11 刑務所がない

 この国には刑務所がない。刑法に懲役または禁固という自由刑がないからである。犯罪者がいないわけではないのだが、犯罪者だからといって社会から排除しなければならないという発想がない。排除(オミット)や、その前提となる選別(セレクト)は人間性の差異の否定であり、たとえ犯罪者であっても許されない。未決犯の留置場や拘置所もない。しかし監視刑によって居所及び移動の制限は受ける。

 刑務所が必要とされてきた理由はいくつかある。一つは隔離(社会防衛)、二つは効率的な監視(経済性)、三つは犯罪者の矯正(社会復帰教育)、四つは被害者の復讐(感情的補償)、五つは公衆の目に晒す(あるいは隠す)ことによる犯罪の抑止(表徴)である。これらを他のシステムで代替できれば刑務所は要らない。

 実のところ刑務所はこの五つの目的において成功しているとはいいがたい。どの国でも多くの収監者が再犯者だからである。刑務所は犯罪者の教化施設どころか、強化施設になっているとすらいわれる。だがパノプティコンの発明以来200年以上が経過しても、これに代わる経済的な監視システムを発明できずにきたのである。パニンスペクトンはようやく現れた監視システムの革新である。

 検挙率と刑罰の軽重は反比例する。検挙率が低いときは一罰百戒的に重い刑罰が科される。検挙率が高ければ重罰はいらない。監視システムが万全なら監獄もいらない。この国の監視システムは防犯であると同時に懲罰を兼ねる。

 パニンスペクトンは人間の個性を無視しない。むしろ差異を認めるからこそすべての人間を監視する必要がある。パニンスペクトンは平均値などの統計値を求めるために行うのではない。個性を徹底的に個性として観察し、枠をはめたり分類したりしない。


 社会防衛のために障害のある人を社会から排除することを隔離政策、隔離した人を収容する施設を隔離施設という。隔離施設はその目的が治安や衛生や介護などの観点からいかに社会的なものであったとしても、被隔離者に犠牲を強い、その人間性を否定する非人道施設である。

 隔離の前提になるのは人間を正常者と異常者に、あるいは機械にたとえるなら完動品と故障品にわけることである。病院の場合は健康と病気、精神(科)病院の場合は正気と狂気、社会福祉施設の場合は健常と障害、刑務所の場合は善人と悪人、学校の場合は大人と子供、オフィスや工場の場合は資本家と労働者または経営者と被用者が区別される。強制収容所は敵国民や異民族を自国民や自民族と区別する。優生学的(社会進化論的)に民族を区別することもある。

 隔離施設の存在はこれらの区別を差別に発展させる。隔離された者は人格が否定され、監視と矯正の対象とされる。矯正を拒否すれば、あるいは矯正に失敗すれば退院や出所はできない。規則に反すれば学校は体罰を加え、会社は懲戒を与える。もちろん在宅での幼児虐待などからの保護が必要な場合はある。しかしこれは本質的ではない。この場合は自宅がいわゆる座敷牢だからである。精神(科)病院が誕生する以前は座敷牢が狂人(とされた人)の隔離施設だった。

 隔離施設の否定は人間の差異の解放と無関係ではない。だれが正常でだれが異常かなどだれにも決めることはできないのに、どうして隔離などできようか。差異を尊重しようとすれば社会防衛の名の下に人間を隔離し、監視し、矯正することはありえない。

 だが現実の政治において病院も社会福祉施設も刑務所も学校もオフィスも工場もなくせるものではない。これらを全部廃止しろと本気で訴えたら、それこそ狂人のレッテルを貼られるだろう。

 現実にできるのは安易な先入見を捨てて差異性と人間性の観点から隔離施設の目的と機能を問い直し、改善の方向性を見いだすことである。

 精神(科)病院や監獄(刑務所)がベンサム流の功利主義もしくは社会防衛(少数の人の幸福を犠牲にして他の不特定多数の人の幸福を増進すること)のために収容者の人格を否定する隔離施設であり、監視施設であり、矯正施設であると明確に断罪したのは、ミシェル・フーコーである。病院や刑務所のみならず、兵舎、学校、工場まで隔離施設として断罪するのもフーコー思想の独創性である。カコトリアの無政府主義はフーコーの排除批判によるところが大きい。カコトリアはフーコーがネガティブな意味で予言したIT管理社会のポジティブな可能世界であるといえる。


