25 メディアがない

 この国にはメディアがない。

 マスメディアあるいはマスコミとは大衆に情報を伝達する媒体という意味である。メディアは情報の流し手となる側と情報の受け手となる側に情報の非対称性すなわち差別があることを前提としている。とくにラジオとテレビはパロール(ニュースキャスターやコメンテーターの発話)の特権化という意味で政治的である。

 情報を流す側には、政府、政党、宗教団体、商品やサービスの広告主などがある。情報を受け取る側は国民や消費者であり、大衆(マス)とよばれる。メディアが流す情報は真実の保証がない。メディアは媒介にすぎず、情報の真実性は情報の流し手の問題とされる。このようなメディアの無責任性は官僚と似ている。

 情報の真実性にこだわった情報の流し手はジャーナリストとよばれ、真実性にこだわった情報発信をジャーナリズムという。真実の情報は現場にあるのでジャーナリストは現場にいる。現場にいない自称ジャーナリストは評論家にすぎない。

 この国にはメディアがないので情報の寡占ないし非対称性もない。危険な現場から情報を発信する身体性のあるジャーナリストやカメラマンはこの国でも尊敬されている。座学の評論家になら話術に長けていればだれでもなれる。


 他の多くの国と同様に、この国でもインターネットの普及によって情報が多極的、対称的、同時的となった。これを情報のフラット化という。しかしいかにインターネットが普及しても、メディアを廃止した国は他にない。他の国ではメディアの廃止はジャーナリズムの弾圧であり差別だと考えられている。ただしそれはメデイアがジャーナリズムの担い手であり、体制のアウトサイダーであればの話である。多くの国でメデイアは体制にとりこまれており、ジャーナリズムとは似て非なるものに墜している。

 この国では既存のメディアが生き残れず、インターネットメディアだけが生き残った。新聞はなく、テレビはあっても、テレビ局による放送はなく、インターネットによって配信される100万チャンネルを超える動画サイトがとってかわっている。さすがにこれでは多すぎて選べないため、200チャンネル程度の推奨サイトのセットが利用されている。ほぼすべての国のテレビ放送がミラー化されており、日本のテレビドラマも視ることができる。ただし、コマーシャルはカットされ、または差し替えられている。

 ネットTVで放送されるショッピング番組や商品紹介番組(グルメ番組など)は商業行為とみなされて一般取引税が加重的に課税される。課税対象には他番組宣伝(番宣)を含む。放送時間のうちのどれだけが商業行為時間(課税時間)になるかは人工知能が100万チャンネルすべてを検閲している。なお多くの国でもショッピング時間やコマーシャ時間のカウンターを設置し、TV放送権料を数百~数万倍に上げることで放送の質(報道性、公共性、教養性)を担保している。日本では残念ながらTVショッピングや番宣はコマーシャル時間としてカウントされていない。

 広告代理業務は存在しているものの他国の広告代理店のような特権や利権はもたない。


 メディアは中立でなければならないとされる。これはメディアの無責任性と表裏の関係にあることを忘れてはならない。中立とは情報の真偽に介入しないということだからである。

 だが情報の取捨選択をせずにメディアは成立しない。つまりメディアは中立ではありえない。メディアの中立は欺罔によってのみ実現できる。世論調査や街頭インタビューは欺罔の常套手段である。

 メディアにはまた独占的、権威的に情報を流すという性格がある。報道は政治報道と社会報道(犯罪報道)に大別される。これらは記者クラブシステムと通信社システムによって特権化されてきた。どの国でももっとも影響力の大きいメディアであるテレビの寡占は放送権が法律によって保護され、利権化されていることによってビジネスとして成立している。すなわち国家寡占システムである。これによってテレビ局は放送権の付与者である国家を批判できなくなる。

 テレビメディアの権威は出演者のアイドル性(偶像性)もしくはタレント性(芸能性)に負っている。メディアがスポンサー側、つまり情報の流し手側ではなく、国民側、つまり情報の受け手側に立っているというのは虚構である。スポンサーなしには成立しないテレビメディアにとって、これはありえないことである。スポンサーには政府を含む。

 テレビメディアの虚構はさまざまな演出によって行われる。とくに政治的影響力が大きいアナウンサーには男優や女優にも匹敵する演技力が求められる。しかしこうしたアイドル性やタレント性はメディアが虚構的でなければならないことの反射効果である。


 メディアは公衆または大衆の代弁者を偽装しながらスポンサーである政府や企業のスポークスマンになるというダブルスタンダードから構造的に逃れられない。このダブルスタンダードは、政治報道では巧妙な演出でカバーされる。社会報道はバラエティ化し、食レポでは虚構が露骨に現出する。

 こうした公共性の虚構が成立するためには国民や消費者といった情報の受け手が虚構を盲目的に信じるように洗脳しておくことが必要である。ただ信じるだけではなく、信じて行動することに快感をえられるようでなければならない。たいしておいしくもないのに行列のできるラーメン屋は洗脳的快感の卑近な例である。

 テレビメディアは国民を信者とするメディア教となり、宣教師として迎合的なニュースキャスター、偏執的なコメンテーター、煽情的なアイドル、自虐的な芸人を起用し、これらを絶妙なバランスでコーディネートし、一見多彩に見えはするものの実際には各テレビ局が相互に同じ内容を焼き直しただけの番組を編集し、思想と感情を徹底的にステレオタイプ化している。この相互模倣はアパレル業界と似ている。これらの一見多様なスタイルのタレントは同じタレント事務所に所属しており、編集方針に従わないタレントは業界から追放される。

 メディアに扇動される行動には、投票、購買、飲食、参加、吹聴などさまざまなものがある。投票、購買、飲食は直接的にスポンサー側の利益となる行動であり、これらの行動に影響力を与えられるタレント、とくに政治評論家や経済アナリストは優遇される。参加、吹聴は風聞伝播の基となるものである。

 情報の受け手の洗脳が崩壊すればメディアも崩壊する。受け手が離れてしまえば流し手も離れることになるからである。インターネットはメディアの多極化、無秩序化を進展させた。たった一人の個人のブログやツイットが巨大なメディアを超える影響力を持ちえるようになったとき、独占と権威を恣にしてきたメディアの牙城は一瞬にして砂の楼閣と化したのである。

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