディレクターやプランナーやコーディネーターやスタイリストである。つまりオリジナルの素材を自分では作らず(作れず)、出来合いの素材を上手に組み合わせることに長けた小利口な人がもてはやされるのである。こうしたデザインのできないデザイナーまがいがブランドオーナーになったり、ブランドマネージャーになったり、アートディレクターになったりして、模倣デザインをあたかもオリジナルデザインであるかのように自慢しているのがデザイン界の現状である。そしてその上に大手広告代理店が胡坐をかいている。この構造の象徴が東京オリンピックロゴ盗作疑惑問題だった。根は深いのである。
互いに模倣しあうことでより商品性の高い模倣が生まれていくこともある。これはファッションECサイトなどが主催する最近の国内のファッションイベントを見るとよくわかる。ハイファッションコレクションのファッションショーとは一線を画したオリジナリティのない作品のオンパレードで演出も安っぽい。それでもモデルもモデルを見に来る人もそんなことはまったく気にしていない。突飛なオリジナルデザインよりもインフルエンサー(ネット広告に起用されるモデルやブロガー)が着ていたところを見たような(見せられたような)気がする無難な(しかも露骨な)コピーのほうが可愛いと感じる人が多いのである。
著作権を無視し模倣に徹しているのはデザインばかりではない。大学生のレポートはもちろんのこと小中学生の作文まで今やコピペだらけである。子供のころからずっとコピペをして褒められてきたのに社会人になったとたんに突然コピペをやめろといわれてもむりである。そもそも大学教授だってオリジナルの研究をしている人ばかりではなく、欧米の学者の論文のコピペで学位を取った人も少なくないのである。留学して授業料を払ったことがある教授なら大目に見てもらえるという伝説がここにもある。欧米の発明の移入=アカデミックな学問という伝統は明治から連綿と続いている。それどころか原著者に無断のコピペで著書を出して偉そうにしている教授もめずらしくない。格下の学者や素人の著書なら無断剽窃でもかまわないというわけである。
音楽でも歌詞やメロディーの盗用は日常茶飯事といわれる。ものまねや替え歌ならパロディかというと、これも無断でやれば立派な著作権侵害である。
コピペが常識なら、いっそそれを解禁するのが新しいトレンドである。その先駆けがユーチューブで、いまや投稿動画が無断コピーであっても悪意がなければ著作権者や原作者がクレームをつけることはほとんどなくなった。オリジナルのクリエーターはむしろコピーされることを名誉と考えるようになり、著作権以外の方法で利益を確保している。動画の場合、コピーと盗作は違う。コピーは単なる拡散でありオリジナリティは失われない。無断コピーには著作権料が支払われないだけである。盗作動画とはオリジナルの一部を切り取って再編集したものか、あるいはストーリーを盗んで撮り直したものである。
著作権は音楽や映画では最大級の国際ビジネスに成長している。著作権は著作者の創意や努力への報酬や保護ではなくなり、もはや業界の巨大な利権の防衛でしかない。この利権は著作物自体の効用とは無関係なものになっている。もともと著作権は複製の禁止であり、複製の利権ではなかった。エジソンが発明した蓄音機と映写機、さらにこれを組み合わせた映画、そしてテレビとビデオの発明が著作権の性格を劇的に変えた。時間とともに消え去る運命だった音楽と演技が出版物になったのである。その拡散力はグーテンベルクが発明した活版印刷とは次元を異にしていた。今や著作権の独占は巨大な利益を恣にする特権階級を生み出している。このような著作権はもはや社会の利益に反するようになったとすらいわざるをえない。
しかしインターネットによる拡散力のインフレーションが、著作権ビジネスにとって両刃の剣になっている。爆発的に増大する複製の管理が困難になったからである。著作権を解放することは著作権を独占してきた国、たとえばモードならフランスやイタリア、音楽ならアメリカやイギリス、映画ならアメリカやフランス、家電製品ならドイツや日本、自動車デザインならイタリア、バレエならロシア、家具なら北欧にとっては巨大な損失になる。それは著作権テロリズムとでもよぶべきものである。
著作権は国家や企業だけではなく、地域の経済にとっても重要なキーワードである。たった一人がもっている著作権が大企業に対抗でき、国家に対抗でき、世界に対抗できるからである。このため芸術家や音楽家やデザイナーを集めようとしている地方都市もある。
著作権は地域の特色を出し、地域に人を集めるための道具として、都市でも田舎でも重要である。逆にいうと著作権がなければ都市も田舎も廃れていく。殺風景な区画整理や再開発がかえって街をだめにしてしまうことは珍しくない。街の歴史性、雑居性、迷路性といったオリジナリティが失われるからである。都市でも田舎でも人が集まるところには必ずなんらかのオリジナリティがある。地域の特産物や地域の文化芸能といった観光資源も広い意味では著作権ビジネスといえる。
大国や大企業が独占してきた著作権ビジネスに地域が対抗していくことは、地域の経済振興につながる。これは盗作による著作権テロリズムではなく、思いもかけない奇策が勝利する著作権ゲリラである。地域のゆるキャラやご当地アイドルは著作権ゲリラの成功例の一つである。これは著作権の独占ではなく、むしろ著作権の分散を意味している。
ソニーミュージックやFOXのような巨大な多国籍企業、マイケル・ジャクソンやマドンナやジャスティン・ビーバーのようなスーパースターが著作権の権益を独占し、特権階級となる時代は早晩終焉し、著作権ビジネスは解体され、一人一人が著作権者であり、アイドルであり、その情報がネットを通じて無償で世界に拡散される時代が目前に来ている。それは同時に著作権ゲリラビジネスが爛熟する時代でもある。
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