 自由刑の廃止はかつて身体刑が廃止されたことに匹敵する革命的な人権の前進である。身体刑は残忍ゆえに廃止された。自由刑は差別ゆえに廃止されなければならない。また経済性の観点からも自由刑の費用対効果の悪さは無視できなくなっていた。同じ犯罪者(容疑者)が再犯を繰り返すたびに収監される巨大な拘置所や刑務所、鑑別所や少年院の建設と維持は、税金のむだ遣いである。

 この国の刑法典に定められた刑罰は監視刑のほかは財産刑だけである。犯罪者は一時的な罰金刑を受けるだけではなく、一定期間、預金が凍結され、税金が高くなり、クレジットカードの上限額が引き下げられ、財産の譲与や相続をすることも受けることもできなくなる。また場所の権利(他の国における土地の権利)の更新もできなくなる。国外への出国や送金は期間の長短、金額の多寡にかかわらず審査を要する。これを期間財産刑という。

 他の国と同様に最も重罪である殺人罪、強姦罪、遺棄罪の場合、容疑確定時に全財産が仮凍結され、刑罰確定時に全財産が収用されて被害者と遺族の賠償金として贈与され、これには犯行後、刑罰確定時までに移転した財産も含まれる。さらに刑罰確定後の相続財産と所得の一定額も永久的に、または漸減的に贈与対象となる。これを無期財産刑という。殺人罪は人の生命ばかりではなく人生を奪う犯罪だから、人生のすべてをささげて償わなければならない。

 無実の者に誤って財産刑を科した場合は遡及的に名誉回復され、刑罰の10倍の国家賠償が行われる。


 この国には当然死刑はない。残忍だという人道的な理由で身体刑が何百年も前に廃止されたのちも死刑が未だ残っている国が多いのは理解に苦しむ。いかに安楽な方法を用いても、たとえ公開刑でなくとも、死刑が残忍であることに変わりはない。死刑を容認するのは復讐殺人を容認するのと同じことである。また裁く側と裁かれる側の差別(主権者の特権化)が死刑では極限に達する。死刑宣告は人の生きる価値を否定する最悪の差別である。死刑を認めてしまえば無政府主義は独裁でしかないことになる。死刑を宣告する側を例外者として認めることになるからである。死刑の例外者性は死刑囚がたった一人であろうとホロコーストの虐殺であろうと同じである。自由刑も社会的な死刑宣告(社会的に生きる価値の否定)である。自由刑は矯正刑であるという考え方も人間性の差異を否定する差別である。


 刑務所がないかわり、殺人など人の生命に対する犯罪者や、ストーカーなど人の自由に対する犯罪者は、パニンスペクトンによって所有しているスマホの位置情報や行動情報の検閲を受け、上空からはドローンで、地上や屋内では監視カメラによって常時監視され(すべての監視動画がパニンスペクトンで検閲され)、被害者やその遺族との接触が生涯回避される。回避の方法は接近または接近の恐れに対するアラートと、ニアミス(危険接近)時のスマホのロックによって行われる。これを常時監視刑という。

 スマホは身分証明書、電子ウォレット、住宅の電子キーなど生活に必須の機能をすべて集約的に備えており、これを携帯しなければ居住も移動も購買もできない。機能がロックされた場合も同様である。このためスマホが盗難されても使用や悪用ができないように厳重なセキュリティが設定されている。スマホの窃盗、横領、偽造は重罪である。スマホが故障、紛失、盗難した場合は即時に全機能が停止し、代替機が5分以内にドローンで到着する。あらかじめ離脱の設定をせずにスマホから2メートル以上離れると紛失のアラートが鳴る。

 パニンスペクトンによって、この国には行方不明者がいない。行方不明者が発見されることなく犯罪に巻き込まれ、人知れず殺害されたり監禁されたりしているということもありえない。


 さまざまな防犯及び再犯防止システムによって犯罪者の再犯率は低い。もしも再犯したときは当人だけではなく5親等以内の親族や元親族、経済的恩恵を受けた同胞(たとえば仕事仲間や取引先)にも財産刑が及ぶ。なぜなら重罪の場合、初犯の賠償で全財産を使い切ってしまっているからである。ステークホルダー(親族や同胞)への累親財産刑には犯罪者から受けた利益や恩恵を限度とする抗告権が認められているものの、社会的名望のある者の抗告は恥辱となる。

 犯罪者の社会復帰はいかなる場合も妨げてはならない。犯罪者を差別した者は犯罪者が受けている刑罰の一部または全部を引き受けることになる。これを反射的犯歴転移という。

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